前回の続きです。

事後チェック型とは言っても、中身は恣意性まみれで、そういう意味では以前と全然変わっておりません。ルール主義ではなくて、責任を取らなくて済むようになった行政官僚制度であり、小さな政府と言いながら行政権力の力は増大しています。

それに、政府を小さくするという事は、それに変わるセーフティネットや共同体主義的なものがないと上手く行かない。サッチャリズム、レーガニズム、そして中曽根政権の当時の日本で騒がれたネオリベでは少なくともまだそういったものが(本当にあったかどうかは微妙ですが)あると信じられていたし、希望も今よりはあった。

そういうものが無いもしくは壊れてしまっているのなら、それをどう担保するのかというのが同時に出てこないと、感情的な安全を失った人々がアノミー化するのは当然の帰結です。そういう社会に道徳主義的に偉そうにコミットしろと言ったって、説得力も無くなってしまう。

この国では伝統を明治の近代化の際、廃藩置県によって村落共同体に生きていた人々を国民化する為にことごとく壊してしまいました。変わりに天皇主義を用いた。戦争に負けて天皇主義が壊れると、参照すべき共通前提やヘリテージが壊れたまま、それを担保する事なく再復興近代化を遂げた。

それを担保していると錯覚するものがアメリカに隷属しているシステムになってしまった。蛸壺が包摂というより排除によって、蛸壺を護持するという、これは丸山眞男なんかがいう通り、戦前からそうだったのかもしれませんが、天皇の元での蛸壺的鍔迫り合いから、アメリカの元での蛸壺的鍔迫り合いに変わった。

それぞれの蛸壺に配分出来なくなり、戦争に突っ走って行った戦前。今、蛸壺への配分が不可能になって来ているという事で、蛸壺からこぼれてしまっている人が排除によって生まれている、それを埋め合わせようと、国家が吸い上げ国民が依存すると言うありがちな帰結に陥っている。

ミルトン・フリードマンがネオリベの御本尊みたいに言われたりしてますが、彼は教育や医療を市場化しろとは言ってません。市場化すべき所、すべきではない所というのがある。まあ当たり前ですよね。日本ではすべき所はいい加減に権益を残し、すべきでない所は速攻市場化して空洞化させてしまいました。だから本当はネオリベでもなんでもないのです。

かと言って、グローバライゼーションの流れは止められない。止められないのだから、アンチじゃ疲弊して行くしか道はない。今、サミットをボロクソのケチョンケチョンに批判している、スーザン・ジョージが来日しておりますが、彼女が言った、オルターグローバライゼーション、グローバル化のリソースをむしろ積極的に利用して、グローバル化がもたらす負の側面を手当てする発想や、これも今来日しているマイケル・ハート、ネグリ&ハートの打ち出した概念、グローバル化によってもたらされた世界に立ち現れた、脱中心的で脱領土的な支配装置、たえず拡大し続ける開かれた境界の内部にグローバルな領域全体を組み込み、コマンドのネットワークを調節しながら、ハイブリットなアイデンティティと柔軟な階層秩序、複数の交換を管理運営する「帝国」という国民国家に取って代わる国境を越えた圧倒的な権力、そしてそれに抗う、マキャベリやスピノザなんかが用いた、マルチチュードという概念を焼き直して、国境を越えて、多様性を失わず、コミュニケーションを取りながら行動をする群れとして、絶望的な支配による危機であるが故に、誰しも危機を感じる事が出来るという事を、変革のチャンスの可能性として捉えるような、発想も連帯も多様性も無い。

もちろんネグリ&ハートを批判した、ラディカルデモクラティズムの提唱者、シャンタル・ムフが言うように、これは政治的に鈍感な発想だという事で、丸腰でむき出しの雑民的なグローバルな連帯で、グローバルな巨大な暴力装置である「帝国」に抗ったって難しい、したがって国家や国家連合を使うしかないではないか。というような言い方をしても、政治家はバカばかり、権益に邁進する権力者ばかり。国民の国家への社会を保全する為のコミットメントがそもそも無いのでどうにもならない。国家権力のケツを舐める勘違いの愛国が蔓延っちゃったりする。

ことほど左様にネオリベでも無ければ、リベラル的なグローバル化に対抗するようなまともなコンセンサスも可能性も無いわけです。

歴史の参照点があったりすれば、そういうものを護持しろという発想が出てくるわけですが、それが失われてしまい語り継いでこなかった。日本人が伝統とかほざいているのは、近代以前、廃藩置県以前の話では殆どがありませんので、せいぜい数十年前、せいぜい戦前くらいまでの話ばかりです。これは近代化し不平等条約を改正する~近代化し帝国列強に抗う~近代化し欧米にキャッチアップする、という目的の為に使われたフィクションなので、伝統とは一切関係ありません。

歴史の参照点が無くなっている場合、もしくは失ってしまった場合、そして、ある目的の為に足枷になるという事であえて壊した場合(これは近代化の為に中央集権かが必要だという事で廃藩置県を行なった事など)、これはリプレゼンテーション、表象するしかありません。嘘でもネタでも何かしら共通前提がないと社会は回らない。

なので、例えばアメリカでは、単純な善悪二元論で悪は誰か?って話になり、時に暴走してしまったりする。しかしこれはあくまでも社会を保全するという事が目的であって、表象は手段にすぎません。

アメリカなんかは、ヨーロッパの保守とは逆向きの発想があります。保守とはフランス革命に対する反省から出て来た思想で、最も合理的な発想だとマンハイムは言っています。つまり今までどういうわけかわからないけれど上手く回って来たのなら、それを守ろうではないかという事です。所詮人間の計算能力や予見能力なんてたかがしれていますので、設計主義的に社会を安直に変えてしまえば思わぬ帰結を生み可能性がある。

しかしアメリカというのはアングリカンチャーチに抑圧されたピルグリムファーザーズ達が建国した国であるというある種の神話が残っているので、今まで上手く回ってこなかった人達が新天地を求めて自由を手にしたという事になっている。したがって自分達で決める、自分達で決めた事にしか絶対に拘束されてたまるかというのを守るのが保守になっています。

参照点が自由であるという事なので、拘束力がありません。したがって二元論的フィクションも必要だし、憲法愛国心って話にもなりやすい。これが保守から出て来ます。

ヨーロッパでは例えばドイツ、ハーバマスなんかもカントの世界共和国的な発想から、憲法愛国主義ということを言ってます。これは伝統によって人々の多様性を抑圧する保守に対抗して、市民社会の理念である憲法に同意出来るかぎり多様性を認め、仲間であるという事です。これが左から出てくる。

アメリカの憲法愛国心なんかはちょっと話が違っていて、ローレンス・レッシグなんかが言ったのは、もう今の社会は人々は抑圧されているという事に気付いていない、社会をぶっ壊す事に加担していても気付かない、気付かなくても楽チンに生きて行ける。当然国民の声を動員するのは難しいし、それを待っていたのでは問題点に手が届かない。国民が気付いた時には手遅れになる可能性がある。なので、建国の理念に立ち返って、憲法に記された先祖の声を聴き、政府に声をあげようではないかという発想です。

日本ではネタによってフィクションを作っても、それが次第に目的化してしまいます。社会を保全する事が目的であるはずのものが(社会を保全する目的では無くて近代化して何々が目的だったと言えますが)、次第にそのフィクション自体が目的になってしまいます。万歳突撃になっちゃう。

憲法愛国心と呼べるのか疑問ですが、憲法護持を旗印に掲げている連中も、憲法を守るのは手段であって、国家権力をコントロールし、我々の社会を保全する事が目的であるはずなのですが、憲法も守っていない国家、社会は底が抜けまくっている、おまけに戦争のお手伝いまで、朝鮮戦争の時点ですでにしている、にもかかわらず、目的を何一つ保全していないのに、憲法護持が目的化してしまっている。

国家というのは手段であって目的では無い社会を守る為に使うものであり、国家権力自体を愛するような気持ち悪い現象も、手段が目的化していると言えます。

ようするにこの国では、都度都度オポチュニスティックに、権益の為、組織益の為、ポピュリズムに媚びる為、きれい事をはき、手段が目的化し、その場しのぎと先送り、長期的なフィージビリティ・スタディも無ければ、ビックピクチャーも無い。何から何まで何にも無い。これが現状の姿では無いでしょうか。近代国家の悪しきエピゴーネンと化している

この国の統治権力は国民益なんて微塵も考えていない。それは国家権力の責任はもちろんあります。現状の舵取りはあまりにも酷すぎる。マスメディアにも当然問題がありすぎる。あまりにも俗情に媚びすぎている。権益の為にしらばっくれているのだとしても酷すぎるし、本当にわかっていないのなら単にバカという次元ではない。幼児並の知性しかない。そして何より酷過ぎるのは、国民の民度の低さ、これがどうにもならない。完全にスポイルされてしまっている。

脱社会化という言い方を使っているので勘違いされると困りますので、書いておきますが、脱社会化したからって、犯罪予備軍になるとこの期に及んでまだ言っている人が世の中にはいっぱいいますが、全く関係ありません。

脱社会化=反社会化というわけではありません。非社会化という事です。もちろん非社会化の中には反社会化も含まれる可能性はありますが、反社会化はまだこの社会は間違っていると思っている可能性があるわけで、勘違いという事も当然有り得ますが、それはオルタナティブな社会、もしくはアンチな社会へのコミットメントとも言えます。

もちろんその事によって、社会からこぼれてしまっている可能性はありますが、それは社会性が無いからだとは言いきれない。

社会からはじかれているかいないかとは無関係に、社会性が無い事は有り得ます。それは脱社会化と言えます。もちろん勘違いで反社会化していれば、見え方は脱社会化と同じように見えてしまう可能性はあるわけですが、そこを混同してただ単に叩けば、ルサンチマンを蓄積させる事になってしまいます。

脱社会化している人だって、個人的に向き合う場合は説教する事も大切かもしれませんが、全体の問題として考える場合、社会性のなさ、コミットメントのなさというのを、社会が埋め込めない状況の事を考えないと、この問題は中々手当て出来ない。

脱社会化して、国家や社会にコミットメントがなくとも、携帯のコミュニケーションや、ゲームばかりやっていても、それで満たされている人は犯罪なんて起こさない。いまだにゲームの影響で現実との区別がつかないとかいう紋切り型の言い方があったりしますが、ゲームばかりやっている人とか、携帯でのコミュニケーションに膨大な時間を費やすとか、YOUTUBE ばかり観て、不毛な時間を費やしている人とか、それが生き方として実りがあるのかどうかというのを批判したい人がいるのは、まあ同意はしませんが理解出来ます。しかしその事と犯罪とはまた別の話です。

脱社会化していても、端から見て実りが無さそうに見えたとしても、ゲームに熱中するなり、メールやネットで膨大な時間戯れているなり、そういったものに包摂されていればむしろ安全であると言えます。

アキバの事件みたいな事が起こると、すぐこの手の話が出て来ますが、脱社会化して、掲示板でのコミュニケーションばかりやっているから、犯罪に繋がるのではなく、社会からはじかれていると感じ、それ以外の何かで包摂される事がなかったり、例えば掲示板でのコミュニケーションでは包摂されなかったりすると、危険な状態に突っ走ってしまったりするわけです。

格差とかの問題と、脱社会化の話は直結されてしまいがちですが、別に貧乏人じゃなくとも、金持ちだって脱社会化している人は沢山いますし、それなりの責任のある仕事についていてもいます。大手メディアの連中なんて、基本的にみんな脱社会化しているんじゃねえか?って感じに見えてしまいますし、政治家だって官僚だってそう見える。

地位とか名誉とか金の有る無しは関係ないし、国家権力に忠誠を誓っているかどうかも関係ない。自分が所属する組織にコミットメントを持っていたとしても、それで社会が回らなくなる状態に加担していれば、もしくは社会が回らなくなる事に何の興味も感じていなければ、脱社会化しているとも言えます。

みんな結局自分がかわいいのはしょうがないので、ある程度エゴイスティックになってしまうのは誰でもあり得るでしょう。でも、結局それでめぐりめぐって、自分が置かれている立ち位置やポジションまでぶっ壊す事に加担してしまえば、自分の合理性という観点からも、どう考えても得にはならない。そういう状態に人々がならざるを得ない構造が、どうにもなりません。

自分が所属している組織にコミットする事と、社会を保全する事がかけ離れないようなアーキテクチャになっていない事が非常に問題があって、そういうアーキテクチャになっていないというだけではなくて、それを是正しようと言う方向性に動いて行く可能性を感じる事が出来ない社会がどうにもならない。そのどうにもならなさが更に脱社会化を押し進めてしまう。組織の問題点はわかっているけれど、俺だって金稼がなきゃなんないんだよ、という風になってしまう。

脱社会化して、コミットメントを失っているだけならまだしも、コミットメントを持っていると勘違いしている吹き上がりが多すぎる。わかっていないのなら学習すれば何とかなるのですが、学習の意欲が無いだけではなくて、人の話を聞く気がない輩がこれまた多すぎる。そのくせコミットしようと思っていたりするのだから、こういうのは迷惑でしかなく興味が無いほうがまだマシで、どうにもならない。話を聞かない人には手の施しようがありません。そういう人が結構なボリュームで存在してしまっている。

話を伝えるのも一種のスキルなので、自分のような凡人には無理でも、高名な学者とか、社会的な信頼を獲得している人なら、効果的に啓蒙が出来るのは確かです。だけどそういう人の声ですらどんどん届かなくなっているような気がします。もちろん伝える側にも責任はありますが。

別に学習意欲が無くても、人の話を聞けなくても、その事だけで誰かに迷惑がかかるという事はありませんので、個人の自由です。そういう生き方を否定する権利は誰にも無い。だけどそうであるのなら、せめてその事を自覚していればいいのですが、自分の信じる事が正しいと思っちゃうと厄介極まりない。

思うだけなら勝手にすればいいのですが、それによって実際排除が起こってしまったりもする。直接叩くとか、直接叩くのなら、返り討ちにするチャンスがあるわけですが、不安を煽られて国家に依存して排除をしてもらう方向性に一蓮托生で突っ走ってしまったりする。多様性を容認出来ない人が増えている。

つづく!!