前回の続きです。

小さな物語と言うのは昔からありました。しかしその背後に大きな物語もしくは、疑似大きな物語があったので、小さな物語から大きな物語への共感可能性というのがあったわけです。大きな物語が失われ、ネタを本気にする人が現れ、ネタをベタでインチキだ!!と吹き上がる人が増え、個人化が進み自己責任に任され、データベース的にフラットにならんだ個々の事象から各々選択する時代に突入した。

その事によって、共感可能性のレイヤーが浅くなり、死にオチの映画、セックスすれば妊娠、簡単に流産、簡単に結婚、すぐに離婚、という深みのないモチーフのドラマが増え、ジェットコースター的にオカズ満載型の描き方が増えたものの、その奥にある、大きな共感可能性や、喪失感や希望ではなく、単なるフィジカル的な、叩かれりゃ痛い、悲しきゃ泣く、面白きゃ笑うと言う、共通前提と言っても底の浅いものばかりになった。

例えば死にオチと言うのは、死んだら悲しいという事を表現すると同時に、恋愛に対する期待度が低くなっている事の現れです。愛と言うのは時間とともに色褪せる、互いに傷ついたり、かつてのような情熱が失われて行く、情熱を失わなくとも、年をとって行けば、単なる日常と化し、相手も年を取り、かつての輝きはなくなってくる。その儚さを死によって永遠性を獲得し、心に刻み付ける。いつでも自分で加工が可能なパーフェクトな体験として残る事への憧れが、そのまま需要になっているわけです。

みんなが恋愛は実りがない、愛は色褪せるという諦め、持続して行っても社会がこんな状況じゃロクな事がなさそうに感じる事への裏返しとも言えます。希望を感じられるものが薄れている時代だからこそ表面的なありふれた物語性を多くの人が求める。

学校が舞台のドラマや映画と言うのは昔からありましたが、最近のドラマや映画はこの手の学園モノは内容は別として、興行的にも視聴率的にもハズレが少ない状態になっています。だからどんどん増えている。これは学校と言う共通前提は子供から大人まで共感可能なベースだからこの手の物語が多いのですが、多くの共感可能性が崩れ、学校と言う共通前提くらいしか、共感可能な空間と言うのが無くなっているという事の現れでもあります。

確かに現在の方向性と言うのはシニシズムもしくはニヒリズムが進行している一方で、こういった底の浅いコミュニケーションや啓蒙に溢れていて、個人は分断され、お先真っ暗です。底の浅い入れ替え可能な小さな物語は一瞬のテンションアップ、浅いワンフレーズの共感にはつながっても、学びや気付きにはつながらず、動員や変革には結びつかない。逆にそういうものを利用しようとする力学に簡単に乗せられ易くなっている。

そう乗せられ易くなっている。しかしここに大きな可能性があります。ミメーシス、人から人への感染です。

1体nのコミュニケーションしか無かった頃は、つまり映画やテレビや書籍の場合、ミメーシスと言っても極めて個人的な次元での目覚めでしかなかった。そして物理現実で接触可能な人達というのも限定されていた。しかし時代はn対nのコミュニケーションにシフトした事によって、新たな可能性が生まれている。

これは危険と裏表なのは確かです。情報が伝播して行くスピードが格段に革新的に飛躍したので、炎上問題なんかで大騒ぎしたり、わけのわからん政治家が人気者になってしまったり、子供の携帯で大騒ぎしている部分もありますので危険もあるし、問題も多い、対人関係の距離が遠いので、傷つけあったり、感情のゴミバケツと化したり、問題は沢山ある。しかし情報の伝達速度が速まったと言うのがキモです。

一瞬にしてある方向にぶれる、これは危険ですが簡単に並列化され消費されつくしてしまうので、残るに値しないものは簡単に淘汰される。梯子はずしをしてくる人が必ず出てきて、揺り戻しを起こします。だから昔のように一方的にある方向に国家全体が道を誤って行く可能性は薄れました。

例えばそんな大事ではなくとも、アマゾンなんかで本を買う場合、自分でふらふらして本を買うと言う自由はなくなりはしたものの、オススメコメントに共鳴をして購入する事がある。オススメのコメントを書いている人と同時に、メッタクソにけなしている人のコメントも見る事が出来る、なので真に受ける事なく割り引いて批判やオススメを読むことも出来る。自分が知っている本や音楽や映像に対しての、オススメもしくは批判を読み、自分の感性と照らし合わせる事が出来る。

今はまだ過渡期なので、極端なコメントをする人、自分の感性に合わないとスルーする人、本気で吹き上がってムカつく人、本気で凹む人、というのもそれぞれ沢山いるでしょう。しかしそれだって全く引っかからないかと言えば、多少は引っかかり、その引っかかった釣り針によって新たな価値観が開かれて行く可能性はある。

ブログにしても政治的なネタから、日常の些細なネタまで実に様々なものがあります。それぞれに共感可能性は隠されている。ある部分で共感出来ても、ある部分で共感不可能な場合もある。同じ人間ではありませんし、違う現実を生きていますので当たり前なのですが、その差異を感じた時、共鳴して感染し、そういう考え方もあったのかとなったり、共鳴出来なくともそういうものの見方もあるのかと一つ引き出しが増えたり、コメント欄等から更に発展して、いろいろな感性にであえる可能性が隠されている携帯的なコミュニケーションも同じです。

こういったコミュニケーションが無ければ、おそらく暫定税率の問題だって、暫定期間を簡単に延長していたでしょうし、福田総理にしろ安倍前総理にしろ、不人気をそういったコミュニケーションがブーストさせている部分は間違いなくある。これがメディアからの一方通行であるのなら、いい加減な啓蒙で国民を騙す事は簡単でしたし、隠す事も簡単でした。しかし今はそうはいかない。メディアがどんなに劣化してトンチンカンなことを言っていても、応援する言説、否定する言説が様々な形で飛び交っている。もちろん多くが大手メディア発の情報が伝播しているだけの部分はある。しかしそれに対して、いろんな見解が出てくる。

司法にしても今は何より世論を気にしています。世論を煽って、人気のリソースにしようと考えている。検察にしろ、裁判所にしろです。昔はここの所は完璧に大手メディアに牛耳られていました。大手メディアですと、その記事を見逃したり、その時間帯を逃せば、変わった事を言う人は二度とテレビに出なかったり紙面に登場しなかったりするので、同じような見解を聞くチャンスがなかったりしましたが、今はそれもない。世論を大手メディアがコントロール出来なくなりつつある。大手メディアもこのままで行けばフラットにならんだデータベースの選択肢の一つになってしまう可能性が大だからです。

実際に政治的な言説や経済、社会的な問題なんかは、ブログの方が面白い言説があったりする。そこから書籍なり雑誌なりに流れて行った方が、全然タメになるし、専門家が比較的わかり易く説明していたりすれば楽しい。テレビや新聞の公平中立とやらの恣意的なスポンサー第一主義、政府への翼賛報道、紋切り型の批判報道等々、大手メディアに取って都合のいい専門家と称する連中の言説だったり、まともな専門家の場合は説明はカットして恣意的に編集し、下らんコメンテーターや下らんキャスターの下らん言説なんて面白くもクソもない。

政治家の発言にしろ、専門の学者の発言にしろ、主婦のつぶやきにしろ、ガキンチョの戯言にしろ、料理人の愚痴にしろ、フラットに並んだ取り替え可能なデータとなれば、ある方向へのべき論で動員を計っても簡単に梯子をはずされる。例えば物理現実である言説を言っていれば、それはその個人と完全に合致していますので、簡単に前言撤回は出来ません。自分はプライドがあまりないので簡単に前言撤回、矛盾OKな輩ですが、プライドや社会的地位がある人ならあるほど、それが出来難い。

しかしこれが匿名のコミュニケーションならいつでも降りる事が出来る。整合性が合わなくとも気にせずにいる事が出来る。これは無責任という事でよく批判の根拠となります。確かに無責任な言いっぱなしが、政治家の言説やメディアの言説とフラットに並んでしまうのはどうかと思いますが、実際には政治家にしろメディアにしろ、捏造しようがなんだろうが責任なんて取った事も無い。単に辞めりゃ済むのかと言えば、それで被害が出た後に、ただ責任を取って辞めたって被害を受けた状態は回復出来ません。時間がかかる。

小泉さんマンセー、安倍さんマンセーの言説を言っていても、これが物理現実なら簡単に翻せない。間違っているとわかっていながらも認めるのは恥ずかしいし、回りとの関係性や自分の立ち位置で、簡単に前言撤回出来ない。だから余計にわけのわからんいいわけを繰り出して、歪なロジックに陥ってしまいがちです。しかしこれが匿名であるのなら、ある気付きが起こって自民党マンセーからひっくり返る事が簡単に出来る。

散々選挙と言えば自民党だった人が、簡単に入れ替わる可能性を提供出来るわけです。小泉さんや安倍さんそして福田さんにしろ、あれだけ支持率が高かったのに、今は殆ど彼らのやり口はおかしいんじゃねえか?と言う人ばかりになっている。昔から世論がマスメディア等によって煽られるという弊害はありましたが、今はスピードが更に速まり、簡単に冷める。もの凄く盛り上がっているときであっても、冷めてしまったときであっても、アンチの言説は必ず無くならない。

自民党が大人気の頃に自民党の悪口を書いていて、それを多くの人にバッシングされても、匿名なんだから痛くも痒くもない。それでブログを閉鎖してしまう人ももちろんいます。しかしこれはまだ過渡期であり、身体と匿名の「脱埋め込み」作業が上手く行っていないと言うだけで、慣れちゃえば梯子はずしによって、賢明になって吹き上がっている連中を笑うという作法もあるわけです。

こういうコミュニケーションが広がって行くと、確かに大きな物語はないけれど、ある方向にべき論で動員するという事が不可能になります。そういう事を言う奴は滑稽な痛い奴に見えてくる。動員は難しくなりますが、結局線を引いて、敵を設定してと言うやり方では簡単に梯子をはずす言説が出てきて、アイツは終わった、お前はもう死んでいる、と、北斗の拳的な言い方が増えてくる。

という事は国民を動員して、ある方向に向かうという事が不可能な時代になるという事です。だからこれはバランスを取るしかなくなるので、そんなに極端な方向に流れて行く事は出来なくなるし、流れて行ってもバックフラッシュが、もの凄いスピードで伝播する。

なので政治家にしろメディアにしろ動員するのが重要な立場にいる連中はなんとかこのコミュニケーションの広がりを手を変え品を変え阻止しようと躍起になっているわけです。自分もこういった匿名の携帯的なコミュニケーションと言うのは問題が沢山あるとは思っていますが、それを補ってあまりある部分もあるのではないかと思うわけです。

インターネットが時代を変えるなんて大騒ぎしていた時代もありましたが、今は過渡期なので、そういう言い方はもう底が見えてしまっているような感覚があるので、色褪せて感じますが、まだまだ可能性は残されている。そして後戻り不可能であり、現実世界を補う可能性が沢山ある。

さてそこで立ち返って子供の携帯問題。こういうものに反対する世代のボリュームが圧倒的なので、アナログ的な関係に戻って行く可能性もありますが、これで全然構わないのではないかという関係になって行く可能性の方が高いと思います。

対面のコミュニケーションではどうしても見た目や着ている洋服、年齢、性別、様々な一次的なファースト・インプレッションで、それと気付かぬうちに対人関係を構築出来るか出来ないかスクリーニングをかけてしまったりもするので、匿名なコミュニケーションのおかげで、物理現実世界では絶対に知り合いになる事もないような人と知り合って、目から鱗になったりもする。もちろん物理的距離によって知り合いになれない人とも知り合える。ノスタルジーブームが持てはやされていても、確かにそれはわかるが若者にとっての共感可能性は薄れている。

携帯情報ツールをふくめてIT化すれば人と場所との結びつきが薄れる。空間を超えて人間関係が維持出来るし、様々な便益も携帯情報ツールを含めた情報と宅配サービスなどによって、どこにいても情報やサービスを利用出来る。だから場所の意味が無くなってくる。その場所に行かなくても済むので、善いか悪いかは別として、対面のコミュニケーションの必要性は下がる。

ネットワークさえあれば場所の意味が無くなってくる。地元に対する愛着みたいなものがなくなっていく。善いか悪いかは別として。

愛国心を唱えたくなる連中が増えるのもまあしょうがないのかもしれませんが、本来の愛国心や愛郷心と言うのは要するに絆を大切にするという発想です。土地に対する絆、家族に対する絆、同胞に対する絆です。しかしそういうものが全部無いのに、そういうものへの絆を取り戻せと言うなら話はわかりますが、国家権力を愛せとか、国そのものを愛せというのでは意味が全然違う。三島由紀夫だってハッキリ言っています。愛国心は嫌いだと。官製の嫌な響きであると。

社会が変わるのは世代が入れ替わるからです。世代が変わると価値観が変わる。放っておけばそれで何の問題があるのか?という世代が増えて行く。子供達にとってはそれで何とも思わなくても、取り残されて行く世代にとっては実りが無い社会になって行く、これは後戻り不能。

大人が子供に立ちはだかる壁として、子供がその壁をブレークスルーして成長の糧になるのなら、口うるさい大人の子供へのプレッシャーはいつの時代も重要だと思います。だけど今の人口バランスでそれを過剰にやると、本当に子供達に取って乗り越える事の困難な壁を作ってしまう事になりかねません。将来への見通しは限りなく真っ暗で、政治にしろ経済にしろ何から何まで底が抜けた社会を構築しておいて、言う事を聞け!!と言うだけならまだしも、言う事を聞く以外に道はないという状態にしてしまってはマズい。

テクノロジーというのはなくて当たり前だったのに、誰かがどうしても必要だと思ったから出て来たわけじゃなくて、技術が可能としたもので、いったんその便利さを手にしてしまうと、もう手放せない。昔はそんなものなくて当たり前だった、全然不便だと思わなかったのに、不便だと感じてしまう、これが技術の面白い所でもあります。

そうすると可能な事は一つだけ。場所と結びついた流動性の低い人間関係にあるもので、携帯電話を中心とした人間関係に欠けてしまいがちなもの、これをどうやって補うか。

これには二つあって、携帯電話によって忘れられてしまうような場所の重要性を思い出させるような、場所の側からの巻き返しを計る。団塊がリタイアして地元に戻って行うとか、分権化もこの流れです。イタリアで始まったスローフードなんかもそういった流れですし、カナダで始まりイギリスに流れて行ったメディア・エデュケーション、メディアリテラシー教育なんかもそうです。ファーストフード的な文化も程々にせよ、ハリウッド映画は面白いけれど話半分で聞こうと。

そしてアーキテクチャ、携帯情報ツールの中に場所性、地域や家族も含めて存在していたのに失われがちだったものを、そこに上手く盛り込むという事。

メル友や掲示板、ブログなど匿名の人間関係が広がると、匿名か非匿名かという概念とは別に、コテハンという概念が広がっています。固定ハンドルネーム。

本当の所、年齢、性別、どこに住んでいるのかはわからないが、いつも同じ人がその名前を利用する事だけは証明される。これには仕組みが必要ですが、これだと所謂我々が思っている匿名ではないような、絆に結びつく固定制、非流動性を持ち込める可能性があります。意見を参考にするというだけではなくて、人間関係にとって重要な要素を持ち込む事が出来る可能性がある。

今この国は終身雇用、年功序列など無くなってしまったし、非正規雇用が増え場所の移動など流動的な社会になっています。そうなれば当然以前のような地域や職場、家族の人間関係が稀薄になってしまうこれは当然の帰結です。しかしコテハンのコミュニケーションは変わらないという可能性があるわけです。

住む場所が変わり、役職が変わったり職場が変わったり、物理現実の居場所も人間関係もどんどん変わっているけれど、コテハンのコミュニケーションだけは変わらないという事があり得る。いつも同じコテハンで仲間とコミュニケーションを取る事が出来る。それがある種の情緒的な繋がりや、感情的な安全の基礎を提供する可能性もある。

ネットで対人関係無しのサービスを受けるようになり便利にはなったが、それがかつてあった濃密な商店主とのコミュニケーションが失われてしまったりするので、豊かなモノと人との関係を潰しているという言い方もありますが、これも正確に言えば正しくなくて、今はそうだけど、後数年でテクノロジーがそれを補うような可能性もあるわけです。

今のテクノロジーのもとで流動性が高すぎるとか、お互い交換出来る情報が少ないので絆が薄いとか、単純には言えなくなってくる可能性がある。現実社会の方がむしろ流動的だけども、流動性に背を向けたい絆っぽいものを求めたいという人はIT的な空間にアクセスした方が良いという社会になる可能性もある。今のテクノロジー水準で起こっている事が永久に続いて行くだろうと思う事も出来ない。

結局テクノロジーをどうやって使うかは人間の側の問題だけど、何が上手く使いこなす事なのかわかっていないと出来るわけない。単に便利さを求めて、流動的な人間関係の中にただ無自覚に使ってしまえば、友達はいっぱいいるけれど寂しいという感情から逃れられなくなってしまう。安心出来ないから絶えず同調する関係から逃れられなくなる。これはイジメ的な問題にもつながる。データベース的な消費をブーストさせる万能ツールとしての側面もありますが、ギデンズではありませんが「関係性の選び直し」ようするに再帰的関係の悪循環のループを結び直すために使える可能性もある。ミメーシスによって、価値観が開かれる可能性もある。

我々に出来るのはそれを遮断する事ではなくて、子供達がその悪循環のループを結び直して、現実に対峙した時に、やっぱり無理だと諦めないで済むような、統治権力への監視、そしてクレクレ主義的な依存や甘えによって子供の未来を食い潰すようじゃ、子供に現実に向き合えと言ったって、子供からもリスペクトされないし、益々データベース的な心地よい消費で、現実から退却してしまいます。現実に向き合えと言うならまず、大人が現実に向き合う事が重要なのではないかと思うわけなのです。

自分達があるテクノロジー水準の技術でコミュニケーションを媒介する事によって、コミュニケーションがどのように変わって行くのか、自覚していないとこういう問題は解決不可能ですし、全体の流れをせき止めるのにどこか一部分だけ取っ払っても意味はありません。どうやって上手く盛り込むのか考えた方がいい。

便利になるのも重要だし、治安的な意味での安心感も重要です。もちろん場所と結びついた非流動的な人間関係の安心感も捨てがたい。テクノロジーに縛られるのはバカらしいですし、手段の目的化と言う本末転倒スキームはアホらしいのですが、テクノロジーが発達するとどちらが主でどちらが従なのかがわからなくなってきます。

ネットのバーチャルワールドにこそ非流動的で絆的な関係性があるという風になると、現実は飯食ったり寝る為の物理的な生命を維持させる為の空間でしかなく、魂の本体はむしろネット上にある方が幸せだ、という生き方だって否定出来ない。簡単に善い悪いを言う事が出来ない問題なのです。

ヴァルター・ベンヤミンが特定の作品に宿るオリジナリティの感覚を「アウラ」と表現しました。ようするにオーラと我々が呼んでいる言葉です。オリジナルを目の前にした時、鑑賞者はそこに何か作品を越えた「儀式」との繋がりを感じる。コピーにはその繋がりがない。つまりオリジナルとコピーの区別は、その儀式との繋がりの有無、アウラの有無によって決定されていると言うわけで、近代的な世界観を繁栄した美学です。

ジャン・ボードリヤールはポストモダンの社会では作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していました。この国の映画や音楽、小説などのアウラの無さ、ニコ動などで溢れかえる、MADや初音ミクなど、オリジナルとパロディがフラットに並び消費されている現状などはアウラの有る無し等問題にしない、こういうシミュラークル的な状態をまさに予見していた。だから日本はコジェーヴにスノビズム的であると言われたのかもしれません。

更にボードリヤールは、マーケティングが浸透し、記号的消費が蔓延した現代社会では、我々はモノを使う人というよりはむしろ、モノを読み取り、かつ選ぶ人として、つまり読解の細胞として生きている、差異化された商品や記号が大量にストックされ流通し(この総体を「ハイパーリアリティ」と呼びます)、今や消費者はそのハイパーリアリティの組み合わせでしか個性=オリジナリティを表現出来ないと言いました。

大きな物語も無いし、共感可能性も無い、人々は個別に分断された流動化した社会で、ネットワークは単なる流動化を加速する、データベースを補う為のツールでしか有り得ないのか?それとも絆がことごとく崩れ去った現代社会で、人と繋がりの可能性を担保しているネットワークを絆的なものの代替物として利用出来るようになるのか?結局は我々次第ですが、べき論や大きな物語、オリジナルなどが持っていた意味が失われている時代だからこそ、人から人へのネットワークに可能性があるのではないかと思うわけです。ある程度アーキテクチャをいじくって、管理しても監視しても、最後の人の心の不確実性までは計算して設計出来ない。

ネットワークを構築するにせよ、データベースを参照するにせよ、自分探しをするにせよ、やりたいこと探しをするにせよ、それらは外部に向かって行く力を内包しています。閉じてウダウダやるよりは、外向きの力の方がずっと良い、そうでないと外部と向き合えないからです。向き合えばそこでコンフリクトが生まれ、コンフリクトは何かの可能性を生み出す。内向きよりは変われる可能性が沢山ある。シュミラークルであっても絆によってはアウラが宿ることも有り得るのではないかと。

子供の携帯から話が広がりすぎましたが、結局はそんな事で大騒ぎしている場合じゃねぇだろと思うわけです。子供の携帯の是非についてあれこれと書いてみました。ああ長かった。こんなに書くことがあるとは思わなかった。

この話題はこれにてEND!!