前回の続きです。

そして科学的なデータがいっぱいあるのは皆様ご存知だと思います。しかしこれが非常に厄介で、増えているとか減っているとか、害があるとか無いとか、どっちなんじゃい!!という混乱迷走ぶりです。聞けば聴くほどこんがらがって来ます。ようするに誰もわかってないという事なんだろうと思えます。

これはその中に真実があるかないかということを言っているのではなくて、あったとしてもそれがコンセンサスになる事は難しいという事です。それぞれの立場での力比べ、政治なんですね。

それに結局学者なんてのは政府のヒモ付きの補助金で研究していたりするわけですので、スポンサーに都合の悪い研究結果というのは出て来難いという利益相反の問題があります。

なので恣意的にならざるを得ない部分は間違いなく存在するでしょう。政府に都合がいい研究結果が出れば出るほど、補助金も出るという構図なわけですから、学者である以上、研究費の確保というのは非常に重要な問題であり、それがそのままその人のキャリアにもダイレクトで響いてしまう。そういう図式の中にいますので学者けしからんとか言うつもりは毛頭ありませんが、こういうデータを戦わせても無駄に決まってます。

これは環境問題にも言える事ですし、医療にせよ、すべての分野でこの問題はある。科学的根拠なんてもんはその程度のもんで、自分は科学的根拠というのは、複雑にする事によって一般市民が精査出来ない網をかけるような、専門のテクニカルタームによってブラックボックスをつくりだすようなもんだろうとも感じます。それに正しい事であるかのような錯覚をすり込む事も出来る。

この問題には人間の先入観の問題も作用してしまいます。ある実験において、遺伝子的に全く同じラットのグループが、二つの実験室に送られる。一つの実験室にはこのラットは遺伝子的に優れていて賢いので、普通よりも素早く迷路を抜けられると伝え、もう一つの実験室には、このラットは頭が悪いので、迷路を抜けるのに時間がかかると伝える。それぞれ実験を行なうと前者は迷路を早く抜け出すと言う研究結果が出て、後者は時間がかかると言う結果が出て来たりする。

世論調査員のグループにこう指示します。「世論調査員が世論に微妙な影響与えてしまう事がよくあるので、調査の際はマニュアルに書いてある通りの事を読み上げるようにする『こんにちは、世論調査に伺いました、貴方のご意見に影響を与えない為に、私はマニュアルに書いてある事だけを読み上げます』」調査員にはマニュアルに書いてある事意外は、一切口にさせない。その上であるグループには、この質問に肯定的な答えが得られる確率は70%であると伝え、もう一方のグループには、肯定的な答えが得られる確率は30%であると伝える。質問の内容は全く同じとする。にもかかわらず、それぞれ70%と30%になってしまったりする。

作為が紛れ込んだのか?どうしてそういう事が起きるのか?そういう疑問はこの場合どうでもよくて、研究というものが先入観に基づいて結論を出してしまう可能性が多々あるという事です。人は自分が聞きたい答えを見つけ出してしまうという特徴を持っている。

学者というのは例外無く自分が行なう実験結果について、これまでの研究の積み重ね、自分のものであれ、他人のものであれ、そして自分の置かれている立場などによってある程度の先入観を持ってしまっています。先入観というのは不思議な働きをしてしまうものなのです。マスコミがほざく世論調査の恣意性なんて、推して知るべしという感じです。

それにデータというか統計なんかも出て来ますが、思うに、統計って、全体の数字を把握していないと、あんまり意味がないのではないか?と感じるわけです。それが機械的に必ずこうすればああなるという事象であれば、部分を観測して、全体を把握するという事は可能でしょう。だけど、海の中の話ですからね。しかも生き物で動いているわけで、増えている減っているってどうなんだ?って感じがどうしてもしてしまいます。

1970年代、2000年までに100万種の生物が絶滅すると予想する学者がいました。また全種の50%が滅ぶと予想する学者もいました。最近でも異常気象などの問題を煽る意味で、この手の話を取り上げる素人がいっぱいいますし、50年後100年後の似たような危機を煽る言説も沢山ありますが、2000年代の今それらは一つの見解でしかなかったわけです。証拠の裏付けの無い見解を妄想と言います。なぜか?

今現在、地球上にどれだけの種が存在しているのか、誰も知っている人がいないからです。推定では300万種から400万種と言われています。100万種の誤差は、誤差とは言いません。わかっていないという事に他ならない。

どれだけの種が存在するのかわからない以上、どれだけの種が絶滅しているのかわかるわけありません。財布にいくら入っているのか知らないのに、盗まれたのか減っているのか、盗まれたとしていくら減っているのか、わかるわけが無い。しかも報告される新種の数は毎年1万5千種にも及びます。

種の個体数をどうやって計測しているのか?種が絶滅したとどうやって判断しているのか?実に情けないやり方です。ある場所の一区画を区切って、例えば学校の校庭ほどの広さなら広さで区切って、その区画内にいる昆虫、動物、植物の個体を一つ一つ数えていきます。

そして10年経ったら同じ区画に戻って来てまた同じように数える。その間にその区画からはたまたま外に出ているかもしれないし、別の場所で生息しているかもしれない。そういう事を抜きにしても、物理的にそういう区画内の生物をキチンと計測するなんて事が可能なのかと言えば、昆虫なんかは止まっているわけではないですから、正確な計測など望めるはずも無い。これにつきる。

こういうものをベースにして、増えたの減ったのああだこうだデータを付き合わせても、無駄に決まってます。だけどそれが科学的な根拠になってしまうと何となくそれっぽく聞こえてしまう。捕鯨の問題を見ているとまさしくこういう事を思わざるを得ない。

人為的に間引く事を肯定する、ようするに鯨が増えると漁獲量が減ると一方は主張し、鯨は保護すべきだという事を一方は主張する。しかしこれは環境問題なんかにもいえる事なんですが、人間が環境管理なんて出来るのか?って問題があります。なぜならばどうすれば環境が管理出来るのか本当の所は誰も知らないからです。すべて仮説に過ぎない。

アメリカのワイオミング州に世界で初めて自然を保全する目的で公園に制定されたイエローストーン公園という有名な場所があります。19世紀後半、ノーザンパシフィック鉄道が観光客を西部に呼ぶ為の観光地にする為、ここに目をつけました。同鉄道の働きかけもあり1872年に国立公園として誕生します。

しかしこのときある大問題を誰も気付いていませんでした。自然を保全するという試みは、誰も経験した事が無いという事です。それまで人は自然を保全する必要性に迫られた事など無かったからです。それもあってこれを甘く見ていたというか、簡単な仕事だと思っていたわけです。

自然を保存するという言い方が矛盾をはらんだ言い方で、保存というのは人為的に介入する事も含みますので、自然、要するにありのままの状態を人為的に介入した時点でありのままではなくなるわけで、語義矛盾なのですが、放っておけば自然は勝手にバランスを保つのかというとそういうわけではありません。

余談ですが、一般的に自然を大切にしようという鈍感なスローガンがよく出て来たりします。昔、学校のバカ教師が「自然を大切にしましょう」とほざいていたので、自然というのは、ありのままに放置しておく状態の事を言うわけで、大切にするという人為的な行為で介入した瞬間に自然は自然ではなくなる。ありのままに放置しておく状態をどうやって大切にするんだ?と聞いたら、カンカンになって頭から湯気を吹き出しながら、お前は屁理屈が多いと怒り狂ってました。その後こてんぱんにしかられた事は言うまでもありません。今考えても屁理屈じゃないような気がするのですが、辞書で自然と引いても、ありのまま、手付かずの状態ってちゃんと書いてあるのに、正論は無力という大人の理不尽をガキンチョながら感じた瞬間でした。黙っておいた方がいい事もあるのだと。話を戻します。

同公園では1900年代初頭、エルク、バッファロー、クロクマ、シカ、ピューマ、グリズリー、コヨーテ、オオカミ、オオツノヒツジ、等々、狩猟の対象となる動物が悠々と暮らしていました。この時点で生物を自然の状態で自生させる方針が出来上がっていたと言われています。公園管理局が出来たのはこの直後で、公園管理局とは内務省に設けられた新たな部局で、その目的は公園をオリジナルの状態に維持する事でした。何がオリジナルかもわかっていないのに。

その後、十年くらい経過すると、動物でひしめく光景は永遠に失われてしまう事になります。

原因は公園管理局にあります。公園の状態を維持する為に最善だと思い込んで次々と手を打つわけなんですが、それがことごとく間違っていたわけです。今はその頃より知識が増えていると錯覚しがちですが、大きな過ちで、殆ど増えていません。そして人は過去の人間よりもものを知っていると必ず言い張る。鯨の問題や、環境問題でもいいですが、全く重なる所があると思います。

初期の公園管理官達はエルクが滅びかけていると思い込みます。そこでエルクの数を増やす為に公園にいる補食獣の数を減らす事にしたわけです。オオカミ達をことごとく射殺し、毒殺します。そして先住民達に公園内での狩猟を禁じます。この場所は昔から彼らの狩猟場所だったにもかかわらずです。

過剰に保護されたエルクは爆発的に増殖し、特定の樹の枝葉や草を大量に食いあさる。結果、生態系が変化しはじめます。エルクが枝葉を食いつくし、絶滅させた樹の中には、ビーバーがダムを造るのに使う種類があったため、まずビーバーが消えます。

管理官達がこの地域での治水にビーバーの存在が欠かせない事を知ったのはこの段階でです。ビーバーが消えた事で川辺の草地が消えます。それによってマスとカワウソが消える。連鎖的に土壌浸食も進み、公園の生態系は益々変化の度合いを深めて行きます。

1920年代に入る頃には、さすがにエルクの個体数が多すぎるとわかっていたので、今度は射殺しはじめます。それまで保護して来たエルクを何千頭もです。しかし植生の変化は後戻り不能であり、樹々と草の程よい混生状態は、もう二度と再生出来ませんでした。

昔から先住民が行なって来た狩猟は、実はエルクやムースやバイソンの個体調整に一役買っており、公園の生態系を安定させる上で、貴重な影響を与えていた事が徐々に明らかになって来ます。しかし時すでに遅し、アメリカ先住民が自然に対して積極的に影響を与えていたという、より普遍的な実態も明らかになってくる。白人が新世界を発見したときに見た「手付かずの大自然」は手付かずなどでは全然無くて、先住民が何千年にもわたって生態系に介入し多大な影響を及ぼして来たわけです。野焼きをし、森の広がりを制御し、特定の動物の個体数を減らし、時に絶滅に追い込む事によって。

そう考えると、先住民に狩猟を禁じた事は適切ではなかったと言えるでしょう。しかしそれは過ちの一つに過ぎず、グリズリーはいったん保護され、そして駆逐される。オオカミは駆逐され、今度は他所から連れ戻される。フィールドスタディや無線首輪を含む動物の研究は中止され、特定種が絶滅の危機に瀕したと宣言されると、手の平を返すように再開される。

山火事の効用を理解する事なく火災予防策が取られ、森林再生効果がわかって予防策が撤回されると、今度は大規模な森林火災を放置し、結局は消火に動き出したものの、降雪に助けられて鎮火した時には、広大な面積が焼け野原になるという事態を招く事になる。その一帯は、いっこうに森が再生される事は無く、今でも荒廃したままになっている。

1970年代には河にニジマスが放流されるが、大半はたちまち先住の肉食魚に食いつくされてしまう。

こんな事を延々と繰り返しているわけです。

介入の失敗を修復する為に対策をとり、その対策で引き起こされたダメージの修復の為に、また別の対策が打たれる、そしてまた・・・こういう繰り返しの連鎖、自然を保護するという善意に基づいて行なわれているのだとしても、人の無知、傲慢によって繰り返される、そして今も繰り返され、まだ繰り返そうとしている、人のエゴが作り出す人災です。

自然は何もしないで放置しておくだけでは、現状維持派出来ません。その辺の庭を見るだけでもそれは明らかであり、自然を囲い込んで放置しておくだけでは現状維持など出来ない。世界はたえず動いている。子供を部屋に閉じ込めておいても成長を止める事は出来ない。それと同じで、ある範囲の自然を現状のまま維持しておきたかったら、その状態を厳密に調査し攻撃的なほど徹底的に管理しなければ不可能です。

自然を自然のまま放置して要するに手をつけずに放っておくという事がそもそも出来るのか?という問題もあるし、仮に出来たとしても、自然はどんどん形を変え、人間の都合なんて知ったこっちゃないわけです。

ここまでですと、それじゃ日本が捕鯨をして個体調整をするのは悪くないのではないのか?環境にコミットするのもいい事なんだ、という風に短絡的になってしまいがちですが、そんな単純な話ではありません。

ある範囲でたとえそれが可能だとしてもその外から取り出して、実験室の中に閉じ込めておくという話ではありません。世界は繋がっておりたえず影響を与えあっていて動いている。そういう森羅万象を人間は何一つわかっていない。

学者というのはあるフィールドの専門家であって、すべてを知っているわけではない。というか知っている奴なんて誰もいない。たかが鯨学者、環境学者ごときに、わかるわけが無いのです。わかっていないのにわかっていると思い込んで介入する事の恐ろしさをよくよく考えないと取り返しがつかない事になりかねない。

どんな行動を取ったとしても、そこには必ず副作用が付きまとう。環境の変化を招く。その変化はいずれかの植物や動物にダメージをもたらし、更に連鎖して行く。それはどうやっても避けられない事であり、そういう事を踏まえて鯨にしろ、環境にしろ騒いでいるようにはどう見ても見えません。副作用は当たり前ですがコストを伴う。目先の利益にたぶらかされて、もっとコストを負担せねばならない可能性は確実にあり得る。

馬鹿メディアなどが嬉しそうに騒いでおりますが、よくよく考えた方がいい。これは例外はありません。それだけは確実な事です。いかなる行動にもデメリットは付きまとう。プラスの効果しかもたらさない行動なんて無いと考えておいた方が賢明です。

かと言って放置もしておけないという事はわかりますが、副作用を慎重に吟味して行動しないと、ロクな事が無いという事を散々経験しているのに、まだ人類はその事を学んでおらず、自分達に出来ると思い込んでいる。これは非常に危険な事なのです。

環境の問題にしろ鯨の問題にしろ、コミットする事は重要でしょう。だけどそれが本当に環境や鯨の為なのか?もっと言えばその副作用を引き起こす連鎖を考えての事なのかというと、そういう構造で世界が動いているようにはどうも見えません。

こういう問題は善意があっても何の役にも立たない。必要なものは知識と結果のみです。まして権益の為に綱引きしているような連中の言う事がどこまで信用出来るのか?これは頭に叩き込んでおいた方がいいでしょう。

例えばどこそこで鯨が漁業に悪影響を与えているとか、どこそこの鯨が減っているとか、それぞれの陣営に都合のいい局所的な現象を取り上げて理論武装の強化に使ったりしているパターンもありがちですが、そういう事を煽っている人は無知で言っているのでないとすれば、明らかに情報を恣意的に利用しています。それが学者だったりすればそういう奴の言う事は100%嘘だと思って間違いないでしょう。

環境運動に熱心な人であればあるほど、例えば局所的にハリケーンが起こったとか、干ばつが起こっているとか、氷が溶けているとか、そういう現象がある事が温暖化の根拠にはならないと言う事を知っているはずです。まともな学者なら絶対に否定する。

日本でもよくその手の扇動的な啓蒙が多い、ちょっと平年の気温より暑けりゃ暑い、寒けりゃ寒いで、異常気象が起こっているかのような、温暖化の影響であるかのような、人間の傲慢さの結果でもあるかのような、下らん啓蒙をするアホがいます。芸能人なんだかニュースキャスターなんだかわからないクソみたいなクズや、知識人とかいっても脳味噌の中身がニワトリ並のボケがしかめっ面してほざいたりよくしております。

こういう連中はバカなので、本気でそう思っているのかもしれませんが、少なくともまともな環境学者であれば、そういう局所的な現象を取り出して、温暖化が起こっているかどうかはわからないと絶対に言います。そう言わない奴は嘘をついている。

しかし嘘をついている奴の言説の方が表に出て来やすい。という事は、鯨問題にしろ、環境問題にしろ、本当にどうかという事とは別の力学が動いているという事を何より雄弁に物語っている。不安を権益に変えるというよくある戦法です。これは賛成、反対いずれにせよです。

さてこういった事を全く抜きにして、いきなりグリンピースの何が問題なんだと書いちまったので、ちょっと気になって書き足したわけですが、自分のブログがクソ長いのはこういう前提を書いてから、さて本題ですとなるからなのですが、面倒くさいし、読んでる人はそんなの解ってるぜって話なんじゃないかと思い、ついついスキップぶっこいたわけです。中々言葉を簡潔に使って立ち位置や視座を説明するのは難しいもんです。

まあこのネタはあまり興味も無いので、本当は書きたい事が他にあったのですが、一応こういう風に見てるからああいう事を思う奴なんだと言う事で、このネタはこれにてEND!!