他のブログでコメントをした所、お竜様というブロガーの方から自分に質問を頂きました。他のブログのコメント欄を汚すのもご迷惑ですので、今日はその質問に答えるエントリーです。
何しろ当ブログの定番ネタ、死刑制度についてです。このネタは散々書いて来たので、読者の方々は飽きていると思います。またかよ!!と言うそこの貴方、すんましぇん。興味の無い方々はスルーでお願いします。
自分も若干飽きているのですが、またしても今日はそのネタで書きます。って最近、質問が多いような気がするのですが、それはそれでネタになりますので助かります。
ご質問の中身はいくつかあって、被害者遺族の気持ちをどう考えるのだ?自分がその立場だったらという事を考えないのか?という事。
今の国家に死刑を任せるという事が信じられないのなら、どういう国家像であれば信じられるというのか?
以上のご質問です。この話は単純な話ではないので若干長くなります。このブログはクソ長いのがいつもの事なのですが、初めての方にはちょっと抵抗があるかもしれません。それはご容赦を。なんか何度も書いているような気がするのですが、気にせずおっぱじめます。
とりあえず最初にリンクを貼っておきます。自分はこの問題についてこれでもかというほど書いておりますので、本日のエントリーを全部読まれて納得がいかなかったり、もしくは興味があったりして、お時間があれば是非ご覧下さい。
言論の自由問題の中で、死刑制度の問題点について触れております。尚このネタは続き物ですので、お時間があればその後もお読み頂けると自分の立ち位置が書いてあり殆どこのネタで集約されていると思います。まあクソ長いので、そんな暇は無いとは思いますが、興味があれば。
秋葉原の事件と精神病について書いたネタですが、光市事件についても書いてあります。
死刑制度について書いたネタです。
死刑制度2
裁判員制度ネタ
裁判員制度2
橋下弁護士VS光市弁護団
橋下弁護士VS光市弁護団2
光市弁護団、安田弁護士の主張
安田弁護士2
安田弁護士3(オウム事件にも触れております)
安田弁護士4
さて本題に入ります。
まず、お竜様は犯罪被害者の遺族の方でしょうか?そうであるのなら、お気持ちを理解するなんていい方は不遜ですが、お察しします。凶悪な犯罪に対するお怒りもごもっともかもしれません。
しかしそうでないのなら、制度が適正かどうかを考えて下さい。
自分の家族がもし・・・というお話ですが、それは当たり前ですが怒ります。場合によっては報復してしまうかもしれません。
しかしこれは制度の問題です。感情論と司法の法の執行は別の話です。自分は遺族ではない。それを言っていいのは遺族だけではないかと思います。自分ごとき赤の他人が知ったような顔は出来ません。気持ちがわかるなんて言いたくないし、所詮想像しか出来ない。想像するだけでも気が狂いそうな気持ちになりますので、さぞ辛く苦しいのでしょう。そんな事は多分文字化出来ないような気持ちだと思います。だけど自分は当事者じゃない。しかも自分は司法関係者でもメディア関係者でも警察関係者でもありませんから、本当の真意はわからない。わからないし、当事者じゃないのだから、自分がとやかく言うべき事ではない。言える事は適正手続きをキチンと踏んで法の執行をして罰を与えてもらいたいと思うわけです。
それにこういう事件を見て被害者遺族に対して可哀想だと思うのは、当たり前と言えば当たり前です。誰でもそう思うでしょう。むしろそう思わない人の方が少ない。ですからわざわざそんな事を表明する必要はないと考えます。そんなのは当たり前の前提での話です。
自分は何も、罰を与えるなとは言ってません。罰を与えるのはいいと思いますが、ポピュリズムに走ったり、ましてや政治家や官僚の利権として死刑制度を利用している状況で、死刑をこの国の統治権力に任せている状態は危ないんじゃないですか?と書いただけです。当然そうであるのなら終身刑も考えなければならないでしょうし、少なくとも現状の無期懲役では甘すぎる場合もあるでしょう。
死刑を廃止している国で凶悪犯罪が起こったとき、そういう国の方々が怒りを感じないかと言えば、当たり前ですが感じるに決まってます。だけど法の問題と感情の問題のスプリッティングが出来ているわけです。これは民度の成熟に関わっています。リテラシーやシチズンシップ、分厚いパブリックセクターの市民による構築、ソシアライゼーションにも絡んできます。この国のお任せ民主主義、国家に依存する体質、あらゆる弊害が市民性の欠如にあります。いざとなれば国が何とかしてくれる、悪い奴は死刑にすればいい、重罰化して取り締まればいい、この民度の低さ、これでは市民性なんて芽生えない。それに犯罪被害者家族も救えない、犯罪を犯してしまうような人間をより増やす、疑心暗鬼の社会を加速させるだけです。
もともと民主主義とか立憲主義というのは統治権力は信用出来ないという事が前提になっています。国家を信用するなという事です。絶えず疑わなきゃならない。我々が牽制出来るのなら、こんなどうしようもない国になっていません。牽制の手段が殆ど無いし、情報の開示もされない。この恣意性や裁量に大きな問題点があると思います。それと国民の論理性の無さ。情緒的にベタベタと甘え依存する。帰結として国家全体でどう考えても論理性がない状態が腐るほどあるのに中々変われない。
逆を言えば感情の問題と論理の問題を峻別出来ないという状態は、非常に危険でもあります。ちょっと感情を煽れば簡単に国民を動員出来るからです。歴史を振り返れば枚挙に暇がありません。わざわざ書くまでもないでしょう。
よくそういう事を言っていると反日分子だとかほざく人がいます。まあ一般の人なら言いたきゃ言ってりゃいいと思います。国家という下駄を履く事によって脆弱な依存心が満たされるのなら好きにすればいい。
しかし、例えば自民党の政治家にもこういうたわけた事を言う奴がいました。こういうのを売国奴と言います。こういう奸族を真っ先にぶっ殺すのが、真の愛国者であり、こういうクズのケツを舐める奴は愛国者でも何でも無い奴隷と言います。愛国者とは統治権力のケツを舐める事じゃありません。統治権力と刺し違えても、自分の同胞や郷土の為に戦うのが愛国者ってもんです。統治権力を愛する事ではない。
自分は愛国者ではないかもしれませんが、少なくとも奴隷にはなりたくない。統治権力の好き勝手にしてもらっては困ると考えます。この国の現状は制度を可視化しチェックに開かれた状態とは言えません。国民の金をネコババしている国ですからね。
アメリカがなぜ銃社会なのか?日本ではその野蛮性ばかりが強調されます。確かにそれによって多くの悲劇を生み出している。ライフル協会のような団体の問題もあります。しかしなぜ彼らが武装権を手放さないのかと言うと、いざと言う時には、統治権力に抗う為に丸裸では民族の記憶として危険だと考えているからです。
近代というのは革命権とセットになっていなければ駆動しません。ジョン・ロックが言ったように、統治権力を牽制し、緊張感を持たせるため、我々の生活を脅かすのなら国民は統治権力に抗う必要があるのです。これは権利ですが半ば義務だとも言える。
なのでそもそも近代をドライブさせるという事は、いざとなれば統治権力をぶっ壊してでも自由を守るのだという発想があらかじめセットになっているのです。信用するとかしないとかの問題じゃない。これが無いと民主主義も立憲主義も機能しないのです。日本でそれが出来ると想像出来ますか?
例えばヨーロッパ、特にフランスなんかそうですが、サンディカリズムの階級的伝統によって、普段は政治になんて興味を示さない国民が結構いるのですが、いざとなったらデモ、スト、暴動によって速攻意見を表明します。国民の不幸せにつながるような行動を統治権力がとった場合は許さないという事です。その代わりちょっと大統領に愛人がいようが、たいして気にしない。
韓国ですらちょっと不満があるとすぐに暴発します。よく警官隊と市民がやり合ってますよね。日本ではそういう事が外国で起こっていると野蛮であると言ったような風潮で報道されますが、お門違いのコンコンチキなのです。ちょっと前に長野での聖火リレーの時のバカマスコミの報道あれが日本の本質です。そして結構なボリュームで平和の祭典なのにどうのこうのって話に落ちている。チベットの方々の問題はわかるけれど、何もあんなにしなくても、みたいな感じで。吐き気がする。
日本はちょっと発言をしくじったとか、どうでもいいような事は大騒ぎします。潔癖主義的に。これはアメリカもそうなんですが、だから統治権力を信用していないのかというと、まず抗う術が無い。連帯も無い。お任せで依存していればどうにかなるという発想です。今、世界各国、食料や燃料価格の上昇が深刻です。国民生活を直撃していれば、国家が自由に開かれていればいるほど、国民が怒りを表明しています。日本のように行動を起こさず愚痴を言っていても何も変わらない。
どこの国でも愛国心というのは教えます。アメリカなんて凄い教え方ですが、それは国家権力を愛せという事ではありません。愛国者であれば革命も辞さずというのが根底にあるのです。統治権力が国民益の為に振る舞っているのなら、統治権力も支持するという事です。日本のように国民生活を滅茶苦茶にしているのに、国家権力を愛せなんてことを言う売国政治家がいたら、速攻暴動が起こります
これは自由を勝ち取ったという物語があるか?与えられた自由か?この差は決定的です。悲劇を語り継いでいる、勝ち取っても悲劇は発生する。絶えず牽制していないと危険であると言う物語があるわけです。
日本はまず投票率の時点で低過ぎます。これじゃ牽制もクソも無い。デモとかストとか言う前に、せめてもうちょっとコミットメントが無いと話にならないのです。コミットメントを示すと、クレクレ主義的鍔迫り合いになってしまう。国民同士が分断統治で簡単に引っかかっている。やれやれです。
これとセットになるのがマキャベリからマックス・ウェーバー、カール・シュミットなどの流れで言う国家像なのですが、今日はその辺の話をすると面倒くさいので、とりあえず今日は脇においておきます。
犯罪を犯した人はいずれ法律で裁かれ、メディアに叩かれ、国民に叩かれるわけです。別に自分が加担しなくとも十分痛めつけられるでしょう。しかし統治権力者達はそう簡単にはパクられませんし、コイツらのいい加減な舵取りによっては、人が一人死ぬとかって問題ではない。大勢の人が痛みを感じるわけです。万単位の人が苦しむ事になる。しかもそれをコントロールしている奴らは何一つ責任を取らない。
この国は自殺者が3万人を越えております。それって生き難いと感じている人がそれだけ沢山いるという事です。これは誰に責任があるのでしょう?もちろんその個人にも責任はありますし、まわりの責任もあるでしょうが、それと同時に国家の無能さゆえの帰結でもあるのではないでしょうか?3万人と言ったら虐殺です。
犯罪者に対して、第三者とは言え自分も怒りは感じますよ当然。だけどその事と法の執行は別問題であり、適正手続きに基づいて法の執行による制裁をしてもらいたいと思うだけです。それを国家が無視して適正手続きをすっ飛ばして罰を与えてしまえば、我々が国家をコントロールしているという近代の本義本懐が損なわれてしまう。勝手に犯罪者が凶悪だからという事で、法を恣意的に解釈して死刑にするような権利を許してしまえば、国家が暴走している事と同じです。
適正手続きを踏んだ判決が、どうしても納得がいかなければ捕まるのを覚悟で報復するしかありません。しかし当事者でもなければそんな事は出来っこ無い。という事は統治権力に報復の肩代わりをしてもらうしか方法が無いわけです。統治権力を呼び出すという事は、もう感情論でどうこう言える次元ではないのです。感情論によって正当性を得るのではありません。ルールが正当性を担保するのです。それが近代裁判の原理原則です。
だけど日本の今の状況がそうなっていますか?巨大な恣意的な裁量を抱え、それに伴う権益によって腐敗だらけです。ルールも恣意的に適応したりしなかったりと全然ルール主義でも何でも無い。
疑わしきは被告人の利益に、推定無罪原則、こういったルールを日本は守っているでしょうか?デュープロセス・オブ・ロウを守っているでしょうか?これは近代裁判及び法治国家としての大前提です。それが無い状態では危険であると言いたいだけです。他にも弁護士立ち会いがありますか?取り調べのビデオ撮影がありますか?勾留期間の長さは?書くときりがないので止めますが、そういう事を全部抜きにしても、裁判とはなんであるのか?この一点で話は終わりなのです。
裁判とは犯罪者を裁く場でも、正義を行なう場でも、真実の究明でもありません。適正手続きに基づいた法の執行それだけを問うている場です。裁いているのは被告ではない。原告つまり刑事裁判の場合、国家の求刑を吟味する場です。結果的に裁かれる事があると言うだけの話です。
制度の問題はわきにおいても、この国の談合メディアの報道が信じられるでしょうか?感情を煽られて当事者でもない裁判制度が何たるかも知らない多くの人々が、殺せ!死刑にしろ!と吹き上がっています。これを吸い上げて断固決然と正義の執行だと政治家が対処する。司法がそれに媚びる。バランス感覚の全くないメディアが感情をくすぐるような恣意的な報道をして国民を煽る。
なんかいつぞやの光景と似てないでしょうか?
一連の事件の事を知れとおっしゃりますが、お竜様は司法関係者の方ですか?警察関係の方ですか?何らかのリーク情報をご存知なのでしょうか?
メディアや書籍に出てくる話を知っているというのなら、多分自分も知っております。しかしこんなものは所詮誰かが言っている事を聞いているだけ。司法というのは真実の追究ではありません。裁判官がもっともらしいと思える事を主観的に判断するわけです。この世に客観という状態は有り得ない。誰かが客観的だと主観的に判断しているに過ぎない。
そして、この国では、あるべき姿と言うか近代国家の当たり前の前提条件すら満たしておりません。我が国が立憲国家と言えるでしょうか?
近代国家というのは立憲、人権、民主という順番で、主にこの三つが大前提になっています。立憲というのは国民が国家をコントロールしているという事。憲法というのは我々が統治権力に向かって命令しているわけで、それが何より第一です。憲法を国家が遵守していますでしょうか?次に人権です。これは政治からの自由。最後に民主、政治への自由です。これも書き出すとキリが無いので、人権や民主なんてのは別にわきにおいて、まず近代国家を走らせる上での大前提のいの一番、立憲主義を守っていると言えるでしょうか?これが出来ないという事はそれ以外の何を語っても無駄です。
何しろチェック機能が働かない。弁護士がその役割を担うはずなのに、弁護士の言い分は恣意的に編集して、国民までもがメッタクソに叩く。チェックの働かない状況で、実際に統治権力の腐敗堕落がこれほど吹き出している状況で、人を殺してしまうという回復不能の罰を持たせておく事に危険性を感じませんか?個別のケースで云々という話ではありませんよ。全体のアーキテクチャの話をしております。局所的に見ればコイツはどう考えても死刑だという人もいるかも知れませんが、制度というのは恣意的であってはマズいわけです。
最近、長崎市長銃撃事件の容疑者へ死刑判決が下りました。確かにコイツの行いは許せないと思うのはわかりますが、判決ではこれをテロ行為で民主主義への挑戦という事で、普段では考えられないような重罰化で対処しているわけです。じゃあ民主主義を裏切るような行動を政治家がとった場合死刑になるか?と言えば死刑どころか逮捕もされない事が殆どです。それにこの問題は行政と暴力団関係者の癒着の構造があって、おこぼれを回してもらえなくなった状態に対して行なっている行為ではないか?という疑いがあるわけです。分け前をよこせ!という話であり、民主主義への挑戦でも何でも無く、結果的にそう見ればそう見えるというだけの話のように見える。真に追求しなきゃならないのはそういう行政の腐敗の構造であり、死刑にして解決という話ではない。
これがこの国の「ある状態」です。当たり前ですが「あるべき状態」というのは近代国家として足りないこれらの事を獲得して行く必要があるという事です。死刑制度というのは確かに存置、存知、廃止、停止、いろいろと立場があるでしょう。しかしそこは市民性を獲得する為には重要なフックとなり得る。学びにつながる可能性がある。逆に市民性を獲得出来ればこんな問題は一挙に片がつきます。
それが残虐な行為であり、死に値するというのは気持ちはわかりますが、死刑廃止論じゃが言うように人道的な観点でどうこうって話ではなくて、今の状態で決断主義的に何かを決めるのなら、殺せではなくて、殺すな、の方が多分合理的なのではないかと思うだけです。
死刑に値する罪を背負った加害者を死刑にするとして、誰がそれを行なえると思うのでしょうか?統治権力であるのなら、なぜ彼らを信用出来るのでしょうか?これが担保されているのなら、死刑が必要だという言い分は同意は出来なくとも理解出来ますと言っているだけなのです。
死刑の合理性の問題、賛成か反対かはその先の話で、まだそう言う事をどうこう言えるようなレベルでは無いのではないか?と思ってしまうのです。犠牲者の方々、遺族の方々の痛みは辛いと思いますが、国家全体の問題を感情論に囚われて決定するわけには行きません。それがもっとより大きな悲劇を生み出すからです。その事は前大戦で痛い目に合っているはずです。
あれだけの悲劇を経験したというのに、まだこの国は学ぶどころか、グズグズとメソメソとしているだけです。もしくは悪かったんだとか悪くない日本はいい事もしたんだとか、どちらにしろ断固決然バカばかり。
悲劇を悲しむのはいいでしょう。だけど本当に悲劇だと感じるなら、どうすればそれを回避出来るのかが一番重要で、メソメソする事ではない。
悪かったか悪くなかったかなんていうくだらない二元論でやり合っているたわけが沢山おりますが、こんなのはどっちも同じ事を言っているに過ぎません。要するに無駄です。何の役にも立たない。やりたきゃ死ぬまで勝手にやってりゃいいでしょうけれど、こんなものは分断統治に引っかかっているだけです。
少なくとも統治権力は悲劇でメソメソしたり、二元論で無駄な時間を費やしている状態であっては国が回りません。国民がおとなしいのをいい事に権益を貪っているようじゃどうしようもない。自分はただそういう事を言っているだけなのです。
被害者遺族を救うには、我々に出来る事は罰を与える事ではなく、社会的に包摂され、辛い過去を引きずっていても生きて行ける、まわりが支えていける環境を整えてあげる事ではないでしょうか。知ったような顔をして殺せと吹き上がる事ではないと思います。罰は国家に任せるしかない。我々には出来ない。出来る事は厳正な裁判を望み、適正手続きに基づいた法の執行を監視するだけです。
それで判決が必ずしも遺族が満足する事ではないかもしれません。しかし国民に出来る事は遺族が社会的になんとか生きて行けるようなコミットメントを示すしか無い。殺せと吹き上がってすぐに忘れるのが圧倒的なマジョリティですが、遺族は死ぬまでその苦しみを抱えて行くわけですから。そしてそういう包摂こそが、我々に出来るレベルで考えると、犯罪を生み出すような疎外に対しても効果があるのではないかと思うのです。
自分が言いたいのはこういう前提話を知ったり聞いたり出来る環境が容易にあって、それで死刑賛成8割というのなら納得は出来ないけれどしょうがないと思う。しかし今の死刑8割が賛成というのは明らかに情報操作によってコントロールされた結果です。同じ歴史を繰り返さない為にも危険を感じてしまうのです。
このコントロールされた状態で、死刑に疑義を唱えると血祭りに上げられてしまう環境というのは、完全に翼賛体制です。KYなんて言葉を大の大人が使っているだけでもヘドが出る。自分はそんなのはゴメンだと思っているだけです。
賛成反対でわかれる話というのはどんな話でも、必ずマジョリティが持つ暴力性、分断統治によるコントロールが発生しています。死刑賛成というのは自由ですが、死刑反対というのも自由です。気に食わなくても意見の違いを認めあうのが我々の社会です。多様性は不安や恐れを感じます。だから排除につながる。だけどそれは国民にとって百害あって一利無しです。純粋主義的な統合がどれだけ多くの悲劇を生み出したのが?多様性の無い生物の末路は淘汰です。文明の末路も衰退です。
死刑制度の質問への返答をつらつらと書いてみました
何しろ当ブログの定番ネタ、死刑制度についてです。このネタは散々書いて来たので、読者の方々は飽きていると思います。またかよ!!と言うそこの貴方、すんましぇん。興味の無い方々はスルーでお願いします。
自分も若干飽きているのですが、またしても今日はそのネタで書きます。って最近、質問が多いような気がするのですが、それはそれでネタになりますので助かります。
ご質問の中身はいくつかあって、被害者遺族の気持ちをどう考えるのだ?自分がその立場だったらという事を考えないのか?という事。
今の国家に死刑を任せるという事が信じられないのなら、どういう国家像であれば信じられるというのか?
以上のご質問です。この話は単純な話ではないので若干長くなります。このブログはクソ長いのがいつもの事なのですが、初めての方にはちょっと抵抗があるかもしれません。それはご容赦を。なんか何度も書いているような気がするのですが、気にせずおっぱじめます。
とりあえず最初にリンクを貼っておきます。自分はこの問題についてこれでもかというほど書いておりますので、本日のエントリーを全部読まれて納得がいかなかったり、もしくは興味があったりして、お時間があれば是非ご覧下さい。
言論の自由問題の中で、死刑制度の問題点について触れております。尚このネタは続き物ですので、お時間があればその後もお読み頂けると自分の立ち位置が書いてあり殆どこのネタで集約されていると思います。まあクソ長いので、そんな暇は無いとは思いますが、興味があれば。
秋葉原の事件と精神病について書いたネタですが、光市事件についても書いてあります。
死刑制度について書いたネタです。
死刑制度2
裁判員制度ネタ
裁判員制度2
橋下弁護士VS光市弁護団
橋下弁護士VS光市弁護団2
光市弁護団、安田弁護士の主張
安田弁護士2
安田弁護士3(オウム事件にも触れております)
安田弁護士4
さて本題に入ります。
まず、お竜様は犯罪被害者の遺族の方でしょうか?そうであるのなら、お気持ちを理解するなんていい方は不遜ですが、お察しします。凶悪な犯罪に対するお怒りもごもっともかもしれません。
しかしそうでないのなら、制度が適正かどうかを考えて下さい。
自分の家族がもし・・・というお話ですが、それは当たり前ですが怒ります。場合によっては報復してしまうかもしれません。
しかしこれは制度の問題です。感情論と司法の法の執行は別の話です。自分は遺族ではない。それを言っていいのは遺族だけではないかと思います。自分ごとき赤の他人が知ったような顔は出来ません。気持ちがわかるなんて言いたくないし、所詮想像しか出来ない。想像するだけでも気が狂いそうな気持ちになりますので、さぞ辛く苦しいのでしょう。そんな事は多分文字化出来ないような気持ちだと思います。だけど自分は当事者じゃない。しかも自分は司法関係者でもメディア関係者でも警察関係者でもありませんから、本当の真意はわからない。わからないし、当事者じゃないのだから、自分がとやかく言うべき事ではない。言える事は適正手続きをキチンと踏んで法の執行をして罰を与えてもらいたいと思うわけです。
それにこういう事件を見て被害者遺族に対して可哀想だと思うのは、当たり前と言えば当たり前です。誰でもそう思うでしょう。むしろそう思わない人の方が少ない。ですからわざわざそんな事を表明する必要はないと考えます。そんなのは当たり前の前提での話です。
自分は何も、罰を与えるなとは言ってません。罰を与えるのはいいと思いますが、ポピュリズムに走ったり、ましてや政治家や官僚の利権として死刑制度を利用している状況で、死刑をこの国の統治権力に任せている状態は危ないんじゃないですか?と書いただけです。当然そうであるのなら終身刑も考えなければならないでしょうし、少なくとも現状の無期懲役では甘すぎる場合もあるでしょう。
死刑を廃止している国で凶悪犯罪が起こったとき、そういう国の方々が怒りを感じないかと言えば、当たり前ですが感じるに決まってます。だけど法の問題と感情の問題のスプリッティングが出来ているわけです。これは民度の成熟に関わっています。リテラシーやシチズンシップ、分厚いパブリックセクターの市民による構築、ソシアライゼーションにも絡んできます。この国のお任せ民主主義、国家に依存する体質、あらゆる弊害が市民性の欠如にあります。いざとなれば国が何とかしてくれる、悪い奴は死刑にすればいい、重罰化して取り締まればいい、この民度の低さ、これでは市民性なんて芽生えない。それに犯罪被害者家族も救えない、犯罪を犯してしまうような人間をより増やす、疑心暗鬼の社会を加速させるだけです。
もともと民主主義とか立憲主義というのは統治権力は信用出来ないという事が前提になっています。国家を信用するなという事です。絶えず疑わなきゃならない。我々が牽制出来るのなら、こんなどうしようもない国になっていません。牽制の手段が殆ど無いし、情報の開示もされない。この恣意性や裁量に大きな問題点があると思います。それと国民の論理性の無さ。情緒的にベタベタと甘え依存する。帰結として国家全体でどう考えても論理性がない状態が腐るほどあるのに中々変われない。
逆を言えば感情の問題と論理の問題を峻別出来ないという状態は、非常に危険でもあります。ちょっと感情を煽れば簡単に国民を動員出来るからです。歴史を振り返れば枚挙に暇がありません。わざわざ書くまでもないでしょう。
よくそういう事を言っていると反日分子だとかほざく人がいます。まあ一般の人なら言いたきゃ言ってりゃいいと思います。国家という下駄を履く事によって脆弱な依存心が満たされるのなら好きにすればいい。
しかし、例えば自民党の政治家にもこういうたわけた事を言う奴がいました。こういうのを売国奴と言います。こういう奸族を真っ先にぶっ殺すのが、真の愛国者であり、こういうクズのケツを舐める奴は愛国者でも何でも無い奴隷と言います。愛国者とは統治権力のケツを舐める事じゃありません。統治権力と刺し違えても、自分の同胞や郷土の為に戦うのが愛国者ってもんです。統治権力を愛する事ではない。
自分は愛国者ではないかもしれませんが、少なくとも奴隷にはなりたくない。統治権力の好き勝手にしてもらっては困ると考えます。この国の現状は制度を可視化しチェックに開かれた状態とは言えません。国民の金をネコババしている国ですからね。
アメリカがなぜ銃社会なのか?日本ではその野蛮性ばかりが強調されます。確かにそれによって多くの悲劇を生み出している。ライフル協会のような団体の問題もあります。しかしなぜ彼らが武装権を手放さないのかと言うと、いざと言う時には、統治権力に抗う為に丸裸では民族の記憶として危険だと考えているからです。
近代というのは革命権とセットになっていなければ駆動しません。ジョン・ロックが言ったように、統治権力を牽制し、緊張感を持たせるため、我々の生活を脅かすのなら国民は統治権力に抗う必要があるのです。これは権利ですが半ば義務だとも言える。
なのでそもそも近代をドライブさせるという事は、いざとなれば統治権力をぶっ壊してでも自由を守るのだという発想があらかじめセットになっているのです。信用するとかしないとかの問題じゃない。これが無いと民主主義も立憲主義も機能しないのです。日本でそれが出来ると想像出来ますか?
例えばヨーロッパ、特にフランスなんかそうですが、サンディカリズムの階級的伝統によって、普段は政治になんて興味を示さない国民が結構いるのですが、いざとなったらデモ、スト、暴動によって速攻意見を表明します。国民の不幸せにつながるような行動を統治権力がとった場合は許さないという事です。その代わりちょっと大統領に愛人がいようが、たいして気にしない。
韓国ですらちょっと不満があるとすぐに暴発します。よく警官隊と市民がやり合ってますよね。日本ではそういう事が外国で起こっていると野蛮であると言ったような風潮で報道されますが、お門違いのコンコンチキなのです。ちょっと前に長野での聖火リレーの時のバカマスコミの報道あれが日本の本質です。そして結構なボリュームで平和の祭典なのにどうのこうのって話に落ちている。チベットの方々の問題はわかるけれど、何もあんなにしなくても、みたいな感じで。吐き気がする。
日本はちょっと発言をしくじったとか、どうでもいいような事は大騒ぎします。潔癖主義的に。これはアメリカもそうなんですが、だから統治権力を信用していないのかというと、まず抗う術が無い。連帯も無い。お任せで依存していればどうにかなるという発想です。今、世界各国、食料や燃料価格の上昇が深刻です。国民生活を直撃していれば、国家が自由に開かれていればいるほど、国民が怒りを表明しています。日本のように行動を起こさず愚痴を言っていても何も変わらない。
どこの国でも愛国心というのは教えます。アメリカなんて凄い教え方ですが、それは国家権力を愛せという事ではありません。愛国者であれば革命も辞さずというのが根底にあるのです。統治権力が国民益の為に振る舞っているのなら、統治権力も支持するという事です。日本のように国民生活を滅茶苦茶にしているのに、国家権力を愛せなんてことを言う売国政治家がいたら、速攻暴動が起こります
これは自由を勝ち取ったという物語があるか?与えられた自由か?この差は決定的です。悲劇を語り継いでいる、勝ち取っても悲劇は発生する。絶えず牽制していないと危険であると言う物語があるわけです。
日本はまず投票率の時点で低過ぎます。これじゃ牽制もクソも無い。デモとかストとか言う前に、せめてもうちょっとコミットメントが無いと話にならないのです。コミットメントを示すと、クレクレ主義的鍔迫り合いになってしまう。国民同士が分断統治で簡単に引っかかっている。やれやれです。
これとセットになるのがマキャベリからマックス・ウェーバー、カール・シュミットなどの流れで言う国家像なのですが、今日はその辺の話をすると面倒くさいので、とりあえず今日は脇においておきます。
犯罪を犯した人はいずれ法律で裁かれ、メディアに叩かれ、国民に叩かれるわけです。別に自分が加担しなくとも十分痛めつけられるでしょう。しかし統治権力者達はそう簡単にはパクられませんし、コイツらのいい加減な舵取りによっては、人が一人死ぬとかって問題ではない。大勢の人が痛みを感じるわけです。万単位の人が苦しむ事になる。しかもそれをコントロールしている奴らは何一つ責任を取らない。
この国は自殺者が3万人を越えております。それって生き難いと感じている人がそれだけ沢山いるという事です。これは誰に責任があるのでしょう?もちろんその個人にも責任はありますし、まわりの責任もあるでしょうが、それと同時に国家の無能さゆえの帰結でもあるのではないでしょうか?3万人と言ったら虐殺です。
犯罪者に対して、第三者とは言え自分も怒りは感じますよ当然。だけどその事と法の執行は別問題であり、適正手続きに基づいて法の執行による制裁をしてもらいたいと思うだけです。それを国家が無視して適正手続きをすっ飛ばして罰を与えてしまえば、我々が国家をコントロールしているという近代の本義本懐が損なわれてしまう。勝手に犯罪者が凶悪だからという事で、法を恣意的に解釈して死刑にするような権利を許してしまえば、国家が暴走している事と同じです。
適正手続きを踏んだ判決が、どうしても納得がいかなければ捕まるのを覚悟で報復するしかありません。しかし当事者でもなければそんな事は出来っこ無い。という事は統治権力に報復の肩代わりをしてもらうしか方法が無いわけです。統治権力を呼び出すという事は、もう感情論でどうこう言える次元ではないのです。感情論によって正当性を得るのではありません。ルールが正当性を担保するのです。それが近代裁判の原理原則です。
だけど日本の今の状況がそうなっていますか?巨大な恣意的な裁量を抱え、それに伴う権益によって腐敗だらけです。ルールも恣意的に適応したりしなかったりと全然ルール主義でも何でも無い。
疑わしきは被告人の利益に、推定無罪原則、こういったルールを日本は守っているでしょうか?デュープロセス・オブ・ロウを守っているでしょうか?これは近代裁判及び法治国家としての大前提です。それが無い状態では危険であると言いたいだけです。他にも弁護士立ち会いがありますか?取り調べのビデオ撮影がありますか?勾留期間の長さは?書くときりがないので止めますが、そういう事を全部抜きにしても、裁判とはなんであるのか?この一点で話は終わりなのです。
裁判とは犯罪者を裁く場でも、正義を行なう場でも、真実の究明でもありません。適正手続きに基づいた法の執行それだけを問うている場です。裁いているのは被告ではない。原告つまり刑事裁判の場合、国家の求刑を吟味する場です。結果的に裁かれる事があると言うだけの話です。
制度の問題はわきにおいても、この国の談合メディアの報道が信じられるでしょうか?感情を煽られて当事者でもない裁判制度が何たるかも知らない多くの人々が、殺せ!死刑にしろ!と吹き上がっています。これを吸い上げて断固決然と正義の執行だと政治家が対処する。司法がそれに媚びる。バランス感覚の全くないメディアが感情をくすぐるような恣意的な報道をして国民を煽る。
なんかいつぞやの光景と似てないでしょうか?
一連の事件の事を知れとおっしゃりますが、お竜様は司法関係者の方ですか?警察関係の方ですか?何らかのリーク情報をご存知なのでしょうか?
メディアや書籍に出てくる話を知っているというのなら、多分自分も知っております。しかしこんなものは所詮誰かが言っている事を聞いているだけ。司法というのは真実の追究ではありません。裁判官がもっともらしいと思える事を主観的に判断するわけです。この世に客観という状態は有り得ない。誰かが客観的だと主観的に判断しているに過ぎない。
そして、この国では、あるべき姿と言うか近代国家の当たり前の前提条件すら満たしておりません。我が国が立憲国家と言えるでしょうか?
近代国家というのは立憲、人権、民主という順番で、主にこの三つが大前提になっています。立憲というのは国民が国家をコントロールしているという事。憲法というのは我々が統治権力に向かって命令しているわけで、それが何より第一です。憲法を国家が遵守していますでしょうか?次に人権です。これは政治からの自由。最後に民主、政治への自由です。これも書き出すとキリが無いので、人権や民主なんてのは別にわきにおいて、まず近代国家を走らせる上での大前提のいの一番、立憲主義を守っていると言えるでしょうか?これが出来ないという事はそれ以外の何を語っても無駄です。
何しろチェック機能が働かない。弁護士がその役割を担うはずなのに、弁護士の言い分は恣意的に編集して、国民までもがメッタクソに叩く。チェックの働かない状況で、実際に統治権力の腐敗堕落がこれほど吹き出している状況で、人を殺してしまうという回復不能の罰を持たせておく事に危険性を感じませんか?個別のケースで云々という話ではありませんよ。全体のアーキテクチャの話をしております。局所的に見ればコイツはどう考えても死刑だという人もいるかも知れませんが、制度というのは恣意的であってはマズいわけです。
最近、長崎市長銃撃事件の容疑者へ死刑判決が下りました。確かにコイツの行いは許せないと思うのはわかりますが、判決ではこれをテロ行為で民主主義への挑戦という事で、普段では考えられないような重罰化で対処しているわけです。じゃあ民主主義を裏切るような行動を政治家がとった場合死刑になるか?と言えば死刑どころか逮捕もされない事が殆どです。それにこの問題は行政と暴力団関係者の癒着の構造があって、おこぼれを回してもらえなくなった状態に対して行なっている行為ではないか?という疑いがあるわけです。分け前をよこせ!という話であり、民主主義への挑戦でも何でも無く、結果的にそう見ればそう見えるというだけの話のように見える。真に追求しなきゃならないのはそういう行政の腐敗の構造であり、死刑にして解決という話ではない。
これがこの国の「ある状態」です。当たり前ですが「あるべき状態」というのは近代国家として足りないこれらの事を獲得して行く必要があるという事です。死刑制度というのは確かに存置、存知、廃止、停止、いろいろと立場があるでしょう。しかしそこは市民性を獲得する為には重要なフックとなり得る。学びにつながる可能性がある。逆に市民性を獲得出来ればこんな問題は一挙に片がつきます。
それが残虐な行為であり、死に値するというのは気持ちはわかりますが、死刑廃止論じゃが言うように人道的な観点でどうこうって話ではなくて、今の状態で決断主義的に何かを決めるのなら、殺せではなくて、殺すな、の方が多分合理的なのではないかと思うだけです。
死刑に値する罪を背負った加害者を死刑にするとして、誰がそれを行なえると思うのでしょうか?統治権力であるのなら、なぜ彼らを信用出来るのでしょうか?これが担保されているのなら、死刑が必要だという言い分は同意は出来なくとも理解出来ますと言っているだけなのです。
死刑の合理性の問題、賛成か反対かはその先の話で、まだそう言う事をどうこう言えるようなレベルでは無いのではないか?と思ってしまうのです。犠牲者の方々、遺族の方々の痛みは辛いと思いますが、国家全体の問題を感情論に囚われて決定するわけには行きません。それがもっとより大きな悲劇を生み出すからです。その事は前大戦で痛い目に合っているはずです。
あれだけの悲劇を経験したというのに、まだこの国は学ぶどころか、グズグズとメソメソとしているだけです。もしくは悪かったんだとか悪くない日本はいい事もしたんだとか、どちらにしろ断固決然バカばかり。
悲劇を悲しむのはいいでしょう。だけど本当に悲劇だと感じるなら、どうすればそれを回避出来るのかが一番重要で、メソメソする事ではない。
悪かったか悪くなかったかなんていうくだらない二元論でやり合っているたわけが沢山おりますが、こんなのはどっちも同じ事を言っているに過ぎません。要するに無駄です。何の役にも立たない。やりたきゃ死ぬまで勝手にやってりゃいいでしょうけれど、こんなものは分断統治に引っかかっているだけです。
少なくとも統治権力は悲劇でメソメソしたり、二元論で無駄な時間を費やしている状態であっては国が回りません。国民がおとなしいのをいい事に権益を貪っているようじゃどうしようもない。自分はただそういう事を言っているだけなのです。
被害者遺族を救うには、我々に出来る事は罰を与える事ではなく、社会的に包摂され、辛い過去を引きずっていても生きて行ける、まわりが支えていける環境を整えてあげる事ではないでしょうか。知ったような顔をして殺せと吹き上がる事ではないと思います。罰は国家に任せるしかない。我々には出来ない。出来る事は厳正な裁判を望み、適正手続きに基づいた法の執行を監視するだけです。
それで判決が必ずしも遺族が満足する事ではないかもしれません。しかし国民に出来る事は遺族が社会的になんとか生きて行けるようなコミットメントを示すしか無い。殺せと吹き上がってすぐに忘れるのが圧倒的なマジョリティですが、遺族は死ぬまでその苦しみを抱えて行くわけですから。そしてそういう包摂こそが、我々に出来るレベルで考えると、犯罪を生み出すような疎外に対しても効果があるのではないかと思うのです。
自分が言いたいのはこういう前提話を知ったり聞いたり出来る環境が容易にあって、それで死刑賛成8割というのなら納得は出来ないけれどしょうがないと思う。しかし今の死刑8割が賛成というのは明らかに情報操作によってコントロールされた結果です。同じ歴史を繰り返さない為にも危険を感じてしまうのです。
このコントロールされた状態で、死刑に疑義を唱えると血祭りに上げられてしまう環境というのは、完全に翼賛体制です。KYなんて言葉を大の大人が使っているだけでもヘドが出る。自分はそんなのはゴメンだと思っているだけです。
賛成反対でわかれる話というのはどんな話でも、必ずマジョリティが持つ暴力性、分断統治によるコントロールが発生しています。死刑賛成というのは自由ですが、死刑反対というのも自由です。気に食わなくても意見の違いを認めあうのが我々の社会です。多様性は不安や恐れを感じます。だから排除につながる。だけどそれは国民にとって百害あって一利無しです。純粋主義的な統合がどれだけ多くの悲劇を生み出したのが?多様性の無い生物の末路は淘汰です。文明の末路も衰退です。
死刑制度の質問への返答をつらつらと書いてみました