前回の続きです。
さてここまで書いて来た所ですと、いかに資本を日本に呼び込む事が重要か、恣意的な不透明さ故のヴァルネラブルな構造の問題点、啓蒙も含めたリテラシーの無さ故の経済に対する様々なレベルでの無知の問題という話なわけですが、資本が入ってくるとなると、より激烈な競争が始まり一寸先は闇の、のほほんとお勤めしていれば何とかなるという状況でもいられなくなります。
現状でもそうは言っていられないとなっている部分もあるかと思いますが、もっと流動化にさらされる事となる可能性が高いわけです。
外資を敵扱いしたり、ファンドをハゲタカ呼ばわりするメディアのトンチンカンな報道も問題なんですが、だから外資やファンドが悪者ではないとかいう話では全然無いわけで、悪者ではないでしょうけれど、利益をめぐって競争が激しくなるわけです。欧米のルールは正しいのだという話でも全く無くて、無自覚にそれをただ受け入れていても、アメリカにしろ、どこの国にしろ、自国の権益にしか興味も無いわけで、日本の消費者や株主の事なんて考えているわけもありません。
なので開く必要はありますがそれは単にスタートラインに過ぎずどうやって国際競争で生き残って行くのか?というもっとより大きな問題があるわけです。今の状況は内向きに閉じこもってその荒波を見ないようにしているわけですが、閉じこもっても、外の環境は何一つ変わらないので、コミットして環境を変えて行くしか無いわけです。それにはまずお任せ主義ではどうにもならない。
お任せ主義、メディアの劣化、政治家の堕落、不透明な構造と、国際競争に飲み込まれない為のリソースが限りなく乏しいのも現状ですので、今のまま開いても焼け野原になる恐れもある。なのでここからの舵取りというのは非常に微妙な舵取りが要求される。
とまあ前置きが長くなりましたが、二元論から脱却しようというお題なのですが、何でここまで市場経済の事を書いて来たかと言うと、市場経済というのはルール主義に基づいています。ルール主義というのは二元論です。ルールに適っているかいないか、そこが唯一の問題点でそれ以外は関係がない。善か悪か?善い人か悪い人か?そういう事とは無関係に、決まりを守ったかどうかが問われる。
後だしジャンケン的に制度を恣意的に変更もしくは運用したり、国内の企業には適応しないけれど外資には適応するとか、日興コーディアルには適応しないけれど、ライブドアには適応するとか、トヨタや日産の利益追求は問題にしないけれど、ファンドの利益追求は問題にするとか、二重規範を何とも感じない感覚、こういうのは全然二元論ではありません。ようするにルール主義ではないわけです。
もちろんルール主義と言っても判定するのは人なので、時と場合によっては間違う事はあるでしょう。それはしょうがないのですが、この国でのルールの恣意性はそういう問題じゃないように感じます。
アメリカなんかは他所の国にとやかく言うくせに、自分達は平気な顔してダブルスタンダードを貫いてくる国です。ムカつきますが、だからと言ってそれを正させるようなリソースは我が国には無い。それに人の事をとやかく言うほど公正なルール主義を適応しているわけでも全然無い。
なのでここで弱みをつけ込まれないようにするには、ルール主義を機能させ、その上でダブルスタンダードに対して言うべき事を言える体制をまず構築しないと、いつまでもつつかれて権益を丸裸にされ、地方にはぺんぺん草も生えないという構造を繰り返すばかりです。そういう意味でルール主義的な二元論は必要な事です。
しかし外資と言ったっていろんな外資がいるのに、一括りで善か悪かを問うてみたり、グローバル化は抗えるような流れではもはや無いのに、グローバル化、是か非かみたいな、こういう所では頭の悪い二元論で切り捨ててしまう傾向がある。子供の携帯是か非か?ネット社会是か非か?是でもありうるし、非でもありうる話を、是の勢力と非の勢力でお互いを断罪しあって足を引っ張りあっているような構図がある。
二元論で思考しなければ上手く行かない所は曖昧に思考し、二元論で区別する事の出来難い構造は二元論で切り分ける。こういう思考の仕方は実りが無さ過ぎる。逆です。ルールは是か非かしかない。それ以外は有り得ない。しかしルールの話をわきにおいて考えるべき所は是非は問えない。都度都度選択肢があり、どれが正しいのか人それぞれなわけです。
アメリカと言う国は相当酷い国ですが、あの国の凄い所は流動性をせき止めずにというか、物理的に制度でというか憲法でというか建国の精神で、常に流動化を受け入れるのが保守だという所がある。これは必ず人は恐怖を感じますので、宗教が必要だったり、レイシズムの問題が無くならなかったりと言う部分があるのですが、だから問題なのか?というとこの流動化のおかげでアメリカはトップに君臨し続けて来た最大の理由とも言えるのではないでしょうか。
流動化があるという事は、常にギャップが生まれる、アメリカ人が特別だから我慢出来るわけでも何でも無くて、彼らも同じ人間なので、流動化や民族の差異、文化の違い等を感じればやっぱり恐れを感じたり不公正を感じたりするわけです。必ずギャップがある。無くならない。無くならないからこそ、常にそのギャップを埋めようと模索する。行き過ぎればスイングバックし、不公正があれば公正さを求めて声が上がる。
死刑制度の問題で、よく先進国では制度として国全体で行使し続けている国は日本しかいないという言い方があります。アメリカですら州によっては死刑を廃止している州があると。
それに対してだから死刑制度は必要ないという風にはならない、国際社会がどうだからなんてのは関係ないという言い方が一方にあり、延々とこの問題を行使し続けるのは先進国として恥ずかしいというバカな二元論があります。まあ制度の問題なのでどちらかしか無いのは確かです。
しかしこういう切り取り方をする前に単純に考えればわかる話なのですが、死刑制度の無い国、もしくはモラトリアム状態の国、韓国なんかが典型ですが、そういう国々の人々が、日本であれば死刑に値するような罪人に対して憤りを感じていないか?と言えば当たり前ですが憤りを感じていないわけが無い。同じように怒り、悲しみ、憤りを感じているに決まっているわけです。
だけど制度と感情の問題は別問題だとわけて考える事が出来ている。スプリッティングを受け入れる事に成功しているわけです。日本人だけが悲しいわけでも無いし、流動化の問題にしたって、日本人だけが苦しんでいるいわけでは無い。誰だって痛みを感じるわけです。
1960年の大統領選の時、ケネディに票を入れる事を、民主党員でありながら多くの白人のプロテスタントの人々がニクソンに票を入れています。ケネディがカトリックであるという事がどうしても乗り越えられない壁としてあった。しかし2004年の時の大統領候補、ケリーはカトリックであったにもかかわらず、その事を誰も言わなかった。一瞬報道されたりしましたが、その事が障害にはならないかった。
ケネディはオバマがレイスについての演説をしなければならなかったのと同様に、宗教についてのメジャースピーチをしなければならなかった。自分はカトリックだけれどアメリカ人なんだと。
当時のアメリカ人はカトリックはアメリカに忠誠心が無いという風に見ていました。ローマに忠誠を誓っていると。それはカトリックの移民が大量にアメリカに入って来た頃から半世紀くらいずっと続いていた、一種の差別だったわけですが、この時に初めてこの大きなハードルを乗り越える事に成功した。
今もワスプという言葉も残ってはいますが、ワスプでなければアメリカのエスタブリッシュメントではないというような偏見は殆ど一般レベルでは無くなっている。アメリカの大企業の社長などは、インド人や移民の一世、国籍は外国にある人、そういう人がどんどん増えている。それを受け入れている。そういう風にアメリカはどんどん変化を受け入れている面がある。そこにオバマのような象徴的な人が出て来て、黒人という壁を乗り越える事が出来るか?ただの黒人ではない、グローバルな黒人候補だと、不可思議なメッセージを出しながら人々を吸引する。黒人に投票するのは、アメリカ人に取って敷居かもしれないが、それが出来るという事がアメリカの良さなんだというメッセージが上手く作用した。非常に象徴的な出来事です。
もちろんヒラリーも男女の壁というそれとは別のハードルを乗り越えようとしていたわけですが、こういう人達が出てくるというのも、アメリカを表す重要なファクターかもしれません。アメリカというのはわりと男女の違いについて、日本なんかよりも保守的な所もあったりするので、ヒラリーはヒラリーで一つの挑戦でもあった。
仮にオバマが大統領に成れたとしても、その事によって人種問題が無くなったりする事は絶対に有り得ませんが、どんな乗り越えようとしても無くならないレイシズムの残滓を、新たな形で乗り越えようと変化する。
絶えず移民を受け入れている国であるが故に、絶えず流動性にさらされ、その事が常に落差や溝を作り出し、そこを埋めようとする動機付けや、公正さを求める事によって常に変化して行かざるを得ない、挑戦し続けて行かざるを得ない国。これがアメリカの最大の強みなんじゃないかと思うわけです。
オバマがヒラリーに勝ったのは、政治手腕がどうのこうのという話よりも、アメリカの国民のリベラル側の空気というかイメージに最も寄り添う形で、イメージを作り出せた事が最大の要因だったのだろうと思います。スピーチも上手かった。何をするのかはモヤモヤしているのですが、アメリカの歴史は解放の歴史だった、変化の歴史だったという言い方をする事によって、リベレーションでありつつトラディションもしくはヘリテージを上手く包摂して行くような、非常に巧みな演説でした。
日本は単一国家であるという虚構があるが故に、落差を埋めようとする社会的動機付けというか、公正さに対するコミットメントが出て来難い状況が、そのまま閉塞感の問題に直結している現状から思うと、この違いは決定的のようにも思える。埋めるべくギャップが無い。本当はあるのですが見えてないというか見てない、もしくは見たくない。それってギャップなのか?って所で大騒ぎしている。
日本の恣意性の問題や、外部をはじき出すという島国根性が、そもそもアメリカに取ってのレイシズムの問題のような、半永久的に無くならないギャップなのかもしれませんが、そこに対するコミットメント無さ加減は決定的です。自分が虐げられていると感じて声をあげたり、他人の抜け駆け感を感じて声を上げたり、メディアに乗せられて声をあげたりというのだけではなくて、他人の痛みを共感して、ここに声を上げないでどうするという連帯が生まれない。蛸壺同士もしくは蛸壺内での梯子はずし、鍔迫り合いになってしまう。
例えば日本には保守のフリしたクズが沢山いますが、この勘違い野郎共が典型です。保守っつうのは統治権力と刺し違えてでも国民の権利を守るのが保守であり、国家のケツを舐めるのは保守でも何でも無い、こういうのは単なる奴隷と言います。
日本の歴史を振り返れば、特権階級の恣意性、外部をはじき出す島国根性が生み出すギャップによって常に構造を大転換させて来たという風に見る事も出来ますので、どこかでコミットメントが切実になるときは来るのでしょう。
しかしこの国がそういう状況になるときというのはハッキリいってもう手遅れに近い所まで、どうにもならない状況にいたらないとそうならない。大転換もしくはその事に至る過程によってもの凄い痛みや犠牲を伴ってしまう。そして変化するとすぐ忘れてしまい、同じような構造に陥って同じような事が起こる。これの繰り返しです。
であれば、常に痛みや恐怖を感じても、絶えずその状況に変化し、大きな痛みや犠牲を生み出す前に回避し続けるような選択肢の方が合理的であるとも言えるし、全員を幸福に出来なくとも少なくとも最悪の不幸は回避出来る。
近代というのはそういった大転換の繰り返しから脱却する為に、あれこれ考え試行錯誤を繰り返し生み出されたものです。それでも大戦や恐慌のようなもっと大きな大失敗や悲劇を生み出してしまい、改良に改良を重ねて今がある、そこをちゃんと認識しないと、この国は同じ事を繰り返すループから出られない。というか出る事をそもそも諦めている。というかループに陥っているという事すら自覚してもいない。これは最悪です。
日本はかつて経済での世界チャンピオンにまでのし上がる事に成功しましたが、その時にジャパニーズスタンダードを世界に認めさせる事までは出来なかった。結局は世界は力の政治で動いており、どんなに金をもっていても、暴力能力で脅されれば屈服させる事は出来ない。
そしてその一瞬の夢はもろくも木っ端微塵に砕け散って、今でもその後始末が進まぬが故に延々と不毛な袋小路から出られない。世界に日本のやり方を認めさせる事が出来ない以上、世界のやり方に合わせるしか無いわけで、そこを無視して生き残って行けるような資源もリソースも覚悟も無いわけです。
世界のやり方は不公正だ!日本だって頑張っているんだ!と言った事を主張してそれが通るのならいくらでもやればいいと思いますが、先行きはしぼんで行く事がほぼ確実、相対的に魅力もあまり無い、わざわざ日本に投資するよりも成長性があって合理的な市場は他に沢山ある。
それに加えて、特殊なルール主義を無視した論理性の無い日本独自の論理、よそ者をはじくと言う島国根性、こういう面がいい方向に働く事ももちろんありますが、国際的な枠組みの中ではネガティブな方向性にしか働かない。特に経済のようなルール主義に基づいた契約の制度は信用が担保されていないと、誰も金を出したいとは思わなくなってしまう。
消費税で老人から金を踏んだくるのなら、海外から資本を取り込んで経済を活性化させた方が合理的です。
今増税か?上げ潮か?という頭の悪い二元論がよく盛り上がります。最近ではそれが財政再建派と無責任派みたいな切り分け方にもなっちゃったりして、小さな政府か?大きな政府か?的な。なんかリフレ派VS反リフレ派みたいなつまらない議論になってしまいがちです。
増税にしろ上げ潮にしろ、政府は小さくする意外に選択肢は無い。問題は市場原理主義という意味が肥大してしまった言葉、新自由主義、小さな政府、上げ潮という全然関係ない話が、自動的に串刺しにされて、二元論の一方の極として見られてしまっている所があります。もちろんもう一方の極も。
靖国なんかの問題でもそうですが、参拝是か非かという話が、日本人の戦死者が眠っているのだから、手くらい合わせてもいいんじゃない、という消極的賛成派にしろ、それで嫌がる国がいるんだし、何も死者への祈りはそこに行かなくても出来るのだから、無理して参拝しなくてもいいんじゃない、という消極的反対派にしろ、賛成反対と言ったっていろんな意見があるわけです。しかしこれが扇情的に語られ始めると、賛成、右翼、軍国主義者、愛国者と、反対、左翼、平和主義者、反日売国奴という二元論に串刺し化されてしまう。アイツは賛成論者だからけしからんという風になってしまうわけです。
よくいう中川秀直的な上げ潮路線というのは実際問題グローバライゼーションの負の側面をまともに加速させすぎてしまった所があるので不人気ですが、やり方には確かに問題はいっぱいありましたし、自分もクソミソにけなしたりもしましたが、方向性としては間違ってはいない。
もちろんその路線だけで何でも解決出来るとは思いませんが、根底の部分はそうしないわけにはいかない。もちろんそれで不合理は生まれるのは確かですが、だから国を富ませなくてもいいのだという風にはなりません。日本一国で国を富ます事を諦めたとしても、どっち道、世界は競争の原理で動いており、それに基づく不合理は様々な次元で発生しています。コミットしなきゃ変わらない。だったら力を蓄えて、意見を言える体勢を作り、不合理を手当てする方が変えられる可能性がある。
現政権の与謝野なんかが典型的ですが上げ潮路線を否定し増税路線が主流です。まあ言っている事は間違っちゃいないと思いますし、自分も後々増税は不可避だろうと思っています。が、それを国民に納得させるようなプレゼンテーションは現状の統治権力のありようから言って無いとも思いますので、簡単な事ではないでしょうし、それで政権が一つ二つ吹っ飛ぶ事を覚悟しなきゃ出来ない。政権交代も覚悟しなきゃ出来ない。だからそれを言っている与謝野はしらばっくれてポピュリズムに走っているたわけ者よりはキモが座っている。
しかし彼の考え方にどうしても違和感があるのは、プライオリティの付け方がおかしいという部分ももちろん、経済を発展させる事はもう無理だという発想がある事です。成長性の無さを諦めている。そんな事はありません。出来ないと本気で思っているのなら政治家なんて辞めた方がいい。素人の自分が思うだけでもまだまだ成長の余力はあるように見える。現行のスキームのままであれば無理かもしれませんが、規制を取っ払えば生き返る部分が腐るほどあります。そういう事をやりきっているとは思えない。単に役人叩きをして権益を全部民営化もしくは市場化しろとは思いませんが、ちょっとレギュレーションをいじって解放するだけでも全然違うわけです。
こんなもの普及するわけないとか、やっても無駄だとか、たいして変わらないとか、そういう事をやりもしないうちから必ず言う奴がいつの時代にもいます。誰も先の事はわからないのですから、そんな事を断定出来る奴なんて世の中に存在しない、わかっていないのに言っているに過ぎない。
携帯なんて今は誰でももっている下らない代物ですが、これがここまで普及すると誰が思っていたでしょう?こんなもの無くたって誰も困らない、必要ないと思っていたわけです。しかし今は無しの生活なんて考えられない。必要か必要でないかは時代が決める事で、誰かが、少なくともステークホルダーが決める事ではない。
成長性を諦めて国民の負担を増やす事で何とかしようと言う発想は政治家としては下の下です。自らを無能なりと言っているに等しい。増税なんてのは本気でやる気になればいつでも出来る。増税して何とかするなんて発想だったら、誰だって考えつきます。どんな商売だって価格転嫁して消費者にもしくはクライアントに負担してもらうという手段は最後のそれ以外をやりつくして万策尽きた時の手段です。そうすればどうにかなるというのは誰でもわかる。だけどそれをすると誰も買わなくなるから出来ないわけです。
国民からただ搾り取るという路線であれば、少子化対策なんて絶対に進まないでしょうし、それが進まなければ消費もどんどん落ちて行く、当たり前ですが、増税か?上げ潮か?なんていうアホ臭い二元論で語る事など出来ない問題です。
もちろん中川にしろ、与謝野にしろ、彼らはプライオリティの問題を言っているだけなんでしょうし、それを報じるメディアや捉える我々が、単純な二元論で切り分けるような思考の仕方をしてしまうからそこに当てはまるように言っている部分もあるでしょう。そうやって単純な図式で報じる側にも責任がある。
そう、こういった問題は二元論では片付けられない。プライオリティが重要になるわけです。
つづく!!
さてここまで書いて来た所ですと、いかに資本を日本に呼び込む事が重要か、恣意的な不透明さ故のヴァルネラブルな構造の問題点、啓蒙も含めたリテラシーの無さ故の経済に対する様々なレベルでの無知の問題という話なわけですが、資本が入ってくるとなると、より激烈な競争が始まり一寸先は闇の、のほほんとお勤めしていれば何とかなるという状況でもいられなくなります。
現状でもそうは言っていられないとなっている部分もあるかと思いますが、もっと流動化にさらされる事となる可能性が高いわけです。
外資を敵扱いしたり、ファンドをハゲタカ呼ばわりするメディアのトンチンカンな報道も問題なんですが、だから外資やファンドが悪者ではないとかいう話では全然無いわけで、悪者ではないでしょうけれど、利益をめぐって競争が激しくなるわけです。欧米のルールは正しいのだという話でも全く無くて、無自覚にそれをただ受け入れていても、アメリカにしろ、どこの国にしろ、自国の権益にしか興味も無いわけで、日本の消費者や株主の事なんて考えているわけもありません。
なので開く必要はありますがそれは単にスタートラインに過ぎずどうやって国際競争で生き残って行くのか?というもっとより大きな問題があるわけです。今の状況は内向きに閉じこもってその荒波を見ないようにしているわけですが、閉じこもっても、外の環境は何一つ変わらないので、コミットして環境を変えて行くしか無いわけです。それにはまずお任せ主義ではどうにもならない。
お任せ主義、メディアの劣化、政治家の堕落、不透明な構造と、国際競争に飲み込まれない為のリソースが限りなく乏しいのも現状ですので、今のまま開いても焼け野原になる恐れもある。なのでここからの舵取りというのは非常に微妙な舵取りが要求される。
とまあ前置きが長くなりましたが、二元論から脱却しようというお題なのですが、何でここまで市場経済の事を書いて来たかと言うと、市場経済というのはルール主義に基づいています。ルール主義というのは二元論です。ルールに適っているかいないか、そこが唯一の問題点でそれ以外は関係がない。善か悪か?善い人か悪い人か?そういう事とは無関係に、決まりを守ったかどうかが問われる。
後だしジャンケン的に制度を恣意的に変更もしくは運用したり、国内の企業には適応しないけれど外資には適応するとか、日興コーディアルには適応しないけれど、ライブドアには適応するとか、トヨタや日産の利益追求は問題にしないけれど、ファンドの利益追求は問題にするとか、二重規範を何とも感じない感覚、こういうのは全然二元論ではありません。ようするにルール主義ではないわけです。
もちろんルール主義と言っても判定するのは人なので、時と場合によっては間違う事はあるでしょう。それはしょうがないのですが、この国でのルールの恣意性はそういう問題じゃないように感じます。
アメリカなんかは他所の国にとやかく言うくせに、自分達は平気な顔してダブルスタンダードを貫いてくる国です。ムカつきますが、だからと言ってそれを正させるようなリソースは我が国には無い。それに人の事をとやかく言うほど公正なルール主義を適応しているわけでも全然無い。
なのでここで弱みをつけ込まれないようにするには、ルール主義を機能させ、その上でダブルスタンダードに対して言うべき事を言える体制をまず構築しないと、いつまでもつつかれて権益を丸裸にされ、地方にはぺんぺん草も生えないという構造を繰り返すばかりです。そういう意味でルール主義的な二元論は必要な事です。
しかし外資と言ったっていろんな外資がいるのに、一括りで善か悪かを問うてみたり、グローバル化は抗えるような流れではもはや無いのに、グローバル化、是か非かみたいな、こういう所では頭の悪い二元論で切り捨ててしまう傾向がある。子供の携帯是か非か?ネット社会是か非か?是でもありうるし、非でもありうる話を、是の勢力と非の勢力でお互いを断罪しあって足を引っ張りあっているような構図がある。
二元論で思考しなければ上手く行かない所は曖昧に思考し、二元論で区別する事の出来難い構造は二元論で切り分ける。こういう思考の仕方は実りが無さ過ぎる。逆です。ルールは是か非かしかない。それ以外は有り得ない。しかしルールの話をわきにおいて考えるべき所は是非は問えない。都度都度選択肢があり、どれが正しいのか人それぞれなわけです。
アメリカと言う国は相当酷い国ですが、あの国の凄い所は流動性をせき止めずにというか、物理的に制度でというか憲法でというか建国の精神で、常に流動化を受け入れるのが保守だという所がある。これは必ず人は恐怖を感じますので、宗教が必要だったり、レイシズムの問題が無くならなかったりと言う部分があるのですが、だから問題なのか?というとこの流動化のおかげでアメリカはトップに君臨し続けて来た最大の理由とも言えるのではないでしょうか。
流動化があるという事は、常にギャップが生まれる、アメリカ人が特別だから我慢出来るわけでも何でも無くて、彼らも同じ人間なので、流動化や民族の差異、文化の違い等を感じればやっぱり恐れを感じたり不公正を感じたりするわけです。必ずギャップがある。無くならない。無くならないからこそ、常にそのギャップを埋めようと模索する。行き過ぎればスイングバックし、不公正があれば公正さを求めて声が上がる。
死刑制度の問題で、よく先進国では制度として国全体で行使し続けている国は日本しかいないという言い方があります。アメリカですら州によっては死刑を廃止している州があると。
それに対してだから死刑制度は必要ないという風にはならない、国際社会がどうだからなんてのは関係ないという言い方が一方にあり、延々とこの問題を行使し続けるのは先進国として恥ずかしいというバカな二元論があります。まあ制度の問題なのでどちらかしか無いのは確かです。
しかしこういう切り取り方をする前に単純に考えればわかる話なのですが、死刑制度の無い国、もしくはモラトリアム状態の国、韓国なんかが典型ですが、そういう国々の人々が、日本であれば死刑に値するような罪人に対して憤りを感じていないか?と言えば当たり前ですが憤りを感じていないわけが無い。同じように怒り、悲しみ、憤りを感じているに決まっているわけです。
だけど制度と感情の問題は別問題だとわけて考える事が出来ている。スプリッティングを受け入れる事に成功しているわけです。日本人だけが悲しいわけでも無いし、流動化の問題にしたって、日本人だけが苦しんでいるいわけでは無い。誰だって痛みを感じるわけです。
1960年の大統領選の時、ケネディに票を入れる事を、民主党員でありながら多くの白人のプロテスタントの人々がニクソンに票を入れています。ケネディがカトリックであるという事がどうしても乗り越えられない壁としてあった。しかし2004年の時の大統領候補、ケリーはカトリックであったにもかかわらず、その事を誰も言わなかった。一瞬報道されたりしましたが、その事が障害にはならないかった。
ケネディはオバマがレイスについての演説をしなければならなかったのと同様に、宗教についてのメジャースピーチをしなければならなかった。自分はカトリックだけれどアメリカ人なんだと。
当時のアメリカ人はカトリックはアメリカに忠誠心が無いという風に見ていました。ローマに忠誠を誓っていると。それはカトリックの移民が大量にアメリカに入って来た頃から半世紀くらいずっと続いていた、一種の差別だったわけですが、この時に初めてこの大きなハードルを乗り越える事に成功した。
今もワスプという言葉も残ってはいますが、ワスプでなければアメリカのエスタブリッシュメントではないというような偏見は殆ど一般レベルでは無くなっている。アメリカの大企業の社長などは、インド人や移民の一世、国籍は外国にある人、そういう人がどんどん増えている。それを受け入れている。そういう風にアメリカはどんどん変化を受け入れている面がある。そこにオバマのような象徴的な人が出て来て、黒人という壁を乗り越える事が出来るか?ただの黒人ではない、グローバルな黒人候補だと、不可思議なメッセージを出しながら人々を吸引する。黒人に投票するのは、アメリカ人に取って敷居かもしれないが、それが出来るという事がアメリカの良さなんだというメッセージが上手く作用した。非常に象徴的な出来事です。
もちろんヒラリーも男女の壁というそれとは別のハードルを乗り越えようとしていたわけですが、こういう人達が出てくるというのも、アメリカを表す重要なファクターかもしれません。アメリカというのはわりと男女の違いについて、日本なんかよりも保守的な所もあったりするので、ヒラリーはヒラリーで一つの挑戦でもあった。
仮にオバマが大統領に成れたとしても、その事によって人種問題が無くなったりする事は絶対に有り得ませんが、どんな乗り越えようとしても無くならないレイシズムの残滓を、新たな形で乗り越えようと変化する。
絶えず移民を受け入れている国であるが故に、絶えず流動性にさらされ、その事が常に落差や溝を作り出し、そこを埋めようとする動機付けや、公正さを求める事によって常に変化して行かざるを得ない、挑戦し続けて行かざるを得ない国。これがアメリカの最大の強みなんじゃないかと思うわけです。
オバマがヒラリーに勝ったのは、政治手腕がどうのこうのという話よりも、アメリカの国民のリベラル側の空気というかイメージに最も寄り添う形で、イメージを作り出せた事が最大の要因だったのだろうと思います。スピーチも上手かった。何をするのかはモヤモヤしているのですが、アメリカの歴史は解放の歴史だった、変化の歴史だったという言い方をする事によって、リベレーションでありつつトラディションもしくはヘリテージを上手く包摂して行くような、非常に巧みな演説でした。
日本は単一国家であるという虚構があるが故に、落差を埋めようとする社会的動機付けというか、公正さに対するコミットメントが出て来難い状況が、そのまま閉塞感の問題に直結している現状から思うと、この違いは決定的のようにも思える。埋めるべくギャップが無い。本当はあるのですが見えてないというか見てない、もしくは見たくない。それってギャップなのか?って所で大騒ぎしている。
日本の恣意性の問題や、外部をはじき出すという島国根性が、そもそもアメリカに取ってのレイシズムの問題のような、半永久的に無くならないギャップなのかもしれませんが、そこに対するコミットメント無さ加減は決定的です。自分が虐げられていると感じて声をあげたり、他人の抜け駆け感を感じて声を上げたり、メディアに乗せられて声をあげたりというのだけではなくて、他人の痛みを共感して、ここに声を上げないでどうするという連帯が生まれない。蛸壺同士もしくは蛸壺内での梯子はずし、鍔迫り合いになってしまう。
例えば日本には保守のフリしたクズが沢山いますが、この勘違い野郎共が典型です。保守っつうのは統治権力と刺し違えてでも国民の権利を守るのが保守であり、国家のケツを舐めるのは保守でも何でも無い、こういうのは単なる奴隷と言います。
日本の歴史を振り返れば、特権階級の恣意性、外部をはじき出す島国根性が生み出すギャップによって常に構造を大転換させて来たという風に見る事も出来ますので、どこかでコミットメントが切実になるときは来るのでしょう。
しかしこの国がそういう状況になるときというのはハッキリいってもう手遅れに近い所まで、どうにもならない状況にいたらないとそうならない。大転換もしくはその事に至る過程によってもの凄い痛みや犠牲を伴ってしまう。そして変化するとすぐ忘れてしまい、同じような構造に陥って同じような事が起こる。これの繰り返しです。
であれば、常に痛みや恐怖を感じても、絶えずその状況に変化し、大きな痛みや犠牲を生み出す前に回避し続けるような選択肢の方が合理的であるとも言えるし、全員を幸福に出来なくとも少なくとも最悪の不幸は回避出来る。
近代というのはそういった大転換の繰り返しから脱却する為に、あれこれ考え試行錯誤を繰り返し生み出されたものです。それでも大戦や恐慌のようなもっと大きな大失敗や悲劇を生み出してしまい、改良に改良を重ねて今がある、そこをちゃんと認識しないと、この国は同じ事を繰り返すループから出られない。というか出る事をそもそも諦めている。というかループに陥っているという事すら自覚してもいない。これは最悪です。
日本はかつて経済での世界チャンピオンにまでのし上がる事に成功しましたが、その時にジャパニーズスタンダードを世界に認めさせる事までは出来なかった。結局は世界は力の政治で動いており、どんなに金をもっていても、暴力能力で脅されれば屈服させる事は出来ない。
そしてその一瞬の夢はもろくも木っ端微塵に砕け散って、今でもその後始末が進まぬが故に延々と不毛な袋小路から出られない。世界に日本のやり方を認めさせる事が出来ない以上、世界のやり方に合わせるしか無いわけで、そこを無視して生き残って行けるような資源もリソースも覚悟も無いわけです。
世界のやり方は不公正だ!日本だって頑張っているんだ!と言った事を主張してそれが通るのならいくらでもやればいいと思いますが、先行きはしぼんで行く事がほぼ確実、相対的に魅力もあまり無い、わざわざ日本に投資するよりも成長性があって合理的な市場は他に沢山ある。
それに加えて、特殊なルール主義を無視した論理性の無い日本独自の論理、よそ者をはじくと言う島国根性、こういう面がいい方向に働く事ももちろんありますが、国際的な枠組みの中ではネガティブな方向性にしか働かない。特に経済のようなルール主義に基づいた契約の制度は信用が担保されていないと、誰も金を出したいとは思わなくなってしまう。
消費税で老人から金を踏んだくるのなら、海外から資本を取り込んで経済を活性化させた方が合理的です。
今増税か?上げ潮か?という頭の悪い二元論がよく盛り上がります。最近ではそれが財政再建派と無責任派みたいな切り分け方にもなっちゃったりして、小さな政府か?大きな政府か?的な。なんかリフレ派VS反リフレ派みたいなつまらない議論になってしまいがちです。
増税にしろ上げ潮にしろ、政府は小さくする意外に選択肢は無い。問題は市場原理主義という意味が肥大してしまった言葉、新自由主義、小さな政府、上げ潮という全然関係ない話が、自動的に串刺しにされて、二元論の一方の極として見られてしまっている所があります。もちろんもう一方の極も。
靖国なんかの問題でもそうですが、参拝是か非かという話が、日本人の戦死者が眠っているのだから、手くらい合わせてもいいんじゃない、という消極的賛成派にしろ、それで嫌がる国がいるんだし、何も死者への祈りはそこに行かなくても出来るのだから、無理して参拝しなくてもいいんじゃない、という消極的反対派にしろ、賛成反対と言ったっていろんな意見があるわけです。しかしこれが扇情的に語られ始めると、賛成、右翼、軍国主義者、愛国者と、反対、左翼、平和主義者、反日売国奴という二元論に串刺し化されてしまう。アイツは賛成論者だからけしからんという風になってしまうわけです。
よくいう中川秀直的な上げ潮路線というのは実際問題グローバライゼーションの負の側面をまともに加速させすぎてしまった所があるので不人気ですが、やり方には確かに問題はいっぱいありましたし、自分もクソミソにけなしたりもしましたが、方向性としては間違ってはいない。
もちろんその路線だけで何でも解決出来るとは思いませんが、根底の部分はそうしないわけにはいかない。もちろんそれで不合理は生まれるのは確かですが、だから国を富ませなくてもいいのだという風にはなりません。日本一国で国を富ます事を諦めたとしても、どっち道、世界は競争の原理で動いており、それに基づく不合理は様々な次元で発生しています。コミットしなきゃ変わらない。だったら力を蓄えて、意見を言える体勢を作り、不合理を手当てする方が変えられる可能性がある。
現政権の与謝野なんかが典型的ですが上げ潮路線を否定し増税路線が主流です。まあ言っている事は間違っちゃいないと思いますし、自分も後々増税は不可避だろうと思っています。が、それを国民に納得させるようなプレゼンテーションは現状の統治権力のありようから言って無いとも思いますので、簡単な事ではないでしょうし、それで政権が一つ二つ吹っ飛ぶ事を覚悟しなきゃ出来ない。政権交代も覚悟しなきゃ出来ない。だからそれを言っている与謝野はしらばっくれてポピュリズムに走っているたわけ者よりはキモが座っている。
しかし彼の考え方にどうしても違和感があるのは、プライオリティの付け方がおかしいという部分ももちろん、経済を発展させる事はもう無理だという発想がある事です。成長性の無さを諦めている。そんな事はありません。出来ないと本気で思っているのなら政治家なんて辞めた方がいい。素人の自分が思うだけでもまだまだ成長の余力はあるように見える。現行のスキームのままであれば無理かもしれませんが、規制を取っ払えば生き返る部分が腐るほどあります。そういう事をやりきっているとは思えない。単に役人叩きをして権益を全部民営化もしくは市場化しろとは思いませんが、ちょっとレギュレーションをいじって解放するだけでも全然違うわけです。
こんなもの普及するわけないとか、やっても無駄だとか、たいして変わらないとか、そういう事をやりもしないうちから必ず言う奴がいつの時代にもいます。誰も先の事はわからないのですから、そんな事を断定出来る奴なんて世の中に存在しない、わかっていないのに言っているに過ぎない。
携帯なんて今は誰でももっている下らない代物ですが、これがここまで普及すると誰が思っていたでしょう?こんなもの無くたって誰も困らない、必要ないと思っていたわけです。しかし今は無しの生活なんて考えられない。必要か必要でないかは時代が決める事で、誰かが、少なくともステークホルダーが決める事ではない。
成長性を諦めて国民の負担を増やす事で何とかしようと言う発想は政治家としては下の下です。自らを無能なりと言っているに等しい。増税なんてのは本気でやる気になればいつでも出来る。増税して何とかするなんて発想だったら、誰だって考えつきます。どんな商売だって価格転嫁して消費者にもしくはクライアントに負担してもらうという手段は最後のそれ以外をやりつくして万策尽きた時の手段です。そうすればどうにかなるというのは誰でもわかる。だけどそれをすると誰も買わなくなるから出来ないわけです。
国民からただ搾り取るという路線であれば、少子化対策なんて絶対に進まないでしょうし、それが進まなければ消費もどんどん落ちて行く、当たり前ですが、増税か?上げ潮か?なんていうアホ臭い二元論で語る事など出来ない問題です。
もちろん中川にしろ、与謝野にしろ、彼らはプライオリティの問題を言っているだけなんでしょうし、それを報じるメディアや捉える我々が、単純な二元論で切り分けるような思考の仕方をしてしまうからそこに当てはまるように言っている部分もあるでしょう。そうやって単純な図式で報じる側にも責任がある。
そう、こういった問題は二元論では片付けられない。プライオリティが重要になるわけです。
つづく!!