前回の続きです。
日本の戦中の政策に対して北東アジアから今でも非難がある事の原因みたいなものは、日本が嘘をついていた、仲間だと言っていたのにやっている事は西洋と同じだというのが、彼らの側からするとあるという事を書きました。当然反論として、当時の選択肢としてはしょうがなかったんだという話が必ず出て来ます。
自分は手段が目的化してしまいネタをネタだと思わなくなってしまった事によって、暴走が起こり、無意味に戦線を広げ、泥沼の状態をグズグズと止める事が出来なかったという観点から考えると、止められなかったのではなくて止めなかったんだろうと思います。
空気支配、戦時体制における国家の権益の拡大、様々な要素が絡まって、無能な権力者達が天皇の元での鍔迫り合いを繰り返し、国民も愛国心の元での鍔迫り合いを繰り返し、メディアが煽り、暴走して行ったというのもあるのですが、決断主義的に決定すれば止める事は出来たはずです。そういう意味で統治権力者達には重い責任があると思います。
しかしこの善い悪いという話をわきにおいて、当時の選択としてはしょうがなかったんだ、日本が近代化の為に投資したりして、豊かになったではないか、日本はいい事もしたんだと言いたい輩の気持ちはわからないでもない。歴史の善悪を問うても、その時その立場、その時の思想潮流、様々なその時代の空気をリアルタイムで知らない人間がああだこうだ言い合っていても虚しい話です。一方的に暗黒史観で塗りつぶした頭の悪い連中が多過ぎましたので、バックフラッシュとしては仕方のない所もあった。
帰結主義的にも擁護出来ない(負けてるわけですし、甚大な被害をもたらしたわけですから)し、嘘をついていたのは事実なので、本当はそういう言い方は否定したいのですが、気持ちはわかる。当時は悲しい事ですがそういう帝国主義全盛の時代で、日本と同じというか日本よりもっと酷い事をしている国もあったわけで、日本がそいつらと違う所があるとすると、負けただけだと言いたいのは気持ちはわかる。
(本当は日本のように対等合邦だと言いながら、日本文化を押し付けられていると感じられるような政策や、亜細亜主義、連帯といいながら結果的に戦争していたりとか、そういう言ってる事とやってる事の論理性のなさは日本にしかありません。イギリスはインド人に対等だなどとは絶対に言わなかったし、アメリカ人が黒人奴隷に平等だなどとも絶対に言わなかった。それを言うときは解放するときであって、解放する気もないのにそういう事は言いません。日本はそれに比べて全然融和的な政策であった事も事実ですが、対等だと言いながら、内心対等とは思っていなかったであろうし、そもそも自国の内戦すら満足に押さえる事も出来ないような弱小国であった朝鮮と、ロシアをぶっ飛ばしたすでに列強へとのしあがっていた日本の間で対等なんて有り得ない。実際に日本文化の強制ではないとしても押しつけ的に輸出みたいな事をやっているわけです。この論理性のなさを日本人は悪気は無かった、それで結果的に近代化したじゃないか、そんなの対等なわけがないだろう方便に決まっているじゃないか、という話ですっ飛ばしてしまいますが、嘘をついたのはまぎれもない事実であり、その事で怒っている連中にそこをすっ飛ばして話をしても通じないのは当然です。だから彼らも嘘捏造は日本相手にならおかまいなしだと思っている。したがって、そういう意味で本当は負けただけではないのですが、それもこの際わきにおいておきます。)
だけど例えばよくこのブログでネタにする死刑問題なんかが典型ですが、やった事は悪なんだから殺せ、という風に民意が沸騰します。この場合その加害者の動機、生育環境、社会的ポジションそれらすべてすっ飛ばして、悪者は殺せ!という話になります。ヘタをすると裁判なんてまどろっこしいって話になっちゃう。
日本の戦争に対して、日本はいい事もしたんだ、しょうがなかったんだという事を言う人は、まさかとっとと死刑にしろという事を言ったりはしないと思いますが、実際にはそういう吹き上がりのバカは得てして、断固決然日の丸君が代的なヘタレ右翼もどきだったりします。
ここに日本人の典型的な非論理性が組み込まれています。負けたわけだし、実際に戦争もしているわけだし、対等合邦と言いながら、実は対等なんかじゃなかった。これを日本も当時の世界状況では仕方がなかったんだとか、結果的に近代化しているではないかとか、言い訳をするのなら、凶悪犯罪を犯した人間に対して、それなりの理由があったのだろうと想像するのは当たり前であり、それをとっとと殺しちまえとか言うのは論理的一貫性がない。人によってルールの適応の基準を変化させる。それが弱者の味方でとかって話じゃなくて、儒教的な倫理観でもなくて、強いものに従うという論理です。空気を読むと言ってもいい。
日本を裁いたルールは後付けであって、犯罪者を裁くのはルールに則っているのだと言いたい気持ちはわかるけれど、これは全くお門違いの発想です。そのルールを決めている主体が何であるのかがネグレクトされているからです。
戦争のルールでいえば、戦勝国が正義になってしまうのは古今東西普通にあった事です。日本が勝っているのなら、日本の言いたい事も通ったでしょうけれど、負けていて、戦勝国だって同じ事をしているから同罪だなんて言ったって、そんなの何の効力も無い。
そんな事もわからないで戦争して、あんなに被害を拡大させたのなら、ルールを守る守らない以前の問題です。国際政治というのはそういうものです。ジャスティファイさせたかったら、交渉してゲインを引き出すか、ゲバルトを利用して脅すなり叩き潰す他はない。
戦勝国の欺瞞は当然です。やり方も酷かった。無辜の民を爆撃して殺しまくっている事に対してははらわたが煮えくり返るおもいですが、奴らを裁く事は物理的に不可能な事なので、もう一度ケンカを挑んで屈服させるか、外交的タクティクスを駆使して認めさせる事が出来なければ、言っている事がどんなに正しくても意味が全くありません。
政治とは帰結主義的擁護です。どんなにプロセスに正当性が仮にあったとしても、結果がすべてです。勝てないとわかっているのなら、堪忍袋の緒を切らすのではなくて、江戸幕府が不平等条約によって弱腰だと非難されながらも、他日を期す方法を取ったのと同じように、たとえ屈辱を舐めても、被害を最小限に食い止めるのが政治というもんです。結果的に玉砕戦法で被害は最大限では意味がありません。一番最悪の選択肢を選んでいるわけです。
ルールがどうたらこうたらなんて話じゃない。国際ルールなんて今だってロクなもんじゃないわけですから、そんなもんに正当性を求めるのは無意味です。政治は特に国際政治は結果によって正当性を判断され、個人はルールによって正当性を判断される。政治家は当然ルール(憲法)を守らなきゃならない。それは当たり前です。
しかしルールを守っていたのでは国民の安全を守れない場合がある。国際ルールを盾に取ってゲインを引き出せるのならいくらでもやればいい。だけど無能な交渉力のなさを棚に上げて、ルールをどうこう言っていても意味がない。パフォーマンスは政治家の本分ではない。
我々の自由を守るのが政治家ですが、その自由には政府を転覆させる自由も含まれてしまう場合がある。そう言う時は脱法してでも国民の安全を守る。当然脱法行為がバレればどんなに国民の為であったとしても社会から断罪される。
脱法行為を無原則に認めてしまえば、国民のためというエビデンスを元にして、やりたい放題になってしまう。だからバレた時は制裁される。その覚悟を持ったものだけがマキャベリ、マックス・ウェーバー、カール・シュミット的伝統理論から言えば政治家と呼べるわけです。
国民は日々の生活に忙しいわけです。政治はスペシャリストである政治家の仕事なのですから、素人である国民が日々政治について考えるという負担を背負っているわけで、国民が余計な事に気を使わなくても生きて行ける社会がいい社会だというニコラス・ルーマン的な考え方だってあるわけです。
そうは言っても擁護出来ない結果のプロセスにだって、それなりに意味があったではないかというのは悪くない発想なんですが、そうであるのなら犯罪者のプロセスに目を向ける目線だって意味がある。
対してバカ左翼は、日本が行なった事はたとえどんな理由があろうとも認められる事ではない、みたいな感じで戦前の思想を一刀両断する。そのくせ、加害者にも加害者なりの理由があるはずだ、人権を守れ、という話になる。これも論理的一貫性がない。バカ左翼は戦争と言うと思考停止の善悪二元論的にぶった切るくせに、人権人権という話になる。立場の為に戦争遂行をせざるを得なかった人間の人権は無視していたりする。
論理的に言えば戦前の日本を擁護するのなら、犯罪者の立場も一定の理解があってしかるべき、戦前を断罪するのなら、犯罪者の断罪も仕方なし、となるわけですが、これだとちょっと気持ちが悪い。なぜなら論理的に正しくないからです。
断罪する主体が間違う可能性がある。したがって理由もなく断罪するのではなく、検証するのが重要であり、戦前の日本の立場も犯罪者の立場も闇雲に断罪するのではなく、それぞれの原因を検証する必要があるわけです。しかしこれにはもう一つ問題が絡んできます。検証する主体が誰であるのか?検証する対象が何者であるのか?
そこまで考えれば立場的には左翼の立場は正しい。理由は簡単。国家が行なう事と、個人が行なう事では守らなければならない所が全然違うからです。しかし論理的に思考してそういう事を言っている人は極めて少数に感じます。
少なくとも大手メディアに出て来て、ピーチクパーチク言っているようなクズはそういう感じじゃありません。そういうバカが戦後跳梁跋扈していたせいで、頭の悪い断固決然万歳突撃みたいな口ばっかりの、国家の擁護はするけれど、国家の側に立ち下駄を履いて個人を断罪するような、国家のケツ舐めヘタレ右翼もどきみたいなのが増えちゃったわけです。これは左側に大きく責任がある。
戦争を善悪で捉えるのは愚かだと思いますし、誰かが諸悪の根源という所で話が落ちてはマズい、どうして戦争に突っ走って行ったのかという事を、政治家なら戦犯として断罪するよりも、戦時下として不適切であったという点において、そういう政治家の暴走を許してしまった反省という点において、国家を断罪すべきであり、善悪二元論で切り捨てるのは頭が悪すぎる。
悪者がやった事だで話が落ちては身も蓋もない話になってしまう。どうして国家をあげてあんな大規模な戦争に突っ走って行ってしまったのかを考えなければ、何も生まれない。何も学ばなければ、死んだ人も無駄死にになってしまう。
結果的に戦死者は沢山出たがそのおかげで平和になってではないかという思考停止の言い方がよくありますが、国が死ななくても済む犠牲を課した事と、今繁栄している事は、直接的な因果関係は何もありません。お役に立った死、というストーリー、この感じ方は戦前の発想と同じです。
帰結主義的にどうなっているのかという事で擁護しないというのは当然ですが、だからと言って原因を検証せずいるのは危険です。戦争なんてする覚悟もないくせに、戦争前夜状態に陥っている現状を考えれば、吹き上がってスッキリしたいヘタレは論外ですが、いつまでも被害者面してベタベタ泣いてりゃいいってもんじゃない。
国家が起こす戦争、国家が起こす政策、刑罰は厳しくチェックしなければならない。個人が犯罪を犯した場合、我々がチェックすべきは、個人を断罪する事ではなく、国家が適正手続きをキチンと踏んでいるかどうかその一点だけです。
ルールが不適切であるのなら、それはまた別の話で正さなければなりませんが、ルールを変更してどんな帰結を生み出すのかという所に敏感でなくては危険です。まして感情論に支配されてスッキリ感を求めて単純に思考するのは問題外です。そしてそれとは別に被害者感情の救済はキチンと考えなければなりません。
前置きが長くなりましたがアメリカの元での鍔迫り合いに変わり、ネタがネタではなくなって行く構造を書くと前回書きましたが(行きそうもねえな今日は・・・・)、この問題は我々の論理性のなさ、これは北朝鮮問題なんかも典型ですが、論理的に思考する契約のロジックがなさ過ぎる所に問題が大きくまずあります。
感情的に判断してしまうので、喜怒哀楽と快、不快、だけで物事を判断してしまう。これが第一の大問題で、これは近代化の為に天皇というシステムを手段として利用していたのが、次第に天皇自体が目的化してしまった事もそうですが、ネタがネタでなくなり、手段が目的化してしまう現象を生み出してしまうモーターになっています。
プロテスタンティズムの精神によって、仕事を自己目的化するというのは手段が目的化するのではありません。金を儲けるのも、仕事をするのも、革命を起こすのも、神の国へと救済されて永遠の生を得る目的に合一してしまうという事です。その為に必要な手段であるという勤勉さを手に入れると同時に、自己正当化し抑圧や排除を加速させて理解出来ない存在を虐殺しても全く良心が痛まないという帰結も生み出してしまいますし、どんなに不安を担保しても拭えない、不安ベースの生き方を加速してしまいます。
神に救われるかどうかが、もう決まっているわけですから、どんなに勤勉に生きて善なる心を全うしていると思っていても満たされない。アメリカなんかではその穴埋めをする宗教的なものも充実していますし、市民社会の成熟によってNPO、NGOなどの分厚い活動があったりする、そういうものが全く機能していない日本の現状を考えれば、全面肯定するつもりは毛頭ありません。
二元論的に陥りやすく、戦争ばっかり繰り返している状況だって酷いもんですし、不安ベースに煽られる生き方も不毛です。日本も不安ベースな生き方になってしまっていて、担保するものが何もないので国家に依存してしまうという状況がどうにもならないわけですが、その事はわきにおいて、契約のロジックにも一定の弊害はある。
しかし近代を走らせているにもかかわらず、契約のロジック、ようするに神との契約というのは二元論的に決まります。守ったか、守らなかったか、どちらかしかない。守っていれば救済され、守らなければ救済されない、しかし教会への帰依、懺悔、秘蹟などなどによって救われる可能性があると説いたのが、カソリックであり、これは神がそういったわけではなく、神がそう言ったと言っている奴らの統治のリソースでした。だからニーチェは「神は死んだ」人間によって殺されたと言ったわけです。
もちろんそれがある種の社会の保全を、人々の感情的な安全を担っていたのは間違いありませんが、腐敗も当然あり、そこから脱却しようと契約のロジックが、救済されるかどうかはすでに決まっている。守ったか守らなかったかどちらかしか無いというのは変わらなくとも、救済される人間であれば神との契約を守るはずだと、逆転させる事によって、近代が駆動したわけです。これはユダヤ教なんかもそうです。
こういう契約のロジックがない状態ですと、まずルール主義が機能しない。契約は守ったか守らなかったかのどちらかしか無い。中間状態というグレイゾーンはないわけです。天皇を使って近代化したわけですが、天皇制度は骨が抜かれてしまっていて、今は近代を走らせる為に必要な柱が無くなっているという事も問題なのですが、結局天皇を利用しても、上から押しつけ、不平等条約改正の為の疑似近代化でしたから、契約のロジックは芽生えませんでした。したがって簡単に手段の目的化が起こってしまうわけです。
グレイゾーンは権益を生み出します。今この国ではお目こぼしや不正腐敗のオンパレードでジャスティファイされる希望が全く無い状況がそれを物語っている。グレイゾーンを判断する裁量を握っている人間にとってはおいしい権益になるわけです。だからその権益を守る為に手段が目的化してしまう。これはこの国のアーキテクチャー隅から隅まで蔓延っている悪弊です。
その事で社会保全になっているとか、感情的な安全を担保しているとか言うのは、まあ言ってる事は理解出来ますが、ステークホルダー以外をはじき出し搾取する構造の言い訳になってしまっている。感情は感情、ルールはルールです。ルールによって救われない構造が出てくるのなら、それはまた別の話で、そう言う事があるから腐敗したままで構わないという理由にはならない。
もちろん人間関係において何でも論理性ばっかりで話していたんじゃ上手く行かない、非論理的でも、感情的に付き合いを優先させる必要は当然あります。そのレベルでなら悪くない、むしろ善い事なんだろうと思うのですが、システムや全体性の話となると別問題なのです。
大手メディアなんかもそうです。強力な裁量を与え、戦前は天皇によって国民化しメディアによって動員したわけですが、戦後はメディアによって一人前の市民性を持った国民化する為のツールとして使います。しかしその裁量を守る為に段々大手メディアも手段が目的化して来ます。最近では国家のケツを舐め、益々愚民化に一役買っている始末です。
官僚だって、政治家だって、法律だって護憲も改憲も、国民までもが、至る所で何から何まで手段の目的化が見られます。ネタとして利用していたものがネタではなくなる。
論理的な契約のロジックのなさというのは問題なんですが、その論理性のなさや感情論に右往左往してしまう構造というのも、段々変わって来ています。
建前と本音という言い方があります。建前というのは、まあ要するに決まりの事を指したりするわけですが、本音と言う部分が、80年代ぐらいから意味が変わって来てしまっています。昔は建前は建前としてわかるけれど、本音の所はどうなんだよという感じで、ある種、インクルーシブな所があった。
しかしこれが本音の所では、みんな抜け駆けをしているという意味で本音という言葉が使われるようになってくる。所詮、他人は信用出来ないという、エクスクルーシブな要素が増えてくる。
簡単に言えば、近代化をしても、地元商店街的な地域性だったり、入れ替え不可能のコミュニケーションだったりがあった頃は、建前、まあきれい事でもいいし、決まりでもいいし、ネタと行ってもいいかもしれないのですが、それを守るのは正しいけれど、本音の所はどうなのよという感じで、まあまあ固い事言いなさんな的なインクルーシブがあった。まあいいから一杯やれよ、見たいな。
それが契約のロジックが根付かない、ズブズブさを生み出したりするわけですが、一般市民のコミュニケーションという次元においてはむしろ必要な事だと思いますし、その事によって感情的な安全を担保するという機能が有り得た。
しかしこの本音と建前という関係性が崩れて来ます。流動化によって、団地化、郊外化という二段階の変化を経て、大店法の緩和などにより地元商店街的なものが壊れ、コンビニやファミレスと言った名前のない誰でも入れ替え可能の承認関係になってくると、感情的な安全を担保する部分が空洞化してしまい、本音というのは抜け駆けという話になってくる。けしからんというわけです。
建前を守っているのに、抜け駆けをしている奴がいるという話になる。建前がきれい事の決まりとか、ネタという所が無くなって、正しい事になってくる。本気にする奴が出てくる。
そうすると、不安を煽られ抜け駆けを煽られる人々は、重罰化だ、取り締まれ、抜け駆けを許すな!って話に簡単に沸騰する。ルールと善悪の区別がつかなくなってしまう。国家がその感情的な安全を埋めるように権益の増大を計り、そこに国民は益々依存する。国家権力の権益構造が事後チェック型になるという事は、まさにこういった社会の変化に対応しているとも言えます。
まあまあ、そう固い事言いなさんな、なんて事を言うと、お前のような奴がいるから、不正が蔓延るのだって話になる。国家権力の不正や腐敗には全く届きもしないし、全く監視機能がない所は相変わらずでも、末端のどうでもいいような話には吹き上がる。山本モナが不倫したとか言って吹き上がるわけです。
例えば単位未履修なんていう誰でも知っている当たり前の話を、急に大騒ぎして徹底的に叩く。学校の問題でいえば先日表面化した大分県のコラプションこそどうにもならない、この国の至る所でそれこそありとあらゆる所で繰り返されているインチキ構造であって、何となくピークが過ぎれば立ち消えになる確率99%パターン、に陥っちゃマズい。
学校の教師を叩いてスッキリするのはいいけれど、何の為に叩くのか?矛盾した要求を押し付けてはいないか?リソースを取り上げている上であれやれこれやれって話になっちゃいないか?
教師を擁護するのも、大変なんだ、教師だって頑張っているんだって、そんなの別に威張っていう事じゃない。仕事なんて誰でもやっている事で、嫌なら辞めちまえばいい話です。誰もやってくれと頼んだ覚えはない。やるのならグチャグチャ言ってねえでやれよって話です。
ハッキリ言ってこんなのはどちらも同じ事を言っているに過ぎません。教師というのは一括りで存在するものではないからです。いろんな奴がいる。どうにもならないような不正を働いたり、サボタージュしているようなクズ教師が蔓延ったり、矛盾した要求や軋轢によって余計な仕事まで抱え込んで、どう考えても個人の努力や能力で打開出来ないような壁にぶつかっているような状況を放置していたりするような制度があるのなら、それを正せない事に問題がある。
教育は手段です。その手段にぶら下がって飯を喰っているステークホルダーを救う為ではない。親の実存を満たす為でもない。バカ教師やバカ親を政治に動員する為のものでもない。山積する問題点を放置して、バカマスコミが解決するというよりもむしろ混乱させる為に、面白おかしく嬉しそうに叩く為のものでもない。
未来への先行投資として、そして子供が生きて行く手段として教育出来ていない事が問題なのです。誰の為のもので何の為の手段なのかを考えればバカでもわかる話です。そう言う事をわかっている政治家が決断主義的に決めれば、こんな問題は5秒で解決する話です。
不正や腐敗の構造はいい事ではないので正す必要はあるでしょう。それで国民が不幸せになっているのならジャスティファイされなけりゃ希望がなくなっちゃう(国家の腐敗なんかは全くジャスティファイされないのが問題なんですが)。
しかし、単位未履修問題なんて事がそんな大騒ぎするような不正なのか?誰でも進学校の勉強は大変で進学する為の学習が最優先になってしまうのは仕方のない事だと、学生だった事が誰でもあるわけですから、みんな知っていたはずなのに、大騒ぎして徹底的に叩く、国家の不正腐敗は放置したまま、どう考えても大きな問題が跳梁跋扈している状況は放置して、結果的に国家が国民の不安を担保する形で、新たな権益として利用しようとする。決まりや建前というのは、みんなが幸せに生きる為にあるものです。
決まりや建前はわかるけどさ、それじゃ救われない人もいるじゃないか、という話にならない。決まりや建前を守る事で不幸になっていても、それを司る権益を握っている連中のタクティクスに乗せられて、断固決然と吹き上がる。手段が目的化する。ネタがネタではなくなるわけです。
だからと言って感情論を排除したルールに従っているのかと言うと、不安を煽られ、感情をくすぐられ、建前なんか知るか!!徹底的に排除しろ!!みたいな話になっちゃう。どうでもいいような話で分断統治にまんまと引っかかっている。
ルールを守っているかいないかというのはどちらかしか無い。そういう意味で公正さを求めているのならわかる。ルールを守っていても疎外を生み出しているではないかという事でルールを考え直そうぜというのもわかる。
しかしこれを論理的に導き出して考えているのならいいのですが、感情論に煽られ、体感治安とか、わけのわからない感情のポリティックスに煽られて、喜怒哀楽、快、不快で物事を判断してしまう。建前はネタだという事を前提にして、ネタが機能しているか機能していないかという事を吟味せず、無前提に信用したり、抜け駆け感を感じると、ルールなんて知るか!って話に簡単に動いてしまう。
感情論に囚われ、ネタがネタではなくなり、手段の目的化が起こってしまう。近代社会というのはそもそもフィクションです。そのフィクションは我々が生きて行くのに都合がいいから存在する。社会とは人が生きて行く為の手段であって目的ではありません。
金儲けも、出世も、悪者叩きも、全部手段です。手段をいくら追求しても、手段は手段でしかない。だから目的は満たされない。手段を目的化して満たされていると錯覚している人が、禁断症状の如く手段に依存してしまい、その事で他者を傷つけても、排除しても、自分が不幸せでも、手段への依存は益々強化されて行く。
無念!つづく!!
日本の戦中の政策に対して北東アジアから今でも非難がある事の原因みたいなものは、日本が嘘をついていた、仲間だと言っていたのにやっている事は西洋と同じだというのが、彼らの側からするとあるという事を書きました。当然反論として、当時の選択肢としてはしょうがなかったんだという話が必ず出て来ます。
自分は手段が目的化してしまいネタをネタだと思わなくなってしまった事によって、暴走が起こり、無意味に戦線を広げ、泥沼の状態をグズグズと止める事が出来なかったという観点から考えると、止められなかったのではなくて止めなかったんだろうと思います。
空気支配、戦時体制における国家の権益の拡大、様々な要素が絡まって、無能な権力者達が天皇の元での鍔迫り合いを繰り返し、国民も愛国心の元での鍔迫り合いを繰り返し、メディアが煽り、暴走して行ったというのもあるのですが、決断主義的に決定すれば止める事は出来たはずです。そういう意味で統治権力者達には重い責任があると思います。
しかしこの善い悪いという話をわきにおいて、当時の選択としてはしょうがなかったんだ、日本が近代化の為に投資したりして、豊かになったではないか、日本はいい事もしたんだと言いたい輩の気持ちはわからないでもない。歴史の善悪を問うても、その時その立場、その時の思想潮流、様々なその時代の空気をリアルタイムで知らない人間がああだこうだ言い合っていても虚しい話です。一方的に暗黒史観で塗りつぶした頭の悪い連中が多過ぎましたので、バックフラッシュとしては仕方のない所もあった。
帰結主義的にも擁護出来ない(負けてるわけですし、甚大な被害をもたらしたわけですから)し、嘘をついていたのは事実なので、本当はそういう言い方は否定したいのですが、気持ちはわかる。当時は悲しい事ですがそういう帝国主義全盛の時代で、日本と同じというか日本よりもっと酷い事をしている国もあったわけで、日本がそいつらと違う所があるとすると、負けただけだと言いたいのは気持ちはわかる。
(本当は日本のように対等合邦だと言いながら、日本文化を押し付けられていると感じられるような政策や、亜細亜主義、連帯といいながら結果的に戦争していたりとか、そういう言ってる事とやってる事の論理性のなさは日本にしかありません。イギリスはインド人に対等だなどとは絶対に言わなかったし、アメリカ人が黒人奴隷に平等だなどとも絶対に言わなかった。それを言うときは解放するときであって、解放する気もないのにそういう事は言いません。日本はそれに比べて全然融和的な政策であった事も事実ですが、対等だと言いながら、内心対等とは思っていなかったであろうし、そもそも自国の内戦すら満足に押さえる事も出来ないような弱小国であった朝鮮と、ロシアをぶっ飛ばしたすでに列強へとのしあがっていた日本の間で対等なんて有り得ない。実際に日本文化の強制ではないとしても押しつけ的に輸出みたいな事をやっているわけです。この論理性のなさを日本人は悪気は無かった、それで結果的に近代化したじゃないか、そんなの対等なわけがないだろう方便に決まっているじゃないか、という話ですっ飛ばしてしまいますが、嘘をついたのはまぎれもない事実であり、その事で怒っている連中にそこをすっ飛ばして話をしても通じないのは当然です。だから彼らも嘘捏造は日本相手にならおかまいなしだと思っている。したがって、そういう意味で本当は負けただけではないのですが、それもこの際わきにおいておきます。)
だけど例えばよくこのブログでネタにする死刑問題なんかが典型ですが、やった事は悪なんだから殺せ、という風に民意が沸騰します。この場合その加害者の動機、生育環境、社会的ポジションそれらすべてすっ飛ばして、悪者は殺せ!という話になります。ヘタをすると裁判なんてまどろっこしいって話になっちゃう。
日本の戦争に対して、日本はいい事もしたんだ、しょうがなかったんだという事を言う人は、まさかとっとと死刑にしろという事を言ったりはしないと思いますが、実際にはそういう吹き上がりのバカは得てして、断固決然日の丸君が代的なヘタレ右翼もどきだったりします。
ここに日本人の典型的な非論理性が組み込まれています。負けたわけだし、実際に戦争もしているわけだし、対等合邦と言いながら、実は対等なんかじゃなかった。これを日本も当時の世界状況では仕方がなかったんだとか、結果的に近代化しているではないかとか、言い訳をするのなら、凶悪犯罪を犯した人間に対して、それなりの理由があったのだろうと想像するのは当たり前であり、それをとっとと殺しちまえとか言うのは論理的一貫性がない。人によってルールの適応の基準を変化させる。それが弱者の味方でとかって話じゃなくて、儒教的な倫理観でもなくて、強いものに従うという論理です。空気を読むと言ってもいい。
日本を裁いたルールは後付けであって、犯罪者を裁くのはルールに則っているのだと言いたい気持ちはわかるけれど、これは全くお門違いの発想です。そのルールを決めている主体が何であるのかがネグレクトされているからです。
戦争のルールでいえば、戦勝国が正義になってしまうのは古今東西普通にあった事です。日本が勝っているのなら、日本の言いたい事も通ったでしょうけれど、負けていて、戦勝国だって同じ事をしているから同罪だなんて言ったって、そんなの何の効力も無い。
そんな事もわからないで戦争して、あんなに被害を拡大させたのなら、ルールを守る守らない以前の問題です。国際政治というのはそういうものです。ジャスティファイさせたかったら、交渉してゲインを引き出すか、ゲバルトを利用して脅すなり叩き潰す他はない。
戦勝国の欺瞞は当然です。やり方も酷かった。無辜の民を爆撃して殺しまくっている事に対してははらわたが煮えくり返るおもいですが、奴らを裁く事は物理的に不可能な事なので、もう一度ケンカを挑んで屈服させるか、外交的タクティクスを駆使して認めさせる事が出来なければ、言っている事がどんなに正しくても意味が全くありません。
政治とは帰結主義的擁護です。どんなにプロセスに正当性が仮にあったとしても、結果がすべてです。勝てないとわかっているのなら、堪忍袋の緒を切らすのではなくて、江戸幕府が不平等条約によって弱腰だと非難されながらも、他日を期す方法を取ったのと同じように、たとえ屈辱を舐めても、被害を最小限に食い止めるのが政治というもんです。結果的に玉砕戦法で被害は最大限では意味がありません。一番最悪の選択肢を選んでいるわけです。
ルールがどうたらこうたらなんて話じゃない。国際ルールなんて今だってロクなもんじゃないわけですから、そんなもんに正当性を求めるのは無意味です。政治は特に国際政治は結果によって正当性を判断され、個人はルールによって正当性を判断される。政治家は当然ルール(憲法)を守らなきゃならない。それは当たり前です。
しかしルールを守っていたのでは国民の安全を守れない場合がある。国際ルールを盾に取ってゲインを引き出せるのならいくらでもやればいい。だけど無能な交渉力のなさを棚に上げて、ルールをどうこう言っていても意味がない。パフォーマンスは政治家の本分ではない。
我々の自由を守るのが政治家ですが、その自由には政府を転覆させる自由も含まれてしまう場合がある。そう言う時は脱法してでも国民の安全を守る。当然脱法行為がバレればどんなに国民の為であったとしても社会から断罪される。
脱法行為を無原則に認めてしまえば、国民のためというエビデンスを元にして、やりたい放題になってしまう。だからバレた時は制裁される。その覚悟を持ったものだけがマキャベリ、マックス・ウェーバー、カール・シュミット的伝統理論から言えば政治家と呼べるわけです。
国民は日々の生活に忙しいわけです。政治はスペシャリストである政治家の仕事なのですから、素人である国民が日々政治について考えるという負担を背負っているわけで、国民が余計な事に気を使わなくても生きて行ける社会がいい社会だというニコラス・ルーマン的な考え方だってあるわけです。
そうは言っても擁護出来ない結果のプロセスにだって、それなりに意味があったではないかというのは悪くない発想なんですが、そうであるのなら犯罪者のプロセスに目を向ける目線だって意味がある。
対してバカ左翼は、日本が行なった事はたとえどんな理由があろうとも認められる事ではない、みたいな感じで戦前の思想を一刀両断する。そのくせ、加害者にも加害者なりの理由があるはずだ、人権を守れ、という話になる。これも論理的一貫性がない。バカ左翼は戦争と言うと思考停止の善悪二元論的にぶった切るくせに、人権人権という話になる。立場の為に戦争遂行をせざるを得なかった人間の人権は無視していたりする。
論理的に言えば戦前の日本を擁護するのなら、犯罪者の立場も一定の理解があってしかるべき、戦前を断罪するのなら、犯罪者の断罪も仕方なし、となるわけですが、これだとちょっと気持ちが悪い。なぜなら論理的に正しくないからです。
断罪する主体が間違う可能性がある。したがって理由もなく断罪するのではなく、検証するのが重要であり、戦前の日本の立場も犯罪者の立場も闇雲に断罪するのではなく、それぞれの原因を検証する必要があるわけです。しかしこれにはもう一つ問題が絡んできます。検証する主体が誰であるのか?検証する対象が何者であるのか?
そこまで考えれば立場的には左翼の立場は正しい。理由は簡単。国家が行なう事と、個人が行なう事では守らなければならない所が全然違うからです。しかし論理的に思考してそういう事を言っている人は極めて少数に感じます。
少なくとも大手メディアに出て来て、ピーチクパーチク言っているようなクズはそういう感じじゃありません。そういうバカが戦後跳梁跋扈していたせいで、頭の悪い断固決然万歳突撃みたいな口ばっかりの、国家の擁護はするけれど、国家の側に立ち下駄を履いて個人を断罪するような、国家のケツ舐めヘタレ右翼もどきみたいなのが増えちゃったわけです。これは左側に大きく責任がある。
戦争を善悪で捉えるのは愚かだと思いますし、誰かが諸悪の根源という所で話が落ちてはマズい、どうして戦争に突っ走って行ったのかという事を、政治家なら戦犯として断罪するよりも、戦時下として不適切であったという点において、そういう政治家の暴走を許してしまった反省という点において、国家を断罪すべきであり、善悪二元論で切り捨てるのは頭が悪すぎる。
悪者がやった事だで話が落ちては身も蓋もない話になってしまう。どうして国家をあげてあんな大規模な戦争に突っ走って行ってしまったのかを考えなければ、何も生まれない。何も学ばなければ、死んだ人も無駄死にになってしまう。
結果的に戦死者は沢山出たがそのおかげで平和になってではないかという思考停止の言い方がよくありますが、国が死ななくても済む犠牲を課した事と、今繁栄している事は、直接的な因果関係は何もありません。お役に立った死、というストーリー、この感じ方は戦前の発想と同じです。
帰結主義的にどうなっているのかという事で擁護しないというのは当然ですが、だからと言って原因を検証せずいるのは危険です。戦争なんてする覚悟もないくせに、戦争前夜状態に陥っている現状を考えれば、吹き上がってスッキリしたいヘタレは論外ですが、いつまでも被害者面してベタベタ泣いてりゃいいってもんじゃない。
国家が起こす戦争、国家が起こす政策、刑罰は厳しくチェックしなければならない。個人が犯罪を犯した場合、我々がチェックすべきは、個人を断罪する事ではなく、国家が適正手続きをキチンと踏んでいるかどうかその一点だけです。
ルールが不適切であるのなら、それはまた別の話で正さなければなりませんが、ルールを変更してどんな帰結を生み出すのかという所に敏感でなくては危険です。まして感情論に支配されてスッキリ感を求めて単純に思考するのは問題外です。そしてそれとは別に被害者感情の救済はキチンと考えなければなりません。
前置きが長くなりましたがアメリカの元での鍔迫り合いに変わり、ネタがネタではなくなって行く構造を書くと前回書きましたが(行きそうもねえな今日は・・・・)、この問題は我々の論理性のなさ、これは北朝鮮問題なんかも典型ですが、論理的に思考する契約のロジックがなさ過ぎる所に問題が大きくまずあります。
感情的に判断してしまうので、喜怒哀楽と快、不快、だけで物事を判断してしまう。これが第一の大問題で、これは近代化の為に天皇というシステムを手段として利用していたのが、次第に天皇自体が目的化してしまった事もそうですが、ネタがネタでなくなり、手段が目的化してしまう現象を生み出してしまうモーターになっています。
プロテスタンティズムの精神によって、仕事を自己目的化するというのは手段が目的化するのではありません。金を儲けるのも、仕事をするのも、革命を起こすのも、神の国へと救済されて永遠の生を得る目的に合一してしまうという事です。その為に必要な手段であるという勤勉さを手に入れると同時に、自己正当化し抑圧や排除を加速させて理解出来ない存在を虐殺しても全く良心が痛まないという帰結も生み出してしまいますし、どんなに不安を担保しても拭えない、不安ベースの生き方を加速してしまいます。
神に救われるかどうかが、もう決まっているわけですから、どんなに勤勉に生きて善なる心を全うしていると思っていても満たされない。アメリカなんかではその穴埋めをする宗教的なものも充実していますし、市民社会の成熟によってNPO、NGOなどの分厚い活動があったりする、そういうものが全く機能していない日本の現状を考えれば、全面肯定するつもりは毛頭ありません。
二元論的に陥りやすく、戦争ばっかり繰り返している状況だって酷いもんですし、不安ベースに煽られる生き方も不毛です。日本も不安ベースな生き方になってしまっていて、担保するものが何もないので国家に依存してしまうという状況がどうにもならないわけですが、その事はわきにおいて、契約のロジックにも一定の弊害はある。
しかし近代を走らせているにもかかわらず、契約のロジック、ようするに神との契約というのは二元論的に決まります。守ったか、守らなかったか、どちらかしかない。守っていれば救済され、守らなければ救済されない、しかし教会への帰依、懺悔、秘蹟などなどによって救われる可能性があると説いたのが、カソリックであり、これは神がそういったわけではなく、神がそう言ったと言っている奴らの統治のリソースでした。だからニーチェは「神は死んだ」人間によって殺されたと言ったわけです。
もちろんそれがある種の社会の保全を、人々の感情的な安全を担っていたのは間違いありませんが、腐敗も当然あり、そこから脱却しようと契約のロジックが、救済されるかどうかはすでに決まっている。守ったか守らなかったかどちらかしか無いというのは変わらなくとも、救済される人間であれば神との契約を守るはずだと、逆転させる事によって、近代が駆動したわけです。これはユダヤ教なんかもそうです。
こういう契約のロジックがない状態ですと、まずルール主義が機能しない。契約は守ったか守らなかったかのどちらかしか無い。中間状態というグレイゾーンはないわけです。天皇を使って近代化したわけですが、天皇制度は骨が抜かれてしまっていて、今は近代を走らせる為に必要な柱が無くなっているという事も問題なのですが、結局天皇を利用しても、上から押しつけ、不平等条約改正の為の疑似近代化でしたから、契約のロジックは芽生えませんでした。したがって簡単に手段の目的化が起こってしまうわけです。
グレイゾーンは権益を生み出します。今この国ではお目こぼしや不正腐敗のオンパレードでジャスティファイされる希望が全く無い状況がそれを物語っている。グレイゾーンを判断する裁量を握っている人間にとってはおいしい権益になるわけです。だからその権益を守る為に手段が目的化してしまう。これはこの国のアーキテクチャー隅から隅まで蔓延っている悪弊です。
その事で社会保全になっているとか、感情的な安全を担保しているとか言うのは、まあ言ってる事は理解出来ますが、ステークホルダー以外をはじき出し搾取する構造の言い訳になってしまっている。感情は感情、ルールはルールです。ルールによって救われない構造が出てくるのなら、それはまた別の話で、そう言う事があるから腐敗したままで構わないという理由にはならない。
もちろん人間関係において何でも論理性ばっかりで話していたんじゃ上手く行かない、非論理的でも、感情的に付き合いを優先させる必要は当然あります。そのレベルでなら悪くない、むしろ善い事なんだろうと思うのですが、システムや全体性の話となると別問題なのです。
大手メディアなんかもそうです。強力な裁量を与え、戦前は天皇によって国民化しメディアによって動員したわけですが、戦後はメディアによって一人前の市民性を持った国民化する為のツールとして使います。しかしその裁量を守る為に段々大手メディアも手段が目的化して来ます。最近では国家のケツを舐め、益々愚民化に一役買っている始末です。
官僚だって、政治家だって、法律だって護憲も改憲も、国民までもが、至る所で何から何まで手段の目的化が見られます。ネタとして利用していたものがネタではなくなる。
論理的な契約のロジックのなさというのは問題なんですが、その論理性のなさや感情論に右往左往してしまう構造というのも、段々変わって来ています。
建前と本音という言い方があります。建前というのは、まあ要するに決まりの事を指したりするわけですが、本音と言う部分が、80年代ぐらいから意味が変わって来てしまっています。昔は建前は建前としてわかるけれど、本音の所はどうなんだよという感じで、ある種、インクルーシブな所があった。
しかしこれが本音の所では、みんな抜け駆けをしているという意味で本音という言葉が使われるようになってくる。所詮、他人は信用出来ないという、エクスクルーシブな要素が増えてくる。
簡単に言えば、近代化をしても、地元商店街的な地域性だったり、入れ替え不可能のコミュニケーションだったりがあった頃は、建前、まあきれい事でもいいし、決まりでもいいし、ネタと行ってもいいかもしれないのですが、それを守るのは正しいけれど、本音の所はどうなのよという感じで、まあまあ固い事言いなさんな的なインクルーシブがあった。まあいいから一杯やれよ、見たいな。
それが契約のロジックが根付かない、ズブズブさを生み出したりするわけですが、一般市民のコミュニケーションという次元においてはむしろ必要な事だと思いますし、その事によって感情的な安全を担保するという機能が有り得た。
しかしこの本音と建前という関係性が崩れて来ます。流動化によって、団地化、郊外化という二段階の変化を経て、大店法の緩和などにより地元商店街的なものが壊れ、コンビニやファミレスと言った名前のない誰でも入れ替え可能の承認関係になってくると、感情的な安全を担保する部分が空洞化してしまい、本音というのは抜け駆けという話になってくる。けしからんというわけです。
建前を守っているのに、抜け駆けをしている奴がいるという話になる。建前がきれい事の決まりとか、ネタという所が無くなって、正しい事になってくる。本気にする奴が出てくる。
そうすると、不安を煽られ抜け駆けを煽られる人々は、重罰化だ、取り締まれ、抜け駆けを許すな!って話に簡単に沸騰する。ルールと善悪の区別がつかなくなってしまう。国家がその感情的な安全を埋めるように権益の増大を計り、そこに国民は益々依存する。国家権力の権益構造が事後チェック型になるという事は、まさにこういった社会の変化に対応しているとも言えます。
まあまあ、そう固い事言いなさんな、なんて事を言うと、お前のような奴がいるから、不正が蔓延るのだって話になる。国家権力の不正や腐敗には全く届きもしないし、全く監視機能がない所は相変わらずでも、末端のどうでもいいような話には吹き上がる。山本モナが不倫したとか言って吹き上がるわけです。
例えば単位未履修なんていう誰でも知っている当たり前の話を、急に大騒ぎして徹底的に叩く。学校の問題でいえば先日表面化した大分県のコラプションこそどうにもならない、この国の至る所でそれこそありとあらゆる所で繰り返されているインチキ構造であって、何となくピークが過ぎれば立ち消えになる確率99%パターン、に陥っちゃマズい。
学校の教師を叩いてスッキリするのはいいけれど、何の為に叩くのか?矛盾した要求を押し付けてはいないか?リソースを取り上げている上であれやれこれやれって話になっちゃいないか?
教師を擁護するのも、大変なんだ、教師だって頑張っているんだって、そんなの別に威張っていう事じゃない。仕事なんて誰でもやっている事で、嫌なら辞めちまえばいい話です。誰もやってくれと頼んだ覚えはない。やるのならグチャグチャ言ってねえでやれよって話です。
ハッキリ言ってこんなのはどちらも同じ事を言っているに過ぎません。教師というのは一括りで存在するものではないからです。いろんな奴がいる。どうにもならないような不正を働いたり、サボタージュしているようなクズ教師が蔓延ったり、矛盾した要求や軋轢によって余計な仕事まで抱え込んで、どう考えても個人の努力や能力で打開出来ないような壁にぶつかっているような状況を放置していたりするような制度があるのなら、それを正せない事に問題がある。
教育は手段です。その手段にぶら下がって飯を喰っているステークホルダーを救う為ではない。親の実存を満たす為でもない。バカ教師やバカ親を政治に動員する為のものでもない。山積する問題点を放置して、バカマスコミが解決するというよりもむしろ混乱させる為に、面白おかしく嬉しそうに叩く為のものでもない。
未来への先行投資として、そして子供が生きて行く手段として教育出来ていない事が問題なのです。誰の為のもので何の為の手段なのかを考えればバカでもわかる話です。そう言う事をわかっている政治家が決断主義的に決めれば、こんな問題は5秒で解決する話です。
不正や腐敗の構造はいい事ではないので正す必要はあるでしょう。それで国民が不幸せになっているのならジャスティファイされなけりゃ希望がなくなっちゃう(国家の腐敗なんかは全くジャスティファイされないのが問題なんですが)。
しかし、単位未履修問題なんて事がそんな大騒ぎするような不正なのか?誰でも進学校の勉強は大変で進学する為の学習が最優先になってしまうのは仕方のない事だと、学生だった事が誰でもあるわけですから、みんな知っていたはずなのに、大騒ぎして徹底的に叩く、国家の不正腐敗は放置したまま、どう考えても大きな問題が跳梁跋扈している状況は放置して、結果的に国家が国民の不安を担保する形で、新たな権益として利用しようとする。決まりや建前というのは、みんなが幸せに生きる為にあるものです。
決まりや建前はわかるけどさ、それじゃ救われない人もいるじゃないか、という話にならない。決まりや建前を守る事で不幸になっていても、それを司る権益を握っている連中のタクティクスに乗せられて、断固決然と吹き上がる。手段が目的化する。ネタがネタではなくなるわけです。
だからと言って感情論を排除したルールに従っているのかと言うと、不安を煽られ、感情をくすぐられ、建前なんか知るか!!徹底的に排除しろ!!みたいな話になっちゃう。どうでもいいような話で分断統治にまんまと引っかかっている。
ルールを守っているかいないかというのはどちらかしか無い。そういう意味で公正さを求めているのならわかる。ルールを守っていても疎外を生み出しているではないかという事でルールを考え直そうぜというのもわかる。
しかしこれを論理的に導き出して考えているのならいいのですが、感情論に煽られ、体感治安とか、わけのわからない感情のポリティックスに煽られて、喜怒哀楽、快、不快で物事を判断してしまう。建前はネタだという事を前提にして、ネタが機能しているか機能していないかという事を吟味せず、無前提に信用したり、抜け駆け感を感じると、ルールなんて知るか!って話に簡単に動いてしまう。
感情論に囚われ、ネタがネタではなくなり、手段の目的化が起こってしまう。近代社会というのはそもそもフィクションです。そのフィクションは我々が生きて行くのに都合がいいから存在する。社会とは人が生きて行く為の手段であって目的ではありません。
金儲けも、出世も、悪者叩きも、全部手段です。手段をいくら追求しても、手段は手段でしかない。だから目的は満たされない。手段を目的化して満たされていると錯覚している人が、禁断症状の如く手段に依存してしまい、その事で他者を傷つけても、排除しても、自分が不幸せでも、手段への依存は益々強化されて行く。
無念!つづく!!