前回の続きです。と始める前に、連休中はあれこれとやる事があり、更新が滞っておりました。連休も終わり日常生活へと戻ったので、懲りずに続けます。それではスタート!!
前回あのような事を書いたからと言って、自衛隊がいらないとかいるとか、そういう事が言いたいわけではありません。そりゃ自分にも思う所はありますが、ああいった前提を踏まえた上での議論でないと、ハッキリ言って時間の無駄です。
しかしこの国での国防に対する議論は、レベルが低すぎて話になりません。
さて、少し話を変えまして、自分の話からこういった問題を掘り下げます。
自分が小学生か中学生か忘れましたが、子供の頃、学校の教師に、お百姓さんという言い方や、おまわりさんという言い方は差別だと食ってかかった記憶があります。
農家の方々の仕事というのは大変な仕事なので、尊敬の意味を込めて百姓の事を「お百姓さん」と呼んでいるという事の裏側に、差別ではないかもしれませんが、どこか区別している言い方が混ざっているのではないか?という事を感じたからです。
警察にしてもそうです。おまわりさんという言い方とは別に、蔑むような俗称、蔑称も多い。サラリーマンとか、料理人とか、風俗のおねえちゃんとか、「お」なんてつけません。水商売を「お水」とは言いますが、これは尊敬の意味を込めてこう呼びなさいと教育されるわけではありません。
お父さんとか、お母さんとか、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、と、「お」がついているじゃないか、とも言えますが、これらは自分より偉いというか、世話になっているわけで、そもそも自分と同じではありません。なので区別するのは当たり前です。基本的には尊敬すべき存在ですし、「お」をつけて呼ぶかどうかは個人的な差はあると思いますが、そういう対象であるというのは納得出来たわけなんですが、職業によってそういった差がある事を隠しているというか、無い事になっている状態に対して、ある種の胡散臭さを感じたわけです。
差別は善くないと教育する教師の口から、「お百姓さん」という言葉が出て、そこに何の違和感も感じない無神経さに腹が立って食ってかかったわけです。まあ、今ならそんな事は別に思いませんし、思っていても口にして気まずくなるのも嫌なので言いませんが、ガキンチョの頃の生意気さと無知さによって、教師が嫌いだったという事も重なって、挑んだわけです。
職業というのは尊敬されるべき職業と、そうじゃない職業があるのだと教えられるわけではないのですが、実際にはそうであって、尊敬を込めて呼んでいる職業に対してもある意味、本音の所では尊敬なんてしちゃいないのではないのか?と。
にもかかわらず、何で特定の職業に対してそんな「お」をつけるような事をするのだと。それどころか、例えば性を売るような職業に対してはある種の排除すらしている。法律を破っているのなら法が裁けばいい事で、仕事をしているという意味において、政治家だろうが、ゴミ屋のおっさんだろうが、根本的に差なんてないはずだし、あっちゃならんと教えてもいる。
そういいながら、百姓に「お」をつけるのはなぜだと。
その時の教師は頭の悪いバカだったので、自分の言っている意味を理解出来ないようでしたが、何が言いたかったのかと言いますと、農家の事を尊敬しろと教育していたって、結局なり手が減っているわけで、尊敬しろと教えられながらみんなやりたくないと心のどこかで思っている、格好悪いと思っている、不合理だと思っている、そうでなければ跡継ぎに困るなんて事も無いはずで、差別するなと教えながら、ある種の職業は差別し、ある種の職業は敬えと教育する。
そういう事をしておきながら、それを無いと教えるのは間違ってるんじゃないのか?差別する事自体は、それが合理的なのかどうかはわきにおいて、実際に差別しなくとも世の中に差はある。仕事の職種が違えば、収入だって違うわけだし、弁護士と、工場の流れ作業の単純労働では、なる為に必要なリソースも違うわけです。だから仕事の中身が違うという事もひっくるめて、差はある。でもその差を無いと教えたり、差があるのに、差別するなと教えながら、ある種の職業には尊敬しろと教えたり、悪い事でもしているかのように扱う職業もある。
例えば今ファンドなんて言ったらある意味、悪の権化みたいな風潮があります。彼らを差別するのは善い事なのか?
感謝しろというのはわかりますが、感謝とは百姓を「お百姓さん」と呼ぶ事なのか?警察を「おまわりさん」と呼ぶ事なのか?
少なくとも口では「お百姓さん」と呼びながら絶対にやりたくないと、俺は絶対にやらないけれど頑張ってねという感謝であり、本音の所は蔑みながら、蔑むコミュニケーションが溢れかえっていながら「おまわりさん」と呼ぶ感謝であるわけです。
そういう感謝の仕方がけしからんとか言いたいわけではなくて、そういう感謝である部分も存在しているのは事実だと認識する必要があるのではないかと思うのであります。
そう、我々の世界は人が勝手に引いた恣意的な線に溢れています。結局人は区別する、自分が何をどう信じているのかそれぞれです。そしてそれが無いと教えられていたりする。
沖縄の問題なんかが典型ですが、沖縄の人々の痛みを知れと吹き上がるのも、いつまでも被害者面しやがって、いい加減にしろと吹き上がるのも、この差別というか区別が前提になっている。我々とは違う何者かという前提があるから、その違いの穴を埋めようとするわけで、沖縄人が本土の人間に対して行なうコミュニケーションもしかり。
こういった問題というのは結局その、人が引いた恣意的な線によって区別しているという事を自覚しないと永久に無くならない。沖縄の人達可哀想とコミットしていても根本の所で区別しているからそう思えるわけで、区別というのは、こちら側と向こう側を選別する作業に他ならず、これは排除や純化に繋がる発想です。
そりゃ沖縄の人達がどうかはわきにおいて、マイノリティの声を救い上げたり、社会的に虐げられている人達を救おうと活動する事は悪い事ではもちろんありません。しかし差別するなというその人達も、マイノリティをマイノリティだと認識しているから、区別しているからコミット出来るわけで、それでいて差別(区別)するなと吹き上がっても、差別は無くなりません。だってその人達がそもそも差別しているわけなんですから。それに全国民が知っているマイノリティというのが、本当にマイノリティと言えるのかという問題もある。
その土台に乗っかって、差別するな!!と、どんなにコミットしても、その土台に自分達も乗っかっていると自覚出来ないと、差別をなくすどころかより強化してしまうという事に加担してしまいます。
世の中には差は存在する。人はみんな違うわけで、国民と非国民と例えば線を引いたとしても、まあこの言い方は大っ嫌いですし、国民なんて言い方もそもそも矛盾のある言い方で、ベネディクト・アンダーソン的に言えば「イメージとして心に描かれた想像の共同体である」ので、日本人なんて概念も、もともと日本人がいたのではなくて、ある時点で作られた概念すぎず、日本人だから統合しているのではなくて、統合する為に日本人というフィクションを作ったわけであり、非国民という言い方自体、国民であって国民でないと言っている事ですので、そもそも国民という言葉自体もフィクションですし、国民でありながら国民ではないという言い方自体、語義矛盾であり、何も言っていないのと同じなんですが、それらをわきにおいても、国民の中もいろいろいるし、非国民の中もいろいろいる。あるカテゴリーに対して、反日的かそうでないかで、勝手に線を引いているだけで、同じ人間なんて一人もいない。同じで無い事を恐れる人間達が、そういう分断統治に引っかかる。
差は無くならない。その違いが問題の原因ではなく、その違いによって不合理さを生み出してしまう我々に原因がある。人を羨ましがったり、人より劣っていると感じたり、自分より不幸な人を見て、まだ自分はマシだと感じたり、そこに原因があるとわかっていても、それでも人はそういう振る舞いを止められない。人はみんな違うのだから無くせない。
なのにそれを一方的に善悪で片付けたり、みんな違うし、似たような区別をしているのに、ある区別に対して、ここに悪者がいる、空気の読めない違う奴がいると啓蒙するのも、ここに弱者がいる、虐げられている存在がいると啓蒙するのも、構造的には言い分が真逆であっても同じです。
差を無くすという事より、差が無くならないという前提を踏まえて対処する事を考えないと、こういう構造からは脱却出来ない、差を悪者扱いしていても無くならない。本当はみんな違うに決まっているのに、ここに差があると恣意的な線を引いてしまう我々に、そういう事を言う輩に煽動されてしまう我々の心に問題があるわけです。
恣意的な線を引く事自体も無くす事は出来ません。本当に救うべき弱者は確かに存在するわけで、声を上げなければ始まらない所も当然ある。しかしここにコミットするとしても、人はみんな違うという前提を踏まえているかいないかで全く様相は異なる。この国の弱者運動をしている連中というのは根本的にここの所がわかっていない。
沖縄の弱者を救えという言い方も、沖縄の人と言ったって、いろいろいるわけで、みんながみんな酷い目にあっているのかと言えばそんな事は無いわけで、逆に沖縄では左翼にあらずんば人にあらずと言った風潮すらあって、結局その紋切り型の二項対立に取り込まれてしまえば、それぞれの勢力での排除、純化を行なっているだけで、排除を恐れる人々が、面従腹背もひっくるめて、空気を読んで純化を受け入れる。そうなれば敵を作って統合する分断統治にしかならない。
自由にものが言えて、気に喰わなくても認めあう、包摂しあう社会でないと、こういった争いは無くならない。差を認識しないと、いつまでたってもこういう単純な図式に絡めとられてしまう。
何でもそうですが、靖国の是非、改憲、護憲の是非、死刑の是非、いずれにしてもこの構造に支配されています。これらは賛成反対と意見が割れてはいますが、いずれにせよオリジナル中心主義、意味中心主義的な発想です。
現在、グローバル化が進んでいる世界では、権利をいかに獲得して実体経済をコントロールするのかというパワーゲームが行なわれていると再三再四書いて来ました。
企業は多国籍化し、本当の問題点に対処出来難い構造が進み、国際分業と言う名の資本主義の暴力、国際分断が進んでいます。これと平行して先進各国では物質生産の比重は低くなり、情報や記号やイメージによる資本の効率化、金融資本の力が増大し、広告産業や情報産業が実体経済を左右するようになり、人々の生命や財産だけでなく、趣味や欲望、サービスや余暇、ライフスタイルや将来設計といった非物質的なものまでが商品となっています。
レギュラシオンスクールであればフォーディズムからポストフォーディズムへの消費主義パラダイム、ボードリヤールで言えば、シュミラークルが前面に押し出された消費社会という事になります。オリジナルとコピーの差が意味を成さない消費社会です。
コピペ文化、You Tube 、ニコ動、iTunes 、携帯やネットのコミュニケーションなどなど、我々の生活に浸食している部分だけを見てもこういう構造の変化が見て取れる。だから権利の所を合法的暴力の独占体である国家間での獲得競争も進むという帰結につながってもいる。
教育においてもハイパーメリトクラシー的な人間力と言ったような曖昧模糊とした人材を育てるのだという風潮になり、仕事にはやりがいを求めるのがいい事だという風になる。それ自体が善とか悪とか言いたいわけではありませんよ。ただ人間力という言い方で誤摩化していたり、人間力不足という不安を煽って権益化したり、やりがいを持たせて搾取する構造も間違いなく存在する。
資本の構造転換はハーバーマスの言った「公共性の構造転換」をもたらします。これは簡単に言えば、いろんな意見や議論がアリーナ(闘技場)で激突する様を我々は様々なメディアによってみたり読んだりして、テーマ毎に情報や意見が公開され討議が進んで行く、そして討議を経る事によって意見が集約されて行く事になる。
かつてはこういう公共圏が形成されていたわけなんですが、産業界からの莫大な広告費を収入源とし、自らも文化財を娯楽商品として提供するようになったマス・メディアによって、自立的であった公共圏は切り崩されて、人々を消費活動へ誘うとともに、イベントと化した選挙を人気投票の如く演出するようになる。
批判機能を失ってしまった公共圏は、市民が主体的に意見を交換する場ではなく、行政国家や私企業の広告の場に成り果てる。結果として市民は、単なるレジャーの消費者になり、国家権力の下僕に成り下がる。「文化論議的公衆」は表舞台から去り、「文化消費的公衆」へとシフトする。同調的な大衆に取って代わられてしまう。というわけです。
この二重の構造転換の中で、記号論的な消費、情報やメディア、イメージと言った、表象、リプレゼンテーションが軸になった権力構造が進んでいる。リプレゼンテーションとは、現にあるものを再現する事であり、認識における感覚や観念、言語や記号による表示や表現、芸術における上演、演出、描写、政治における代表制などなど、表象、リプレゼンテーションとは広い意味でのコピーや複製の事を意味します。
従来コピーとはオリジナルに従属し、劣っているものと位置づけられて来ました。物と言葉、感情(思想や意志)と表現、作者と作品、真理と記号、自然と人為、人民と代議士などなど、後者のコピーは前者のオリジナルに忠実でなければならないとされて来た。マルクス主義なんかも社会の生産による下部構造が、人々と社会の行動や考え方、精神やリアリティである上部構造を規定するというオリジナル中心主義の発想です。
しかし現状の資本主義体制では情報や記号の交換を生産性の中心に据えているので、コピーが現実を動かし、記号や情報が世界を動かしている。コピーだからオリジナルに従属しなければならないという古いパラダイムでは対応出来ない社会になっている。コピーであるのかオリジナルであるのかは無関係に、シュミラークルとなって氾濫している。ボードリヤールの言った、「ハイパーリアリティ」な世界が現実化しているわけです。物質さえも記号からは自由になり得ない構造によりシフトしてしまっている。
オリジナル中心主義、もしくは意味中心主義というのは、かつて表象やコピーによる汚染を悪魔扱いしたり潔癖性や純粋主義に陥る、正統と異端の血みどろの歴史、ナチスにしろ、我が国が戦前に取った同化政策にしろ、魔女裁判にしろ、こういう構造を生み出すモーターになってしまいます。
なのでベンヤミンが言う所の「オリジナルであるが故に発するアウラ」に引きつけられてしまう人間の弱さを乗り越えようと、オリジナル中心主義、意味中心主義を解体して今があるわけですので、コピーが現実を動かしている?けしからん!!という素朴な善悪二元論で語る事はもちろん出来ません。この国でのすべてにおいて言える事ですが、例えば市場経済に対する啓蒙による嫌悪、一般的な認識はこういう前提を踏まえていない、あまりにも無知蒙昧な素朴な発想です。
また、靖国の是非、改憲、護憲の是非、死刑の是非、これらオリジナル中心主義を掲げての運動すべてに言える事ですが、疎外要因であるコピーを排除する事で本質を回復しようとする疎外論、あるべき姿があってそれを目指すのだという図式では、複製こそが権力構造の本質になってしまった現状では役に立たない空念仏であり、このレベルでシステムを批判していても無駄なのです。啓蒙活動くらいの役には立つので無駄だから止めちまえとは言いませんし、自分もそれぞれ賛成か反対か思う所はある。しかしせめてこの当たり前の前提条件がわかっていてくれないと話にならないのです。
オリジナル中心主義の暴走が生み出す帰結についてあまりにも無知蒙昧な輩が多いのも困った話なのですが、オリジナル中心主義の暴走は恐ろしいのだという事よりも現実は遥かに先に進んでいて、国際分業体制という多国籍化した資本の構造転換では、そもそもオリジナルかコピーかを問う行為自体が、単なる統治システムの歯車なのであって、分断された状態は統治システムに組み込まれた状態でもあるわけです。オリジナルかどうかなんて事はハナっから関係ないシステムに変わってしまっている状況では、オリジナル中心主義的な暴走は出来ないシステム上での分断統治でしかない。
靖国賛成、反対、憲法改正、護持、死刑存知、廃止、いずれにせよオリジナル中心主義を無知蒙昧に押し進める能天気な連中と、その帰結が生み出す恐怖をエビデンスにして批判する連中も、オリジナルかコピーかの二項対立の図式に絡めとられている。
無念!!またしても続く!!
前回あのような事を書いたからと言って、自衛隊がいらないとかいるとか、そういう事が言いたいわけではありません。そりゃ自分にも思う所はありますが、ああいった前提を踏まえた上での議論でないと、ハッキリ言って時間の無駄です。
しかしこの国での国防に対する議論は、レベルが低すぎて話になりません。
さて、少し話を変えまして、自分の話からこういった問題を掘り下げます。
自分が小学生か中学生か忘れましたが、子供の頃、学校の教師に、お百姓さんという言い方や、おまわりさんという言い方は差別だと食ってかかった記憶があります。
農家の方々の仕事というのは大変な仕事なので、尊敬の意味を込めて百姓の事を「お百姓さん」と呼んでいるという事の裏側に、差別ではないかもしれませんが、どこか区別している言い方が混ざっているのではないか?という事を感じたからです。
警察にしてもそうです。おまわりさんという言い方とは別に、蔑むような俗称、蔑称も多い。サラリーマンとか、料理人とか、風俗のおねえちゃんとか、「お」なんてつけません。水商売を「お水」とは言いますが、これは尊敬の意味を込めてこう呼びなさいと教育されるわけではありません。
お父さんとか、お母さんとか、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、と、「お」がついているじゃないか、とも言えますが、これらは自分より偉いというか、世話になっているわけで、そもそも自分と同じではありません。なので区別するのは当たり前です。基本的には尊敬すべき存在ですし、「お」をつけて呼ぶかどうかは個人的な差はあると思いますが、そういう対象であるというのは納得出来たわけなんですが、職業によってそういった差がある事を隠しているというか、無い事になっている状態に対して、ある種の胡散臭さを感じたわけです。
差別は善くないと教育する教師の口から、「お百姓さん」という言葉が出て、そこに何の違和感も感じない無神経さに腹が立って食ってかかったわけです。まあ、今ならそんな事は別に思いませんし、思っていても口にして気まずくなるのも嫌なので言いませんが、ガキンチョの頃の生意気さと無知さによって、教師が嫌いだったという事も重なって、挑んだわけです。
職業というのは尊敬されるべき職業と、そうじゃない職業があるのだと教えられるわけではないのですが、実際にはそうであって、尊敬を込めて呼んでいる職業に対してもある意味、本音の所では尊敬なんてしちゃいないのではないのか?と。
にもかかわらず、何で特定の職業に対してそんな「お」をつけるような事をするのだと。それどころか、例えば性を売るような職業に対してはある種の排除すらしている。法律を破っているのなら法が裁けばいい事で、仕事をしているという意味において、政治家だろうが、ゴミ屋のおっさんだろうが、根本的に差なんてないはずだし、あっちゃならんと教えてもいる。
そういいながら、百姓に「お」をつけるのはなぜだと。
その時の教師は頭の悪いバカだったので、自分の言っている意味を理解出来ないようでしたが、何が言いたかったのかと言いますと、農家の事を尊敬しろと教育していたって、結局なり手が減っているわけで、尊敬しろと教えられながらみんなやりたくないと心のどこかで思っている、格好悪いと思っている、不合理だと思っている、そうでなければ跡継ぎに困るなんて事も無いはずで、差別するなと教えながら、ある種の職業は差別し、ある種の職業は敬えと教育する。
そういう事をしておきながら、それを無いと教えるのは間違ってるんじゃないのか?差別する事自体は、それが合理的なのかどうかはわきにおいて、実際に差別しなくとも世の中に差はある。仕事の職種が違えば、収入だって違うわけだし、弁護士と、工場の流れ作業の単純労働では、なる為に必要なリソースも違うわけです。だから仕事の中身が違うという事もひっくるめて、差はある。でもその差を無いと教えたり、差があるのに、差別するなと教えながら、ある種の職業には尊敬しろと教えたり、悪い事でもしているかのように扱う職業もある。
例えば今ファンドなんて言ったらある意味、悪の権化みたいな風潮があります。彼らを差別するのは善い事なのか?
感謝しろというのはわかりますが、感謝とは百姓を「お百姓さん」と呼ぶ事なのか?警察を「おまわりさん」と呼ぶ事なのか?
少なくとも口では「お百姓さん」と呼びながら絶対にやりたくないと、俺は絶対にやらないけれど頑張ってねという感謝であり、本音の所は蔑みながら、蔑むコミュニケーションが溢れかえっていながら「おまわりさん」と呼ぶ感謝であるわけです。
そういう感謝の仕方がけしからんとか言いたいわけではなくて、そういう感謝である部分も存在しているのは事実だと認識する必要があるのではないかと思うのであります。
そう、我々の世界は人が勝手に引いた恣意的な線に溢れています。結局人は区別する、自分が何をどう信じているのかそれぞれです。そしてそれが無いと教えられていたりする。
沖縄の問題なんかが典型ですが、沖縄の人々の痛みを知れと吹き上がるのも、いつまでも被害者面しやがって、いい加減にしろと吹き上がるのも、この差別というか区別が前提になっている。我々とは違う何者かという前提があるから、その違いの穴を埋めようとするわけで、沖縄人が本土の人間に対して行なうコミュニケーションもしかり。
こういった問題というのは結局その、人が引いた恣意的な線によって区別しているという事を自覚しないと永久に無くならない。沖縄の人達可哀想とコミットしていても根本の所で区別しているからそう思えるわけで、区別というのは、こちら側と向こう側を選別する作業に他ならず、これは排除や純化に繋がる発想です。
そりゃ沖縄の人達がどうかはわきにおいて、マイノリティの声を救い上げたり、社会的に虐げられている人達を救おうと活動する事は悪い事ではもちろんありません。しかし差別するなというその人達も、マイノリティをマイノリティだと認識しているから、区別しているからコミット出来るわけで、それでいて差別(区別)するなと吹き上がっても、差別は無くなりません。だってその人達がそもそも差別しているわけなんですから。それに全国民が知っているマイノリティというのが、本当にマイノリティと言えるのかという問題もある。
その土台に乗っかって、差別するな!!と、どんなにコミットしても、その土台に自分達も乗っかっていると自覚出来ないと、差別をなくすどころかより強化してしまうという事に加担してしまいます。
世の中には差は存在する。人はみんな違うわけで、国民と非国民と例えば線を引いたとしても、まあこの言い方は大っ嫌いですし、国民なんて言い方もそもそも矛盾のある言い方で、ベネディクト・アンダーソン的に言えば「イメージとして心に描かれた想像の共同体である」ので、日本人なんて概念も、もともと日本人がいたのではなくて、ある時点で作られた概念すぎず、日本人だから統合しているのではなくて、統合する為に日本人というフィクションを作ったわけであり、非国民という言い方自体、国民であって国民でないと言っている事ですので、そもそも国民という言葉自体もフィクションですし、国民でありながら国民ではないという言い方自体、語義矛盾であり、何も言っていないのと同じなんですが、それらをわきにおいても、国民の中もいろいろいるし、非国民の中もいろいろいる。あるカテゴリーに対して、反日的かそうでないかで、勝手に線を引いているだけで、同じ人間なんて一人もいない。同じで無い事を恐れる人間達が、そういう分断統治に引っかかる。
差は無くならない。その違いが問題の原因ではなく、その違いによって不合理さを生み出してしまう我々に原因がある。人を羨ましがったり、人より劣っていると感じたり、自分より不幸な人を見て、まだ自分はマシだと感じたり、そこに原因があるとわかっていても、それでも人はそういう振る舞いを止められない。人はみんな違うのだから無くせない。
なのにそれを一方的に善悪で片付けたり、みんな違うし、似たような区別をしているのに、ある区別に対して、ここに悪者がいる、空気の読めない違う奴がいると啓蒙するのも、ここに弱者がいる、虐げられている存在がいると啓蒙するのも、構造的には言い分が真逆であっても同じです。
差を無くすという事より、差が無くならないという前提を踏まえて対処する事を考えないと、こういう構造からは脱却出来ない、差を悪者扱いしていても無くならない。本当はみんな違うに決まっているのに、ここに差があると恣意的な線を引いてしまう我々に、そういう事を言う輩に煽動されてしまう我々の心に問題があるわけです。
恣意的な線を引く事自体も無くす事は出来ません。本当に救うべき弱者は確かに存在するわけで、声を上げなければ始まらない所も当然ある。しかしここにコミットするとしても、人はみんな違うという前提を踏まえているかいないかで全く様相は異なる。この国の弱者運動をしている連中というのは根本的にここの所がわかっていない。
沖縄の弱者を救えという言い方も、沖縄の人と言ったって、いろいろいるわけで、みんながみんな酷い目にあっているのかと言えばそんな事は無いわけで、逆に沖縄では左翼にあらずんば人にあらずと言った風潮すらあって、結局その紋切り型の二項対立に取り込まれてしまえば、それぞれの勢力での排除、純化を行なっているだけで、排除を恐れる人々が、面従腹背もひっくるめて、空気を読んで純化を受け入れる。そうなれば敵を作って統合する分断統治にしかならない。
自由にものが言えて、気に喰わなくても認めあう、包摂しあう社会でないと、こういった争いは無くならない。差を認識しないと、いつまでたってもこういう単純な図式に絡めとられてしまう。
何でもそうですが、靖国の是非、改憲、護憲の是非、死刑の是非、いずれにしてもこの構造に支配されています。これらは賛成反対と意見が割れてはいますが、いずれにせよオリジナル中心主義、意味中心主義的な発想です。
現在、グローバル化が進んでいる世界では、権利をいかに獲得して実体経済をコントロールするのかというパワーゲームが行なわれていると再三再四書いて来ました。
企業は多国籍化し、本当の問題点に対処出来難い構造が進み、国際分業と言う名の資本主義の暴力、国際分断が進んでいます。これと平行して先進各国では物質生産の比重は低くなり、情報や記号やイメージによる資本の効率化、金融資本の力が増大し、広告産業や情報産業が実体経済を左右するようになり、人々の生命や財産だけでなく、趣味や欲望、サービスや余暇、ライフスタイルや将来設計といった非物質的なものまでが商品となっています。
レギュラシオンスクールであればフォーディズムからポストフォーディズムへの消費主義パラダイム、ボードリヤールで言えば、シュミラークルが前面に押し出された消費社会という事になります。オリジナルとコピーの差が意味を成さない消費社会です。
コピペ文化、You Tube 、ニコ動、iTunes 、携帯やネットのコミュニケーションなどなど、我々の生活に浸食している部分だけを見てもこういう構造の変化が見て取れる。だから権利の所を合法的暴力の独占体である国家間での獲得競争も進むという帰結につながってもいる。
教育においてもハイパーメリトクラシー的な人間力と言ったような曖昧模糊とした人材を育てるのだという風潮になり、仕事にはやりがいを求めるのがいい事だという風になる。それ自体が善とか悪とか言いたいわけではありませんよ。ただ人間力という言い方で誤摩化していたり、人間力不足という不安を煽って権益化したり、やりがいを持たせて搾取する構造も間違いなく存在する。
資本の構造転換はハーバーマスの言った「公共性の構造転換」をもたらします。これは簡単に言えば、いろんな意見や議論がアリーナ(闘技場)で激突する様を我々は様々なメディアによってみたり読んだりして、テーマ毎に情報や意見が公開され討議が進んで行く、そして討議を経る事によって意見が集約されて行く事になる。
かつてはこういう公共圏が形成されていたわけなんですが、産業界からの莫大な広告費を収入源とし、自らも文化財を娯楽商品として提供するようになったマス・メディアによって、自立的であった公共圏は切り崩されて、人々を消費活動へ誘うとともに、イベントと化した選挙を人気投票の如く演出するようになる。
批判機能を失ってしまった公共圏は、市民が主体的に意見を交換する場ではなく、行政国家や私企業の広告の場に成り果てる。結果として市民は、単なるレジャーの消費者になり、国家権力の下僕に成り下がる。「文化論議的公衆」は表舞台から去り、「文化消費的公衆」へとシフトする。同調的な大衆に取って代わられてしまう。というわけです。
この二重の構造転換の中で、記号論的な消費、情報やメディア、イメージと言った、表象、リプレゼンテーションが軸になった権力構造が進んでいる。リプレゼンテーションとは、現にあるものを再現する事であり、認識における感覚や観念、言語や記号による表示や表現、芸術における上演、演出、描写、政治における代表制などなど、表象、リプレゼンテーションとは広い意味でのコピーや複製の事を意味します。
従来コピーとはオリジナルに従属し、劣っているものと位置づけられて来ました。物と言葉、感情(思想や意志)と表現、作者と作品、真理と記号、自然と人為、人民と代議士などなど、後者のコピーは前者のオリジナルに忠実でなければならないとされて来た。マルクス主義なんかも社会の生産による下部構造が、人々と社会の行動や考え方、精神やリアリティである上部構造を規定するというオリジナル中心主義の発想です。
しかし現状の資本主義体制では情報や記号の交換を生産性の中心に据えているので、コピーが現実を動かし、記号や情報が世界を動かしている。コピーだからオリジナルに従属しなければならないという古いパラダイムでは対応出来ない社会になっている。コピーであるのかオリジナルであるのかは無関係に、シュミラークルとなって氾濫している。ボードリヤールの言った、「ハイパーリアリティ」な世界が現実化しているわけです。物質さえも記号からは自由になり得ない構造によりシフトしてしまっている。
オリジナル中心主義、もしくは意味中心主義というのは、かつて表象やコピーによる汚染を悪魔扱いしたり潔癖性や純粋主義に陥る、正統と異端の血みどろの歴史、ナチスにしろ、我が国が戦前に取った同化政策にしろ、魔女裁判にしろ、こういう構造を生み出すモーターになってしまいます。
なのでベンヤミンが言う所の「オリジナルであるが故に発するアウラ」に引きつけられてしまう人間の弱さを乗り越えようと、オリジナル中心主義、意味中心主義を解体して今があるわけですので、コピーが現実を動かしている?けしからん!!という素朴な善悪二元論で語る事はもちろん出来ません。この国でのすべてにおいて言える事ですが、例えば市場経済に対する啓蒙による嫌悪、一般的な認識はこういう前提を踏まえていない、あまりにも無知蒙昧な素朴な発想です。
また、靖国の是非、改憲、護憲の是非、死刑の是非、これらオリジナル中心主義を掲げての運動すべてに言える事ですが、疎外要因であるコピーを排除する事で本質を回復しようとする疎外論、あるべき姿があってそれを目指すのだという図式では、複製こそが権力構造の本質になってしまった現状では役に立たない空念仏であり、このレベルでシステムを批判していても無駄なのです。啓蒙活動くらいの役には立つので無駄だから止めちまえとは言いませんし、自分もそれぞれ賛成か反対か思う所はある。しかしせめてこの当たり前の前提条件がわかっていてくれないと話にならないのです。
オリジナル中心主義の暴走が生み出す帰結についてあまりにも無知蒙昧な輩が多いのも困った話なのですが、オリジナル中心主義の暴走は恐ろしいのだという事よりも現実は遥かに先に進んでいて、国際分業体制という多国籍化した資本の構造転換では、そもそもオリジナルかコピーかを問う行為自体が、単なる統治システムの歯車なのであって、分断された状態は統治システムに組み込まれた状態でもあるわけです。オリジナルかどうかなんて事はハナっから関係ないシステムに変わってしまっている状況では、オリジナル中心主義的な暴走は出来ないシステム上での分断統治でしかない。
靖国賛成、反対、憲法改正、護持、死刑存知、廃止、いずれにせよオリジナル中心主義を無知蒙昧に押し進める能天気な連中と、その帰結が生み出す恐怖をエビデンスにして批判する連中も、オリジナルかコピーかの二項対立の図式に絡めとられている。
無念!!またしても続く!!