仏太様こと、buttan様のコメントにて、秋葉原の無差別殺戮を犯した容疑者は、BPD(ボーダーライン・パーソナリティ・ディスオーダー)所謂、境界性人格障害と言われる精神疾患なのではないか?という問題定義を頂きました。
この切り口での問題の設定は非常に根深い話なので、コメント返しもかねて、ちょっと考えてみようかと思います。
まず自分はこの問題を語れるだけの知識も経験もありませんので、素人の見解として加藤と言う男が実際にどうなのかというのはわかりません。そういう風に言われればそうなのかもしれないという可能性は感じますが、そこの部分がどちらなのか?という事は書けません。
自分は医者じゃないので、処方箋も知りませんし、どうすればいいのかもわからない。ただ個人的な人間関係を結んでいる自分のまわりの人間には精神を病んで苦しんでいる人がいた経験もあります。摂食障害によってリストカットを繰り返す人とか、鬱病で苦しんでいる人とか、何度か人生の中でそういう人と接点があり、個人的関係性において力になるよう努力した事もあります。
若い頃は全然何の力にもなれなかった事もありましたが、ある程度の年齢以降は、結構そういう人達が、復活して感謝されるというパターンが何度かありましたので、個人的な関係性があれば、それなりに手を差し伸べる事は可能だと考えております。ただこれだとケースバイケースでしかないので、女の子であれば彼氏が出来ればあっという間に治っちゃったり、とか、別に自分が何かをしたり助言をしたから救ったのだなんて考えるほど傲慢じゃありません。
ただ相談に乗るという行為を受ける事が多いので、手を差し伸べたり話を聞いたり、まあ助言をしてあげたりする事も何らかの足しになり得るのではないかとも思っております。
まあその程度の人間なので、全くお門違いな話かもしれません。とりあえずその事を最初に書いておきます。なので、精神を病んでいるかどうかという問題よりも、その事を社会としてどう考えるかという事を書こうと思います。それではおっぱじめます。
70年代、80年代ぐらいですと、精神を病んでいる方々を隔離する、という治療法は差別であるとか、人権侵害であるという澎湃としての声が起こりました。精神科医に対するプレッシャーも、同じ人間をそんな酷い扱いをするなんて、みたいな声と言うか運動が起こりました。これは左派がもうちょっと人気があったからというのもあるし、運動というのがもう少し身近だったというのと、そういう事によって社会が変わるという希望をまだみんなが信じていた。相対的にそういう人が多かったというのもあります。
しかし、今ですとそんな事を言っていると痛い奴的な批判もありますし、手を差し伸べないくせに、わかりやすい悲劇によって被害者家族が嘆き悲しむ姿にはやたらと同情の声ばかりが威勢よく響いてしまう。精神科医に対するプレッシャーも、精神病患者に対するプレッシャーも全く変ってしまっています。簡単に言えば、何でそういう状態になっているのかなんて事はどうでもよくて、安心安全の為に隔離しておけ!!みたいな風潮になっている。野放しにしておく事に対して逆に精神科医を責めるようなプレッシャーがあります。
精神病の方々が増えているのに、それに反比例するかのように、そういう方々への無理解や排除の構造が進んでいます。これは一種の分断統治にもなっている。フーコーなんかが言ってますが、権力がこの構造を増幅して利用している。
これは左派に大きく責任があります。ずっと弱者利権を利用して来た。解決する為ではなく運動の為に利用して、その事がこういった問題が解決に進んで行かない原因で実は権益であったという事がバレてしまいます。中には捏造や嘘も混じっている。その事によって、いったん左翼バッシングというのが非常に盛り上がりました。小林よしのりなんかが持てはやされたりした。
確かに左の連中にはそういう部分はありました。だからその事自体はしょうがない所もあるのですが、弱者運動をやっている奴らの権益の為であったとしても、病や社会的な構造にはじかれたりしているせいで虐げられている人達は実際にいるわけで、そこまで一緒になって叩いてしまった。そういう人達に左派のような恣意的な救いの手ではなくて、ちゃんと社会に包摂されるようなセーフティネットの構築にはならず、何のオルタナティブも提示しないまま叩いてしまった。ここにつまずきの原因が一つあります。
今の流れというのはメディカリゼーションと言いまして、病気作りが、グローバル化してしまったビックファーマ、医薬品産業の世界戦略として動いております。
誰でも五つ六つ質問に答えれば何らかの病気の予備軍であるという診断をこじつけて、薬漬けにしてしまうという戦略です。
一方我々の社会はラッシュしやすくなっています。ちょっと医療ミスなんかが起こると、メディアも鬼の首でも取ったかのように大騒ぎして、世論もそれに乗せられて医者叩きをメッタクソにやってしまいます。帰結として産科医や命に関わるような分野の医者不足というのは非常に深刻で、その分、精神科医、皮膚科、眼科、歯科等々、命のやり取りとはちょっと遠い叩かれ難い医者が増えています。必然的に増えた供給を補う為に、新たな需要作り、病気作りが権益として重要になって来ます。
グローバル医薬品産業というのは当然、マスメディアにとって、巨大なスポンサーでもありますし、そのマスメディアに世論は踊らされる、そういう民意によって政治が動く、医療部門というのは政治家にとっても安心安全を利用した人気取りにもなるし、族議員のような連中からすれば権益でもある。もちろん官僚にとっても大きな権益ですし、ヒモ付きの補助金で研究をしている学者達も一緒。要するにステークホルダーにとって、病気作りというのは非常に重要な権益化しています。
こういった構造を隠す為には、心を病むのはその人が弱いからだという一種の差別的な分断統治を利用しているわけです。そういう心を病んでしまうような環境にどんどん加速しているのは政府のせいじゃなくて自己責任であると。それを権益化して更に増やすような病気作りの方向性に向かっているのは権益の為ではなく、処方箋をキチンと開発する国民の安心安全の為であると。
死刑になるような裁判になると、必ず出てくる話として、精神を病んでいたのではないか?というこれは弁護士にも責任はありますが、刑を軽くする事が彼らの仕事でもありますので、戦術として、そういう手法を取ります。
これに対して、最近では感情的に吹き上がりやすい構造を抱え、これはその事を権益化するメディアや統治権力、制度の問題を感情と理性をわけて考える事が出来ない世論が圧倒的大多数なので、この構造ですと、精神を病んでる?ふざけんな!!という方向に行きやすい。したがって俗情に媚びる事を生き残り戦略としている、メディアも政治家も、司法ですらもポピュリズムに走るのが一番権益の最大化には合理的という事になってしまっています。
なのでそういう線、排除や疎外への問題定義の啓蒙活動はメディアにとって何の権益にもならない。帰結として精神病への光は当たらない。当然、刑法39条はなるべく使いたくないという方向に行きやすい。精神病や社会が生み出す不合理によってはじかれてしまう理不尽へのフォーカスにはならないけれど、被害にあってしまった被害者家族の嘆きや悲しみばかりに光が当たる。いくら理由があったとは言え、こんな犯罪を起こす奴を許してしまっていいのか!!みたいな話の方が畜群と化した人々にとって、安心感や気持ちよさを感じるのでしょう。
簡単に言えば、例えば警察は、犯罪者を取り締まるのが仕事ですが、犯罪者がいなくなれば権益は減ってしまいます。なので犯罪が減っているのに、しかも劇的な減り方なのに、不安を煽り、体感治安を煽り、人々の恐怖への依存状態を作り出しています。再犯率の高さを煽ったりしますが、重犯罪を犯した人が万引きをしても再犯なので、これも嘘です。日本の本当の意味での再犯率は先進国基準で考えるといちじるしく低い。
犯罪者が根こそぎいなくなるような政策は絶対に取りません。取れないという物理的な不可能さももちろんありますし、取りたくないという省益も絡まってしまいます。人々が社会へのコミットメントを獲得し、はじかれた人々を包摂するような世の中になれば間違いなく疎外による犯罪は減るに決まっています。教育し啓蒙し制度作りをすればそういう方向性を目指す事は出来る。
しかしそれでは不安の担保を生業にしている連中はおまんま食い上げです。麻薬が無くならないのも、銃が無くならないのも、全部そこに帰結します。何故世界中がもっとアフガニスタン問題にコミットメントを示さないのか?理由の一つはそこにあります。
メディアも不安のポピュリズムによって飯を喰っているので、昨年度の殺人事件の件数が過去30年間で最低記録だった、一番治安がよかったなんて事は絶対に言わない。毎日毎日凶悪化キャンペーンをはっている。環境、食、外交、政治、病気、経済、あらゆる不安を後から後から作り出す。
ポスト冷戦以降のアメリカ及び奴隷である我が国の戦略、簡単に言えば世界最終戦争への恐れというのが冷戦時代にはあったわけで、その不安が柱としあったが故に、不安を作り出す必要は今ほどは無かった。
しかし冷戦崩壊とともに不安の柱が取り除かれる。人々を統治するには不安を煽るというのが最もセオリーでもありますので、後から後から不安を作り出し、不安に怯える事が大好きな国民は益々国家に依存して行くと言う図式になる。こういう構造と同じ構造なのだと思います。
そして今回の加藤容疑者が精神を病んでいたのかどうかは、自分は専門家ではないのでわかりませんが、病気作りという力学、犯罪者には断固対処という力学、様々な要素をアグリゲートして行くと、ステークホルダーにとっても、国民にとってもあれが精神を病んだが上での犯行であったという風にしたくない力学というか、圧倒的なマジョリティが生み出す巨大な波があるのだろうと考えます。絶対に死刑にするという。
例えば光市の母子殺害事件なんかが典型ですが、あの死刑囚がどういう精神状態であったのか?どのくらいの知能レベルであったのか?というのが完全にネグレクトされています。
18歳30日であった彼は子供の頃から父親の執拗な暴力によって、徹底的に虐待を受けて育っています。母親からも性的虐待を受けていたとも言われている。
12歳であまりにも父親の暴力が酷すぎて、母親が自殺し、それを最初に発見している。精神の発達もその時点で止まり、父親の執拗な暴力による心的外傷、物理的外傷によって、知能の発達に障害があり、感情が相当おかしくて、レベルは4、5歳位しか無いという鑑定も出ている。
彼がドラえもん発言をした事ばかりがクローズアップされて、弁護士もバカ扱いされましたが、こういう鑑定もあるのだという事が広く啓蒙されたかと言えば、大手メディアでは全く啓蒙されていませんし、死刑にしろと吹き上がっている連中がその上で言っているのかと言うとそういう感じでもない。
そして本村さん宅で、あの死刑囚が犯行を行った時、自分のネーム入バッジをつけた会社の作業着を着て、水道工事を装って侵入している。普通であれば嘘だとバレると思うでしょう。しかもポケットにはカッターナイフが入っています。殺すのが目的なら、何故そのカッターナイフを使わなかったのか?こういう基本的な事を考えれば、本村さんの気持ちは痛いほどわかるけれど、どうなんだろう?と普通であればなるはずだと思うのですが、全くそういう風にならない。
あの死刑囚は当初、警察から生きて罪を償えと言われたと言っています。だから供述調書にもサインをしたと。本当は手打ちであった可能性があるわけです。つまり警察のストーリにサインをすれば、死刑は見逃してやるという取引を。
裁判所も最初はその事を織り込んで、無期懲役という判決を出した。本当はそこで解決するはずだった。
しかし本村さんが吠えてしまった。死刑にならなければ殺すとまで言った。これは遺族としては当然の言葉かもしれませんが、これによって一気に感情をくすぐられた民意が吹き上がり、メディアも、司法もその俗情に媚びて、本当は手打ちであったはずのストーリーをぶっ壊して何が何でも死刑にしないと、民意に媚びるメディアが騒ぐという恐れがあったわけです。当然政治家もそれに乗る。
そこで安田弁護士にバトンタッチされて、証言を全部ひっくり返すわけですが、これは当たり前と言えば当たり前です。死刑にはしないからというのが条件で、死刑囚もサインをしているわけで、それなのに死刑にするという流れになっているので、話が違うという事を安田弁護士に説明する。
当然ひっくり返すしか方法は無い。鑑定書を調べてみると明らかに供述調書と食い違っている部分が沢山ある。それは手打ちであった事を示唆する部分でもある。検察も裁判官も鑑定書を調べていれば供述調書との食い違いがある事ぐらい簡単にわかるような単純な話です。死刑という制度をポピュリズムの道具として使っているのではないか?と立ち向かうわけです。
しかし世の中の空気が死刑一色になってしまい、メディアも結託して、弁護側に都合が悪いように恣意的に情報をアブストラクトして報じる。結果はご存知の通りです。
弁護側の言い分が嘘か本当かは別として、一般的に啓蒙されているのか?と言えば全くされない。何故証言を覆した?とか反省してない!!とか叩いている人達が、最低限これくらいの前提条件を知る環境があって、言っているのならともかく、どう考えても偏りがある。
結局、何がステークホルダーにとって都合がいいのか?国民がストーリーとして受け入れやすいのかという所で決着してしまう。大多数の国民はリテラシーなんて無いので、ある意味ステークホルダーのやりたい放題です。これと同じ事なんじゃないかと思います。今回の事件も凶悪な奴の犯罪であるという事にしておきたい。
精神病に対する無理解という問題、それを覆い隠そうとする力学というのが働いているのは確かでしょう。ヤンデレだのメンヘルだのと萌え対象なってたりするのに、根本的な理解は絶望的ですらある。
つづく!!
この切り口での問題の設定は非常に根深い話なので、コメント返しもかねて、ちょっと考えてみようかと思います。
まず自分はこの問題を語れるだけの知識も経験もありませんので、素人の見解として加藤と言う男が実際にどうなのかというのはわかりません。そういう風に言われればそうなのかもしれないという可能性は感じますが、そこの部分がどちらなのか?という事は書けません。
自分は医者じゃないので、処方箋も知りませんし、どうすればいいのかもわからない。ただ個人的な人間関係を結んでいる自分のまわりの人間には精神を病んで苦しんでいる人がいた経験もあります。摂食障害によってリストカットを繰り返す人とか、鬱病で苦しんでいる人とか、何度か人生の中でそういう人と接点があり、個人的関係性において力になるよう努力した事もあります。
若い頃は全然何の力にもなれなかった事もありましたが、ある程度の年齢以降は、結構そういう人達が、復活して感謝されるというパターンが何度かありましたので、個人的な関係性があれば、それなりに手を差し伸べる事は可能だと考えております。ただこれだとケースバイケースでしかないので、女の子であれば彼氏が出来ればあっという間に治っちゃったり、とか、別に自分が何かをしたり助言をしたから救ったのだなんて考えるほど傲慢じゃありません。
ただ相談に乗るという行為を受ける事が多いので、手を差し伸べたり話を聞いたり、まあ助言をしてあげたりする事も何らかの足しになり得るのではないかとも思っております。
まあその程度の人間なので、全くお門違いな話かもしれません。とりあえずその事を最初に書いておきます。なので、精神を病んでいるかどうかという問題よりも、その事を社会としてどう考えるかという事を書こうと思います。それではおっぱじめます。
70年代、80年代ぐらいですと、精神を病んでいる方々を隔離する、という治療法は差別であるとか、人権侵害であるという澎湃としての声が起こりました。精神科医に対するプレッシャーも、同じ人間をそんな酷い扱いをするなんて、みたいな声と言うか運動が起こりました。これは左派がもうちょっと人気があったからというのもあるし、運動というのがもう少し身近だったというのと、そういう事によって社会が変わるという希望をまだみんなが信じていた。相対的にそういう人が多かったというのもあります。
しかし、今ですとそんな事を言っていると痛い奴的な批判もありますし、手を差し伸べないくせに、わかりやすい悲劇によって被害者家族が嘆き悲しむ姿にはやたらと同情の声ばかりが威勢よく響いてしまう。精神科医に対するプレッシャーも、精神病患者に対するプレッシャーも全く変ってしまっています。簡単に言えば、何でそういう状態になっているのかなんて事はどうでもよくて、安心安全の為に隔離しておけ!!みたいな風潮になっている。野放しにしておく事に対して逆に精神科医を責めるようなプレッシャーがあります。
精神病の方々が増えているのに、それに反比例するかのように、そういう方々への無理解や排除の構造が進んでいます。これは一種の分断統治にもなっている。フーコーなんかが言ってますが、権力がこの構造を増幅して利用している。
これは左派に大きく責任があります。ずっと弱者利権を利用して来た。解決する為ではなく運動の為に利用して、その事がこういった問題が解決に進んで行かない原因で実は権益であったという事がバレてしまいます。中には捏造や嘘も混じっている。その事によって、いったん左翼バッシングというのが非常に盛り上がりました。小林よしのりなんかが持てはやされたりした。
確かに左の連中にはそういう部分はありました。だからその事自体はしょうがない所もあるのですが、弱者運動をやっている奴らの権益の為であったとしても、病や社会的な構造にはじかれたりしているせいで虐げられている人達は実際にいるわけで、そこまで一緒になって叩いてしまった。そういう人達に左派のような恣意的な救いの手ではなくて、ちゃんと社会に包摂されるようなセーフティネットの構築にはならず、何のオルタナティブも提示しないまま叩いてしまった。ここにつまずきの原因が一つあります。
今の流れというのはメディカリゼーションと言いまして、病気作りが、グローバル化してしまったビックファーマ、医薬品産業の世界戦略として動いております。
誰でも五つ六つ質問に答えれば何らかの病気の予備軍であるという診断をこじつけて、薬漬けにしてしまうという戦略です。
一方我々の社会はラッシュしやすくなっています。ちょっと医療ミスなんかが起こると、メディアも鬼の首でも取ったかのように大騒ぎして、世論もそれに乗せられて医者叩きをメッタクソにやってしまいます。帰結として産科医や命に関わるような分野の医者不足というのは非常に深刻で、その分、精神科医、皮膚科、眼科、歯科等々、命のやり取りとはちょっと遠い叩かれ難い医者が増えています。必然的に増えた供給を補う為に、新たな需要作り、病気作りが権益として重要になって来ます。
グローバル医薬品産業というのは当然、マスメディアにとって、巨大なスポンサーでもありますし、そのマスメディアに世論は踊らされる、そういう民意によって政治が動く、医療部門というのは政治家にとっても安心安全を利用した人気取りにもなるし、族議員のような連中からすれば権益でもある。もちろん官僚にとっても大きな権益ですし、ヒモ付きの補助金で研究をしている学者達も一緒。要するにステークホルダーにとって、病気作りというのは非常に重要な権益化しています。
こういった構造を隠す為には、心を病むのはその人が弱いからだという一種の差別的な分断統治を利用しているわけです。そういう心を病んでしまうような環境にどんどん加速しているのは政府のせいじゃなくて自己責任であると。それを権益化して更に増やすような病気作りの方向性に向かっているのは権益の為ではなく、処方箋をキチンと開発する国民の安心安全の為であると。
死刑になるような裁判になると、必ず出てくる話として、精神を病んでいたのではないか?というこれは弁護士にも責任はありますが、刑を軽くする事が彼らの仕事でもありますので、戦術として、そういう手法を取ります。
これに対して、最近では感情的に吹き上がりやすい構造を抱え、これはその事を権益化するメディアや統治権力、制度の問題を感情と理性をわけて考える事が出来ない世論が圧倒的大多数なので、この構造ですと、精神を病んでる?ふざけんな!!という方向に行きやすい。したがって俗情に媚びる事を生き残り戦略としている、メディアも政治家も、司法ですらもポピュリズムに走るのが一番権益の最大化には合理的という事になってしまっています。
なのでそういう線、排除や疎外への問題定義の啓蒙活動はメディアにとって何の権益にもならない。帰結として精神病への光は当たらない。当然、刑法39条はなるべく使いたくないという方向に行きやすい。精神病や社会が生み出す不合理によってはじかれてしまう理不尽へのフォーカスにはならないけれど、被害にあってしまった被害者家族の嘆きや悲しみばかりに光が当たる。いくら理由があったとは言え、こんな犯罪を起こす奴を許してしまっていいのか!!みたいな話の方が畜群と化した人々にとって、安心感や気持ちよさを感じるのでしょう。
簡単に言えば、例えば警察は、犯罪者を取り締まるのが仕事ですが、犯罪者がいなくなれば権益は減ってしまいます。なので犯罪が減っているのに、しかも劇的な減り方なのに、不安を煽り、体感治安を煽り、人々の恐怖への依存状態を作り出しています。再犯率の高さを煽ったりしますが、重犯罪を犯した人が万引きをしても再犯なので、これも嘘です。日本の本当の意味での再犯率は先進国基準で考えるといちじるしく低い。
犯罪者が根こそぎいなくなるような政策は絶対に取りません。取れないという物理的な不可能さももちろんありますし、取りたくないという省益も絡まってしまいます。人々が社会へのコミットメントを獲得し、はじかれた人々を包摂するような世の中になれば間違いなく疎外による犯罪は減るに決まっています。教育し啓蒙し制度作りをすればそういう方向性を目指す事は出来る。
しかしそれでは不安の担保を生業にしている連中はおまんま食い上げです。麻薬が無くならないのも、銃が無くならないのも、全部そこに帰結します。何故世界中がもっとアフガニスタン問題にコミットメントを示さないのか?理由の一つはそこにあります。
メディアも不安のポピュリズムによって飯を喰っているので、昨年度の殺人事件の件数が過去30年間で最低記録だった、一番治安がよかったなんて事は絶対に言わない。毎日毎日凶悪化キャンペーンをはっている。環境、食、外交、政治、病気、経済、あらゆる不安を後から後から作り出す。
ポスト冷戦以降のアメリカ及び奴隷である我が国の戦略、簡単に言えば世界最終戦争への恐れというのが冷戦時代にはあったわけで、その不安が柱としあったが故に、不安を作り出す必要は今ほどは無かった。
しかし冷戦崩壊とともに不安の柱が取り除かれる。人々を統治するには不安を煽るというのが最もセオリーでもありますので、後から後から不安を作り出し、不安に怯える事が大好きな国民は益々国家に依存して行くと言う図式になる。こういう構造と同じ構造なのだと思います。
そして今回の加藤容疑者が精神を病んでいたのかどうかは、自分は専門家ではないのでわかりませんが、病気作りという力学、犯罪者には断固対処という力学、様々な要素をアグリゲートして行くと、ステークホルダーにとっても、国民にとってもあれが精神を病んだが上での犯行であったという風にしたくない力学というか、圧倒的なマジョリティが生み出す巨大な波があるのだろうと考えます。絶対に死刑にするという。
例えば光市の母子殺害事件なんかが典型ですが、あの死刑囚がどういう精神状態であったのか?どのくらいの知能レベルであったのか?というのが完全にネグレクトされています。
18歳30日であった彼は子供の頃から父親の執拗な暴力によって、徹底的に虐待を受けて育っています。母親からも性的虐待を受けていたとも言われている。
12歳であまりにも父親の暴力が酷すぎて、母親が自殺し、それを最初に発見している。精神の発達もその時点で止まり、父親の執拗な暴力による心的外傷、物理的外傷によって、知能の発達に障害があり、感情が相当おかしくて、レベルは4、5歳位しか無いという鑑定も出ている。
彼がドラえもん発言をした事ばかりがクローズアップされて、弁護士もバカ扱いされましたが、こういう鑑定もあるのだという事が広く啓蒙されたかと言えば、大手メディアでは全く啓蒙されていませんし、死刑にしろと吹き上がっている連中がその上で言っているのかと言うとそういう感じでもない。
そして本村さん宅で、あの死刑囚が犯行を行った時、自分のネーム入バッジをつけた会社の作業着を着て、水道工事を装って侵入している。普通であれば嘘だとバレると思うでしょう。しかもポケットにはカッターナイフが入っています。殺すのが目的なら、何故そのカッターナイフを使わなかったのか?こういう基本的な事を考えれば、本村さんの気持ちは痛いほどわかるけれど、どうなんだろう?と普通であればなるはずだと思うのですが、全くそういう風にならない。
あの死刑囚は当初、警察から生きて罪を償えと言われたと言っています。だから供述調書にもサインをしたと。本当は手打ちであった可能性があるわけです。つまり警察のストーリにサインをすれば、死刑は見逃してやるという取引を。
裁判所も最初はその事を織り込んで、無期懲役という判決を出した。本当はそこで解決するはずだった。
しかし本村さんが吠えてしまった。死刑にならなければ殺すとまで言った。これは遺族としては当然の言葉かもしれませんが、これによって一気に感情をくすぐられた民意が吹き上がり、メディアも、司法もその俗情に媚びて、本当は手打ちであったはずのストーリーをぶっ壊して何が何でも死刑にしないと、民意に媚びるメディアが騒ぐという恐れがあったわけです。当然政治家もそれに乗る。
そこで安田弁護士にバトンタッチされて、証言を全部ひっくり返すわけですが、これは当たり前と言えば当たり前です。死刑にはしないからというのが条件で、死刑囚もサインをしているわけで、それなのに死刑にするという流れになっているので、話が違うという事を安田弁護士に説明する。
当然ひっくり返すしか方法は無い。鑑定書を調べてみると明らかに供述調書と食い違っている部分が沢山ある。それは手打ちであった事を示唆する部分でもある。検察も裁判官も鑑定書を調べていれば供述調書との食い違いがある事ぐらい簡単にわかるような単純な話です。死刑という制度をポピュリズムの道具として使っているのではないか?と立ち向かうわけです。
しかし世の中の空気が死刑一色になってしまい、メディアも結託して、弁護側に都合が悪いように恣意的に情報をアブストラクトして報じる。結果はご存知の通りです。
弁護側の言い分が嘘か本当かは別として、一般的に啓蒙されているのか?と言えば全くされない。何故証言を覆した?とか反省してない!!とか叩いている人達が、最低限これくらいの前提条件を知る環境があって、言っているのならともかく、どう考えても偏りがある。
結局、何がステークホルダーにとって都合がいいのか?国民がストーリーとして受け入れやすいのかという所で決着してしまう。大多数の国民はリテラシーなんて無いので、ある意味ステークホルダーのやりたい放題です。これと同じ事なんじゃないかと思います。今回の事件も凶悪な奴の犯罪であるという事にしておきたい。
精神病に対する無理解という問題、それを覆い隠そうとする力学というのが働いているのは確かでしょう。ヤンデレだのメンヘルだのと萌え対象なってたりするのに、根本的な理解は絶望的ですらある。
つづく!!