前回の続きです。

自分は基本的にこの主人公のような状態なら認めてもいいのではないかという気がします。しかし何の不自由もないのに死にたいというのではそれは尊厳死として認めるのはおかしいような気がします。倫理的にそう思うというわけでもなければ、論理的に説明も出来ないのですが、何となくそういう気がする。

この映画の主人公のような境遇というのは、それを認めるか否かの微妙なライン、もちろん万人が合意可能な倫理的且つ論理的理由などありませんので、あくまで認めないという人がいるのは確かでしょう。しかし何となくただ反対も違うような気がする、何となく納得出来る微妙なラインなのではないかと感じます。

これとにたような構図で「ミリオン・ダラー・ベイビー」という素晴らしい映画がありました。こちらはアカデミーの作品賞を取っているので、この映画より遥かにメジャーだと思いますが、これもやっぱり、四肢不随に陥ってしまった女性と介護をする老人の話でした。

しかしこの映画は「海を飛ぶ夢」とは決定的に違う部分があります。それは善悪そのものを問題にしている点です。つまり法律や、宗教が定める法において、悪だと言われる行いが本当に悪なのか?という問題点です。そして希望と絶望を、栄光と挫折の落差を描く事によって、観ているものと絶望を共有出来てしまう点です。

それを貧しくて30を過ぎてしまった一人の女性のサクセスストーリーと挫折を折り込み、栄光を掴みかけたまさにその瞬間、絶望に叩き込まれる女性。何もいい事がなかった女性がほんの一瞬輝こうとしたまさにその瞬間に、運命の糸は断ち切られ、奈落の底に転落してしまう。

全く希望のない状況。彼女が成功しそうになった時には擦り寄って来たのに、挫折したら見捨ててしまう家族、自殺はよくない、楽にしてやるなどと言う発想は、神が与えた人間への試練に背く振る舞いであるという常識に対して、彼女に付き添う老人は、楽にしてあげたいという気持ちと、法の狭間で葛藤する。

これはクリント・イーストウッドがずっと描き続けて来たモチーフ、グラスルーツ・ライツ、草の根右翼の発想がテーマの根幹にあります。

ダーティ・ハリーなどのように、法律で裁けない悪党を、俺が法律だ!!と法を踏み越えてでもぶち殺す。法律や権力では救えない弱者の為に、例え法を犯して自らが悪者となっても、自力救済をする。

硫黄島二部作のように、国家が言う愛国心は信用出来ない。国家が言う正義は欺瞞だらけだ。硫黄島で死ぬ事は愛国心でも何でも無い。しかし戦場で共に戦う戦友の為に命をかける事は真実であり、それは敵も味方も善も悪も関係ない。みんな崇高な心を持っていたのだと。国家が言う正義や法律を疑えと。

そして「ミリオン・ダラー・ベイビー」では四肢不随に陥ってしまった女性を救ってやる手段は死なせてやる事しかない。本人もそれを強く望んでいる。法律や宗教がそれを悪だと断定しても、彼女の為にそれを踏み越えるという老人の姿が描かれます。

法律や制度が汲み取ってやる事の出来る弱者、例えばこの女性の家族のように、生活保護を受けながら、女性の成功に集ったり、女性が挫折すれば、知らん顔してディズニー・ランドを満喫しているような「弱者」は、それ系の運動をやっている連中が救えばいい話で、社会からも見放され、努力も報われず、絶望を舐めている弱者がいる。それでも抗っている弱者がいる。誰もそこには救いの手を差し伸べない、国家も宗教も。

だったら俺がそれを踏み越えてでも彼女を救ってやるという、本来の右翼思想、社会がちゃんと機能していても、声を誰にも汲んでもらえない弱者というのがいる、悪者と断罪されようとそこに救いの手を差し伸べる。

日本のハナクソ右翼とは全然違いますが、右翼とは本来そのようなものです。統治権力のケツを舐めるような輩は右翼でも何でもありません。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」と「海を飛ぶ夢」で決定的に違うのは、四肢不随に陥った人間を描いているというのは一緒なのですが、前者は栄光から挫折に落ちて行く様のコントラスト、家族の愛に見放された孤独が描かれており、普通に観れば納得可能な死への欲望なのですが、後者は家族や友人達に育まれそこそこ楽しそうに見えてしまう状況、物語の最初から絶望に叩き込まれた後の状態で、それが定常状態になっていて、前者とは違い、その絶望に耐えた期間も遥かに長く、30年近く耐えているが、死への欲望が家族の悲しみを考えると微妙に感じてしまう。前者ほど絶望的に見えない点にあります。

しかしその長い年月、どんなに愛に育まれ、どんなに友人に囲まれていても、絶えず絶えず自分の絶望的な不自由さを自覚し、孤独を感じて来た。もちろん前者と同じように、船乗りになって世界中を旅していた仕事への挫折、事故を起こした当時は恋人との別れや、自分の症状との葛藤が当然あったわけですが、そういうものを年月とともに表面的には克服しているように見え、穏やかな笑顔であるので、前者のような落差を共有出来ず、絶望を共感可能につくられてはいない。

希望と絶望の落差、善と悪の狭間での葛藤というのはとりあえず人それぞれいろんなポジションがあり、人間の尊厳とは?幸福とは?生と死とは?愛とは?その謎がそのまんま観ている我々の前に投げ出されます。答えが簡単にわかるような問題でもないし、何も語っていません。ただある一つの選択を見せつけられる。

何となくこのラインなら、尊厳死が許されてもいいのではないかという感覚と、やっぱりそりゃマズいんじゃないというギリギリのジレンマが投げかけられるわけです。ただ個人的感覚として尊厳死は認めてしまうと問題があるというのは自覚しているのですが、この状態ならギリギリ合意や納得が得られるラインなのではないかと感じるわけです。善悪を排除して考えたとき、丁度拮抗するラインなのではないかと。

尊厳が損なわれているというのは、確かに心の問題でもありますので、これを認めてしまうと際限がなくなります。それはわかっていますが、心の尊厳がどんなに傷ついていても、やっぱり認めるべきではないと明らかに言い切れるラインではない。難しいラインが見えてしまう。

自分は基本的に尊厳死を認めてしまうと危険であるという事には合意出来ますが、自殺を希望する人が、それを望んでいる場合、もちろん止めた方がいいと思いますし、そういう人が目の前にいれば当然止めますが、それでもどうしてもやりたいと感じている人を止める手段がこの社会では決定的に欠けているのはないかと感じます。だから基本的にそれを望んでいる人を止める事は難しいのではないかと思っています。

もちろんそうであっても出来る事なら止めた方がいいに決まっていますが、事の善悪が書きたいわけではありませんので、何が言いたいかと申しますと、自己決定出来るのか?という問題です。

だから当たり前ですが、子供がそれを望んでいる場合は何が何でも阻止すべきだと思っています。身体的な不自由がどの程度であるのか?という事によって合意可能なラインというのは変わるかもしれませんが、基本的に子供には自己決定するだけのリソースがないと思いますし、自己決定するにしてもまだ学んでいる最中ですので、選択肢が見えていないはずです。だから大人がなんとしても食い止めるべきであると思います。

子供の権利を認めるという事は、子供の自己決定権を認めるという発想に繋がります。権利を認めるという事は責任を自分で取らせるという事です。子供の権利を主張する輩のマヌケな所は、子供の権利を主張しているくせに、重罰化反対という所です。逆に子供の凶悪犯罪を騒ぎ立て、重罰化を煽る輩は、子供の権利を制限しろと言います。

権利を制限されていれば、責任は限定的になるのは当たり前です。権利を認めるのであれば、権利を持っている奴に責任を取らせるのは当たり前です。こういう基本的なロジックを理解していないバカが多過ぎるので困った話なのですが、自分は子供には自己決定は出来ないと思っています。まだそれを学んでいる最中でリソースが限られています。したがって重罰化には反対です。だから当然権利も責任も限定的なもので良しという考えです。その代わり大人がきちんと子供を躾ける。これでよいと思っております。

それが出来ない大人が増えているという問題があるのはわかりますが、子供は大人が育てるものであり、子供に恐れおののいて重罰化で対応するなどバカじゃねえかと、ケツでもひっぱたけと思っております。子供がそうなるのは、大人のせいです。

そして親だけに責任をなすり付けてもどうにもならない問題でもあると思っています。子供は社会が育てるもの。学校、地域、メディアと様々なものがその原因となっているわけです。親がバカになっていると言いますが、親がバカなのは昔も今も変わりません。決定的に社会環境が変化した事が原因です。

そこに目を向けずに不安をステークホルダーに煽られて、重罰化だ!!と叫ぶのは大概にした方がいいと思います。統治権力の制度設計が子供やその親、社会の為ではなく、ステークホルダーの方向しか向いていない事に原因があります。それは我々が選挙で意思表示しないからでもある。

現状のまま社会が空洞化していくのであれば、重罰化や監視社会に突っ走るのは避けられないでしょう。重罰化や監視社会に反対するのであればこの空洞化した社会をどうするのかを同時に考えねばなりません。

昔のように単純に国家権力を断罪しても、人々の不安は汲み取れません。空洞化した社会を担保する何らかのセーフティネットなくして、ただ重罰化反対、監視社会反対では難しい。人が人を信用出来ない社会ではそれを補う何らかの措置が必要になってしまうのは仕方のない事です。これについては以前散々書きましたし、まあその手の話をしたいわけではないので、今日は長くなるので本題に戻します。

自己決定出来るのか?というのは非常に微妙な問題で、最近では大人であっても、とても自己決定出来るだけのリソースを持っていなそうな人もいます。これは生き方を自分で選択して来た事の帰結でもあるわけなので、そういう風に生きて来たのは自分がそうしたかったからでもあるわけです。だから基本的に大人であれば、どうしても周りが反対しようがなんだろうが、家族に迷惑がかかろうが何だろうが死んでしまいたいと感じている人は止める術はないと思っています。

ただその状態を回避する為の必要な選択肢が制度や何かによって物理的に遮断されていたり、自分の病気や不自由によって、突発的な何かによって遮断されている場合、そこを救済する制度設計が成されていない事には非常に疑問を感じます。せめて死ななくてもいい選択肢が物理的に何にもないのに、死ぬのはいけない事だと言ったって無理だろという事があるだろうと思うわけです。

だからそういった社会的な疎外を感じる事によって自殺に追い込まれてしまう問題というのは、出来うるかぎりシステムがそれを汲み上げる仕組みが何としてでも必要だろうと思います。そういう追いつめられた人に向かって、命は大切だ、自殺はよくないと言ったって、それが出来ない状態に陥ってしまっているのに、事の善悪だけで食い止めようとしても難しいだろうと感じるのです。

自分が身銭を切ってそういう人を救い上げるだけの、リソースも能力もありませんし、そういう状況に叩き込まれていて、自分に出来る事が何もないのに、希望を持てとか、頑張れとか、命を無駄にするなとか言ったって、無力でもあると思うのです。

だから善悪を言うのではなく、自殺という選択肢を回避出来るような提案をして、もちろんクリアカットな解決策というのは中々ありませんので、一時しのぎでしかない選択肢でしかないかもしれませんが、それを提示して、それでもどうしても死にたいと思っていたら、それはどうにもならない場合が多いと思うのです。ただそういった選択肢が提示出来る社会なのか?という疑問がある。とまあ自殺についての問題は難しいので、その事が言いたいわけでもありません。

何が言いたいのかと言いますと、安楽死にしろ尊厳死にしろ、死の自己決定権というのが重要なファクターになるわけですが、自己決定と言っても、果たしてそれが本当に自己決定している事になるのかという問題がやっぱりあります。自己と言ったって、いろいろな環境や情報によってそう思い込まされている単なる錯覚である場合も少なくありませんし、我々は多かれ少なかれマインドコントロールされた状況です。社会や制度や環境や立場によって。だから自己決定と言っても本当の意味で自己決定なんてあるのかと考えると、これも微妙な問題になってしまう。

例えば子供などが自殺をすると、メディアなどではしたり顔のバカが出て来て、死んじゃダメだよ的な報道を繰り返します。そうすると自殺の連鎖が起こります。これはメディアが啓蒙する事によって、自殺という選択肢を子供に埋め込んでいるからでもあるわけです。死ねば騒いでくれる、死ねばみんなが汲み取ってくれると気付くわけです。

大人だって自分で自己決定していると錯覚したり、どう考えても選択肢がないと思い込んでいるだけで、自己決定でもなければ、選択肢がないわけでもなかったりします。だからそういう時に死なずに済むような選択肢を提示出来る社会でなきゃしょうがないだろうとも思います。

例えば脳死、臓器を移植する為のドナー登録なんてあったりしますが、今の所、メディアの啓蒙などによって、臓器移植を待つ可哀想な子供のドキュメンタリーなどがやたら放送されます。命のリレーと言った美辞麗句によって、どうせ生きていても死体と変わらないと言われている脳死状態から臓器を取り出せば、レシピエントの命が救えると。

しかしこれは非常に偏った啓蒙でもあります。まず脳死状態というのは死んでいるわけではありません。医学的にその生きている状態を死体と変わらないと勝手に定義しているだけです。そして臓器を取り出す際、麻酔をかけます。死体に麻酔をかけるでしょうか?単なる脊髄反射で痛みは感じていないと断定されていますが、そんなの痛みを感じていたらたまったもんじゃありませんが、実際に血圧の上昇など、痛みを感じているのと同じ反応をするわけです。そして臓器移植を体験した脳死患者の証言というのは当たり前ですが一つもありません。当然臓器を取り出せば死ぬわけですから、一人の人間を殺して一人の人間を助けている、命の優劣を我々が決めているわけです。

脳死になったら生きていてもしょうがない、脳死になったら死体と変わらないと言われていますが、実際の所それがどこまで事実なのか非常に問題点を多く残しています。メスを入れれば痛がっているように見え、定義も曖昧ですし、そもそも臓器移植という巨大な利権の為に、生きている状態を無理矢理死体と定義したのが脳死状態なのです。

近年では脳死状態というのはアウトプットが出来ないというだけで、インプットは出来ているのではないかという説まであるくらいです。そしてこれらの証明は非常に難しい。どちらが金になるのかという事を考えれば、どういう研究結果が採用されて制度がつくられて行くのか書くまでもありません。

この状況で自己決定とか言ったって、それを決めるだけの情報も提供されていない状況で自分で決めたかどうかを問うても、それは情報にコントロールされて選択しているに過ぎない可能性があるわけです。だから当然、大人の自殺に関しても、善悪や命の大切さをわきにおいて、自己決定出来ていない状況で死を選んでいる人がおそらく大勢いるわけです。

そうすると、それは自殺と呼べるのか?物理的にそういう選択肢しか取れないと感じる社会に生きていれば、それは本人の決定の問題なのか?年間3万人自殺している国です。それらは全部本当に自殺と呼べるのか?自殺の問題は今日のテーマではありませんので深くは突っ込みませんが、自己決定というものを考えたとき、そういった矛盾があるわけです。

そしてこの映画には自己決定をするまでのプロセスが30年近くかかっています。それが何となく主人公の尊厳死に同意してもいいのではないかと感じる理由なんだろうと思うわけなのです。

続く!!

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