秋葉原での惨劇・・・・・・本当にビックリしました。何でこんなバカな事を。ちょっとショックで何も書けませんでした。
どうしてこういう凶行に及んだのかはわかりませんので、その辺の話は書けません。確実なのはこれで重罰化への道を更に加速させるという事、死刑の正当性が高まるという事でしょう。あの加害者はほぼ間違いなく死刑でしょうから。しかしこの辺の話も、今日の所はわきにおいておきます。
秋葉原での惨劇を見た時、自分は不謹慎かもしれませんが、お前なにかんがえてんだよ、こんな事やるなら自殺しろよ、そういう風に感じてしまいました。人生に何か問題があったとか言われたりしていますが、そこらへんの所はなんでなのかはしりません。しかしあんな無差別殺戮を行なうくらいなら自殺を選んでくれた方が被害は少なくて済む。そういう風に思ってしまった。
どんな理由があるにせよ、なんの関係もない人を、怨みがあるわけでもないだろうに、なんで無差別に殺すのか?どこにそんな必要があるというのか?そんな事するくらいなら、頼むから自殺してくれと。人を殺すほど世界が嫌いなら、自分が消えればいいじゃないかと。
自分は日頃から、子供の自殺に関しては、何があっても大人が食い止める必要があるだろうと感じております。子供達には自分で決定する能力がまだありませんし、リソースも制約されている。
しかし大人であればどうしても死にたいと感じている人がいるのなら、もちろん可能なかぎり止めますが、それでもどうしてもと言う場合、止める事が出来ないとも思っております。話を聞いてくれなけりゃ何を言っても無駄です。結局その人の気持ちは想像はできるけれど理解は出来ない。
それに死なせてやった方がいい事もあり得ると考えております。それはこういう帰結につながってしまったら元も子もないと思うからです。自分が消える事が出来なければ、世界を消すしか無いと考えてしまったりすれば被害はその人だけのものではなくなってしまう。自殺を止めて大量殺戮を生んだんじゃどう考えても不合理です。
説得が通じず、まわりの人がその事を救いとる事が出来ず、その人がどうにもならない袋小路に陥っていると感じているのだとしたら、自殺も自由な選択肢の一つである事を認めざるを得ないのではないかと感じてしまうわけです。
それが自己防衛のような暴力に抗う為の防御であるのなら、場合によってはしょうがないとは言いませんが、不可抗力の局面もあるのだろうとは思いますが、何の罪も無い人を殺すような選択肢を取るのなら自殺するべきであると。だからって殺人を犯す人がいなくなるとも思えませんが。
社会からはじかれ、生を選ぶというリソースが限られていたりもするので、個人に厳密な意味で選択肢が存在しうるのかという言い方をすれば、そういう状況に追い込んでしまう社会にも問題はあるんだろうと思いますが、それでも自殺もせず、人も殺さず生きている人の方が多いわけで、リソースが限られていたり、社会からはじかれてしまうという選択肢をあらかじめ社会から与えられている人だって生きている。
そして自分の生は、すべて社会のせいなんだとも言い切れない部分もあり、自己の選択によるものでもあるわけです。子供であればまだその選択肢を学んでいる最中であり、大人であれば今のありようは選択の帰結でもあるわけです。常に道は一つしかなかったなんて人は、この日本においてそんなにいるもんじゃないでしょう。少なくとも健常者であれば。
それと同時に誰も救いとる事が出来ないような袋小路に落ち込んでしまって、出口が無いと感じている人をなぜ社会が救えないのだろう?という理不尽が必ず存在してしまうというシステムの暴力性にも一方では虚しさを感じます。
自殺するのなら、そういう状況に追い込まれているのなら、声を上げてくれ、そしてまわりが手を差し伸べてやれとも感じる。まわりが気付いてやれよと。
まあこんな事を考えても無意味なんですが、そう思う一方で、今回の事件を起こした男の家族、仕事場の同僚、そしてまわりの人が何で何とか出来なかったんだという言い方をするのは簡単ですが、自分のまわりに希望を失っていると感じている人がもしいたとして、自分はその人に何が出来るのだろう?結局自分が何かをしてどうにかするというのは無理なんじゃないのか?という感じもする。
自信が無い。金をあげればいいのか?仕事を紹介すればいいのか?それとも赤の他人が知ったような顔をして承認をすれば救えるのか?話を聞いてやるという事ぐらいは出来るかもしれませんが、こういう短絡的な出来事を起こす人の話を聞いて、共感出来るなんて事は無理っぽいし、洒落にならないような地獄を味わっている人の話を聞いて、自分ごときが何かを言えるのか?単に愚痴を聞くだけじゃ現状は何一つ変らない。
確かに愚痴を聞いてやるだけで、スッキリする次元の悩みというのもあるでしょうけれど、自らの命を断とうと考えていたり、誰かを殺してしまおうなんて状況に追い込まれているようなレベルの人が果たして愚痴を聞いてやるだけでスッキリなんてするのか?という風にも思う。
自分も自殺したいとか言っている奴の相談に乗ったりした事はありますが、話を聞いていると、そこまで追いつめられているようにも聞こえなかったし、ちょっと承認を与えてやれば、復活して回復して行った。こういうレベルの人ももちろんいますが、そういう次元じゃない、もうどうにもならない環境に陥ってしまっている人を救うとしたら何をすればいいのかが難しい。
もちろんこれはそのケース事に処方箋も変るのでしょう。当たり前で下らん言い方ですがケースバイケースとしか言えない。なので一括りに考える事は出来ないのはわかるのですが、個別のケースを一般人が関わってどうにかするというのも難しい問題にも思える。かと言って、政府批判で話が落ちてしまっても現状が変る見込みもそう簡単には無いわけで、放っておくしか無いのか?
メディアではいろんな事が言われています。ナイフを規制しろ、ネットを規制しろ、言いたい放題です。特にクソメディアはネットを規制したくてしたくてしょうがないという感じですし、統治権力もそうでしょうから、これでまた一つエビデンスを獲得した事になる。ハッキリ言ってそんな事したら、世の中もっと滅茶苦茶になるでしょう。副作用を考えて言っているようにも見えない。
目に見える部分を規制すれば、何かしたような気になるので、やっちまえって話になるのですが、なんか全然本質とは関係ない事を騒いでいるような気がする。別に重犯罪が増えているわけでも凶悪化しているわけでもないのに、イメージで感情に寄り添う形で権益を確保しようとしている連中の浅ましさ。
今回のような意味不明の事件が増えているというのは確かなんですが、全体で考えれば、治安は善くなっているわけで、今回のような意味不明で且つ凶悪極まりない犯罪が起こると、どうもすぐ規制しろという話になっちゃう。
結局事が起こってから重罰化しても、迅速に取っ捕まえても、犠牲になる人が出てしまう。意味不明と凶悪化というのは意味が全く違う。理解出来ない犯罪を食い止めるには理解が出来ないのだから処方箋もわからない。その為にはなぜこういうアノミーが生まれてしまうのかという理由を考えて手を打たないとやぶ蛇になる恐れすらある。
むしろこういうバカのせいで、アノミー化が起こるんじゃないか?とさえ思う。不満を抱えた人の頭を更に抑えるような発想しか浮かばなければ、そういう人は増えて行くし、こういう事件ももっと増えるでしょう。
ネットの書き込みがどうたらこうたらという話に落ちるパターンになりそうですが、確かに一定数それによって不合理も生じているのは確かです。
しかし例えば車が生み出す不合理に比べれば全然安全な空間でもある。死ねとか殺すとか書き込みがあったって、だからみんながそれを実行しているのかと言えばそういうわけでは全然無いわけで、アノミー化してしまっている人々の唯一の承認の為の空間だったりもするわけです。そういうのを無自覚に叩いてしまって、更に繋がりを失ってしまった人がどうなるのか?想像してほしいもんです。
そこに規制をかけるのなら、そういう人達をどうやって救いとるのか考えないと、事態はもっと厄介になりかねない。犯罪予備軍という言い方がありますが、犯罪予備軍は犯罪者じゃない。犯罪を犯して裁判で確定して犯罪者となる。
先制攻撃的に犯罪予備軍を叩け的な発想は、アメリカの中東政策と紙一重です。どんなに人をぶっ殺したいと考えて、ナイフを買い、準備をしていても、直前で踏みとどまる可能性もあるわけです。
まあこの手の話もキリが無いので今日はわきにおいておきます。
さて思考実験とは言え、自殺も仕方なしなんて書き方をすると、反論や違和感を感じる方も多いと思います。それは百も承知なんですが、あの惨劇を見た時に不遜ながら真っ先に感じてしまった感情です。しかしおそらくこの事件を起こした男には極刑を望むという人が多いでしょう。死刑にしろ、殺せと。自殺はいけない事なんだと教える一方で、殺せという風にもなる。
自分は殺すなと思っておりますが自殺ならしょうがないと思ってしまう。この矛盾。
自分が何でそう思うのかというと、罪を犯し、大勢の人を殺すくらいなら自殺してくれた方が、被害が最小に食い止められると感じるからです。事が起こってから死刑にしたって、結局誰もかえってこない。事が起こる前にまだ罪を犯してない段階で誰かがそいつを殺して食い止めるなんて事が出来るわけありませんので、全員死なないのがベストなんですが、どうしても誰かが死ぬという不合理を回避出来ないとしたら、他者を殺すなら自殺してくれと思ってしまう。そんなに社会が嫌ならば、人を殺さず自分で死んでくれよと。そうすれば死刑にしなくても済む。もちろん自殺だってしない方がいいに決まってますよ。選択肢としてあり得るとしたらの問題を言っているだけで、実際にそんな選択肢は有り得ませんし考えても無意味なのは十分承知しております。
命は何があっても守るべき価値だという言い方があります。自分もそうあれば良いとは思いますが、実際に我々の営む社会というのは命の選択をしています。
臓器移植にしろ、レシピエントがその事によって生きて行けるという感動話が溢れかえる一方で、その事によってドナーが死んでいるという現実。
貧しい国の人々を死に追いやって搾取しているから我々の住む国が繁栄を謳歌し、自殺はいけない事なんだというきれい事をささやく事も出来る。自殺も何もただ生きて行く事さえ出来ない、生まれた瞬間に死んで行く現実がある一方でです。
我々の社会は命の選択をしています。であれば何を生かし、何を殺すのか、自分が決めていなくとも関わっている。その時、殺してはいけないという言葉があまりにも無力に感じてしまう。
生の自己決定権という言い方があります。これは安楽死や尊厳死の問題なんかとも直結しますが、死は個人のものか?共同体のものか?当たり前ですが個人のものに決まっているわけです。
しかし選択肢として共同体のものでもありうる。死にたいと個人が思っていても、まわりが死んでほしくないと思っている場合どちらを優先させるのか、それは個人に委ねるべきだろうと感じます。共同体の為に死を選ばないという選択も出来る。
しかし共同体が生きる事を強いたが故に、こういった帰結を生んでしまう可能性がもしあったとしたら?100件中一つでももしあり得るのだとしたら?どうしてもここの所で、やっぱり個人のものとする方がいいのではないかと感じるわけです。
これはある種のパラドックスです。力が争いを生むのか?争いがあるから力が必要なのか?争いの無い平和を望むから、現状の不合理を見捨てる事が出来ずに戦って勝ち取るのか?争いの無い平和な社会への変革を目指し、現状の不合理に目をつぶってコミットするのか?こういう事と同じで、どこに立ち位置をとっても必ず矛盾が生まれてしまう。
命は大切だというのは、争いの無い平和を望むが力も持たず戦わず、現状の不合理は見捨てる事無く力を行使せずに不合理を救い上げる。これと同じで、祈りや理想としてはもちろん正しいのだと思いますが、世界の現状を見ていると、限りなく不可能に近いのではないか?という感覚に支配されてしまいます。
つづく!!
どうしてこういう凶行に及んだのかはわかりませんので、その辺の話は書けません。確実なのはこれで重罰化への道を更に加速させるという事、死刑の正当性が高まるという事でしょう。あの加害者はほぼ間違いなく死刑でしょうから。しかしこの辺の話も、今日の所はわきにおいておきます。
秋葉原での惨劇を見た時、自分は不謹慎かもしれませんが、お前なにかんがえてんだよ、こんな事やるなら自殺しろよ、そういう風に感じてしまいました。人生に何か問題があったとか言われたりしていますが、そこらへんの所はなんでなのかはしりません。しかしあんな無差別殺戮を行なうくらいなら自殺を選んでくれた方が被害は少なくて済む。そういう風に思ってしまった。
どんな理由があるにせよ、なんの関係もない人を、怨みがあるわけでもないだろうに、なんで無差別に殺すのか?どこにそんな必要があるというのか?そんな事するくらいなら、頼むから自殺してくれと。人を殺すほど世界が嫌いなら、自分が消えればいいじゃないかと。
自分は日頃から、子供の自殺に関しては、何があっても大人が食い止める必要があるだろうと感じております。子供達には自分で決定する能力がまだありませんし、リソースも制約されている。
しかし大人であればどうしても死にたいと感じている人がいるのなら、もちろん可能なかぎり止めますが、それでもどうしてもと言う場合、止める事が出来ないとも思っております。話を聞いてくれなけりゃ何を言っても無駄です。結局その人の気持ちは想像はできるけれど理解は出来ない。
それに死なせてやった方がいい事もあり得ると考えております。それはこういう帰結につながってしまったら元も子もないと思うからです。自分が消える事が出来なければ、世界を消すしか無いと考えてしまったりすれば被害はその人だけのものではなくなってしまう。自殺を止めて大量殺戮を生んだんじゃどう考えても不合理です。
説得が通じず、まわりの人がその事を救いとる事が出来ず、その人がどうにもならない袋小路に陥っていると感じているのだとしたら、自殺も自由な選択肢の一つである事を認めざるを得ないのではないかと感じてしまうわけです。
それが自己防衛のような暴力に抗う為の防御であるのなら、場合によってはしょうがないとは言いませんが、不可抗力の局面もあるのだろうとは思いますが、何の罪も無い人を殺すような選択肢を取るのなら自殺するべきであると。だからって殺人を犯す人がいなくなるとも思えませんが。
社会からはじかれ、生を選ぶというリソースが限られていたりもするので、個人に厳密な意味で選択肢が存在しうるのかという言い方をすれば、そういう状況に追い込んでしまう社会にも問題はあるんだろうと思いますが、それでも自殺もせず、人も殺さず生きている人の方が多いわけで、リソースが限られていたり、社会からはじかれてしまうという選択肢をあらかじめ社会から与えられている人だって生きている。
そして自分の生は、すべて社会のせいなんだとも言い切れない部分もあり、自己の選択によるものでもあるわけです。子供であればまだその選択肢を学んでいる最中であり、大人であれば今のありようは選択の帰結でもあるわけです。常に道は一つしかなかったなんて人は、この日本においてそんなにいるもんじゃないでしょう。少なくとも健常者であれば。
それと同時に誰も救いとる事が出来ないような袋小路に落ち込んでしまって、出口が無いと感じている人をなぜ社会が救えないのだろう?という理不尽が必ず存在してしまうというシステムの暴力性にも一方では虚しさを感じます。
自殺するのなら、そういう状況に追い込まれているのなら、声を上げてくれ、そしてまわりが手を差し伸べてやれとも感じる。まわりが気付いてやれよと。
まあこんな事を考えても無意味なんですが、そう思う一方で、今回の事件を起こした男の家族、仕事場の同僚、そしてまわりの人が何で何とか出来なかったんだという言い方をするのは簡単ですが、自分のまわりに希望を失っていると感じている人がもしいたとして、自分はその人に何が出来るのだろう?結局自分が何かをしてどうにかするというのは無理なんじゃないのか?という感じもする。
自信が無い。金をあげればいいのか?仕事を紹介すればいいのか?それとも赤の他人が知ったような顔をして承認をすれば救えるのか?話を聞いてやるという事ぐらいは出来るかもしれませんが、こういう短絡的な出来事を起こす人の話を聞いて、共感出来るなんて事は無理っぽいし、洒落にならないような地獄を味わっている人の話を聞いて、自分ごときが何かを言えるのか?単に愚痴を聞くだけじゃ現状は何一つ変らない。
確かに愚痴を聞いてやるだけで、スッキリする次元の悩みというのもあるでしょうけれど、自らの命を断とうと考えていたり、誰かを殺してしまおうなんて状況に追い込まれているようなレベルの人が果たして愚痴を聞いてやるだけでスッキリなんてするのか?という風にも思う。
自分も自殺したいとか言っている奴の相談に乗ったりした事はありますが、話を聞いていると、そこまで追いつめられているようにも聞こえなかったし、ちょっと承認を与えてやれば、復活して回復して行った。こういうレベルの人ももちろんいますが、そういう次元じゃない、もうどうにもならない環境に陥ってしまっている人を救うとしたら何をすればいいのかが難しい。
もちろんこれはそのケース事に処方箋も変るのでしょう。当たり前で下らん言い方ですがケースバイケースとしか言えない。なので一括りに考える事は出来ないのはわかるのですが、個別のケースを一般人が関わってどうにかするというのも難しい問題にも思える。かと言って、政府批判で話が落ちてしまっても現状が変る見込みもそう簡単には無いわけで、放っておくしか無いのか?
メディアではいろんな事が言われています。ナイフを規制しろ、ネットを規制しろ、言いたい放題です。特にクソメディアはネットを規制したくてしたくてしょうがないという感じですし、統治権力もそうでしょうから、これでまた一つエビデンスを獲得した事になる。ハッキリ言ってそんな事したら、世の中もっと滅茶苦茶になるでしょう。副作用を考えて言っているようにも見えない。
目に見える部分を規制すれば、何かしたような気になるので、やっちまえって話になるのですが、なんか全然本質とは関係ない事を騒いでいるような気がする。別に重犯罪が増えているわけでも凶悪化しているわけでもないのに、イメージで感情に寄り添う形で権益を確保しようとしている連中の浅ましさ。
今回のような意味不明の事件が増えているというのは確かなんですが、全体で考えれば、治安は善くなっているわけで、今回のような意味不明で且つ凶悪極まりない犯罪が起こると、どうもすぐ規制しろという話になっちゃう。
結局事が起こってから重罰化しても、迅速に取っ捕まえても、犠牲になる人が出てしまう。意味不明と凶悪化というのは意味が全く違う。理解出来ない犯罪を食い止めるには理解が出来ないのだから処方箋もわからない。その為にはなぜこういうアノミーが生まれてしまうのかという理由を考えて手を打たないとやぶ蛇になる恐れすらある。
むしろこういうバカのせいで、アノミー化が起こるんじゃないか?とさえ思う。不満を抱えた人の頭を更に抑えるような発想しか浮かばなければ、そういう人は増えて行くし、こういう事件ももっと増えるでしょう。
ネットの書き込みがどうたらこうたらという話に落ちるパターンになりそうですが、確かに一定数それによって不合理も生じているのは確かです。
しかし例えば車が生み出す不合理に比べれば全然安全な空間でもある。死ねとか殺すとか書き込みがあったって、だからみんながそれを実行しているのかと言えばそういうわけでは全然無いわけで、アノミー化してしまっている人々の唯一の承認の為の空間だったりもするわけです。そういうのを無自覚に叩いてしまって、更に繋がりを失ってしまった人がどうなるのか?想像してほしいもんです。
そこに規制をかけるのなら、そういう人達をどうやって救いとるのか考えないと、事態はもっと厄介になりかねない。犯罪予備軍という言い方がありますが、犯罪予備軍は犯罪者じゃない。犯罪を犯して裁判で確定して犯罪者となる。
先制攻撃的に犯罪予備軍を叩け的な発想は、アメリカの中東政策と紙一重です。どんなに人をぶっ殺したいと考えて、ナイフを買い、準備をしていても、直前で踏みとどまる可能性もあるわけです。
まあこの手の話もキリが無いので今日はわきにおいておきます。
さて思考実験とは言え、自殺も仕方なしなんて書き方をすると、反論や違和感を感じる方も多いと思います。それは百も承知なんですが、あの惨劇を見た時に不遜ながら真っ先に感じてしまった感情です。しかしおそらくこの事件を起こした男には極刑を望むという人が多いでしょう。死刑にしろ、殺せと。自殺はいけない事なんだと教える一方で、殺せという風にもなる。
自分は殺すなと思っておりますが自殺ならしょうがないと思ってしまう。この矛盾。
自分が何でそう思うのかというと、罪を犯し、大勢の人を殺すくらいなら自殺してくれた方が、被害が最小に食い止められると感じるからです。事が起こってから死刑にしたって、結局誰もかえってこない。事が起こる前にまだ罪を犯してない段階で誰かがそいつを殺して食い止めるなんて事が出来るわけありませんので、全員死なないのがベストなんですが、どうしても誰かが死ぬという不合理を回避出来ないとしたら、他者を殺すなら自殺してくれと思ってしまう。そんなに社会が嫌ならば、人を殺さず自分で死んでくれよと。そうすれば死刑にしなくても済む。もちろん自殺だってしない方がいいに決まってますよ。選択肢としてあり得るとしたらの問題を言っているだけで、実際にそんな選択肢は有り得ませんし考えても無意味なのは十分承知しております。
命は何があっても守るべき価値だという言い方があります。自分もそうあれば良いとは思いますが、実際に我々の営む社会というのは命の選択をしています。
臓器移植にしろ、レシピエントがその事によって生きて行けるという感動話が溢れかえる一方で、その事によってドナーが死んでいるという現実。
貧しい国の人々を死に追いやって搾取しているから我々の住む国が繁栄を謳歌し、自殺はいけない事なんだというきれい事をささやく事も出来る。自殺も何もただ生きて行く事さえ出来ない、生まれた瞬間に死んで行く現実がある一方でです。
我々の社会は命の選択をしています。であれば何を生かし、何を殺すのか、自分が決めていなくとも関わっている。その時、殺してはいけないという言葉があまりにも無力に感じてしまう。
生の自己決定権という言い方があります。これは安楽死や尊厳死の問題なんかとも直結しますが、死は個人のものか?共同体のものか?当たり前ですが個人のものに決まっているわけです。
しかし選択肢として共同体のものでもありうる。死にたいと個人が思っていても、まわりが死んでほしくないと思っている場合どちらを優先させるのか、それは個人に委ねるべきだろうと感じます。共同体の為に死を選ばないという選択も出来る。
しかし共同体が生きる事を強いたが故に、こういった帰結を生んでしまう可能性がもしあったとしたら?100件中一つでももしあり得るのだとしたら?どうしてもここの所で、やっぱり個人のものとする方がいいのではないかと感じるわけです。
これはある種のパラドックスです。力が争いを生むのか?争いがあるから力が必要なのか?争いの無い平和を望むから、現状の不合理を見捨てる事が出来ずに戦って勝ち取るのか?争いの無い平和な社会への変革を目指し、現状の不合理に目をつぶってコミットするのか?こういう事と同じで、どこに立ち位置をとっても必ず矛盾が生まれてしまう。
命は大切だというのは、争いの無い平和を望むが力も持たず戦わず、現状の不合理は見捨てる事無く力を行使せずに不合理を救い上げる。これと同じで、祈りや理想としてはもちろん正しいのだと思いますが、世界の現状を見ていると、限りなく不可能に近いのではないか?という感覚に支配されてしまいます。
つづく!!