前回の続きです。

左派というのは政治的自由には賛成するが、経済的自由には網をかけて規制しろというのが一般的に認識でしょう。

それに対して右派というのはその反対で、経済的には自由を求めるけれど、政治的には自由を求めない。

軍国主義とか共産主義というのは政治も経済も自由を認めない。

しかし新自由主義というのは政治的自由も経済的自由も支持するというのがそもそものあり方で、これを極端にするとリバタリアンとなり、少し弱めるとネオリベとなります。

ネオリベ批判をしていても、これが経済格差を生むのだという批判に対して、という事は経済は不自由に規制で縛ればいいのですねというと、なんか左翼だと自由に反対とか言うのが居心地が悪く感じてしまったりしてハッキリしないと言うか、批判するのは結構なのですがその後の方向性がそれじゃたいして変らないじゃん、みたいな感じだったりする。

過酷な労働環境を強いられているという事が、アノミーを生み出してしまっているという言い方というのは、どうも違和感があって、昔左翼のネタ本だった鎌田慧さんの自動車絶望工場というトヨタの季節労働者の過酷な労働環境を描いた本がありましたが、あれを読んだときも、どこが絶望なのか理解が出来なかったというか、むしろ随分と楽でいいじゃねえかと思ったくらいです。休みはあるし、給料が安いわけでもないし、一日の労働時間だって、別にたいして長くないと言うか短いし、休憩だってあるじゃんかと。

料理の仕事が辛いとか言いたいわけじゃなくて、過酷な環境で働いている人はいっぱいいる。だから仕事がキツいという事が理由になってアノミー化する事はあんまりないのではないかとも思うのです。だって嫌なら辞めりゃいいわけで、鎖で繋がれムチでひっぱたかれているわけじゃないはずです。

親方の恐ろしさを考えたら、とても辞めるなんて口に出来ないという経験がありますので、物理的にも気持ち的にも不可能だと言う環境はあるのは確かです。それに稼がなきゃ食って行けない。それはわかる。でも死にたくなるくらい嫌だったら、何も服従する必要は無い。

デュルケムが金持ちから貧乏に落ちぶれるのと、貧乏人が急に金持ちになるのとでは、後者の方がアノミー化し自殺するパターンが多いと言いましたが、多分賃金が安い事とか、仕事が過酷であるとかでは人はそう簡単に絶望しないのではないかと思うわけです。結局の所、その居場所が自分の居場所だと思えず、承認が不足した時、希望が感じられない出口の無さに気付いた時、人は死にたくなったり、アノミー化してしまったりするのではないのか?と思うわけです。

そしてループに落ち込んでしまい、その事に気付いてしまった時、人は苦痛を感じるのではないかと思うわけです。心の問題ならニーチェでも読めよで話は終わってしまうのですが、社会全体がこのループに取り込まれている。

幸福とは何か?という事に気付かずにそのループに絡めとられて、携帯でのコミュニケーションやパチンコにしろオタク的趣味にしろ、なんらかの蛸壺、それが仕事であっても構わないわけですが、そういう没頭出来る偽りの何かによって、承認を感じたり、まったりとゆっくりと気付く事も無く生きているときというのは、それなりに幸せに感じたり、幸福ってなんだろうなんて事も思う必要も無く、目の前の何らかの萌え要素に些細な気持ちよさを感じ、この無限地獄のループをやり過ごす事も十分可能で、それで満足している人は幸せだとも言える。だからデータベース的な記号の消費や動物化現象がどんどん進んでもいる。

ネット社会によって加速している方向性として、一人一人の欲望にフィットするツールが溢れているので、蛸壺化し、個人化し、いつも見ているのは同じ所と言った感じで不毛な時間を費やしてしまっている、何時間もネットで検索して、ちょっと後悔みたいな、こういう状況になると自分の欲望に折り合いを付ける必要が無くなってしまう。

でもだから不毛だと言ってここから解脱しろと説教するなり、自分で気付くなりしたらしたで、今度は幸福とはなんだろう?何をやっても虚しい、こんな事をやっていていいのだろうか?的な気付きを感じてしまった瞬間に、幸福か?不幸か?という二元論に絡めとられてしまい、どちらなのか?という事を絶えず突き付けられてしまう。

ループでグルグル回っている状況に気付いたり、まやかしのツールでのかりそめの充実感に気付くと、そういうものの向こう側に絶えず今幸福と言えるのか?と言う問いが発動してしまう。しかもループから出る術も、蛸壺から出る術も知らないまま。無理矢理そこから飛び出してしまえば孤独な承認不足に悩む事にもなってしまう。

かと言ってその場に留まっていても、絶えず幸福か?という問いを考えずにはいられない状況に陥ってしまい、幸福なんだと思い込む何かによって一瞬テンションアップ、気付いて落ち込む、という繰り返しが今度は発動してしまう。こういう構造に絡めとられてしまっているのではないかと思うわけです。

こういう構造の先には勝ち組やセレブとか金持ちへの羨ましさを増幅させるような啓蒙や、恋愛にしろ仕事にしろ承認や充実感を得ている成功者の話が絶えず目の届く所でさらされて、きっかけがありさえすればという希望を与えながら、絶えず不可能性を突き付けられて、自分がダメなのは宿命なんだと受け入れ、それでもそのままの自分で肯定されたいとなってしまう。

宿命論に対してネオリベは何も答えを与えてくれない。むしろ宿命を受け入れざるを得ない状況を突き付けてしまう。それか違う宿命があるはずだとテンションをあげて自分を元気づけるというループ状態。ネオリベの政策がどうこうという問題ももちろんあるのでしょうけれど、その事が多くの人にとってネオリベ化の最大の問題なのではないかと感じます。

希望も無い、出口も無い、自由にしていいよと言われれば言われたで、何をしていいのかがわからない。そう感じている人にとっては、格差の問題より、本当はそこが一番の問題なのではないか?

所得が上がれば生活満足度は上がりますが、幸福度は下がるというデータもある。下っ端で働いているときの方が仕事をしている時そのものは幸せだという見方もあるわけです。上に行けば行くほど責任がのしかかってくるし、収入が増えれば増えるほど遊びに使う時間も減るわけで、単純にどちらが幸せだとは言い切れない部分もある。

年収100万UPするごとに幸福度が1%上がるなんていうデータもある。100万円分苦労して、1%じゃどうなんだ?という見方だってある。つまり端から見ていると幸せそうに見えたりしても、実際の所はそうでもなかったりする。下っ端で働いているときは地獄だ、早いとこ辞めたいなんて思ったりしても、いざ上に立ったら立ったで、下っ端の頃の方が気楽で良かったななんて話はよくあるパターンです。

もちろんこういう言い方というのは搾取する為の言い訳に使ってしまうのは良くないと思います。酷い生活に落ち込んでいる人はいますから。だけど、幸福かどうかなんてのはモヤモヤとして形のよくわからない定義付けもよくわからない、個人間でも感じ方の差で全然変ってしまうものに過ぎませんので、こういうものに煽られるのは本当は不毛な構造なのかもしれません。

60年代頃と比べれば、多分今の方が幸福度はあがっています。しかし貧困の記憶がハッキリ残っている状況で、貧困を克服し、経済成長を実感し、平等な社会を達成したと実感出来た。不平等が段々消えて行った。核家族化によって、濃密であるが故に不自由でしかなかった共同体の縛りから自由になった。こういう実感があったので、幸福を実感出来た。

しかし相対的に便利になって裕福にもなっていても、核家族は崩壊し、所得格差は固定化し、貧困を知らず、生まれた時から変らない。というか未来に暗い影が差し経済成長の希望も無い。生まれた時から平等、自由を与えられ、むしろ昔の不自由や不平等な共同体の濃密な体験ばかりが美化されて啓蒙される。しかもバブルで散々いい思いをした人達が実際に生きていて、あの頃は最高だったぜ的な夢のような話を聞かされる。

こういうものが若者達に飢餓感を与え煽っている構造があるのではないか?

ニーチェは自分が幸福かどうかを問う事そのものをした瞬間に絡めとられてしまう権力構造を超越しろという、超人という概念を言います。これは依存を退けて自立しろと、簡単に言えばそういう事です。これはプラトン主義的キリスト教が何かと言うと、神の罰や神の恐れによって人々を縛る構造から脱却しようとしたわけです。

古代ギリシャの山の神であったヤハウェが、セム族系の人々がシナイ半島に移っていく過程で、絶対神、名指す事の出来ない神、超越的な寄る辺として創造し、苦難に満ちた人々を救います。ユダヤ教というのは神との契約によって救いを得るという発想だったわけですが、これに対してソクラテスはエジプト的なものであると依存を退けて、自らの足で立つという事を言います。

初期ギリシャ、ソクラテスの思想はそういう絶対なるものに帰依する生き方ではなく、理不尽なものを受け入れ、それに向かい合う生き方が理想的な生き方だと説き、プラトンも途中まではその流れでしたが、民主政治を採用しているアテナイを中心とするデロス同盟が、寡頭制の貴族政治を採用しているスパルタを中心とするペロポネソス同盟との、ポリス間の権益争奪戦の末、ペロポネソス戦争に破れた後、そういうエリート的な思想ではアテナイの普通の人々は救えないと考え、イデアという概念を持ち出します。

弟子であるアリストテレスはその思想を批判しましたが、プラトンは自分の思想の矛盾点に気付いていたと言われています、しかしその矛盾を用いなければ、すがるものを持ちたいと思う人々は救えないという、ジレンマに陥る事となります。

ソクラテスからアリストテレスに至る流れの中で、ソクラテスがアテナイの人々によって死に追いやられてしまう事によって、プラトンもアリストテレスも民主政治を憎んだと言います。民主政治など所詮貧乏人の衆愚政治だと。話し合わないと何も決まらない、そうこうしているうちに王制のスパルタの軍隊にやられてしまう。まさしく今の日本の姿もこの袋小路に陥ってしまっているように見える。民主制というより衆愚政治という感じの。

この二人の知の巨人の思想はその後のヨーロッパでも長く伝わっていきます。それがその後のキリスト教圏の社会の根幹にある思想を形作っていきます。だから民主制も長い間忌み嫌われて来た不完全なというか不可能な思想であると。それは今でもラディカル・デモクラシーという形で受け継がれている。民主主義は徹底的に突き詰めると不可能な矛盾のある制度であると。

アリストテレスの思想は後に、アリストテレス学派というアリストテレスの思想にすがる人々を生み出し、ガリレオ・ガリレイを異端者扱いし、逆に学問の発展を阻害する事となります。ネオプラトニズム的キリスト教を批判したニーチェの構図も、まさしく依存と超越の太古から繰り返されて来た図式です。

日本はアニミズムの伝統があったとは言え、一神教的な神はいません。にもかかわらず海に囲まれていたという事が最大の要素だったのかもしれませんが、お上に依存するという図式がずっとあって、日本の天皇を疑似的に利用して、近代を走らせましたがそれも壊れた。テクノロジーの発達によって、八百万の神も消えてしまった。ニーチェの「神の死」を持ち出すまでもなく、そもそもそんなものはいないわけです。

という事はニーチェ的に言えば超人的な思想というのは、神がいるのなら、依存、超越と言う二項図式が成り立つわけですが、依存する対象が無いにも関わらず何かに依存している状況では上手く回らないのも必然だとも言える。そういう神様のようなものがいなければニーチェ的な超越は不可欠の発想だと捉える事も出来る。

幸福かどうかなんて事を考えるから、実りの無い二元論に囚われてしまうわけで、幸福かどうかなんて事を超越した生き方こそが、神のいない時代に対峙して渡り合って行く生き方でもあるのかもしれません。不条理OK、不合理OKと。

それは鈍感になれという事ではない。ループの実りの無さに気付いてしまえば、知らなかった状態に後戻りは出来ない。そういう理不尽や痛みを知りつくして、知らぬが仏を越えて、囚われないアティチュードが望ましいのかもしれません。

とは言うものの、この国でそんな賢人的な生き方なんて出来ないという人が大多数でしょうし、自分も凡人の俗物なのでそんな生き方は出来ません。それにこの国では例えば対米依存状態一つとっても、依存の構造、二元論的構造に満ち満ちている。

そうであるのなら依存が可能なシステムを構築するしか無い。これは国家とか、アメリカとか、憲法9条とか、実世界に影響を及ぼすようなものではない、簡単に壊れたり抜け駆けを感じたり裏切りを感じたり出来ない概念化された対象でなくては不可能です。そんなもの出来るのか?といったら、非常に難しいと言わざるを得ない。

あえてあるとすれば、日本人の感情と理性を峻別出来ないという特性を逆利用して、正義とか大義とか奉仕とか、そういう事がいいのではないのかとなってしまうのですが、そうなると大日本帝国になりかねない。

結局は感情と理性を切り離し、二元論的思考を脱却し、依存を退けるような成熟を目指すという方向性が難しいのは確かですが、そこへ向かって行く事でしか前に進めないのかもしれません。個人でそんな事やろうと思っても凡人には難しいので、結局連帯して行くしかない。他者とのコミットメントしか方法が無いのではないかと。

こういう問題というのは特に、要するに制度を規制したり、国家が何とかしてくれると期待を持っても、希望は限りなく乏しい。多分小泉から安倍そして福田の流れによって国民が痛みを感じているというのも間違いないので、政権交代は不可欠です。これは大前提です。しかしすぐにどうこうなりそうな感じもしない。だからって政治に無関心になっちゃ絶対に何も変わらないのですが、それを待っている間も不合理は発生してしまう。という事は・・・・・・・

秋葉原の惨劇を見て、打ちのめされて、あれこれと書きました。