前回の続きです。

危険だ危険だと喚く前に、自分も昔は子供であったという事を、多くの大人は忘れています。自分が子供の時どう思っていたのか?そしてそれほど神経質にあれこれ大騒ぎしたのか?仮に大騒ぎしていたとして、それが実体と乖離していなかったか?危険か危険でないかと言えば、昔の方が危険な事はいっぱいあったはずです。だけどそういう環境で育った人間が、みんなとんでもない大人になっているのかと言えば、そうなっていないわけです。必要だ!!危険だ!!と煽られる前に冷静になる事が肝腎です。

子供の携帯コミュニケーションについて書いてきましたが、同じような社会の流れの中で、同じような疎外感や不全感を感じながら匿名のコミュニケーションを利用している大人もいっぱいいます。そう、もう子供だけの問題ではなくて、社会全体に蔓延する流れの中に我々はいるわけです。

携帯電話には副作用があるらしいという事は確かに明らかになっています。それが善い事か悪い事かはわかりませんが人間関係上重大な変化をもたらしました。もう一人一台時代をむかえています。その事をどう考えるのか?

日本映画やテレビの質、小説などもそうで、これらのクオリティが下がっているのは携帯のせいだと言われています。質が下がったという言い方は不適切かもしれません。善い事なのか悪い事なのかわからないので、質が変わったと言った方がいいかもしれない。

メールやりながらというのを想定しなきゃいけなくなって来たので、時間的に注意力が持続出来なくなってくる。そうなるとオカズ満載型になる。昔の映画を知る人間からすれば寂しいかぎりで、薄っぺらなクソ映画にしか見えなかったりしますが、明らかに質が変わって来ています。

そしてメールは不自由なコミュニケーションなので、ワンワード化が起こっています。ワンワードで表現出来ないと口コミに乗って行かない。だからわかり易さというのが、すべての局面で重要な要素になってくる。わかり易くなれば考えなくてもすむので、当然人は考えなくなります。

メディアの劣化が極まっているのもそうだし、これは政治の世界にまで浸透しています。小泉のワンワードなんかも無関係じゃない。彼がどのへんの層をターゲットにしていたのかという事を踏まえると、それはそれで合理的と言えば合理的でした。

着メロによって音楽産業の構造も変わりました。これらは確実に携帯がもたらした社会構造の変化です。

そして入れ替え可能性、取り替え可能性の問題、これが大きい。番号ポータビリティが出来ましたが、いざとなれば降りる事が出来る。この降りる事が出来るというコミュニケーションの作法は流動化社会とリンクしていて、サブカルや実生活のコミュニケーションも支配されつつあります。

例えばオタク的な文化というのは蛸壺的な島宇宙文化という言われ方がされたりします。しかし閉鎖的で同調圧力に満ち満ちている社会というのは、この国の文化のようなもので今に始まった事じゃない。会社関係、地域のコミュニケーション、仲間内と様々なコミュニケーションがそれと大差ない。

空気が読めないと叩かれたり、掲示板での炎上問題なんてありますが、戦前この国が戦争に突っ走って行った要因は空気支配が根底にあります。空気に抗えなかった。勝てないとわかっていたのになぜ止めない?反対を言える空気ではなかった、何で戦争をしたのだ?誰かが止めてくれると思った、というパターンです。

流動化社会になっても相変わらず会社の代わりがオタク文化的な蛸壺に変わっただけという言い方も出来ますが、流動的な社会だから実りを求めてそういう文化的な圏を築くとも言えます。外部には閉鎖的であっても、ある目的の為に集まった仲間内ではそれなりに濃密な関係性や承認が得られたりするし、目的合理性が伴えば、他の蛸壺ともコミュニケーションは取っている。これも昔から変わらない。

しかし決定的な変化があります。それは流動化社会になった事の副作用として、いつでも自分から降りる事が可能な承認関係になっているという事です。

それは会社や友達、地域の共同体にしろ、オタク的なコミュニケーションにしろそうです。流動化という自由です。選択肢は自由だと言われても、生まれた場所、生まれた環境が違えば、全く機会の平等なんて担保されていませんので、積極的に、もしくは制度的に気付かぬように制限されていて自由じゃありませんが、個々の縛りは自由化されいつでも降りる事が可能になった。これが社会のバックにまずある。

その流れの上で、携帯的なコミュニケーションもある。これに伴って更に人間関係の質が表層的になった。というか濃密な関係性という縛りから自由になろうとした流れ、非流動的な関係性を捨てようとした帰結から、こういったコミュニケーションが必要な社会になったのかもしれません。が、いずれにせよ、善いか悪いかは別にして、社会の形が変化しているのは間違いありません。携帯から切り取って行くと、これがよく見えます。

メモリに電話番号が登録されていますが、人間関係が流動的になった。いざという時に連絡を取れますが、友達も流動的になっています。そうすると人間関係が変わってくる。感情的な安全の度合いが低くなり、いっぱい登録してあるけれど、連絡を取るのはいつも決まった人ばかりだったり、ちょっとしたきっかけによって全く連絡を取らなくなり、いつの間にか連絡先が変わっていてもう二度と連絡が取れなかったり。

こうなってくると連絡を取り合う仲間がいても寂しい感じがしたり、その事が逆に過剰同調的になったりして、表層的な関係性が増えてきます。イジメもこういう事と無関係ではない。表層的な関係性が増えてくれば当然の事ながら本当の意味での信頼関係は築きづらくなる。

そしてこれらの人間関係はいつでも降りる事が出来て、降りる事が出来ないと袋小路に入ってしまい最終的には自殺と言う降りる手段に繋がってしまったり、病気になるという、現実に拒絶反応を示して降りる状態になってしまったりもする。

コミュニケーションがデュアルになっているというのがこの原因として大きい。対面と非対面の差です。面従腹背のコミュニケーション、これが何よりこういったコミュニケーションの一番の問題点です。パートナーの携帯を盗み見た事があると答える割合は若い世代のカップルの実に7割近く存在すると言われています。表面的に仲が良くても裏で何をやっているのか信頼出来ない関係になっている。

実際知らない異性との発着信記録があったりすれば、裏で何しているかわからないという事になり、リスクが高いからヘッジをかけて自分も同じような事をするという風に、直接パートナーに文句を言うなり別れるなりすればいいのに、本末転倒な何の為に付き合ってんのか意味がわからない関係になったりする。

彼氏彼女に直接言うと傷つく可能性もあるし、面倒くさい厄介な展開になりうるので、関係ない友達や、全く知らない赤の他人である匿名の誰かに相談したりする。そもそも信頼している相手ではないから盗み見をするわけで、こういう関係性が広がっている。だから寂しかったり過剰同調的により加速して行きます。

性愛も自由になってセックスに対するハードルは低くなりました。ちゃんと濃密な恋愛に満たされていなくとも、肉体経験は豊富だったりします。それに昔に比べれば低年齢化しています。その分、愛に満たされているかというと不安と疑心暗鬼に煽られていて、だからより単純に求められているような気がする錯覚の承認を得る事が出来るセックスに依存してしまうという循環を招いています。

最近の子は性的な経験も比較的早く経験したりするので、昔の同年代よりは経験が多くて出入りが激しいから大人に見えます。が、実体は全然逆で現実の異性や恋愛、性愛に高い期待をした事がなくて、周りを見ても同じようなもんだから、こんなもんだと諦めて、たこ足でヘッジをかけながら、本気で信じると痛い目にあうので、警戒しながら腹を割らないでキャラを演じるのが当たり前だと感じているようなコミュニケーションが広がっています。

流動性にさらされて経験値が豊かでありそうに見えながら、内面的な経験値が低く、つまらない異性に簡単に引っかかる。期待をして裏切られたりすれば学ぶのですが、あらかじめいろんな情報が入っていて、深入りしないで浅い気持ちで付き合ってあれこれやらないと傷ついてしまうという風になっているので、そもそも期待もしていない。ちょっとその期待の地平を上回るような上手いことを言う異性が現れると、むしろ簡単に引っかかり易くなってしまっています。

裏切られたり二股かけられたり、捨てられたりしても、欠落に結びつかないので学びに結びつかず、賢くなる事もなく、経験値故の深い恋愛観や性愛観にもつながらない。経験の数は増えるのだけど内面の状態はフラットで高い流動性の中でバランスを取りながら生きている子が増えている。

この手の携帯的なコミュニケーションなどで大騒ぎされるのは、事件性がフックになって、警察権限の強化だの、業者の取り締まりだのって話になるのだけど、事件性と言う部分だけを問題にすると、日本は本当に安全な国である事は間違いありません。こういった流動性の高いコミュニケーションは事件に遭わないで、普通に生活している人がむしろ大半なので、事件性でなくて事件が起こっていない所で生じる問題について注目しないと、自分達の地域や家庭や学校で、何が起こっているのかが見定める事が出来ません。

イジメの問題などで下らん啓蒙をする連中の話が平気でメディアで垂れ流されますが、全くお門違いもいい所で百害あって一理もない。

例えば仲間内で連絡を取り合うとして、なぜか自分にだけ連絡がこなかったという事に気付いたとする。目の前の友人はたまたま忘れただけだと言う。しかしもしかすると自分ははぶかれているのではないか?みんな普通に接しているけれど、裏で連絡を取り合って何を言っているかわからないという猜疑心が起こる。

実際にそういう陰口的なコミュニケーションは昔からありますし、現在でもそれは変わらないのですが、コミュニケーションがデュアルになっている分だけ、非対面のコミュニケーションを知っているだけに、その猜疑心はかつてより加速しています。

付き合いが広く浅くなっている割には、その事が逆にテクノロジーによるコミュニケーション、メールに縛られていたりもします。メールは時間的な融通がきくはずなのですが、レスポンスの時間でどれだけ重要に扱われているのかを計る神経質なコミュニケーションのモードを増幅させている。

フラットで流動的なコミュニケーションが広がって行くと絆の安心感をもたらさないので、家族や居場所の安心感をも空洞化してしまいます。悩みを話せる相手が知らないメル友だったり知らないおじさんだったりする。

フラットで流動的なコミュニケーションが当たり前になれば、それ以上は望んでいない世代が増えてくるので、家族のコミュニケーションにしろ、共同体でのコミュニケーションにしろ、フラットで流動的なコミュニケーションと等価で選択する単なる選択肢になって行きます。そうすると心地いい方に人は流れて行く。これは止められない。

そうすると家族は何なのか?って話になってきます。食事もコンビニで入れ替え可能、物理的に近い相手より、遠い相手の方が話し易かったりする。家族だけじゃなくて地域など共同体にとって、携帯的なコミュニケーションと競合関係になっています。

家族と話すより、地域の行事に参加するより、学校の友達とのコミュニケーションより、携帯の中でのコミュニケーションの方に、例え錯覚だとしても実りを感じる事が出来れば、魅力のある方に人が流れて行くのは止められません。非流動的なコミュニケーションは煩わしいし、リスクも高い。我々が自由になりたかった縛りから抜け出した帰結とも言えます。

これは善い事なのか悪い事なのか現時点ではわかりませんので何とも言えませんが、明らかにこういった変化が見られます。昔は共同体の大切さは自明でした。変わりになるというのは錯覚なのですが入れ替え可能、取り替え可能な、いつでも降りる自由がある関係になって行く。

しかし取り替え可能なので感情的な安全は得られない。が、降りる事が可能いつでも辞める事が出来、自由とも言える。年長世代が大切だと思っていたベースがこれは自分達でぶっ壊してきた帰結なのですが、どんどん空洞化して行く。

これは携帯だけの話ではありません。むしろ社会の流れがそういった方向に流れていて、その流れの中からこういったものが生まれていると言った方が適切です。街並もコンビニやファミレスのような同じような風景になり、バナキュラーな地域性はとっくに壊れて、流動的な入れ替え可能、取り替え可能なベースになっています。仕事上でも非正規社員等が増えたり、どんどん流動的になって、同じような事が出来るのなら、誰でも構わない社会になっています。そこには個人の名前は関係ない。

これは恋人関係にしろ、家族関係にしろ、仕事以外の人間関係をも満たしています。条件付きの承認関係が広がっている。これは条件が一緒なら誰でも構わない社会になっているという事です。だから簡単に降りる事も出来る。昔は降りる事など簡単にはいかなかった。出身地、学校、環境、様々な個人を規定する縛りがあり、家族や共同体や仲間からキツい縛りがあった。これもこれで大きな問題だった。

つづく!!!