前回の続きです。
では今回の話が精神病であったのだという風にすればいいのかというと、それはそれで問題があると思います。少し切り口を変えます。中々複雑な問題なので搦め手から攻めて行きます。
加藤容疑者が言っている事や、掲示板に残っている記録、これらはすべて嘘か本当かはわかりませんが、彼にとってそういうストーリーに見せたかった、もしくは彼にとっての真実であったという事だと思いますので、本当かどうかはたいした問題じゃありません。
後付けであったとしても、そういう風にしたいと思っているという事が一番重要なのではないかと思います。そういう事を言いたいという事にしたい欲求があった。それが病気のせいかどうかは定かではありませんが、見え方としてはマスメディアを信用していない。マスメディアが偏向報道出来ないように様々な形跡を残した所もあったように見えてしまう。これは事実がどうかという事ではなくて、どのように見えてしまうかという事を言っています。
彼の殺し方を見ると、明らかに殺す事を絶対にやり遂げるという意志が見えます。普通の素人がナイフで刺したって、人は簡単には死にません。ナイフの種類ももちろんそうですが、刺し方というのがある。体でナイフを支え、体ごと体当たりをしないと、あそこまで人は殺せない。そういうやり方をしている。
病気によって追い込まれていたのかもしれませんが、彼は社会に怒っているというストーリーにしたかったという事はまぎれも無いと思います。だからこの場合病気であったという風にしてしまう事にもそれなりに問題が発生してしまう。
社会に対する不満を抱えた一人の男が、死刑覚悟で無差別テロをするような社会構造になってしまっているという問題プラス、誰しもいつかはこういう事になる日が来ると思っていたと感じている部分があるにもかかわらず、政治もメディアも全く問題視するどころか無視して来て、国民もどうせ何も変わらないと諦めている構図がある。だから尚余計に疎外を生み出してしまう。
本当の問題点はまさにそこにあるわけで、これを単なる頭のおかしい奴が起こした事件であるとしてしまって話が落ちてしまってもそれはそれで問題な気がします。
多分こういう問題が出て来ても、ビックリはしますが今の社会を考えれば当然の帰結のような気がする人はいっぱいいると思います。ああいう社会からはじかれた若者は増えています。おそらく精神病に陥ってしまう人が多い事とも関係していると思いますが、社会全体が排除的になっていて、アノミー化しやすい社会になっている。医薬品産業の戦略だけではなくて、相互補完関係になっていると思います。
他者への寛容さはどんどん失われ、共同体が壊れ、社会が蛸壺化し、個人化しギスギスしている。昔はそんな事無かったというのは嘘なんですが、かつては少なくとも今よりは未来に希望を感じる事が出来た。生活が向上するというのもそうですし、社会的な公正さというのがあって、ちゃんとジャスティファイされれば幸せになれるという幻想もあった。なのでもう少し人々に余裕があったわけです。同じクレクレ主義だとしても、希望があるかないか、余裕があるかないかの差は決定的です。
明らかにバブル崩壊以降の我々の社会というのは若者の希望を食い物にして、老人が生き延びて来た面があります。だから今ニート化したり、パラサイト化するのは、当然の帰結でもある。未来を借金まみれにし、夢も希望も連帯も無い社会にしたうえで、まだそこから脱却すら出来ずにクレクレ主義者達の鍔迫り合いが繰り返されている。だからそれと同じ事をしているだけです。
そういう世代のルサンチマンを感じている人達の感情としては、例えば後期高齢者医療制度の話なんて、そんなのどうでもいいと思っている人も結構いるはずです。老い先短い老人共に再配分するなら、俺達に回せと思っているでしょう。老人や団塊の連中は少なくとも今の社会に責任がある。しかも散々再配分の恩恵を受けて来た。そういう風に見えていると思います。
しかし、バブル崩壊以降社会に出た世代、団塊ジュニア以降というのは、基本的にバブル崩壊以前の成功モデル、就職一括採用スキームに従った教育制度で教育されて、そういう価値観で判断する大人達にあれこれ言われて、なんにもわからないで社会に出たら、仕事も無い、金も無い、幸福も無い、包摂もされない、ただ最近の若者はなっとらん的な批判ばかりされ、すぐ辞めるだの、やる気が無いだのと散々叩かれている。自由にしろ、自分で決めろと言われても選択肢が無いんですけれど、って感じだと思います。にもかかわらず自己責任だ、お前が悪いんだ、と言われてしまう。最近ではこういう奴らはある意味、社会にとって迷惑な存在であるから排除したままの方が善いのだ的な事を言ってしまう知識人まで出て来ている。そういう世代からすれば、殺すまでは同意は出来ないけれど、怒りは理解出来るという人達はおそらく大勢いるでしょう。そこが一番の問題です。
まあこういう世代間のギャップというのは分断統治で、老人共が逃げ切る為にクレクレ主義だと言っても、そういう人達に育てられて大人になっているわけですから。十分恩恵は受けておるわけで、どっちもどっちなんですが、とは言っても普通先輩が後輩を教育するわけですから、やっぱり上の世代が正してくれない事には下の人間が上の為に何とかしようとは思わないでしょう。尊敬しろと言ったって、尊敬出来ねえよで話が終わっちゃう。
だからこれは本当はこういう犯罪をこのような呼び方をしてしまう事はある種の言い訳を許してしまいかねないので、100%よくない事なのですが、今の政治への不満、ある種のテロだとも見えてしまう。そう感じてしまう人がいっぱいいる。
にもかかわらず、そういう風にメディアは啓蒙しようとしない。そこが重要で、社会に不満を持っているという事はつまり政治に対する不満であり、政治に対する不満で犯す犯罪の事をテロと言います。自分の言動や行動じゃ政治が変らない。だからテロを起こすとなる。無差別テロと構造が同じなのです。
会社に不満、家庭に不満、社会に不満という話は出て来ますが、彼がそういう境遇に陥っているのは自分のせいではないと思っている。親が嫌いなら親を殺しているはずですし、会社でムカついていれば上司を殺しているはず。それが何の罪も無い人を殺している。これは社会に対する不満即ち国家への不満、無差別テロと図式は同じです。政治家へのテロ行為だとは言いたくないのでしょう。提灯メディアは。
普通そうであれば首相官邸に突っ込んでテロを敢行するとか、国会でテロを行なうとか、そっちの方が効果的じゃないかとなるのですが、今のグローバル化してしまった社会では、日本の政治家ごとき一人二人ぶち殺したって、仮に総理大臣や閣僚を抹殺出来ても、世界の枠組みには全く無力でもあります。世界の枠組みで勝手に決まっている方向性によって、日本の末端の労働者が痛みを感じてしまう。政治に不満を思っても変るという希望が多分全く実感出来ないのでしょう。
本当はこの国の統治権力の恣意性にも大きな問題はあるのですが、グローバル化や市場化ネオリベの弊害ばかりが言われていて、そういう啓蒙ばかりが蔓延り、末端の労働者もグローバル化や市場化のせいだネオリベのせいだと、これは嘘なのですが、そういう言い訳を聞いていたりしていると思います。
世界規模の枠組みや流れで抗う術が無いと。だから政治家や役人や企業にテロを敢行しても無駄、何の希望も無い。帰結として絶望しているが故に誰でもよかったというストーリーが説得力を持ちかねない。
肝腎なのは本当の所がどうかというより、社会的にどう見えてしまうのか?という事が一番重要です。それによって何らかの影響や連鎖を生んでしまう。こういう事がリアルとしてあり得ると感じられる社会である事が最大の問題だと思います。
精神病の方々への理解の無さや排除、社会からこぼれてしまった人間の復活の希望の無さ。人の能力は平等ではないので、やっぱりどこかで格差はついてしまう。これはしょうがありません。だけどそこそこの幸せでも生きて行けて、それなりに楽しみや幸せも小さいながらもあってという、例え格差がついても金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の幸せが実感としてあり得ると感じられる社会であればいいのですが、勝てないという事は一生虐げられて、承認もされないし包摂もされないという風に感じてしまう人々を一定数生み出してしまう、しかも結構な数で、ここをどうにかしなければならないという風にしないと、こういう問題は増えて行ってしまうかもしれません。
そしてこの国の統治権力はそれに対して最も愚かな手段をとっています。ナイフの規制だの、一連の規制はバカだけどまあいいでしょう。どうせ期待するだけ無駄です。だけど日雇い派遣の規制の話が出てくる、これは最もとってはならない一番愚かな脳味噌カラッポ、パッパラパーの判断です。テロに屈している。
こういう行いをすれば変る可能性がある事をメッセージとして発している。いくら何でも酷すぎます。これじゃ同じようなテロ行為をやってくれと言っているようなもんです。そうすれば凶悪犯罪が増えた事をより宣伝出来て、権益が確保出来ると思ったのか、はたまた人気稼ぎのちょうどいいリソースになると判断したのかどうかはわかりませんが、国民の安全なんてハナっから興味が無い事がよくわかります。そうでなければ本当に脳味噌カラッポのくるくるパーなのでしょう。
日雇い派遣にしろ、酷い労働環境で搾取している構図は問題なので正す必要はあります。だけどこんなのはバカでもわかる話で、未来の日本を担う世代の若者が希望を失って生きているという事がどれほど将来の損失になるのか言うまでもありません。
普通のまともな思考が働けば、短期的利益を追求も大概にして、希望の無い社会じゃ合理的ではないし、逆にソシアルコストが高くついてしまう。結果的には先々というか近い将来大きな損失になる。合理性計算が出来ればこんな事は言うまでもなく、正すべきだとなるべき事で、事件が起こって速攻どうにかしようって話になるくらいなら、事前に規制するなり法で守るなりしろよ!!って話です。一番やっちゃマズいタイミングで速攻対応しようとしている。もうコイツらに何を期待しても無駄でしょう。
監視カメラの強化とかやってますが、監視カメラがあったって、ああいう事件を起こす人には何の役にも立たない。本当バカじゃねえかって感じです。何でもかんでも権益化する。
ああいう事件というのは、前科もなければ、怨みがあるわけでもないので、絶対に止められない。ナイフを規制したって得物が他のものに切り替わるだけです。これを食い止めたかったらこういう不合理を生み出してアノミー化をしてしまう社会の構造問題に手を突っ込まないと不可能です。それには国民それぞれの理解も必要です。
しかし出てくる話が掲示板への規制だの、掲示板への書き込みを通報によってガキンチョをパクっただのって話、こんな密告制度みたいな事をやってたら、益々他人を信用出来ない社会になってしまう。
なんでアノミー化してしまったり、精神を病んでしまう人が出てくるのか?これは社会に理由がある事がわかって来て何が原因なのかも少しずつわかって来ている。
90年代不況の最中、企業は独身寮という制度を止めます。建物や土地を売っぱらって、不況をしのごうとした。だけどこれがある種のアノミー化を防ぐセーフティネットになっていたわけです。自分も寮に住んでいたからわかるのですが、これはある種、強制的に先輩に連れ回されたり、麻雀に付き合わされたり、冗談じゃねえよ、こんちくしょう、という負の側面もあるのですが、例えば仕事で行き詰まった時等、上の人が歩んで来た道でもあるわけで、相談したりすれば、まあ納得は出来なくとも少し気分はスッキリしたりする。自分は酒は飲めませんが、先輩が飲み屋に連れてってくれて、バカ話で憂さを晴らすという効果があった。我々の社会はこういう構造を経済的合理性計算だけで売っぱらってしまったりしたわけです。
当たり前ですが経済的合理性というのは社会を営む上で重要な観点ではありますが人はそれだけでは幸せになれない。金持ちだって疎外を感じる。社会というアーキテクチャを合理的に運営する為には、ただ単に経済的合理性だけで運営していては滅茶苦茶になってしまいます。経済的には合理的であっても、社会的コストが高くついてしまえば意味がない。
例えば病気になる人が増えたり、疎外を感じてアノミー化してしまったり、子供を産む事に希望を感じない人が増えたり、個人化して傷つけあう社会になってしまったり、傷つく事に脆弱な社会になってしまったり、社会を営んで行くという事が信じられず、無関心によって諦める民意が圧倒的多数になってしまったり、ただお上に依存してクレクレ主義的鍔迫り合いに陥ったりと、書き出すときりがないので止めますが、政治家とメディアと企業だってその時は短期的な権益にはなるでしょうけれど、完全に衰退のスパイラルに陥ってしまえば、本末転倒です。その事が余計にクレクレ主義的鍔迫り合いを更に倍加して生み出している。
政治家なんかは特にそうですが結局は選挙が一番重要事項になってしまいますので、長期的スパンで考えなければいけない立場の人間が、短期的選挙目当てで思考せざるを得ないという矛盾をもともと備えた民主制によってドライブさせています。結局は市民の意識が変わらないとどうにもならない。
なのでこの状況から予測しますと、多分くだらない規制を乱発して行くでしょう。しかしそれでは問題の解決にはならないし、同じような問題は起こる。重要なのは排除的な社会であるという事なのですが、それでは余計に疑心暗鬼は加速して行き、経済的にはどんどん落ちぶれて行き、人口も減り、不安は益々増大して行く。精神を病んでしまう人もどんどん増えて行くでしょう。そして分断統治がどんどん蔓延る。
これでいったん徹底的にどうにもならない社会になって多くの国民が悲劇や絶望を感じないと、楽観的な見通しは立ちません。多分自立出来ない。それしか経路もないように感じる。だけどその間も疎外を感じたり孤独を感じたりして、アノミー化してしまう人が苦しんでいる。それに対する無理解によって更に痛めつけるという構図がもっと常態化して行く可能性も大です。
そう考えて行きますと、今回の事件が精神を病んだが故の帰結であるという風になってしまえば、それはそれで大きな問題でもあるような気がします。今の社会構造ですと、その事によって益々無理解や排除を増幅させかねない。薬漬けにして管理しろという話になりかねない。現状ですら相当苦しみを抱えている人や、薬によって不合理が発生しているのにそこに光が当たらない。これを断罪するどころか加速させるきっかけになりかねない。残念ながら精神を病んだ方々への理解どころか、憎悪になりかねない、よりディバイシブな社会になってしまう恐れすらあり得る。
それを踏まえて考えますと、ネットで好き勝手な事がいろいろ言われていて、いろんな話が氾濫している状況は圧倒的なカオスでスッキリしないのですが、そのスッキリしなさ加減が学びへのフックになりうるのではないかという期待も若干感じています。単純な答えを求めてしまえば人は学びません。それでは疎外や排除が生み出す苦しみや孤独なんて、誰も興味が無い社会になってしまう。
自分だって疎外されていたり、承認が得られなかったりしているのに、自分より更に実りの無い人生を歩んでいる人々を、見つけ出し指をさし排除する事によって自分がどちら側の人間かを確認するという下らない自己問答、マスターベーションの道具に今現在でもなってしまっている。
最近は若干減りましたが、B層という言葉がありました。これはB層をバカにする事によって、俺はアイツらとは違うという自己承認をしているだけです。端から見れば同じような感じに見えてしまったりもする。こういう分断に自ら加担する事によって自己正当化してしまうというコミュニケーションがある。北東アジアへの排除もそうでしたし、左翼への排除もそうでしょう。
まあ自分も矮小な人間なので、バカ保守にキレたり腐れリベラルに辟易してメッタクソに書いたりしてますから、偉そうな事は言えないのですが、本当の問題はそういう分断によって権益を得ている連中であるはずで、疎外を生み出す構図に傷つけられている存在同士で揉めていても実りがありません。
どうせ矛先を向けるなら自分より弱者を探し出して刃を向けるのではなく、強者へと批判の刃を向けた方がいい。人間なんてみんな矮小な存在です。だから人類すべて弱者だとも言える。しかしこういう分断統治を煽るような連中、権益化するような連中には容赦をする必要はありません。
そういう意味ではいろんな言説が溢れていろんな見方をしている奴が増えるのは悪い話ではありません。もちろんクリシェ的な切り口によって、死刑にしろ!!許すな!!重罰化だ!!監視しろ!!みたいなおたんこなすが大多数なので、抗うにはあまりにも希望が無いのですが、気付いている人間が、いろんな事を言って多様性を担保しておく事が、やがて来る悲劇や絶望の縁から復活する為には重要な事だと考えます。
学習の契機が来ても、学習する素材が無ければ意味がありません。もちろん可能性が薄いとは言え、絶望や悲劇を食い止めるという意味でも多様性は重要です。
秋葉原の事件と精神疾患についてあれこれと書いてみました。
では今回の話が精神病であったのだという風にすればいいのかというと、それはそれで問題があると思います。少し切り口を変えます。中々複雑な問題なので搦め手から攻めて行きます。
加藤容疑者が言っている事や、掲示板に残っている記録、これらはすべて嘘か本当かはわかりませんが、彼にとってそういうストーリーに見せたかった、もしくは彼にとっての真実であったという事だと思いますので、本当かどうかはたいした問題じゃありません。
後付けであったとしても、そういう風にしたいと思っているという事が一番重要なのではないかと思います。そういう事を言いたいという事にしたい欲求があった。それが病気のせいかどうかは定かではありませんが、見え方としてはマスメディアを信用していない。マスメディアが偏向報道出来ないように様々な形跡を残した所もあったように見えてしまう。これは事実がどうかという事ではなくて、どのように見えてしまうかという事を言っています。
彼の殺し方を見ると、明らかに殺す事を絶対にやり遂げるという意志が見えます。普通の素人がナイフで刺したって、人は簡単には死にません。ナイフの種類ももちろんそうですが、刺し方というのがある。体でナイフを支え、体ごと体当たりをしないと、あそこまで人は殺せない。そういうやり方をしている。
病気によって追い込まれていたのかもしれませんが、彼は社会に怒っているというストーリーにしたかったという事はまぎれも無いと思います。だからこの場合病気であったという風にしてしまう事にもそれなりに問題が発生してしまう。
社会に対する不満を抱えた一人の男が、死刑覚悟で無差別テロをするような社会構造になってしまっているという問題プラス、誰しもいつかはこういう事になる日が来ると思っていたと感じている部分があるにもかかわらず、政治もメディアも全く問題視するどころか無視して来て、国民もどうせ何も変わらないと諦めている構図がある。だから尚余計に疎外を生み出してしまう。
本当の問題点はまさにそこにあるわけで、これを単なる頭のおかしい奴が起こした事件であるとしてしまって話が落ちてしまってもそれはそれで問題な気がします。
多分こういう問題が出て来ても、ビックリはしますが今の社会を考えれば当然の帰結のような気がする人はいっぱいいると思います。ああいう社会からはじかれた若者は増えています。おそらく精神病に陥ってしまう人が多い事とも関係していると思いますが、社会全体が排除的になっていて、アノミー化しやすい社会になっている。医薬品産業の戦略だけではなくて、相互補完関係になっていると思います。
他者への寛容さはどんどん失われ、共同体が壊れ、社会が蛸壺化し、個人化しギスギスしている。昔はそんな事無かったというのは嘘なんですが、かつては少なくとも今よりは未来に希望を感じる事が出来た。生活が向上するというのもそうですし、社会的な公正さというのがあって、ちゃんとジャスティファイされれば幸せになれるという幻想もあった。なのでもう少し人々に余裕があったわけです。同じクレクレ主義だとしても、希望があるかないか、余裕があるかないかの差は決定的です。
明らかにバブル崩壊以降の我々の社会というのは若者の希望を食い物にして、老人が生き延びて来た面があります。だから今ニート化したり、パラサイト化するのは、当然の帰結でもある。未来を借金まみれにし、夢も希望も連帯も無い社会にしたうえで、まだそこから脱却すら出来ずにクレクレ主義者達の鍔迫り合いが繰り返されている。だからそれと同じ事をしているだけです。
そういう世代のルサンチマンを感じている人達の感情としては、例えば後期高齢者医療制度の話なんて、そんなのどうでもいいと思っている人も結構いるはずです。老い先短い老人共に再配分するなら、俺達に回せと思っているでしょう。老人や団塊の連中は少なくとも今の社会に責任がある。しかも散々再配分の恩恵を受けて来た。そういう風に見えていると思います。
しかし、バブル崩壊以降社会に出た世代、団塊ジュニア以降というのは、基本的にバブル崩壊以前の成功モデル、就職一括採用スキームに従った教育制度で教育されて、そういう価値観で判断する大人達にあれこれ言われて、なんにもわからないで社会に出たら、仕事も無い、金も無い、幸福も無い、包摂もされない、ただ最近の若者はなっとらん的な批判ばかりされ、すぐ辞めるだの、やる気が無いだのと散々叩かれている。自由にしろ、自分で決めろと言われても選択肢が無いんですけれど、って感じだと思います。にもかかわらず自己責任だ、お前が悪いんだ、と言われてしまう。最近ではこういう奴らはある意味、社会にとって迷惑な存在であるから排除したままの方が善いのだ的な事を言ってしまう知識人まで出て来ている。そういう世代からすれば、殺すまでは同意は出来ないけれど、怒りは理解出来るという人達はおそらく大勢いるでしょう。そこが一番の問題です。
まあこういう世代間のギャップというのは分断統治で、老人共が逃げ切る為にクレクレ主義だと言っても、そういう人達に育てられて大人になっているわけですから。十分恩恵は受けておるわけで、どっちもどっちなんですが、とは言っても普通先輩が後輩を教育するわけですから、やっぱり上の世代が正してくれない事には下の人間が上の為に何とかしようとは思わないでしょう。尊敬しろと言ったって、尊敬出来ねえよで話が終わっちゃう。
だからこれは本当はこういう犯罪をこのような呼び方をしてしまう事はある種の言い訳を許してしまいかねないので、100%よくない事なのですが、今の政治への不満、ある種のテロだとも見えてしまう。そう感じてしまう人がいっぱいいる。
にもかかわらず、そういう風にメディアは啓蒙しようとしない。そこが重要で、社会に不満を持っているという事はつまり政治に対する不満であり、政治に対する不満で犯す犯罪の事をテロと言います。自分の言動や行動じゃ政治が変らない。だからテロを起こすとなる。無差別テロと構造が同じなのです。
会社に不満、家庭に不満、社会に不満という話は出て来ますが、彼がそういう境遇に陥っているのは自分のせいではないと思っている。親が嫌いなら親を殺しているはずですし、会社でムカついていれば上司を殺しているはず。それが何の罪も無い人を殺している。これは社会に対する不満即ち国家への不満、無差別テロと図式は同じです。政治家へのテロ行為だとは言いたくないのでしょう。提灯メディアは。
普通そうであれば首相官邸に突っ込んでテロを敢行するとか、国会でテロを行なうとか、そっちの方が効果的じゃないかとなるのですが、今のグローバル化してしまった社会では、日本の政治家ごとき一人二人ぶち殺したって、仮に総理大臣や閣僚を抹殺出来ても、世界の枠組みには全く無力でもあります。世界の枠組みで勝手に決まっている方向性によって、日本の末端の労働者が痛みを感じてしまう。政治に不満を思っても変るという希望が多分全く実感出来ないのでしょう。
本当はこの国の統治権力の恣意性にも大きな問題はあるのですが、グローバル化や市場化ネオリベの弊害ばかりが言われていて、そういう啓蒙ばかりが蔓延り、末端の労働者もグローバル化や市場化のせいだネオリベのせいだと、これは嘘なのですが、そういう言い訳を聞いていたりしていると思います。
世界規模の枠組みや流れで抗う術が無いと。だから政治家や役人や企業にテロを敢行しても無駄、何の希望も無い。帰結として絶望しているが故に誰でもよかったというストーリーが説得力を持ちかねない。
肝腎なのは本当の所がどうかというより、社会的にどう見えてしまうのか?という事が一番重要です。それによって何らかの影響や連鎖を生んでしまう。こういう事がリアルとしてあり得ると感じられる社会である事が最大の問題だと思います。
精神病の方々への理解の無さや排除、社会からこぼれてしまった人間の復活の希望の無さ。人の能力は平等ではないので、やっぱりどこかで格差はついてしまう。これはしょうがありません。だけどそこそこの幸せでも生きて行けて、それなりに楽しみや幸せも小さいながらもあってという、例え格差がついても金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の幸せが実感としてあり得ると感じられる社会であればいいのですが、勝てないという事は一生虐げられて、承認もされないし包摂もされないという風に感じてしまう人々を一定数生み出してしまう、しかも結構な数で、ここをどうにかしなければならないという風にしないと、こういう問題は増えて行ってしまうかもしれません。
そしてこの国の統治権力はそれに対して最も愚かな手段をとっています。ナイフの規制だの、一連の規制はバカだけどまあいいでしょう。どうせ期待するだけ無駄です。だけど日雇い派遣の規制の話が出てくる、これは最もとってはならない一番愚かな脳味噌カラッポ、パッパラパーの判断です。テロに屈している。
こういう行いをすれば変る可能性がある事をメッセージとして発している。いくら何でも酷すぎます。これじゃ同じようなテロ行為をやってくれと言っているようなもんです。そうすれば凶悪犯罪が増えた事をより宣伝出来て、権益が確保出来ると思ったのか、はたまた人気稼ぎのちょうどいいリソースになると判断したのかどうかはわかりませんが、国民の安全なんてハナっから興味が無い事がよくわかります。そうでなければ本当に脳味噌カラッポのくるくるパーなのでしょう。
日雇い派遣にしろ、酷い労働環境で搾取している構図は問題なので正す必要はあります。だけどこんなのはバカでもわかる話で、未来の日本を担う世代の若者が希望を失って生きているという事がどれほど将来の損失になるのか言うまでもありません。
普通のまともな思考が働けば、短期的利益を追求も大概にして、希望の無い社会じゃ合理的ではないし、逆にソシアルコストが高くついてしまう。結果的には先々というか近い将来大きな損失になる。合理性計算が出来ればこんな事は言うまでもなく、正すべきだとなるべき事で、事件が起こって速攻どうにかしようって話になるくらいなら、事前に規制するなり法で守るなりしろよ!!って話です。一番やっちゃマズいタイミングで速攻対応しようとしている。もうコイツらに何を期待しても無駄でしょう。
監視カメラの強化とかやってますが、監視カメラがあったって、ああいう事件を起こす人には何の役にも立たない。本当バカじゃねえかって感じです。何でもかんでも権益化する。
ああいう事件というのは、前科もなければ、怨みがあるわけでもないので、絶対に止められない。ナイフを規制したって得物が他のものに切り替わるだけです。これを食い止めたかったらこういう不合理を生み出してアノミー化をしてしまう社会の構造問題に手を突っ込まないと不可能です。それには国民それぞれの理解も必要です。
しかし出てくる話が掲示板への規制だの、掲示板への書き込みを通報によってガキンチョをパクっただのって話、こんな密告制度みたいな事をやってたら、益々他人を信用出来ない社会になってしまう。
なんでアノミー化してしまったり、精神を病んでしまう人が出てくるのか?これは社会に理由がある事がわかって来て何が原因なのかも少しずつわかって来ている。
90年代不況の最中、企業は独身寮という制度を止めます。建物や土地を売っぱらって、不況をしのごうとした。だけどこれがある種のアノミー化を防ぐセーフティネットになっていたわけです。自分も寮に住んでいたからわかるのですが、これはある種、強制的に先輩に連れ回されたり、麻雀に付き合わされたり、冗談じゃねえよ、こんちくしょう、という負の側面もあるのですが、例えば仕事で行き詰まった時等、上の人が歩んで来た道でもあるわけで、相談したりすれば、まあ納得は出来なくとも少し気分はスッキリしたりする。自分は酒は飲めませんが、先輩が飲み屋に連れてってくれて、バカ話で憂さを晴らすという効果があった。我々の社会はこういう構造を経済的合理性計算だけで売っぱらってしまったりしたわけです。
当たり前ですが経済的合理性というのは社会を営む上で重要な観点ではありますが人はそれだけでは幸せになれない。金持ちだって疎外を感じる。社会というアーキテクチャを合理的に運営する為には、ただ単に経済的合理性だけで運営していては滅茶苦茶になってしまいます。経済的には合理的であっても、社会的コストが高くついてしまえば意味がない。
例えば病気になる人が増えたり、疎外を感じてアノミー化してしまったり、子供を産む事に希望を感じない人が増えたり、個人化して傷つけあう社会になってしまったり、傷つく事に脆弱な社会になってしまったり、社会を営んで行くという事が信じられず、無関心によって諦める民意が圧倒的多数になってしまったり、ただお上に依存してクレクレ主義的鍔迫り合いに陥ったりと、書き出すときりがないので止めますが、政治家とメディアと企業だってその時は短期的な権益にはなるでしょうけれど、完全に衰退のスパイラルに陥ってしまえば、本末転倒です。その事が余計にクレクレ主義的鍔迫り合いを更に倍加して生み出している。
政治家なんかは特にそうですが結局は選挙が一番重要事項になってしまいますので、長期的スパンで考えなければいけない立場の人間が、短期的選挙目当てで思考せざるを得ないという矛盾をもともと備えた民主制によってドライブさせています。結局は市民の意識が変わらないとどうにもならない。
なのでこの状況から予測しますと、多分くだらない規制を乱発して行くでしょう。しかしそれでは問題の解決にはならないし、同じような問題は起こる。重要なのは排除的な社会であるという事なのですが、それでは余計に疑心暗鬼は加速して行き、経済的にはどんどん落ちぶれて行き、人口も減り、不安は益々増大して行く。精神を病んでしまう人もどんどん増えて行くでしょう。そして分断統治がどんどん蔓延る。
これでいったん徹底的にどうにもならない社会になって多くの国民が悲劇や絶望を感じないと、楽観的な見通しは立ちません。多分自立出来ない。それしか経路もないように感じる。だけどその間も疎外を感じたり孤独を感じたりして、アノミー化してしまう人が苦しんでいる。それに対する無理解によって更に痛めつけるという構図がもっと常態化して行く可能性も大です。
そう考えて行きますと、今回の事件が精神を病んだが故の帰結であるという風になってしまえば、それはそれで大きな問題でもあるような気がします。今の社会構造ですと、その事によって益々無理解や排除を増幅させかねない。薬漬けにして管理しろという話になりかねない。現状ですら相当苦しみを抱えている人や、薬によって不合理が発生しているのにそこに光が当たらない。これを断罪するどころか加速させるきっかけになりかねない。残念ながら精神を病んだ方々への理解どころか、憎悪になりかねない、よりディバイシブな社会になってしまう恐れすらあり得る。
それを踏まえて考えますと、ネットで好き勝手な事がいろいろ言われていて、いろんな話が氾濫している状況は圧倒的なカオスでスッキリしないのですが、そのスッキリしなさ加減が学びへのフックになりうるのではないかという期待も若干感じています。単純な答えを求めてしまえば人は学びません。それでは疎外や排除が生み出す苦しみや孤独なんて、誰も興味が無い社会になってしまう。
自分だって疎外されていたり、承認が得られなかったりしているのに、自分より更に実りの無い人生を歩んでいる人々を、見つけ出し指をさし排除する事によって自分がどちら側の人間かを確認するという下らない自己問答、マスターベーションの道具に今現在でもなってしまっている。
最近は若干減りましたが、B層という言葉がありました。これはB層をバカにする事によって、俺はアイツらとは違うという自己承認をしているだけです。端から見れば同じような感じに見えてしまったりもする。こういう分断に自ら加担する事によって自己正当化してしまうというコミュニケーションがある。北東アジアへの排除もそうでしたし、左翼への排除もそうでしょう。
まあ自分も矮小な人間なので、バカ保守にキレたり腐れリベラルに辟易してメッタクソに書いたりしてますから、偉そうな事は言えないのですが、本当の問題はそういう分断によって権益を得ている連中であるはずで、疎外を生み出す構図に傷つけられている存在同士で揉めていても実りがありません。
どうせ矛先を向けるなら自分より弱者を探し出して刃を向けるのではなく、強者へと批判の刃を向けた方がいい。人間なんてみんな矮小な存在です。だから人類すべて弱者だとも言える。しかしこういう分断統治を煽るような連中、権益化するような連中には容赦をする必要はありません。
そういう意味ではいろんな言説が溢れていろんな見方をしている奴が増えるのは悪い話ではありません。もちろんクリシェ的な切り口によって、死刑にしろ!!許すな!!重罰化だ!!監視しろ!!みたいなおたんこなすが大多数なので、抗うにはあまりにも希望が無いのですが、気付いている人間が、いろんな事を言って多様性を担保しておく事が、やがて来る悲劇や絶望の縁から復活する為には重要な事だと考えます。
学習の契機が来ても、学習する素材が無ければ意味がありません。もちろん可能性が薄いとは言え、絶望や悲劇を食い止めるという意味でも多様性は重要です。
秋葉原の事件と精神疾患についてあれこれと書いてみました。