前回の続きです。

郵便局の母体というのは集権マシーンであったわけで、郵便局のOBや奥さん達が作っている会があり、これが地域の政治的コミュニティを作って来ました。ここから政治家を生み出し上に上げて行くというシステムです。

ただの票田というだけではなくて、下からの積み上げのトックヴィル的デモクラシーのシステムであったわけです。これはコミュニタリアン的な優れたシステムであったんだと擁護する人が一方であり、それに対してリベラル勢力が、政府が作っているお抱え市民によるデモクラシーは本当のデモクラシーではないのだという事で反対、要するに郵政民営化を賛成したわけです。地域コミュニティは政府主導ではいけないのだと。

市民派もこの問題では割れた。ネオリベとリベラルが一致してしまった。

郵政民営化の問題の裏で、実は左派にとって、自民党に都合のいい人材を選出するシステムの破壊という事もあったので、郵政民営化に賛成してしまうというねじれが起こってしまう。だからそんなに強力な反対が出てこなかった。強力に反対していたのは保守が田舎のおばあちゃんが不便になるじゃないかという切り口で大きな政府を主張した。

年金問題も、基礎年金を平等に払って後は民間の保険会社に任せた方がいいんじゃないか?というのがリバタリアン的発想なのですが、政府の役割を縮小するのでネオリベとも言える。サービスを民営化し自己責任で何とかしろという事です。ところがリベラルの発想というのはこうではなくて、未納者問題というのが騒がれたわけですが、従来の制度の維持を考えた場合、みんなに年金を払って貰ったんじゃ困るわけです。

あまり稼いでいない人がこのシステムに加入してしまうと立ち行かなくなってしまう。未納問題を社会問題化してほしくないというのがあった。未納者が多ければ今のシステムは維持出来るだろうというのがあるので、今まで払い続けて来た人は連帯をしてシステムの維持を模索する、リベラルな連帯を生み出すわけですが同時にこのシステムを維持する為には排除もしなければならない。だから責任も取らずに制度変更するのはけしからんと、社保庁叩きに終始してしまうという面もある。

高齢者の間で、払ってない奴の分まで払う余裕は無いので、払っている奴の間だけでシェアしようという本音が出てしまっている。実行可能な方法で考えるとそれしかないという事で、こういう方向性になっている。

これに対してネオリベやリバタリアンはそれはおかしいのではないか?平等な基礎年金は支払うべきなのではないのかという立場を取った。リベラル勢力には非常に問題があって時と場合を使い分け大きな政府や小さな政府を使い分けている。つまり主張に整合性が無い。

新自由主義というのが格差容認だという見え方があるわけなんですが、この国のリベラルは特にそうですが、ある人達の間での平等の外側に大量に不平等を生み出して来た。これがネオリベからのリベラルに対する批判の中心的な言い方なんですが、限定された人々の平等の話だけをしているのであると言うわけです。

その制度を維持する為にたくさんの犠牲を生み出して、影で支えている人あって初めて駆動しているではないかと。福祉政策にしたって、結局女性が割を食って滅私奉公していた所もあったわけで、そういう不合理を抱えた時代の構造が正しかったと錯覚されるような言い方はおかしいのではないのか?と。

結局の所、自己責任化するって事は格差を容認する事になりますので、それがネオリベ批判の対象になるわけなんですが、OECD加盟国での相対的貧困率のランキングというのがあって、アメリカと日本がブッチギリで1、2、フィニッシュを決めています。もうじきトップの座をアメリカから奪う事になるでしょう。

これを根拠に日本の格差社会を問題にするわけなんですが、確かにそういう面はあると思います。問題はある。だけどデータというのはいろんなものを付き合わせて考えないと偏ってしまいます。

日本の都会のサラリーマン700万くらいの年収を世界で見てみると、上位1%にすでに入っています。そしてワーキングプアという言葉がありますが、年収200万でも上位12~13%くらいに入ってしまいます。年収100万でも14%まで行かない。逆に言えばそれだけ世界のトップクラスの収入を末端まで獲得出来るような構造になっているにもかかわらず、何でそんなにみんなが幸福だと感じられないような社会になっているのか?という事の方が、本当は問題なんじゃないのか?という見方も出来るわけです。

国内での格差もわかるけれど、世界との格差で考えれば、日本の最下層でも世界のトップ10%ぐらいに入っちゃってるのをどう見るのか?

今の日本社会が勝ち組、負け組と二極化してしまっているという言い方があります。しかし給与所得の推移をここ数年調べてみると、2000万以上貰っている人が0.4%で変っていない。1500万、1000万のレベルでも殆ど変わっていない。

どこの層が増えているのかというと、800万、700万、600万とどこも増えていない、全部減っている。100万の層だけが増えている。二極化したというより、山が下にずれたという言い方の方が正しくて、勝ち組が増えているわけでは全然無い。

しかし勝ち組羨ましいぜという感覚が支配している。ルサンチマンを感じているから大騒ぎしている人もいっぱいいる。正確に見れば、みんなどっちかと言えば負けているわけです。ようするに収入が減っている人ばかりが増えている。早い話が希望がなくなってしまっていると言えるわけです。

高度経済成長の頃は、先々もう一歩上のランクの生活が出来るかもしれないという希望があった。それが無くなっている事が最大の問題なのではないかとも言えるわけです。公務員の給料もここ10年くらいで10%くらい下がってますし、昇進しようが給料が上がるわけでもなく、責任と負担が増えるだけ、そうすると上昇志向も無くなる。ストレスも生まれる。帰結として自分より下の給料を貰っている人達を見て慰める、ようするに下層に注目する人が増える。だからワーキングプアや格差社会にスポットが当たっている面も間違いなくある。

一方で現状を肯定する、今のままでいいのだという、そのままが一番的な風潮が出てくる、希望が無いんだから、今を肯定しなきゃ生きて行けないわけです。「世界に一つだけの花」病というのがあります。スマップの歌で、オンリーワンがいいんだ的なプレッシャーが社会にあった。今回の犯人も、人と違う特別な何かをしたかったなんて言っているとかいないとか。

そのプレッシャーによってオンリーワンになれない人はどうすればいいのだ?というルサンチマンが人々に植え付けられてしまう。人と違う何かを求めてとんでもない凶行に及んでしまったりもする。なので最近ではスマップの歌も「そのまま」と歌っている。

格差論にスポットが当たるのはむしろ景気が上昇しているときだなんて言い方もあるくらいで、下に移動した山の中から、金持ちに脱皮する抜け駆けする奴が出てくるのではないか?という感覚が作用している部分もあると言います。

給与以外の所得で抜け駆けをしようとしている人が叩かれたのは事実としてあったわけです。ホリエモンや村上ファンドが一世を風靡した傍らで、株で儲けようというようするに希望を見いだすような流れがあり、その事に対して拝金主義者的だ!けしからん!!という力学もあった。ホリエモンや村上ファンドが逮捕されて、新自由主義というか市場経済は良くないんじゃないかという雰囲気になったわけですが、これは正確に言うと、ホリエモンにしろ村上ファンドにしろ、パクられた罪というのは新自由主義的でも市場原理主義的でも無くて、単なる情けない、脇が甘いで終わってしまうような罪です。

ライブドアがニッポン放送の買収劇で演じた一連のグレイゾーンというのが倫理的に叩かれたわけなんですが、これは法的なレベルでは違法だったわけではなくて、結局ライブドア側に軍配は上がっているわけで、こういう手法がどうのこうのとも言われてますが、結局パクられたのはよくある話、ありがちなパターンでした。新自由主義でも市場原理主義でも無くて、単なるルール違反です。

それでも当時は流行語大賞に二年連続で「新規参入」「想定内」という言葉が選ばれたわけで、時代の流れ的には、保守系のオヤジや既得権益層の連中は騒いでいましたが、どちらかと言えば社会は彼らを擁護しているような空気があったし、彼らがパクられたときも、結局出る杭は打たれる的な、やりすぎたから既得権の連中が自分の権益を守る為にやったんだろ的な見方も結構あったわけです。世代間闘争的な感じも若干あった。

それが、保守系のバカオヤジが日本はこんなに品格の無い国になっちまったのかというマスターベーションが次第に世の中の空気になって行き、それとともにネオリベもダウントレンドになって来て今があるわけです。そもそも日本に品格ってあったっけ?って話です。こんな借金まみれの希望もクソも無い国にした奴らがよくほざくぜって感もしてしまう。

起こっていた事象を冷静に今考えてみると、別に外資やハゲタカが日本を滅茶苦茶にしたわけでもないし、むしろ無視されて魅力が無いから売られていたという所もあるわけで、拝金主義者どもを駆逐して世の中ハッピーかと言えば、企業も全体としては頭打ちになっている、金持ちも増えてない、景気が悪いから貧乏人が増えているというだけの話で、ネオリベでも市場原理でもグローバル化でもなかったのではないか?と見えない事も無い。

そこからバックフラッシュして世の中が良くなっているのかと言うと、単に一蓮托生で日本経済が急降下しているような、制度疲労の膿みが吹き出しているような、それで結局クレクレ主義が復活し、足を引っ張りあっているだけのようなそんな構図に見えます。ようするに時代の空気とも言える。

ホリエモンが持ち上げられたときはみんなで持ち上げ、小泉が持ち上げられたときはみんなで持ち上げ、安倍が人気があった頃はみんなで持ち上げ、それらが人気が無くなるとみんなで叩く、これが延々と繰り返されているだけで、亀田親子も朝青龍も沢尻エリカもミートホープも船場吉兆もこのループにハマっているだけ。

吹き上がって一瞬スッキリする為の祭りのネタであるだけで、その事自体に意味も何も無いのではないか?グローバル化でも、新自由主義でも、市場原理主義でも、新保守主義でも無くて、中身がなんにもないハリボテの空気に支配されているだけなんじゃないか?バブル待ちというか、祭り待ちみたいな空気。そして今はその事に対する中身のないアンチテーゼが空気。

秋葉原の惨劇を中継している時に感じたのですが、映っている人達には緊張感やとんでもない事が起こっているという風には見えなかった。単にお祭りに参加しているような、楽しそうな和気あいあいとした雰囲気すらありました。

悲しい事件があったから、涙を流していないと人として間違っているとか言いたいわけではありません。人は悲しくても笑ってしまう事もあるし、怒っていても笑ってしまう事もある。どんなに絶望的な状態でも笑ってしまうという特性を持っている。

しかし見ていて思ったのは、ネット上での様々な反応もひっくるめて、結局こういう事でさえ一種の祭りの記号として消費してしまっている感じなんだろうなと感じたわけです。携帯で写真撮っている人の多い事。別に撮るのは悪い事ではないのですが、あんなに多くの人が写真に収めて何をするのだろう?と感じてしまったわけです。

小泉竹中ラインの改革というのは非常に問題点も多く、自分もこのブログでは散々クソミソに書いております。だけど本当にこの問題がどうにかなればどうにかなるような社会なのか?もっと重要な、市民レベルでの問題というのがあるのでは無いのか?と思うわけです。

小泉以前の社会がそれほど善かったのか?というと小泉の前はサメの脳味噌の森嘉朗ですからね。小泉を叩いてもその前の構造だって問題だったという事を忘れちゃったのか?って感じです。ずっと日本はバブルの後始末が延々と進まずに不況に喘いでいた。その頃の方が善かったのかと言えば、そんな事は全然無いわけで、バックフラッシュはいいけれど、その頃に戻ったんじゃ日本はお終いです。

それに国のアーキテクチャを変更すると言っても、これには膨大な時間もかかるし、足の引っ張り合いが起こってしまうので、何を持って最適化なのかなんて事はやってみないとわからない事も多く、かと言って失敗すれば痛い目にもあうので、簡単な話でもない。

何か縫策を打ってすぐに世の中がウハウハな状態になるなんて事もありませんから、その時の流行り廃りであっちへフラフラこっちへフラフラ右往左往、蛇行運転で全然前に進まない。結果が出る前にバックフラッシュ、時間だけが虚しく過ぎて行く、その間、様々な問題が吹き出てくるわけで、その犠牲を指をくわえて見ているわけにもいかない、とすれば市民がそういう問題に対応しなきゃならない局面が沢山出てくるわけです。

今のリベラルにせよ、批判勢力にしろ、ネオリベにしたって、オルタナティブが無い。どういう社会にするのか?というものが見えない。

市場経済が悪いというのなら、どういう経済システムで社会を回すのか?規制でガチガチに縛ってユニラテラリズムを貫くなんて事が不可能だって事ぐらいはわかってるんでしょうけれど、それが今イチよくわからんのです。

増税して大きな政府を目指すのかと思えば、役人叩きもするし、透明化して小さくしろと言っちゃったら、ネオリベと変らなくなっちゃう。結局この国のネオリベにしろリベラルにしろ、理念じゃなくて対立の道具に過ぎないわけで、そんな連中が誰が舵を握ったって上手く社会を回せるわけなんてない。だって何がしたいかが無いのですから。反対がしたいだけ。

制度というのは結局恣意的な線を引いてしまうので、その内側と外側が生まれる。外側の人間は不平等を感じ、内側の人間は恩恵にあやかる。結局ネオリベと言われる方向性にしろ、リベラルという方向性にしろ、その外側にはじかれた人間が文句を言うわけで、その文句というのはそこに入れろか、そこを壊せしか有り得ない。なので格差社会批判をするのはいいのですが、その後どうするのかというのがわからない。

昔は欧米へのキャッチアップとか、左派も革命をおこして社会主義国家を作るとか、大きな物語があったのですが、そういうものが無くなって、どういう風にしたいのかというのが具体的イメージとして出てこない、せいぜい中国やインドのような労働賃金の安い国と張り合って加工貿易で食って行くと言う尻すぼみの、勝ち目の無い戦ぐらいしか目標としては不毛ですが無いわけです。そういう大きな物語が無くなると、自分を動機付けして一瞬盛り上がり、目標の遠さにガックリと来るループにこの国の人々はハマってしまっています。

そのままの自分でいいのだという力学が社会に増えているので、自分を磨くとか、鍛錬して何かを獲得するとかって話ではなくて、そもそも今の自分の中に、特別な何かがあってそれが表に出ていないだけなんだと思い込む事によって、テンションアップし、当たり前ですが普通の人にはそんなものは無いので、その無さ加減にガッカリする。

そのままでいいのだという甘い誘惑に癒されて、いやきっと自分の中に特別な何かがあるのではないか、と再びモチベーションを取り戻す事によってかろうじて今をやり過ごしている。そのループは出口がないもののループに取り込まれている事が、生きる意味も目標も希望も無い、大きな物語も無い時代を生きる動機付けの補充になっている。

それと同じで、批判をしているときだけは盛り上がって一瞬テンションが上がり、何も変わらない絶望感にガックリ来るというループに陥っている。生き生きと仕事をする為に自分らしさややりがいを求めるのと一緒で、生き生きと生きる為に批判をするみたいな目標の無いループ現象に陥ってしまっているのではないかという感じがするわけです。

当たり前ですがこれではちょっとその事に気付けば、普通の人なら疑問を持ったりやる気をなくしたり、出口の無さに息苦しさを感じたり、ルサンチマンを感じたりするのも当然で、そりゃアノミー化もするし、精神もおかしくなっても不思議じゃない。問題はこのループからどのようにして脱却するのか?という事に対するコンセンサス、教育、啓蒙、もしくはそれが子供であればループから脱却せざるを得ない環境に叩き込んで強制的に矯正するのも荒療治ですが一つの手段です。とは言ってもそういうのは現代的ではありませんので不可能だとも言える。

これと全く同じ構造に統治権力も絡めとられてしまっている、祭り上げられ引きづり下ろす、行っては戻り戻っては行きという綱引きのループに落ち込んでいる。だから全然前にも進まず、同じ場所でグルグルしている。したがって人々は何をやっても無駄だと感じてしまったり、希望も無くなってしまったりする。目の前のきれい事に吹き上がって、テンションアップを図り、飽きると他の何かを探す。ここもループに取り込まれている。

つづく!!