前回の続きです。
グローバル化は避けられない、先進各国の国内市場は成熟化してしまい投資係数を下げる、投資効率を上げる為には、市場を外に求めるしかない。そうすると労働分配率を下げる競争になるので国内は疲弊して行く、疲弊しても社会保全の必要が無くなって焼畑化する。BRICs諸国でやればいいし、そこがダメになれば別の新興国に移って行けばいいという事になる。政策的な誤りがあったからグローバル化したわけではなく冷戦体制が終わった事による必然でもあるわけです。
かつては東側の巨人がいるという前提で、社会を疲弊させると革命が起こるかもしれないという事で、福祉政策やニューディール政策のような公共投資、制度派経済学が勃興したりとか、ケインズ派が勃興したりというのがあったわけですが、リベラルな政策を基礎付ける為のアカデミシャン達の活動が無くなって行くという事が起こる。
実際には、先進各国、財政的な危機の進行によって社会保障政策は保たなくなったというのもあり、単に保たなくなったというだけではなくて、正当性を争っている東側がもう崩壊過程に入ったと言われていた70年代後半から、実際に崩壊する91年までの流れとして、それを保たせる必要もなくなっていくわけです。
その時に、所謂格差拡大、ボトムラインが低くなって苦しむ人達がいるというのは実際に起こっている事なのですが、これと平行して、例えばアキバ系などが典型として、あらゆる社会のモードが、ある種のポータブル、持ち運び可能で、荒廃して行く国土や土地に依存せずに、エンジョイナブルな環境を作れるような情報環境というのが必要に応じて非常に重要になってくる。
そうしたものの重要性を強調する立場を、フィールグッド・プログラム、気持ちよければいいだろうという方向性の事を言うのですが、ヒラリー・クリントンなんかが押し進めようとしていた方向性です。
例えばYoutubeやニコ動、携帯でのコミュニケーションみたいな欲望に歯止めが無くなるような環境を整えて、とりあえず一日2時間でも3時間でも好きなだけ不毛な時間を費やせるツールが出てくる。昔からテレビを観たり、ゲームをやったりして不毛な時間をつぶすというのはあったわけですが、それがどんどんポータブル化して行くとなると、いつでもどこでも時間さえあれば好きな時に好きなだけ出来るようになってくる。ゲームや携帯、iPodなどなど、どんどんそういうツールが増えている。
こうなれば当たり前ですが、国土や土地に依存する必要もないし、日常の縛りから匿名によって自由になったりするので、共同体での実りの無さの穴埋めをする代わりに、共同体の保全や社会へのコミットメントは無くなってくる。
コミットメントを必要としない社会になっているからそうなっているとも言えますが、いずれにせよグローバル化がもたらす、人々の脱社会化によって、一人前の人間を育て上げて社会化し、社会的に振る舞うように教育するのは面倒くさいしコストもかかるので、アーキテクチャそのものをいじくってコントロールし、脱社会化したままの人々でも社会が回るようにしてしまうという方向性です。それなりの蛸壺を用意してその中で戯れていろという感じで。
グローバライゼーションというのは、国民国家的なものが小さくなるかというと、資源ナショナリズムやエネルギーナショナリズムのようなものが逆に大きくなる。先進国の技術や知識もオフショア化によって、ブレインや実動部隊の所をインドや中国のようなBRICs諸国に握られてしまっている。
従来国際分業体制というと国民国家同士が得意分野に特化して、比較優位仮説というリカードの図式に基づいて国際貿易をするというタイプだったとすると、そういう金を出せば、技術やマネジメントを移転すれば、ものが買えるという図式が変わって来ている。先進国の優位性は段々無くなって来ている。
国家という単位によって国際分業を行なうというのは今後おそらく続かない。グローバル化によってもたらされた経済格差は国家単位というよりも、それぞれの国で分断されてしまっている。脱社会化の進行で、国家単位での社会へのコミットメントは少なくなる。
その時、いい国(社会)を作りましょうという時に、自国の枠内で考えるという所が障害にもなる。かと言ってコミットする宛先、国なり何らかの共同体なりがないと、コミットメントしようがない、焼畑農業化して社会がどうなったって金が回ればいいじゃねえかという感じになっちゃう。
そういう事を言っちゃダメだと言うのを、今まではナショナリズムが一番有効に調達出来た。ナショナリズムを否定するのなら、それをどうやって調達出来るのか?ナショナリズムを否定しないとして、脱社会化してしまった人達をどうやって目を向けさせるのか?コミットメントがなければ経済は回るけれど社会が回らなくなって、結局は経済も回らなくなってしまう。
コミットメントは必要ない、一部の人間がコントロールするのだという方向性でも上手く回るのならいいのですが、そういうのはロクな事が無いという事を我々は学んでいるはず。全体主義的に無理矢理まとめるとなると、歴史が繰り返す過程に突っ走ってしまう。まあ日本人が学んでいるかは微妙ですが。
自明ではなくなってしまったコミットメントの調達を、例えばヨーロッパやアメリカなんかでは前回触れたように国家が社会の空洞化を防ごうという話になるわけです。個人にバラまくのではなくて、個人が社会化出来るように、社会に投資するという形で。もちろん労働運動の連帯や宗教的伝統があったりするので、そこが日本には決定的に欠けてしまってはいるのですが。
大変人気のないアメリカのブッシュですら、コンパッショネイト・コンサバティブなんて言っていたりして、9・11が起こる以前は大統領になるときの演説や公約では逆のことを言っていたわけです。軍隊を送ってネイションビルディングをやったり、世界のポリスマンになるのではなくて、極めて限定的な軍の運用を行なって、どちらかと言うと孤立主義的、現実主義的な外交政策、内政はリベラルな大きな改革をやろうとする。教育法の大改正みたいな事をやる、これにはみんなが驚いた。9・11がなければ、内政で大きな政府的なお金がかかってもいいから、アメリカをもう一度強くする為に教育をかえるような方向性を打ち出していた。ラディカルな大統領が出て来て外交は縮めて内政変革をすると言われたりしていた。それが9・11直前のブッシュのイメージ。
多様性や島宇宙を沢山用意して、表層で戯れている限りはハッピーだけど、深層がどうなっていて、何にどんな負荷をかけているのか全く分からないようなシステムを進めて行くのがグローバル化というかアメリカ化の力学だとすると、深層が浅く、見通しが利くがゆえに、牛耳られにくく、当事者が自らの利益を保全しやすいブロックを作って、相対的に閉じたネットワークを作り、形成されたブロックの内部でも、集中化、集権化を回避して、分散型のアーキテクチャーを作ろうとするシステムが一方にある。グローバル化によってスポイルされてしまう状況を回避する力学だと言えます。もちろんヨーロッパ的でもありますが、前者がアメリカ、後者がヨーロッパというのではなくて(そういう部分ももちろんありますが)、的であるという事です。
アメリカ的であれヨーロッパ的であれ、社会を維持する為には人々のコミットメントは(たとえ必要としないシステムだとしても、いずれ回らなくなってしまう可能性があるし、憲法、宗教、伝統、市民性、連帯などによって声が出てくる)重要なわけでそれをちゃんと担保しようという発想が出てくるのですが、日本でそういう事をやろうとすると、権益が背後に隠れている、もしくはそういう風に見える。全体主義的だと批判されやすいので異論を言い難い。異論を言い難い空気こそ全体主義以外の何者でもないのですが。本当にバカな連中が道徳とか愛国とかほざく。これは全く関係がない。
コミットメントを調達する為に、悪を設定して動員するというのはアメリカなんかでよくあるパターンですので、それ自体はあんまり好きではありませんがまあしょうがない。しかしこの国では叩いた後、役人の権益になる、すぐ忘れる、祭り的に騒いでいるだけなので、吹き上がる連中が不安に駆られて国家に依存するだけで、コミットメントが出てこない。単に分捕り合戦の綱引きにしかならない。
フランクフルト学派第二世代である、ユルゲン・ハーバマスが後期資本主義的ケインズ主義的福祉国家、介入主義的な経済政策や社会政策の増大によって運動の形が変わってしまうという事を言いました。かつて「自由な交換」というイデオロギーが資本主義的支配体制を正当化していた。しかし戦後、先進各国の介入主義によって、経済循環は直接的に操作される事で安定化し、テーラーシステムなどの強化された労働を受け入れた労働者は、その代償として得られた高賃金によって様々な娯楽やレジャーの消費者となり、行政の社会政策によって福祉政策のクライアントとなる。
その結果「自由な交換」という市場社会のイデオロギーが崩壊し、労働運動も階級闘争を目的とするものから「配分をめぐる調整」へと変質する。配分をめぐる調整という事は体制内に取り込まれている事を示し、体制内化した労働運動は革命運動としては弱体化してしまう。そうなると政治の季節は終焉し「技術の進歩」が体制を支えるイデオロギーの役割に転化してしまう。
ようするに階級闘争を基盤とした余剰価値のマルクス主義的な配分をめぐる闘争や労働運動の代わりに、生活形式の文法の問題を巡って生じる新たな社会運動という抵抗の登場の事です。
こうした新しい社会運動は、環境運動、軍縮や平和運動、コミューン運動、フェミニズム運動、同性愛者、身障者などの権利運動、少数民族のアイデンティティを巡る運動と言ったように様々な形となって出て来ます。これらの運動は豊かな社会を実現する事によって生まれた運動なわけです。
もちろんその後の冷戦の終結によって、より更に革命的な運動というのは空理空論と化し、益々必要性もなくなり、国家から見ても東側がいなくなれば、何も恐れる事は無くなってしまい、徹底的に取り締まればいいと言うだけの形になってしまうわけなんですが。
日本では亜流ですがやっぱりこういった運動が結構起こり、相当勘違いも多かったのですが、それが行政の新たな権益になっていたりもしました。まあ体制内に取り込まれているわけですから当たり前なんですが、新しい社会運動というのは体制内に取り込まれているので、単なる権益の鍔迫り合いに利用されていた部分があったわけで、ある人達の権益の為に、その外側に不平等な状況を作り出していた。
結局そういう恣意的な線を引く事によって、その外側の人間に対して抑圧を生むと言う構造に無自覚に、欧米で流行っているからという事で、インフラも歴史も国民のメンタリティも、宗教的バックボーンも何もかも別なのに、無理矢理日本社会の構図に当てはめて乱暴に新しい社会運動を進めたわけです。
右肩上がりの状況ならそれでもよかったわけですが、これがある時期から流れが変わります。冷戦終結、バブル崩壊以降急激に加速した、こういった運動の恣意性、体制内で権益の鍔迫り合いと化している構造が表面化し、配分するにも金が無くなってしまったという事もあり、アメリカに腐敗の構造を叩かれて、年次改革要望書スキームを受け入れざるを得ないという形式に、善に依存する大衆の感情に寄り添う形で、腐敗を叩くと言う安直な図式に、頭の悪い政治家、そしてメディアなどもバックアップして社会全体で動いてしまった。
パブリックを国家に牛耳られているこの国でそれがどういう帰結を生み出す可能性があるのかという事に無自覚に、新しい社会運動へのバックフラッシュと同時リンクしながら、元々あったフリーター等が、夢を追いかける為のモラトリアム状態に言い訳をしているように聞こえてしまう世代から出てくる怠業批判、ミルトン・フリードマン的な、モラルハザードやウェルフェア・クイーン的な言い方、60~70年代のリベラルな再分配政策、共産主義者と見紛うばかりの、再分配主義者達、少数者重視のアファーマティブな政策が、怠け者をつけあがらせ、フリーライダーを蔓延させ、空洞化させたのであるという、彼のストーリーと合致して。
それが所謂小さな政府、ネオリベという方向性です。これは小泉改革による、竹中平蔵スキームが叩かれますが、失われた10年からボロクソに叩かれ、いつまでも構造が変われずに権益を丸裸にされ続けて来た状態からの帰結ですので、流れとしては彼らだけに責任があるわけではありません。
リベラル勢力も体制内に取り込まれて「俺に分け前をよこせ」的な新しい社会運動であるという事に無自覚であったので、体制の恣意性や裁量を小さくするという事は悪い話ではないと、新しい社会運動を一方で押し進めながら、こういったネオリベ的変化に加担してしまった。
自己責任に放り出すのはよくない事だと批判に勤しむバカリベラルが、頑張れば報われる社会とかほざきますが、頑張れば報われた社会なんて有史以来一度もありません。結果によって相応に報われる社会があっただけです。それにそういうバカは気付きもしないのですが、頑張れば報われる社会というのはようするに、自己責任で何とかする社会と言っているのと同じです。この論理性の無さ。バカなので気付いていないのかもしれませんが、こういう連中が本音の所で言いたいのは、頑張らなくても報われる社会であって、頑張れば報われる社会ではありません。
頑張らなくても報われる社会というのは、理想としては正しい所も含まれているでしょう。もともと生まれや体質等によってあらかじめスタートラインに立てない人もいっぱいいますから、そういう人に手を差し伸べる事は重要です。社会的にはじかれてしまった人に手を差し伸べない社会なんて、あんまり健全とも思えませんし。しかしこの頑張らなくても報われているように見える人々が不当に配分を確保する事によって、その外側に不平等な社会を生み出してしまっているという図式が見えてしまった。手を差し伸べるという事を利用しているのではないかという見方が強まって、所謂サヨ批判が流行するわけです。
頑張らなくても報われる社会というのは、見方を一歩間違うと、何をしても報われないのと同じになってしまいやる気を失いかねない。なんにもしないで構わないというのはある意味人間として否定されているような感覚も生まれてしまいます。
それを上手い事体制に利用されて、頑張らないやつはけしからんと自己責任やネオリベと呼ばれる小さな政府路線へのインチキ改革を後押ししてしまった。結果、本当に手を差し伸べるべき人々まで一緒になって叩いてしまった。自己責任バッシングによって。
目指す方向性としては、金が無いのだから小さくするしか無いし、行政の腐敗堕落の構造はどうしようもありませんので、風通しをスッキリさせる必要はありましたが、これは利用されてそうなったのか、既得権益の抵抗によって骨を抜かれたのかはわかりませんが、責任を民営化してパージし、自己責任によって重罰化で取り締まるという構造に変化しました。利権の構造が変化したわけです。
変えるべき腐敗の構造は新たな構造に新たな権益に対応出来るように変化し、どうでもいいような社会的弱者の権益を取り上げて、自己責任バッシングや重罰化によって取り締まるという構図です。悪いのは国家の裁量というよりも、頑張っていないのに不当に配分を受けている奴らだ!ってな感じで、まんまと乗せられて国家の権益増大に多くの人々が加担してしまった。
つづく!!
グローバル化は避けられない、先進各国の国内市場は成熟化してしまい投資係数を下げる、投資効率を上げる為には、市場を外に求めるしかない。そうすると労働分配率を下げる競争になるので国内は疲弊して行く、疲弊しても社会保全の必要が無くなって焼畑化する。BRICs諸国でやればいいし、そこがダメになれば別の新興国に移って行けばいいという事になる。政策的な誤りがあったからグローバル化したわけではなく冷戦体制が終わった事による必然でもあるわけです。
かつては東側の巨人がいるという前提で、社会を疲弊させると革命が起こるかもしれないという事で、福祉政策やニューディール政策のような公共投資、制度派経済学が勃興したりとか、ケインズ派が勃興したりというのがあったわけですが、リベラルな政策を基礎付ける為のアカデミシャン達の活動が無くなって行くという事が起こる。
実際には、先進各国、財政的な危機の進行によって社会保障政策は保たなくなったというのもあり、単に保たなくなったというだけではなくて、正当性を争っている東側がもう崩壊過程に入ったと言われていた70年代後半から、実際に崩壊する91年までの流れとして、それを保たせる必要もなくなっていくわけです。
その時に、所謂格差拡大、ボトムラインが低くなって苦しむ人達がいるというのは実際に起こっている事なのですが、これと平行して、例えばアキバ系などが典型として、あらゆる社会のモードが、ある種のポータブル、持ち運び可能で、荒廃して行く国土や土地に依存せずに、エンジョイナブルな環境を作れるような情報環境というのが必要に応じて非常に重要になってくる。
そうしたものの重要性を強調する立場を、フィールグッド・プログラム、気持ちよければいいだろうという方向性の事を言うのですが、ヒラリー・クリントンなんかが押し進めようとしていた方向性です。
例えばYoutubeやニコ動、携帯でのコミュニケーションみたいな欲望に歯止めが無くなるような環境を整えて、とりあえず一日2時間でも3時間でも好きなだけ不毛な時間を費やせるツールが出てくる。昔からテレビを観たり、ゲームをやったりして不毛な時間をつぶすというのはあったわけですが、それがどんどんポータブル化して行くとなると、いつでもどこでも時間さえあれば好きな時に好きなだけ出来るようになってくる。ゲームや携帯、iPodなどなど、どんどんそういうツールが増えている。
こうなれば当たり前ですが、国土や土地に依存する必要もないし、日常の縛りから匿名によって自由になったりするので、共同体での実りの無さの穴埋めをする代わりに、共同体の保全や社会へのコミットメントは無くなってくる。
コミットメントを必要としない社会になっているからそうなっているとも言えますが、いずれにせよグローバル化がもたらす、人々の脱社会化によって、一人前の人間を育て上げて社会化し、社会的に振る舞うように教育するのは面倒くさいしコストもかかるので、アーキテクチャそのものをいじくってコントロールし、脱社会化したままの人々でも社会が回るようにしてしまうという方向性です。それなりの蛸壺を用意してその中で戯れていろという感じで。
グローバライゼーションというのは、国民国家的なものが小さくなるかというと、資源ナショナリズムやエネルギーナショナリズムのようなものが逆に大きくなる。先進国の技術や知識もオフショア化によって、ブレインや実動部隊の所をインドや中国のようなBRICs諸国に握られてしまっている。
従来国際分業体制というと国民国家同士が得意分野に特化して、比較優位仮説というリカードの図式に基づいて国際貿易をするというタイプだったとすると、そういう金を出せば、技術やマネジメントを移転すれば、ものが買えるという図式が変わって来ている。先進国の優位性は段々無くなって来ている。
国家という単位によって国際分業を行なうというのは今後おそらく続かない。グローバル化によってもたらされた経済格差は国家単位というよりも、それぞれの国で分断されてしまっている。脱社会化の進行で、国家単位での社会へのコミットメントは少なくなる。
その時、いい国(社会)を作りましょうという時に、自国の枠内で考えるという所が障害にもなる。かと言ってコミットする宛先、国なり何らかの共同体なりがないと、コミットメントしようがない、焼畑農業化して社会がどうなったって金が回ればいいじゃねえかという感じになっちゃう。
そういう事を言っちゃダメだと言うのを、今まではナショナリズムが一番有効に調達出来た。ナショナリズムを否定するのなら、それをどうやって調達出来るのか?ナショナリズムを否定しないとして、脱社会化してしまった人達をどうやって目を向けさせるのか?コミットメントがなければ経済は回るけれど社会が回らなくなって、結局は経済も回らなくなってしまう。
コミットメントは必要ない、一部の人間がコントロールするのだという方向性でも上手く回るのならいいのですが、そういうのはロクな事が無いという事を我々は学んでいるはず。全体主義的に無理矢理まとめるとなると、歴史が繰り返す過程に突っ走ってしまう。まあ日本人が学んでいるかは微妙ですが。
自明ではなくなってしまったコミットメントの調達を、例えばヨーロッパやアメリカなんかでは前回触れたように国家が社会の空洞化を防ごうという話になるわけです。個人にバラまくのではなくて、個人が社会化出来るように、社会に投資するという形で。もちろん労働運動の連帯や宗教的伝統があったりするので、そこが日本には決定的に欠けてしまってはいるのですが。
大変人気のないアメリカのブッシュですら、コンパッショネイト・コンサバティブなんて言っていたりして、9・11が起こる以前は大統領になるときの演説や公約では逆のことを言っていたわけです。軍隊を送ってネイションビルディングをやったり、世界のポリスマンになるのではなくて、極めて限定的な軍の運用を行なって、どちらかと言うと孤立主義的、現実主義的な外交政策、内政はリベラルな大きな改革をやろうとする。教育法の大改正みたいな事をやる、これにはみんなが驚いた。9・11がなければ、内政で大きな政府的なお金がかかってもいいから、アメリカをもう一度強くする為に教育をかえるような方向性を打ち出していた。ラディカルな大統領が出て来て外交は縮めて内政変革をすると言われたりしていた。それが9・11直前のブッシュのイメージ。
多様性や島宇宙を沢山用意して、表層で戯れている限りはハッピーだけど、深層がどうなっていて、何にどんな負荷をかけているのか全く分からないようなシステムを進めて行くのがグローバル化というかアメリカ化の力学だとすると、深層が浅く、見通しが利くがゆえに、牛耳られにくく、当事者が自らの利益を保全しやすいブロックを作って、相対的に閉じたネットワークを作り、形成されたブロックの内部でも、集中化、集権化を回避して、分散型のアーキテクチャーを作ろうとするシステムが一方にある。グローバル化によってスポイルされてしまう状況を回避する力学だと言えます。もちろんヨーロッパ的でもありますが、前者がアメリカ、後者がヨーロッパというのではなくて(そういう部分ももちろんありますが)、的であるという事です。
アメリカ的であれヨーロッパ的であれ、社会を維持する為には人々のコミットメントは(たとえ必要としないシステムだとしても、いずれ回らなくなってしまう可能性があるし、憲法、宗教、伝統、市民性、連帯などによって声が出てくる)重要なわけでそれをちゃんと担保しようという発想が出てくるのですが、日本でそういう事をやろうとすると、権益が背後に隠れている、もしくはそういう風に見える。全体主義的だと批判されやすいので異論を言い難い。異論を言い難い空気こそ全体主義以外の何者でもないのですが。本当にバカな連中が道徳とか愛国とかほざく。これは全く関係がない。
コミットメントを調達する為に、悪を設定して動員するというのはアメリカなんかでよくあるパターンですので、それ自体はあんまり好きではありませんがまあしょうがない。しかしこの国では叩いた後、役人の権益になる、すぐ忘れる、祭り的に騒いでいるだけなので、吹き上がる連中が不安に駆られて国家に依存するだけで、コミットメントが出てこない。単に分捕り合戦の綱引きにしかならない。
フランクフルト学派第二世代である、ユルゲン・ハーバマスが後期資本主義的ケインズ主義的福祉国家、介入主義的な経済政策や社会政策の増大によって運動の形が変わってしまうという事を言いました。かつて「自由な交換」というイデオロギーが資本主義的支配体制を正当化していた。しかし戦後、先進各国の介入主義によって、経済循環は直接的に操作される事で安定化し、テーラーシステムなどの強化された労働を受け入れた労働者は、その代償として得られた高賃金によって様々な娯楽やレジャーの消費者となり、行政の社会政策によって福祉政策のクライアントとなる。
その結果「自由な交換」という市場社会のイデオロギーが崩壊し、労働運動も階級闘争を目的とするものから「配分をめぐる調整」へと変質する。配分をめぐる調整という事は体制内に取り込まれている事を示し、体制内化した労働運動は革命運動としては弱体化してしまう。そうなると政治の季節は終焉し「技術の進歩」が体制を支えるイデオロギーの役割に転化してしまう。
ようするに階級闘争を基盤とした余剰価値のマルクス主義的な配分をめぐる闘争や労働運動の代わりに、生活形式の文法の問題を巡って生じる新たな社会運動という抵抗の登場の事です。
こうした新しい社会運動は、環境運動、軍縮や平和運動、コミューン運動、フェミニズム運動、同性愛者、身障者などの権利運動、少数民族のアイデンティティを巡る運動と言ったように様々な形となって出て来ます。これらの運動は豊かな社会を実現する事によって生まれた運動なわけです。
もちろんその後の冷戦の終結によって、より更に革命的な運動というのは空理空論と化し、益々必要性もなくなり、国家から見ても東側がいなくなれば、何も恐れる事は無くなってしまい、徹底的に取り締まればいいと言うだけの形になってしまうわけなんですが。
日本では亜流ですがやっぱりこういった運動が結構起こり、相当勘違いも多かったのですが、それが行政の新たな権益になっていたりもしました。まあ体制内に取り込まれているわけですから当たり前なんですが、新しい社会運動というのは体制内に取り込まれているので、単なる権益の鍔迫り合いに利用されていた部分があったわけで、ある人達の権益の為に、その外側に不平等な状況を作り出していた。
結局そういう恣意的な線を引く事によって、その外側の人間に対して抑圧を生むと言う構造に無自覚に、欧米で流行っているからという事で、インフラも歴史も国民のメンタリティも、宗教的バックボーンも何もかも別なのに、無理矢理日本社会の構図に当てはめて乱暴に新しい社会運動を進めたわけです。
右肩上がりの状況ならそれでもよかったわけですが、これがある時期から流れが変わります。冷戦終結、バブル崩壊以降急激に加速した、こういった運動の恣意性、体制内で権益の鍔迫り合いと化している構造が表面化し、配分するにも金が無くなってしまったという事もあり、アメリカに腐敗の構造を叩かれて、年次改革要望書スキームを受け入れざるを得ないという形式に、善に依存する大衆の感情に寄り添う形で、腐敗を叩くと言う安直な図式に、頭の悪い政治家、そしてメディアなどもバックアップして社会全体で動いてしまった。
パブリックを国家に牛耳られているこの国でそれがどういう帰結を生み出す可能性があるのかという事に無自覚に、新しい社会運動へのバックフラッシュと同時リンクしながら、元々あったフリーター等が、夢を追いかける為のモラトリアム状態に言い訳をしているように聞こえてしまう世代から出てくる怠業批判、ミルトン・フリードマン的な、モラルハザードやウェルフェア・クイーン的な言い方、60~70年代のリベラルな再分配政策、共産主義者と見紛うばかりの、再分配主義者達、少数者重視のアファーマティブな政策が、怠け者をつけあがらせ、フリーライダーを蔓延させ、空洞化させたのであるという、彼のストーリーと合致して。
それが所謂小さな政府、ネオリベという方向性です。これは小泉改革による、竹中平蔵スキームが叩かれますが、失われた10年からボロクソに叩かれ、いつまでも構造が変われずに権益を丸裸にされ続けて来た状態からの帰結ですので、流れとしては彼らだけに責任があるわけではありません。
リベラル勢力も体制内に取り込まれて「俺に分け前をよこせ」的な新しい社会運動であるという事に無自覚であったので、体制の恣意性や裁量を小さくするという事は悪い話ではないと、新しい社会運動を一方で押し進めながら、こういったネオリベ的変化に加担してしまった。
自己責任に放り出すのはよくない事だと批判に勤しむバカリベラルが、頑張れば報われる社会とかほざきますが、頑張れば報われた社会なんて有史以来一度もありません。結果によって相応に報われる社会があっただけです。それにそういうバカは気付きもしないのですが、頑張れば報われる社会というのはようするに、自己責任で何とかする社会と言っているのと同じです。この論理性の無さ。バカなので気付いていないのかもしれませんが、こういう連中が本音の所で言いたいのは、頑張らなくても報われる社会であって、頑張れば報われる社会ではありません。
頑張らなくても報われる社会というのは、理想としては正しい所も含まれているでしょう。もともと生まれや体質等によってあらかじめスタートラインに立てない人もいっぱいいますから、そういう人に手を差し伸べる事は重要です。社会的にはじかれてしまった人に手を差し伸べない社会なんて、あんまり健全とも思えませんし。しかしこの頑張らなくても報われているように見える人々が不当に配分を確保する事によって、その外側に不平等な社会を生み出してしまっているという図式が見えてしまった。手を差し伸べるという事を利用しているのではないかという見方が強まって、所謂サヨ批判が流行するわけです。
頑張らなくても報われる社会というのは、見方を一歩間違うと、何をしても報われないのと同じになってしまいやる気を失いかねない。なんにもしないで構わないというのはある意味人間として否定されているような感覚も生まれてしまいます。
それを上手い事体制に利用されて、頑張らないやつはけしからんと自己責任やネオリベと呼ばれる小さな政府路線へのインチキ改革を後押ししてしまった。結果、本当に手を差し伸べるべき人々まで一緒になって叩いてしまった。自己責任バッシングによって。
目指す方向性としては、金が無いのだから小さくするしか無いし、行政の腐敗堕落の構造はどうしようもありませんので、風通しをスッキリさせる必要はありましたが、これは利用されてそうなったのか、既得権益の抵抗によって骨を抜かれたのかはわかりませんが、責任を民営化してパージし、自己責任によって重罰化で取り締まるという構造に変化しました。利権の構造が変化したわけです。
変えるべき腐敗の構造は新たな構造に新たな権益に対応出来るように変化し、どうでもいいような社会的弱者の権益を取り上げて、自己責任バッシングや重罰化によって取り締まるという構図です。悪いのは国家の裁量というよりも、頑張っていないのに不当に配分を受けている奴らだ!ってな感じで、まんまと乗せられて国家の権益増大に多くの人々が加担してしまった。
つづく!!