ゴタゴタ続きで、中々腰を据えて書く事ができませなんだが、本日は映画ネタでも書こうかと思います。

本日はちょっと前の映画なのですが、大好きな映画「海を飛ぶ夢」について書こうかと思います。と言いますのも最近再び観る機会がありまして、改めて観てみるとこれが何とも面白くやっぱり素晴らしい映画でした。知っている方からすれば何を今更的な話になっちゃいますが、これは実在した人物をもとに作られた作品で、スペインではもの凄く評価され大ヒットした作品です。アカデミーの外国映画部門も受賞しています。それで始めます。

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物語のテーマは「尊厳死」非常に重たいテーマですが、そこには幸福とは?愛とは?生きるとは何か?と、多くの問題を内包したものでありながら、目線はあくまでも慈愛に満ちた、洒落にならないような二進も三進もいかない状況でありながら、どこかポジティブささえ感じる事の出来る素晴らしい作品です。

この物語の主人公である男は、二十数年前に事故で首の骨を折り首からしたが麻痺した状態です。しかしユーモアに溢れ、頭のキレもよく、彼を支える家族、そして友人、女性達に囲まれ、傍目から観るとハンディを背負ってはいるものの、不幸のどん底ってわけでもなさそうに観える。

でありながら主人公は延々と繰り返される日常に苦痛を感じ絶望し、死を望んでいる。それだけが希望だと感じている。自分ではもちろん出来ませんので、友人や周りの女性達にちょっとずつ分担して手伝ってもらい、誰かに責任が及ばぬように死を遂行出来るような計画を練っている。

確かに寝返りも打てなければ、歩く事ももちろん手も動かない状況です。誰か周りにいなければ何一つ出来ない。彼の立場に立って考えれば、絶望を感じるのは理解出来るのですが、周りの献身的な家族の愛情や、なぜか知りませんが非常にモテモテのおっさんなので、ふと我にかえってその姿を眺めていると、死ぬ事はないんじゃないか、モテモテなわけだし、これだけ家族に厄介をかけているのに愛情に包まれているのだから、それはそれで幸福でもあるじゃないかという感じもする。

このギャップが非常に面白い所で、尊厳死というものがなんであるのかを考えさせられてしまうわけです。つまりモテモテだってセックスも出来ないし、愛される女性には何一つ答える事が出来ない身体であり、動かぬ身体を抱えて、ただ夢想しているしか出来ない毎日は苦痛であり、家族の献身的な介護を受けていても、年老いた父親と、兄の家族に支えられているわけですが、父親は間違いなく先に死ぬだろうし、普通にいけば兄や義姉が先に死んで行くであろうし、この状況がいつまで続くのかもわからないし、負担をかけ続けているその事自体が重荷であり、一刻も早く自分の人生を終わりにしたいと。

彼は自らの生命というのは権利であり義務ではない。政教分離を掲げている国家が、個人の権利を侵害して生きる事を義務化している状況はおかしいのではないか?尊厳死を認めてくれと国を相手に訴訟を起こしております。

しかしキリスト教というのが政教分離と言いつつも、国民の規範の奥底に、統治権力者達の奥底に宿っている国とは違う、我が国のような政教分離を靖国問題とかの争点化などにも見るように、全く意味を勘違いしているスットコドッコイな国から見ても、尊厳死というのは何となく、生命というのは尊いとか、大切とか、埋め込まれた規範によって簡単に認めるべきではないのではないか?という感じがするのではないでしょうか。

彼の父親は、息子が先に死ぬだけでも悲しいのに、自ら死にたいというのは複雑な気持ちがしている。多くは語りませんが、死にたいという気持ちもわかるが、自分は年老いた老人であまりにも無力でもある。何もしてやれない自分と、大切な息子がそれを希望している事に引き裂かれている。

彼の兄は、バカな事抜かすな!!俺はお前の兄だ、言う事を聞け!!俺がお前の面倒をキチンと見ているのだから、死にたいなんてふざけた事は言うな!!自ら死にたいなどとんでもない!!昔気質と言うか、男らしいごちゃごちゃ言ってねえで、俺に任せとけ!!というタイプの人間です。ここにも押しつけっぽくはありますが愛情がある。

しかし弟に、兄さんがもし明日事故にあって死んだらどうするのだ、こんな寝返りも打てない状態で、ただ家族の負担になるのは辛すぎる、と言う弟の言い分に対しては、うるさい黙ってろ!!とかえすしかない。

弟がこんな奴隷のような地獄の日々は辛いのだという訴えも、奴隷はどっちだ、俺や妻、そして息子や親父と、俺達がお前の奴隷だ、自分だけ辛そうな顔をするな!!とかえします。(だから弟が死ねばみんなそこから解放されるではないか)という矛盾をどっかで理解しつつも、大切な弟をみすみす死なせてなるものかという気持ちで払拭している。

兄の妻、義姉は実質的にはずっと義弟の介護をほぼ一手に引き受けて、自分を消して一心不乱に愛情を捧げ続ける。しかしその事を苦痛だと感じるそぶりなど微塵も見せずに、むしろこの義弟を自分の息子のような眼差しで見ている。嫌な顔一つしない。

ただ義弟の気持ちも理解しており、本当は反対したい気持ちで山々なのだが、いくら彼の為に愛情を注いでも、注げば注ぐほど義弟にとっては負担でしかなく、心を引き裂かれているという事もわかっている。だから義弟の気持ちを表面上は寂しくて悲しくとも尊重している。

兄夫婦の息子、非常によく出来た甥で、身体が不自由でもユーモアがあり、知識も豊富なおじさんを敬愛し、その介護や世話を嫌な顔一つせず進んで行う。父親の反対、じいちゃんの悲しみ、母親の悲しみながらの理解、おじさんの気持ちと、それぞれを子供なりに理解して口を極力挟まずに気持ちを外に出さない。

彼のよき理解者である女性、同じように病によって未来に絶望を感じている女性、そして彼を愛する女性、主人公は自分を愛しているのなら死ぬのを手伝ってくれと言いますが、貴方を愛しているから力になりたいと言われます。しかしそれは主人公にとっては単なる苦痛でしかない、何も答えられない、愛に答える事が出来ない。すぐ側にいても、その距離は無限だと。

まわりでは彼の訴えに共感する人権系の運動に身を投じる人々、単なる目立ちたがりだと揶揄したり、それは自殺と変わらないではないかと善悪を語るマスメディア、同じ四肢麻痺の状況にある神父などが、彼を批判します。そして彼がそういう風になるのは彼の家族の愛情が足りないのだと一刀両断する。

それを観て当然主人公は傷つきます。ようするに自分の安寧を求めているだけで、他人に何かをしてやれるような状況に自分はいない、放っといてくれと。もちろん家族も傷つきます。これだけ愛情を注いでいる状態を、なぜ赤の他人に知りもしないのに断罪されねばならないのだと。

日本でよくこの手の話を作ると、酷薄な民族だからなのか、愛よりも金だという価値感がどこかであるのか、現世ご利益と言うか何と言うか、キリスト教的な価値観もなければ、宗教で厳格に規定するという感覚がないからなのか、愛だけじゃ上手く行かない、やっぱり金の問題も出てくるし、自らの自己犠牲的な負担も強いられるし、きれい事では上手く行かないステレオタイプ的な作りになると思います。

しかしそれでも愛情を貫く姿が一方で崇高に描かれて、それが余計に事の善悪の色合いをくっきりと刻み付ける事によって、介護的なものに対する規範を強いているような感じがあります。それがこの手の負担を強いている家族に社会的な目に見えないプレッシャーとなっている。

そしてこういった規範も最近はどんどん薄れているのも確かであり、こういった規範を突き付けられれば突き付けられるほど、不可能性を突き付けられてしまう。

本当は善悪でこういった事を考えるとやぶ蛇になる話だと思うのですが、そうは言っても愛情だけじゃ上手く行かねえよとか、そうは言ってもただじゃないんだよと言った感じでそこから自由になろうとすればするほど、それは逆説的にあるべき姿というのがあって、その不可能さ故のもがきだったりもして、こういった問題を更に袋小路にしてしまっている部分があるのではないかと感じます。

この映画はそういったステレオタイプ的な善悪の構図を出来るかぎり排除しています。ちょっとだけそんなような感じの部分、神父とのやり取り、メディアのバカ騒ぎなどありますが、基本的にはみんな愛情か金かなんていう貧粗な選択で悩んでいるのではない。そして一方で崇高なあり方を示すわけでもない。善悪を問題にしていないわけです。

みんなそれなりに善人で、自分にとって善かれと思う事、主人公に対する愛情のなかでの行き違い、愛情に包まれ、女性にはモテモテなんだから、主人公もそんな死にたいなんてグチャグチャ言うなよという気持ちもするし、でも主人公の立場だったらどうなんだろうと考えると、主人公の気持ちもわかってしまう。

身よりもなく金も無い老人だったり、もっと洒落にならない状況に叩き込まれている人というのもいっぱいいるわけで、観ようによっては甘えているようにも見えるし、でも自分がその立場だったら耐えられるのかという風に考えると、とてもじゃないけれど耐えられないような気もする。恐ろしさも感じるという、ジレンマが上手く描き込まれています。

幸福とは何だろう?生きるとは?死ぬという事とは?

もし大切な誰かが、この映画の主人公のような立場に陥って、希望を失い、自ら死を望んだときどうするのだろう?

これは非常に難しい何とも言えない問題です。死ぬまでお前の面倒を見るなんて言ったって、本人がそれを望んでいないとしたら?

人の命にだけ特別な意味をこじつけてしまった我々が背負っている大きな矛盾が立ち現れて来ます。しかし主人公の死を認めるとなると、こういった尊厳死と自殺との境界線はどこにあるのか?という新たな疑問も浮上します。

そう、我々はすでに生命を選択して線を実際に引いてしまっている現実に身をさらしているわけです。

ちょっと前に、フランスで安楽死の問題が騒がれました。2000人あまりの医師や看護師が、安楽死に手を貸した事をカミングアウトしたというか証言して、安楽死の合法化を求める動きがありました。ヨーロッパではオランダやベルギーなどが安楽死を合法的に認めており、日本でも安楽死についての議論は絶えません。

95年の東海大安楽死事件の横浜地裁の判決で、四条件を満たせば認められるという事に一応なっております。回復の見込みがない、死が間近、堪え難い痛みに苦しんでいる、本人が意思している。この条件を満たすものを安楽死と呼ぶという枠があります。

オランダやベルギー、オーストラリアやアメリカの一部の州で、安楽死を合法化しているわけですが、必ずしも四条件を満たしていなくても認めている場合があります。死が間近でなくとも堪え難い苦痛があるのならいいのではないかという法律を持っている国や地域もある。すぐに死ななくとも回復不能でいずれ死は避けられず、毎日死ぬような苦しみを耐えさせる事の方が辛いだろうという事です。

どこの国でも医師が複数、回復の見込みがないと診断している事が条件となっており、死が目前である事が条件であるのなら、それも複数の医師が証明をする。

痛みがそんなに酷くなくとも、回復の見込みがなく、死が目前に迫っていれば、死の時期を自分で決めていいのだと認める方向の国もあります。そうなると尊厳死に近付きます。尊厳死というのは安楽死よりも条件の弱いもの四条件が満たされていなければいないほど、尊厳死に近付くわけです。

この映画のようなタイプの尊厳死というのは、死は迫っていません。自分の人生にとって何が最大の価値なのかは人それぞれです。安楽死なら痛みとか回復不能とかわかり易い誰にとっても堪え難い苦痛という条件がありますが、尊厳死にはそれがありません。

病気や肉体的な不自由により自分の尊厳がかなわなくなっているという事であって、人から観ると必ずしも合意可能ではない。安楽死より合意可能性が乏しくなるわけです。自殺になればもっと乏しくなる。安楽死と自殺の間に尊厳死が位置しているわけです。

しかしこの尊厳死というのを認めてしまうと、尊厳死というのは肉体に関する苦痛や不自由による尊厳の困難なのですが、何が最大の価値なのかは人それぞれという所が問題で、尊厳死を自殺と変わらないのではないかという論者達の間では、結局尊厳の困難と言ったって、それは個人の心の問題であり、同じ障害を持っていても生きる人もいる。

肉体についての不自由が客観的に見てもっと軽い症状であっても、それが尊厳の困難だと感じれば認めるのか?もっと極論すれば結局心の問題でもあるのなら、肉体的に何一つ不自由がなくても、精神的に生きるのが困難だと感じたら尊厳死を認めてもいいのか?

肉体の不自由はなくとも、人生に挫折し、生きる甲斐を失ってしまう事も当然あり得ます。肉体の不自由を抱えている人間にだけ、内面的な尊厳を理由にした死を認めて、肉体の不自由がないというだけで死を認めないのかという風になってしまうわけです。

だからどこの国でも安楽死や安楽死の四条件を多少緩和して認めても、尊厳死に関しては認めてしまうと危険だという事もあり、一定の歯止めがかかっているのが現状です。

エンジンがかかって来たので、続く!!