前回の続きです。

この国では随分前に事前チェック型の裁量行政から、事後チェック型の一罰百戒の構造に変り、それに伴い利権の構造もシフトしました。護送船団方式と言われた戦後経済復興からバブル崩壊までのモデルが、制度疲労を起こし、腐敗の構造がどうにもならなくなり、事後チェック型の社会に切り替わったわけですが、この背後にあったのは、アメリカからの要求によって身ぐるみを剥がされてしまったという構造があったわけです。

確かにこの国の裁量行政というのは今でも残ってはいますが、腐敗堕落の温床でした。なのでリベラル派なんかもアメリカの要求はアメリカの国益の為であって、日本人の事なんて考えているわけでもないのに、不用意にこの事後チェック型社会を受け入れてしまいました。所謂小さな政府路線です。日本の構造は腐りきっていましたので、まあ今も腐ってますが、この道しか選択肢は無い事は確かでした。しかしその選択肢の選び方が非常に問題だったわけです。

単純に言えば左翼運動なんかでよく出てくるクリシェ的な言い方で、政府の横暴を許すな!!国家権力の抑圧を許すな!!と言った言い方があります。しかしこの言い方も昔だったら、政府が国民の自由を抑圧している。自由を取り戻せ!!自己決定させろ!!と言った感じの運動でした。

しかし最近のこの手の運動というのも切り口が変って来ています。ようするに自己責任によって自由に投げ出された状態の我々を政府が救えという方向性になっている。昔は自由じゃなかったのが問題で、自由をよこせだったのが、最近ですと自由になってしまった事が問題で、規制や不自由によって救えという感じになっている。

確かに自己責任と言って投げ出されている構図というのは非常に不合理な状況を生み出しておりますし、それが本当に自由なのか?と言うと相当恣意的な状態でもあるわけで、問題なのは確かなんですが、こういった国家権力の横暴という言い方ではどうもズレて来ている所があるわけです。だって国家権力に救ってくれと言っているわけですから。

簡単に言うと、自己責任が取れる社会というのは実は非常に難しい社会でもあり、自分で責任が取れるという事がいかに尊いのかという事にも無自覚です。自分の人生が他の何かの要因や、他者の恣意的な介入によって、自分で選択出来なかったり余計な責任まで背負わされてしまう事が世の中には沢山あり得る。

だけどそれはよくない事だと言って取っ払ってしまうと、他社の責任は取りたくないからパージするという、現在の非正規労働者の状況を生み出してしまったりする。この辺のバランスが非常に難しい。

昔だったら、単純に国家を批判していれば、事前チェック型の裁量行政でもありましたから、腐敗の構造はいくらでもありえたし、そこを何とかすればどうにかなるという幻想も抱けた。

しかし実際我々が望んでいた自由な社会というのの答えとして出て来たのが、所謂ネオリベという方向性なわけで、自由のあり方の問題、政府から恣意的な介入をなるべく避け、自由でいる為には何が必要なのか?という事を考えないのなら、昔の状況に戻ってしまい、また国家権力の横暴だと騒いで吹き上がる構造に逆戻りするだけです。自由をよこせと。

この辺のバランス感覚もこの国には無いし、そのバランス感覚を担保するものも無い。その辺が非常に難しいわけです。なんで北朝鮮の問題からこの問題を書きはじめたのかと言いますと、これは事後チェック型社会の有り様を示す典型的な図式が含まれているからです。

今この国の状況は、何か事が起こると、一罰百戒で取り締まり、徹底的に叩くという方向性、ネットが普及したからというのもありますが、企業の不正にしろ政治家の不作為、メディアの不用意な発言等々、些細な所をきれい事によって徹底的に叩く、所謂コンプライアンス不況なんて言い方もあります。

この時に必ず出てくる澎湃の声として、国は何やってんだ!警察は何やってんだ!規制して取り締まれ!道徳教育を強化しろ!重罰化しろ!!隔離しろ!!こういう図式になりがちです。これも自由な状態を放棄して、規制や不自由によって安心安全を担保するという方向性です。

北朝鮮問題でも、国は何やってんだ!経済制裁だ!核武装だ!敵基地攻撃論だ!って感じになり、実際に効果が定かでないものを国民が支持し国家権力の権益が増える(増やそうとする)という構図は全く同じです。

こういう構造は至る所で毎日毎日報じられています。

最近でもイタリアの世界遺産での落書きに吹き上がっているバカが沢山います。確かに落書きするのはよくない事です。しかしお前ら落書きした事ねえのかよ!!って話です。自分だって例えばノートや教科書なんて落書き帳でした。サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に出てくる主人公、ホールデン・コールフィールドじゃあるまいし、落書きくらいでガタガタ言いなさんなって感じです。

自分がガキンチョの頃にも、例えば政治家の選挙のポスターに落書きをするおバカさんは一定の数で必ず存在しました。机の落書き、便所の落書き、なんとか参上的な田舎のヤンキーの落書きから、ちょっとアートかぶれの落書きまで、何の意味も無い、いくらでも似たような落書きは沢山あった。やっちゃダメだという事がわかっていたとしても、落書きが沢山書いてあればついつい書いちゃう人だって沢山いた。

場所が世界遺産だからダメだという事が言いたいのか、外国に行って恥をさらしてくるからダメだと言いたいのか、自分にはよくわかりませんが、そう言う奴がいるから日本人全体がダメなやつだと思うのなら、別にそう思いたいやつには思わせておけばいい事で、当たり前ですがそんないたずらは個人のいたずらで、国全体の事ではない。まともなやつもいるし、不道徳なやつもいる。そんなのはどこの国でも一緒です。

それを国家の問題と直結して、国の教育が劣化しているとか、バカ親を生み出しているとか、道徳教育や歴史的建造物の価値を教育していないからだとか、一蓮托生で全体像を語るのは、どれだけ危険で且つ足りない振る舞いか自覚してほしいもんです。

消せないようないたずらや、例えばそれによって回復不能のダメージを与えてしまうようないたずらであれば、それは行き過ぎでしょうし、個別に罰を与えるなりなんなりすればいい。だけどそれを全体の物語と直結させて国家を呼び出すのは大概にした方がいい。

落書きを規制して、町の中を表面上美しくして、公衆便所も美しくして、政治家のポスターに落書きをするような輩を徹底的に取り締まって、目に見える所のノイズをきれいに取り除き、どういう社会になったのかと言えば、ネット上では便所の落書きのオンパレード。政治家への誹謗中傷は、選挙ポスターにヒゲを書いたりメガネを書いたりするのとは比べ物にならないくらい徹底的にクソミソに書かれる。物理現実世界のノイズがことごとくネット化している。

旅行して日常の束縛から放たれて、世界遺産という大それた場所で落書きしちゃう。非可視化している。年寄りが目の前のノイズを大騒ぎして取り除いたあげく、それが非可視化されているだけです。年寄りの実存を満たす為に理解出来ないからと言って、目の前をきれいにしたからと言っても、こういうノイズの行き着く先がより暴力的により歪に変質している。

いたずらというのは昔からある事です。自分は今でも落書きはさすがにしませんが、人にいたずらをしたりはします。大人なので笑って許してもらえる程度の事しかしませんが、それは楽しいからで、そういう事をやりたいと思う衝動は誰にでもある。子供であれば尚更です。そういったテレビ番組だって沢山ある。

だけどそういう事をイジメだの、傷つけるだの傷つくだのと大騒ぎして取り除いたあげく、イジメは減っているか?自殺する子供は救えているのか?可視化出来ない構造にどんどん潜り込んでいるだけではないのか?

そういう衝動は誰にでもあって、これを抑圧して排除して目の前から取り除いても、その衝動自体は無くなりません。危険が無いようなガス抜きが必要で、そういう場所や行為を取り除いた結果、ガス抜き出来ない衝動が非可視化されて、危険な状態で暴発している構造がある事に気付かないのか?その上ネット規制だの、携帯規制だのまでやろうと企んでいる。それを道徳主義者ぶったアホが拍手喝采している。影響がどういうものになるのか想像してほしいもんです。

そんな個人の行き過ぎたいたずらの問題なんかで、国家権力まで呼び出して大騒ぎするような事か?大メディアが報道番組で取り上げるような事柄か?まわりの大人がゲンコツくれてやればいい事で、国全体で血祭りに上げるような話ではない。

まぁ一般人はそれをネタにして自分のまわりを教育するツールにするのはいいでしょう。勝手にやればいい。だけど道徳主義者ぶった脳味噌カラッポのパブリック・フィギュアがこういう事をエビデンスにして世論を煽るのは大概にしてほしいし、それに乗せられるたわけ者は、人の事はいいから自分の事をやってろよって感じです。

悪い事をしているやつがいるからって、それが国家の恥さらしだとかって話に直結するのは勘弁してほしい。落書きぐらいたいした話じゃねえだろって事です。だいたい国家とはなんなのか知ってんのか?って話です。

まわりの人間がそいつにサンクションを与えればいい事です。そのサンクションが甘かったとしたって、そいつが何かを学ぶ機会を逃したというだけの話で、赤の他人に取ってはどうでもいい事です。自分に直接迷惑が及んだら抗えばいい。落書きなんてどっかのバカの個人的な問題で、日本人全体の問題ではない。何をそんなに大騒ぎしているのか理解出来ません。

そんなエネルギーがあるのなら、もっと恥さらしで国民に直接迷惑をかけている日本人が沢山います。国家権力を牛耳ってやりたい放題に振る舞い、この国の未来を真っ暗闇にしている連中が。

新幹線への落書きまで大騒ぎしています。だいたい500人の足に影響とか騒いでいますが、何で落書きぐらいで運休しなきゃならないのか意味がわからない。確かに問題なのはわかるけれど、そんな事をニュース番組で取り上げる必要があるのか?監視社会の必要性を正当化したいのかもしれませんが、こんな下らない問題を騒ぐ暇があるのなら、もっと報じるべき問題が腐るほどあるのに、バカバカしくて話になりません。

昨日のニュースにもありましたが、タクシー規制強化なんて話がポッと出てくる。タクシーの運ちゃんの安い賃金、苦しい現状などが語られたりしますので、弱者救済、格差是正という意味で言えば、一見悪い事ではないような気がします。規制緩和の行き過ぎを是正しようと言うわけです。しかしこれは気をつけなければなりません。国交省の新たな利権の創出である可能性もあります。道路を思うように作れない時代を見越しての。

何でもかんでも規制をしろという方向に簡単に流れて行く。こういった規制を取っ払うのに非常にこの国は苦しんだわけです。それが硬直化を生み出口の無い状況を生み出して来た。こういった裁量行政を強化するという事は必ずそこは権益になります。権益は腐敗を生み出す。

本来規制緩和によって切り込まねばならなかった構造というのは、本来であればタクシーの会社の自由化なんてのはどうでもいいと言っちゃなんですが、あんまり重要な話ではありません。タクシーの運ちゃんを流動化にさらしたってたいした消費者の利便性も無い。

しかし規制緩和して市場化するべき所や、裁量をルール主義に変えるべき点は、もっと重要なものがあります。そういった本来の意味で言う既得権益には全く切り込む様子も見せず、ただ弱者を流動化にさらしたのが、この国の構造改革なる代物でした。

だから規制強化ではなくて、恣意的な裁量によって腐った構造を危険がないように吟味してさらに規制を緩和する事の方が重要なのに、タクシーの運ちゃんの叫びに同調して、結局、規制緩和は格差を生み、弱者に優しくないという事で国の規制強化を許してしまうという構図、居酒屋タクシーの話なんかが出て来て怪しいなと思っていたら、国が介入しないからこういう事になるとでも言いたいのか、結局本来規制を緩和して流動化させないと国が疲弊するような構造は放置したまま、元の規制強化の利権バリバリの国家像、官僚の支配する国家像へと後戻りしてしまう。そこに後戻りしても希望が無いとわかっているのに。

例えば大手メディアのような我々が物価で負担する事によって得られる莫大な広告費を独占しバリバリの談合癒着体質の構造には全く手付かずのまま、格差是正という美名のもとに規制強化の方向性に進んでしまう。当たり前ですが今苦しんでいるタクシーの運ちゃんがこれによってすぐに救われるという事は有り得ません。問題はタクシーの運ちゃん以外に食う方法が無い状態がどうにもならないわけで、流動化を進めるのなら、本来そういう部分を考えなければならない。

規制に縛られた社会に戻ってしまえば、景気がよくなるなんて事も有り得ませんので、結局それじゃタクシーの運ちゃんの苦しみを救う事なんて出来やしない。役人の権益が増えて国の借金が更に膨らむだけです。

何かっつうと統治権力を呼び出し、規制や介入によって何とかしてくれという方向性に向かってしまう。それが自由を差し出しているという事にあまりにも無自覚です。こんな借金まみれの国にして、国民の金をネコババしているような統治権力を何を根拠に信用するのかが理解出来ません。だからと言って、国家権力以外に呼び出すものが無い。国民の連帯も無いし、宗教的良心も無い、

これには欧米にあってこの国には無い、市民社会によって公を担う構造が無い、国家権力がそこを牛耳っているという状況で何も危険に感じていない国民性に大きな問題があります。そういう伝統も無いし、そういうものを構築しないと近代化出来ないという発想も無い。

明治維新の際、近代化する為に西洋流のシステムを導入するわけですが、これは市民が抑圧から勝ち取ったわけでも何でも無くて、不平等条約の改正が第一の目標でした。だからお上に依存する体質は江戸時代から何も変わっちゃいない。かつての武家社会のようにノーブレスオブリージュを持ったお上が今存在するかと言えば、そんなやつは皆無なわけで、いかに責任を回避し、俗情に媚びて権益を確保するかというクズばかり。こんな連中に依存していたって上手く行くわけが無い。

近代社会に舵を切って、市民の権利を手にしても、市民社会を営む為に必要なメンタリティを市民が持たなければ近代社会は駆動するわけがありません。

この国ではヨーロッパの階級的伝統に基づいたサンディカリズムの連帯も無いし、アメリカの宗教的良心による連帯も無い。公を市民が担う市民性が無い。そこを官が担保している。これは政府のインチキNPO法による所もあります。これによって分厚い市民によるパブリックセクターの構築を妨げ、お上に依存するメンタリティから脱却させなければ、政府の権益は減りません。

国家の為に国民が存在するわけでも社会が存在するわけでもありません。少なくとも立憲主義や民主主義というのは国民が生活する社会の為に国家があるわけです。国家というのは手段であって目的ではない。

90年代以降、ヨーロッパでは特に、国家の介入は最小限にして社会に任せておくと、グローバライゼーションによって社会は包摂性を失い人々は脱社会化してしまうという危機が叫ばれるようになります。しかし福祉国家のようなモデルというのは依存体質を生み出してしまったりしますし、国民の負担も大きいし、政府も大きくなければ出来ません。そういう余裕のある国はいいかもしれませんが、冷戦体制も終わっているので、東側に対抗して無理矢理福祉国家でいる必要も無いという事もあり、社会が社会らしく国家から自立する為に国家が支援するという、社会投資国家の概念が広がります。教育等によって人々を社会化し国家に依存しないで済むように、個人に支援するのではなくて、地域性を空洞化させないように社会の包摂性を維持する為に投資するという感じです。

こういう発想がこの国では微塵も無い。いかに市民を自立させずに社会化させずに分断し、社会の包摂性をぶち壊し、クレクレ主義的鍔迫り合いによって選挙の動員に利用し、利権の創出に利用しようという発想しか無い。これには大手メディアも教育も加担しています。感情を煽り、憲法を無視し、自己責任によって放置し、重罰化で取り締まり、国民の感情に寄り添う形で利権に邁進する。借金はいっこうに減らず未来は真っ暗闇。事ここに至ってもいまだに何も変わらないし、国民も何も気付かない。

つづく!!