続きです。今回でまとめまする。

いろんな立場の人がいて、いろんな事を考えている。考えが違う人が敵かと言えば、そんな事は全然無いわけで、そういう葛藤の中から、単純には片付かない問題をいろんな意見を聞き、納得解を導き出す中から、学びとなるかけらがあるのだと思うわけです。単純に物事を切っていて人は賢くなんかなりません。思考停止でももちろんです。今この国に一番必要な事はそういう事なのではないかと思うわけなのです。自分と意見が違うからと言って、敵扱いしたり、話も聞かないというのは建設的ではありません。

日本人はなぜか簡単に答えのわかっている、どう見ても不合理である事にはいつまでもグズグズと情緒的に縛られて問題を先送りにしたりする傾向があるのですが、複雑で一筋縄ではいかない話になると、単純な二項対立でスッキリ片付けようとする所があります。当たり前ですが逆です。

民主主義を多数決だと勘違いしている人が政治家にまでいます。これは非常に厄介な事態で、困った話です。最近そういう人が余計に増えて更に拍車がかかっている。もしそうであるのなら、与党が決まった瞬間に野党は全部クビにすべき事です。特に少数政党なんていなくてもよくなってしまう。

民主主義というのは、少数政党も選挙に勝てば議席を獲得出来ます。それは少数者達の声も国政に反映させる為です。その為にウダウダ莫大な金をかけて、国会で議論させているわけです。それが最近は半ばセレモニー的な議論に成り下がっていて、結局は多数決というパターンが度々繰り返されます。これは民主制の弱体化でもある。

原因としてはやはり、二項対立、是か非かという頭の悪いスッキリ解ばかりで、議論を戦わせて納得解を導き出すという能力の無い議員ばかりになっているからだろうと思います。人の意見を聞けない、自分と反対意見は聞かない、ある立ち位置を決めたらそれを守る為に理論武装をするというパターンが繰り返されている。弊害はこういう所にまで出て来ている。これがこの国の一番の問題でもある。

対立というのはあらゆる次元に存在します。牛が草を食むのも、ライオンがシマウマを喰らうのも、象を人が撃ち殺すのも、鮫が人を食うのも、ビジネスで競争相手に潰されるのも、ジャイアンツが阪神に勝てないのも、洪水で街が流されるのも、戦争に負けて植民地化されるのも、植物が太陽の光や水分、土中の養分を吸収するのも、惑星や恒星や光そのものが、ブラックホールに吸い込まれ、事象地平面内、所謂シュバルツシルト半径内とかエルゴ領域とかいわれるものに入り込んで脱出できなくなるのも、自分の目にはそのレベルの違いが明確にわかりますが、ようするに甲が乙を吸収する、甲が乙を否定する、乙を利用して甲が甲を肯定する、力学的に甲が乙より上回っているので甲が生き残り乙は消滅する、もっと簡単に言えば、甲が勝ち、乙が負ける、それだけの事。

そして勝ち残ったそれも、次の対立する何かと再びぶつかりいずれ打ち消される。

つまるところ、この世を形作っている、世界、宇宙、すべてのものは結局の所、そういう簡単な原理を様々なレベルで体現しているに過ぎないのかもしれません。様々な対立をあらゆる次元で延々と繰り返す。

その上で存在する様々な物質、有機であれ無機であれ、生物も巨大な惑星も、一億分の一センチの原子も、十兆分の一センチの原子核も、その構成要素の陽子、電子、中性子でさえ、未来永劫滅び去るまで対立のシミュレーションは続く、それは、道徳でも哲学でも善悪でもありません、法則です。

喜びを知っているからこそ悲しむのであり、悲しみを知らなければ、喜びを感じる事も出来ません、希望を持つから絶望するのだし、絶望があるからこそ、希望もある、光があるから闇があり、闇という概念が無ければ、光という概念も存在しない、物事の裏表、真実と嘘、粒子と反粒子、どちらかだけでは成り立たない、対立する概念や物質があるから、それはそのようになっている、それがこの世の法則です。

人間社会のシステムというのはそういう対立構図を曖昧にぼやかす為に存在します。勝ち負けによる格差をなるべく緩やかにして、安心感を得る為に、希望のようなものをちらつかせて、弱者がそう簡単に音を上げないように巧妙に創られている。

だけどそれでも法則をねじ曲げる事など出来ません。物語の登場人物が、作者の構想を勝手に変えられないのと同じです。物語の中でどれだけあがいた所で、所詮作者の構想の内側からは出られません。対立構図の見た目が違っているように見えたとしてもそこに意味などありません。石ころと木の違いに意味などないのと同じです。

我々人間は、この社会でつくられたフィクションの善悪、完全な善や、完全な悪という状態にはなりにくく、多くの場合その狭間で、その時の状況によって揺れ動いています。その対立や矛盾に引き裂かれ、常に迷い、葛藤し、喜び、悲しみ、怒り、様々に揺れ動きながら、もしくは互いに打ち消し合いながら、動的平衡状態を保っている。

量子力学の場の理論では、真空ようするにそこで言う「無」とは、何も無いという意味ではありません。電子と陽電子、粒子と反粒子が常に対存在、対消滅を繰り返し、真空の動的平衡状態を保っている。ちょっとしたバランスの変化で宇宙のような巨大なエネルギーを生み出す可能性が満ち満ちている。まさに我々の心もこれに似ている。

我々生命の肉体も日々細胞がアポトーシスを繰り返しています。個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺、すなわちプログラムされた細胞死の事です。

そして新たな細胞が生まれ、日々代謝を繰り返し、一年前の自分を形作っている物質は何一つ無くなっていても、私は私と感じる事が出来る。その流れに固着しているのが魂と呼ばれる現象でであり、たえず入れ替わり動的平衡状態を保っているその流れが生命と言う現象です。物体では無い。

平衡状態はやがてエントロピーマックスで死をむかえる。無へとかえる。その流れにあるうちは腐りませんが、流れが止まった瞬間から現象は物体に変わり腐りはじめる。そのまま放置すれば、腐り、蛆が湧き、土へ帰る。生命現象の流れが止まっても、時間の流れは止まらない。

それは物理法則であり星も宇宙も同じです。星も動的平衡状態をやがて失い死をむかえる、膨張している宇宙はやがて収縮を初め、熱力学的な死、動的平衡状態はいずれ終わる。様々な対立をあらゆる次元で繰り返し、死と再生を繰り返し、対存在、対消滅を繰り返し、エントロピーを打ち消しながら、動的平衡状態を保つ。それでも時間というファクターがやがて終わりを運んでくる。時間とともにエントロピーは増大し、終わりをむかえる。

我々人間の営みもこの物理法則に支配されているが故に、たえず争い、傷つけあい、殺しあい、裏切りあい、騙しあい、存在と存在を打ち消し合う、宇宙の動的平衡状態の内の現象なのかもしれないと思うときがあります。やがて終わりを迎えるまで。

紀元前、古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。鴨長明は方丈記の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」と記しています。人は昔からこの事に気付いていた。

平家物語の有名な冒頭でも「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」と伝えられています。

我々は流れていないと、つまり形を変え続けていないと生きて行けない。しかし時の流れというファクターがそこに加わると、形が変わって行くだけでなく、つまり肉体的な変化、成長もしくは老いという死へと向かう現象を、繁栄から衰退という滅びの流れを実感する。始まりがあるものは必ず形が変わり終わりをむかえる、永遠に続く事など無い。必ずピークを示し、ピークアウトする。

形を変えないと生きて行けないが、形を変えると言う事の有限性、そういう不変の法則の無常感を、昔の人は実感していたわけです。だからこそ人はパーフェクトな存在を求めてしまう。絶対的な何かを求めて止まない弱い存在であると。そして絶対的な何かを求めても、いずれ終わりは訪れる。現代の人間が本当の意味でその事を実感しているのか?

どうもそういう風には見えない思考停止な人が、この国にはいっぱいいるように感じます。そう言う事を実感させないような、上っ面ばかりの表面を何の引っかかりも無い、どうでもいいような様々な出来事に誤摩化されているように感じる。そうであるのなら、これは生命としては弱体化しているとも言えますし、テクノロジーも無い時代に人が感じ取る事が出来た感性を失っているとも言える。ある意味退化しています。そういう時代のそういう国の表現がクソばかりなのは当然の帰結です。

場の理論における無とは、仏教の教えによる所の「空」(くう)の概念に似ています。自分は仏教徒じゃありませんが「色即是空、空即是色」この八文字はある意味この世界の森羅万象の真理を表しているとも感じられます。

「色」とは、我々の目に映るもの、形作られたもの、木も草も動物も大地も山も川も海も「色」です。「色」とは即ち「空」であり、「空」とは即ち「色」でもある。

空とは、有でもなく、無でもなく、非有でもなく、非無でもない。有とは、在ることが在ることで、無とは、在ることが無いこと。空とは、無いことも無い状態であり、であるが故に全てのものであることも可能なもの。

有も、無も、非有も、非無も、全て空のうちでの現象で、つまり、空のうちにはおよそあらゆるものが存在することができ、およそあらゆるものが存在しないことができる。

空は、あらゆる形のものを含むことができるが故に、どのような形状もしていない。あらゆる大きさのものを含むことができるが故に、どのような大きさでもない。

空こそが、空であることのできる唯一無二のものであり、それ故に、あらゆる比喩の外に空はある。答えられるのは、なにが空ではないかということであり、なにが空のうちにはあるかということのみである。空はただ空であるだけである。

何の事かサッパリわからないかもしれませんが、愚管抄の著者である、慈円のわかりやすい歌があります。

「ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり」

柴を結べば庵はあり、結び目を解けば庵はない。だから庵はあるとも、ないとも言えます。同時にあるともいえないし、ないともいえない。庵の存在の有無は結びにかかっています。結べば庵はあり、結ぶまではなかった、結びを解けば、庵は無くなる、無であると同時に有でもある、すべての実在は空であり、庵という実在は、もともと存在しなかった、しかし結びさえすれば庵は実在となる、庵という実在は無く、また同時にあるとも言える。

インドでは数学のゼロをこう呼んだと言われています。

パーフェクトとはちょっと違った概念です。パーフェクトとも言えるし、そうじゃないとも言えるし、パーフェクトだからこそパーフェクトではないとも言えるし、パーフェクトじゃないからこそパーフェクトだとも言える。

物事はそれ一つだけでは存在出来ない。周りがあって初めて存在する事が出来る。そしてたえず変化する。木になる実は、空気も必要だし、大地も太陽も雨も必要、切り離して実だけを人が取ったとしても、それは人の口に入りやがて土へとかえる。

そこにテーブルがあったとする。テーブルは木で出来ている。だからテーブルの実体は木だと言う事も出来るけれど、木の実体は、大地があって、太陽があって雨が降るから木になるわけで、その木を人が加工するからテーブルになる。数百年後、もしくは数千年後テーブルは形を変えて土にかえっているかもしれないし、人の手によって他の何かに形を変えているかもしれない、燃えてしまって灰に変わり、空気中に分散しているかもしれない。土にかえったテーブルは、やがて木を育み、そこに実がなり、それが人の口に入っているかもしれない。

宇宙があるから地球が出来て、宇宙が最初に生まれた時に発したエネルギーが様々に形を変えているだけで、我々が実体だと思っているものや、本質だと捉えているものは、たえず変化する何かであって、それを即ち「空」と呼ぶ。

単独で存在しうるものをパーフェクトと呼ぶのなら、たえず変化しすべてのものに宿っている「空」はパーフェクトであるとも言えるし、永遠不変をパーフェクトと呼ぶのであれば、たえず変化する「空」はパーフェクトではないとも言える。太陽の光も、大地も、空気も、木も、その実も、人間も、テーブルも宇宙も、地球も、「空」だと言える。繋がってたえず変化する。ヘーゲル的な理性の世界観にも若干似ています。

とまあこんな話をよくわかりやすく、「とらわれず、こだわらず、偏らず」なんて言ったりしますが、自分のような凡人には悟りを開くというのは難しいので、せめて人の話を聞くとか、何かを絶対視しないとか、人の自由を認めるとか、それくらいなら凡人にも可能です。

そりゃ凡人なので、怒ったり、ムカついたり(保守や左翼のバカ共をけなしてますからね)、嫉妬したりしますが、例え物理法則が支配しているのだとしても、対立を回避する、もしくは視点をずらして脱構築するという選択肢も人にはとれるはずです。それが唯一人間だけが出来る可能性でもある。

ようするに、物理法則?知るか!!という事です。言論の自由を認めたくない自由も存在する。あれこれと長々と書いてみました。

中々まとまらずなんか長々と申し訳ありませんでした。お付き合いして下さった皆様お疲れさまです。

まとめるまとめると言いながら、中々まとまらない未熟さ及び駄文失礼します。

それでは、この話題はこれにてEND!!