前回の続きです。

さて話を広げすぎた感がありますが、ようするに携帯でのコミュニケーションの部分だけを切り取って、問題か問題じゃないかを問えば、大いに問題点は山積しているのは確かです。

しかし子供達のはけ口を何から何まで取っ払って、バーンアウト、キレちゃったじゃ意味がありません。国家が国民のガス抜きをしているのを引き合いに出すのは適切じゃないかもしれませんが、なるべく安全な方向でのガス抜きは必要なのです。

ヤク中になるより、バイクでかっ飛ばすより、ケンカに明け暮れるより、ずっとずっと危険がないのは確かです。確かに結局コミュニケーションと言っても、人の話が聞きたいのではなくて、自分の話を聞いてほしいだけが殆どだと思いますので、学びにはあまりつながらないかもしれませんが、それだって全くゼロかと言えばゼロではないわけです。

前回で触れたような大きな流れの中に携帯でのコミュニケーションというものもあります。だからこれに抗ってもその流れは簡単には止められないし、遮断も出来ない。だから耐性を養わないと、そこで戦略的に生きて行く術を教えないと、どんどんこの怒濤の流れに飲み込まれて行くのみなのです。

そして携帯的なコミュニケーションのネガティブな要素ばかりに脚光が当たりますが、消費主義パラダイムのようなからくりに組み込まれているのかと言うと、メディアリテラシーを養う為に重要な要素もこういったコミュニケーションには隠れています。

絆の安心感といいますが、絆と言うのは要するにネットワークと極論すれば同じようなものでもあるわけです。実社会の絆が空洞化している所を埋めているネット上のコミュニケーションは代替物にはならないかもしれませんが、多くの可能性は内包されているわけです。

自己責任スキームは酷い状況ではありますが、責任は自分で取るのが当たり前と言えば当たり前です。自己責任に押し付けて、セーフティネットもクソも気にしないような統治権力では話になりませんが、コイツらの監視も必要ですが、現に流動性に投げ出されている現実があるわけで、そこには例え錯覚だとしても承認ややりがいのようなものも必要なのです。

消費主義パラダイムのようなものに組み込まれてしまうというのはもちろん危うい、しかし気付かずに生きている人はそれなりに幸せも感じている。気付いているが承認不足と虚しさや実りの無さに耐えながらサクセスして行くのなら、場合によっては気付かずに叶わぬ夢をいつかはかなうはずだと希望を抱いて生きている方が、先々を考えた時にどうなのかと言えば、もちろん後者は危ういのは確かなのですが、何の保障も希望も感じられないお先真っ暗な社会であるのなら、その方が実存的な次元で考えれば幸せなのではないか?という見方もあるわけです。

いい年した大人がこれではしょうがないという人もいるでしょうが、少なくとも子供のうちにそれで何らかの承認や実りを感じられるのなら、あながちこういったフィクションは全否定は出来ないのではないでしょうか。

大人がそれを、社会がそれを、制度がそれを提示出来ないのなら、せめて錯覚であっても承認や実りが全く無いより、あった方がいいという見方も否定は出来ません。

「自分探し」と中田英寿が言った事によって少し前に再び脚光を浴びた言葉があります。中田の場合はコミュニケーション能力に長けていますし(日本人同士のコミュニケーション能力はなさそうに見えますが、少なくとも言語を操ると言う意味においてはスキルを持っている)、体育会系の割には頭も良い感じに見えます。経済的にもネットワーク的にもリソースがあるので彼の場合は可能だし、単なる自分探し症候群と同列に扱うのもどうかと思うのですが、少なくとも彼の言葉に対してはいろんな意味で反応が多かった。

これに対する反応は、肯定と否定、共感と痛い奴と真っ向から違っていますが、実はそういう力学を感じている人がいっぱいいるという事の現れなのではないかと思うわけです。

それが善い事か悪い事かは置いといて、誰でも、方法序説の中での有名な、「我思うゆえに我あり」という、デカルト的な次元でのレゾン・デートル、自己の確認作業はやっているというか気付かぬうちにしていると思いますが、自分と言うものを探す為に、どこかに行ったり、お稽古ごとをしたり、啓蒙書を読んだり、転職をしたり、自己がどこか別の場所に行く事や何かを学ぶ事によって、本当の自分に変革するのではないか?新しい自分の可能性を発見出来るのではないか?という事を駆動させるようなツールや啓蒙に溢れていて、肯定否定の感覚の差はあれどもそういうものが沢山ある事は実感している。

これはウルリッヒ・ベック等が言っていた「個人化」つまり近代社会の底が抜けて、あらゆる出来事がフラットにならび、自己決定に委ねられている状態から出てきた帰結です。選択の自由が広がった。これは錯覚なのですが、昔は共同体的な縛りの中で個人で選択出来る自由と言うのは少なかった。しかし流動性によってそれが崩れた事によって、選択が個人に委ねられるようになり、当然の帰結として自己責任化するという事です。自己責任化しているのに、選択の余地を既得権益層や統治権力が遮断していて、全然話にならない状況が困ったもんなのですが。ひとまずその事はわきにおきます。

そしてこの「個人化」には更に先があって、スコット・ラッシュが言うには、「個人化」のプロセスは二段階あって第一段階では「リニアなモードの個人化」であり、これがデカルト的な、コギト・エルゴ・スムになります。リフレクション即ち反省です。

第二段階は「ノンリニアなモードの個人化」時と場所、他者との関係の中でコロコロ変わる「知られる自分」の集合体に過ぎず、つまり時々において「キャラ」を演じ分け、それを的確に演じ分けるアイデンティティである自己を取得するという、リフレックス即ち再帰。都度都度「自分は自分」という断定の集合体が自己のアイデンティティを支えているという形です。

マラソンのQちゃんが「諦めなければ夢は叶う」と言ってましたが、もちろんアスリートのような不断の努力をしている人には重要なモチベーションなのですが、日本代表等への夢をありがとう的な反応も似た所があると思うのですが、こういう言葉が典型的なように、社会にはバブル待ちというか、宝くじ待ちと言うような錯覚があります。

別にたいした努力はしてないが、せいぜいお稽古事をするとか、ハウツー本を読むとか、仕事への人並みの努力であっても、過剰に働いている、努力していると錯覚したり、「私なりに頑張って」いて、いつかは素敵な人が現れるとか、いつかは成功出来るとか、本当の自分に出会えるとか、漠然と期待するこういう力学があります。

仕事も単にやりがいや自己実現というフックを利用して搾取している構造もありますが、少なくともそういう事によって仕事へのモチベーションを維持出来る部分もある。もちろんモラトリアムとしての甘えもあります。

やりたい事がないフリーターよりやりたい事があるフリーターの方が、何となくポジティブに見える。このやりたい事と言うのは漠然としたものでよくて、やりたい事探しをしている事によって、そこそこのテンションでモチベーションを保てる。フリーター同士、全く同じ境遇で、同じスキルで、同じようなモチベーションで仕事をしていても、やりたい事がある事によって、親や自分自身から今の境遇に免罪符を与えるという作法があります。

これに対して、無関心な反応と、やりたい事もないフリーターより、君は夢があるから偉いね、という共感、やりたい事とか甘っちょろい事言ってんじゃねぇよ、仕事なんてやりたくなくてもやんなきゃなんないんだよ!!という大人の正論によって甘えを断ち切るという、関心のベクトルは逆ですが無関心ではない反応があります。

こういったやりたい事探しや自分探しの背後にはさして明るい未来も見えないこの国で、「リスクは自分で取れ」「会社や社会に期待するな」「長期的な安心感なんて放棄しろ」という自己責任によって投げ出され、確実に夢も希望もない未来しかない層がいるわけです。どう考えてもそこから脱却不可能な層が。そのくせ、「ソシアルコントリビューションしろ」「愛国心を持て」と言うプレッシャーもある。

やりたい事があるんだ!!というテンションアップによってかろうじて、不確実な未来を見ないでも済み、ポジティブにやる気を出せば出すほど、社会を知れば知るほど、絶望的な未来を実感せざるを得ず、不可能性にさらされテンションが下がる、やりたい事や自分探しという夢や希望でテンションを上げ、テンションを上げて行くと壁にぶつかり再び絶望にさらされ宿命論を受け入れるしかなくなる。

こういったループの先に、漠然とでも報われるモデルがあればこういうループもいつかブレイク・スルーの為の壁なのですが、そういうものがあまりにも実感の伴わない遠さを感じたりする。成功者の成功体験が溢れていたりするので、テンションアップのツールには事欠かないのですが、政治、経済、環境、様々なものの底が抜けてしまって失われているのもまた事実。

全員が夢を見れるような時代ではなくなり、実際に救えない見捨てられるしかない層が確実に出てくる。こういう感覚がおそらく実感としてあるのだろうと思うわけです。その中でこういったループの堂々巡りの中かろうじてバランスを取りながらなんとかやっている。我々大人が説教をしても、「わかってるよ、でも・・・・・」という反応になる。

監視社会というのがよく問題になります。監視カメラやプライバシーなどの問題、企業によるデータの流出などがよく大騒ぎされます。我々の自由に対する侵害だと言うわけです。しかし監視社会で善いか悪いかは別として、もっと我々の日常に食い込んでいてなくてはならない監視が存在します。それは自分自身が監視される事によって生活が成り立っている側面がすでにある。

クレジットカードにせよ、アマゾンで何かを購入するにせよ、保険に入るにせよ、自分の過去の履歴や、職業や収入等を登録する事によって、例えばクレジットカードは、それを使用する個人の購買能力について、売り手と買い手のコミュニケーションではなく信販会社のデータベースへのアクセスによって証明する事を可能にするものです。

自分のデータの蓄積、それへの問い合わせなくして、もはや社会生活を営めない環境に我々は生きています。我々自身も自分の過去のデータの蓄積によって自身を監視させる事によって様々な便益を受けている。そういうデータの蓄積がなければ自分を証明出来ない環境に生きているわけです。

またそういったデータベース的なスクリーニングを可能にする事によって、実体の選別、ようするに差別化が簡単になる。社会に順応的であるか否かによって叩かれて居場所を縛ったり、あるレベルの集団を排除したり、簡単な社会になって行くわけです。

かつては自己と言うのはソシアライゼーション、ようするに社会化、社会関係の中で自我を育て上げるという事が重要視されてきたわけですが、ノンリニアなモードの個人化というのは、臨機応変に自己を使い分け、自分の中の矛盾をやり過ごす事の出来るようになる状態を指しますので、脱社会化のプロセスと言えます。社会の底が抜けているのだから当然と言えば当然の帰結なのですが、これは本当の自分や、やりたい事を探し出すプロセスに直結するわけです。

しかしこれはデータベースに自分が振る舞うべき「キャラ」や「立ち位置」を確認する作業とも言えて、自己への嗜癖状態とも言えます。自分大好き過剰人間が増えてくるのも、自分さえよければ的なメンタルが前面に出てくるのもわかる話です。

これによって本当にやりたい事や、本当の自分を求める事によって、閉じたループへと落ち込み不可能性を現実によって突き付けられ、テンションアップの為に更にデータベースに問い合わせながら人格をかろうじて維持して行くという形に帰結するわけです。演じ分けるキャラと自分との差異に欠落を感じたり、どれも本当の自分っぽくなく感じると言うわけです。

こういう社会の流れのなかで、必要にかられて携帯的なコミュニケーションや匿名のコミュニケーションが登場しているわけなので、こういったものを補うには非常に便利な万能ツールなわけです。だからこの部分だけ閉じた所で、ハッキリいって意味がありません。

自分のデータベースに問い合わせて、都度都度確認をしながら消費をしています。例えばアマゾンで何かを購入するときも、勝手に過去の履歴からアグリゲートされた結果を提示され、消費したりする。本屋さんをぶらついて購入していた頃は、不便ではあったものの平積みされた本を適当にパラパラとめくって、面白そうだからと買う自由があったのですが、非対面の場合、そういう購入のチャンスはありません。

誰かが薦めた、アグリゲートされた結果、何らかのインプットがあって自発的に選択しているわけではない。そういう履歴の中から、再びアグリゲートされた結果が提示され消費すると言うサイクルです。自分は何が欲しいのか自分のデータベースに問い合わせて消費していると言うわけです。

CRM、カスタマー・リレーションシップ・マネージメントという手法が開発され広がっています。顧客情報をデータベース化し、商品ニーズ把握、フォローアップ、クレーム対応等の履歴保存等を一貫して管理出来るようにする事で、顧客との継続的な関係を築けるようにする顧客管理の方法です。昔のように画一化された商品を大量生産、大量販売する時代から、モノの相対的な普及拡大によって終わり、「人とは少し違うもの」へのニーズを発掘し、また作り出して行く事を支える為のデータベース化が進んでいます。

そして環境管理型権力と言うのですが、アーキテクチャそのものをいじって、それでコントロールしてしまおうという流れがどんどん加速しています。昔からマーケティングや広告等によって、そういう側面はありましたが、レストランの椅子の堅さによって、出て行けとは言われなくとも適度に客が回転するような設計になっているとか、環境そのもので何の命令もされていないしプレッシャーも感じていない、むしろ快適に感じているのに、ある方向にコントロールされるというアーキテクチャを設計して、人をいちいち教育したり啓蒙しなくともコントロール出来るようにしてしまおうと言う流れです。

監視社会を最初に言い出したのがフーコーでした。かつての社会では強力な権威を持った政治権力によって重罰化や見せしめ的な権威の発動させ、人々を統治する仕組みでした。

これが近代になり、自分は見られているかもしれない、と思い込ませれば、つまり監視されている主体が勝手に自分自身を監視するようになる事によって服従し、主体を獲得して行くと言う権力構造のメカニズムです。

囚人でも、学校の生徒でも、労働者でも、実際に見られているかどうかではなくて、見られているかもしれないと感じさせればよくて、監視塔からは牢獄の隅々まで見渡せても、牢獄からは監視塔の中身が見えない事によって、例え監視塔の中に誰もいなくとも、勝手に自己規律を行うという事です。

しかし現状では重罰化が進んでいますし、監視カメラも実際に見てるかどうかは別として、それっぽいものがあれば済むはずなのですが、カメラが一見それとわからないような形状になり、監視されているという事を気付かれないようになっている所があります。

デイビット・ライアンが指摘した「身体の消失」というのが重要な概念です。人による人の監視だったのが、監視の手段が電子化しています。交通手段やメディアの発達により、流動性によって共生的な関係の後退。抽象化され非身体化された関係、対人関係からの身体の「脱埋め込み」不可分だったものが切り離される事によって、データを抽出する事によって、人と対面でなくとも関係を結べるようになるという事です。

ドゥルーズが言った「管理社会」に帰結します。個人が何者であってどこに所属しているのかという論点が後退して、個人がどのようなデータを有しているかが集点化されるのが、管理社会という権力構造であると。

電子化によって身体の脱埋め込みが進み、分割された個人情報をデータベースによって吸い上げ統合し、それを束ねるデータの供給源としての身体監視になっているわけです。規律を叩き込み、服従=主体化させる為の権力構造ではなくなっているので、本人が監視されているかどうか気付く必要はないと言うわけです。

なので重罰化や監視装置で騒いでいる部分と言うのは、実際の監視社会という権力構造とは関係のない、単なる人気稼ぎ、もしくはビジネスとしての権益でしかないわけです。

権力構造が必要としているものは、蓄積されたデータの集積こそが重要な監視社会になっているわけです。そこでは身体もそれを束ねるデータの供給源ではありながら、データを監視するのと同様に、価値がフラット化していますので、データの大本と言う意味こそあれど、単なるデータとして監視すると言うわけです。

この国は今、大きな物語が失われていると言います。宗教による神のいない我が国では元々あったのか疑問ですが、それなりに変わりになるものを見つけて少なくともかつては大きな物語と言うのがあった。戦争に負けて、大きな物語は戦後再復興近代化等をベースに、左翼的な運動や、近代化を目指す事、成熟した社会を目指す事が代替していたのかもしれません。

しかしそういった幻想は打ち砕かれて、大きな物語をいえる時代ではなくなってしまった。だから右傾化して大きな物語にすがりたいという情けない現象があったのかもしれませんが、そんな主体はどこにもないので、やっぱり大きな物語にはならない。

コジェーヴによれば大きな物語が喪失した後は、シニシズムかスノビズム的な生き方しかないと言いました。日本と言うのはスノビズム的な生き方、つまり無駄だとわかっている、無意味だとわかっているがあえて、ネタをネタとして消費して楽しむという作法です。オタク的な生き方なんかはこの典型で、大人になってから下らん子供向けのアニメを見る。くだらないのは百も承知だけど、これで盛り上がるわけです。

ポスト近代の記号の消費的な生き方というのはこういう傾向が強かった。くだらなさや無意味さをわかっているけれど、バブル的な盛り上がりを謳歌すると言う感じです。ここでないどこかを求めるのではなく、理想を求める作法が連合赤軍事件などによって終わり、ここの読み替え、フェイクである大きな物語を捏造し、生きる事に意味があると言う見かけを信じていた時代、生は無意味であるが、無意味であるが故に生きると言う感じです。

しかしこれも世界的には冷戦の終結、共産主義と言う大きな物語が、巨大な亡霊でさえ無くなってしまった事によって終焉を迎え、そしてこの国ではバブルによって大打撃を受けオウム事件これによってトドメを刺されます。ネタが崩壊し、ネタを信じている場合ではなくなってしまった。ネタで消費していた大きな物語を本当に実行する奴が現れてしまった。ネタのベタ化です。

アメリカ的「動物への回帰」つまりシニシズムの社会がベースにあって「だからこそ」「あえて」フェイクを捏造せずにはいられない、ここの読み替え、記号との戯れ、ネタをネタとして消費するという、スノビズム的な生き方が、ネタを本気で信じる奴が出てきて、ネタを本気で社会がインチキだ!!と否定するようになって、崩壊してしまったわけです。

当然ながらその後はコジェーヴによれば、動物的な、そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない、ヘーゲル的な歴史が終わった後、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り、蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蝉や蛙のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう、と。

つまりデータベースを参照して消費する消費行動というのは大きな物語が後ろにあってそれを支えているのではなくて、フェイクを捏造しているのでもなくて、泣けるとか、笑えるとか、ようするにオタク的な言葉で言えば萌え要素の集合体でしかない。ネコ耳とか、メイド服とかと同じです。

大きな物語などそこにはなくて、大きな物語的萌え要素がデータベースから抽出されて、あたかもそれっぽい作りに感じたりする事はあっても、あくまでもデータベースからの都度都度バラバラに刻まれて蓄積された様々なデータの入れ替えに過ぎないわけです。

You Tubeもi podも過去のコンテンツをフラットに並べたデータがそこにあるだけで、データベースそのものには意味がない。だからやたらくだらない話だったりしても、多くの人が泣けるとか言って感動したりする。表層的な小さな物語を求めてしまう、そういう社会構造になってしまった。

小さな物語には何の繋がりもなく、意味の動物性への還元、人間性の無意味化、世界全体は即物的に誰の生にも意味を与える事なく漂っている。善いか悪いかは別として、これが我々が立っている現時点での社会なのです。

次回でまとめます。多分。つづく!!