前回の続きです。
簡単に言うとネオリベラル路線と、コーポラティズム路線での綱引き合戦状態です。しかもネオリベと言ったって、アメリカのネオコン的な全くの出鱈目政策で、機会の平等を担保するなんて事はハナっからやる気も無く、たいした利権など持っていない弱者は利権をどんどん吸い取られ、市場経済に叩き込むべき所ではない部分はどんどん市場化し、肝腎の市場は公平性の全く無い、恣意性に塗れている。
この国で言われる所の、小さな政府とかストラクチュアル・リフォーム、構造改革という代物は、本来するべき改革はいっこうに進まず、官から民へというお題目によって高らかに謳われている事柄の内幕は、権限と裁量は国家権力が握ったまま、責任は民間に押し付ける、ようするに国家権力の力をただ強化する所行にすぎません。天下りもむしろ増えていますし、より巧妙になっています。年次改革要望書を従っていくなかでの利権の争奪戦になっている。
銀行や大企業を優先した政策ばかりで、特に銀行は税金まで使って救済したのに、一般の国民の生活は全然向上しない、こういった物言いがされたりもしました。日本のプラットフォームを維持しようと思えば、一般の国民や中小企業から先に救う事は確かに出来ません。まず救うべき優先順位として、銀行や大企業から救わねば、国民の生活の向上もない。もちろん救って貰っといて、国民に還元する気の無い企業は問題です。
しかし国家権力がそこから先へ国民の生活を向上させる為だとか、醜い権限や裁量による腐敗の構造を是正して、風通しを良くするとかという振る舞いは全くする気もなく、ただ単にたいした権利もない弱者の権利を吸い上げ、更に国家権力の力を強める為の政策をバンバン強行採決によって通しました。こっちは更に大問題です。
弱者救済を旗印にあげますと、やっぱりそこにも利権は生まれ腐敗に繋がりますから、闇雲に弱者救済をすればいいというわけではありませんが、少なくとも最低限、機会の平等を担保する為の政策を打つ事くらいはやってもらわなければ、自由経済と言ったって、そもそも選択肢がなければ自由もクソもありません。結果平等を担保する必要はないと思いますが、アメリカさんの都合のいい政策ばかり、国家権力に都合のいい政策をせっせと打つ事ばかりやってないで、機会の平等を担保する為に打てる政策はまだまだ沢山あります。そこには権益も絡まってますので知らん顔しているというわけです。
教育の機会が、親の収入や住んでいる場所によって埋める事の出来ない格差になっているという現状は、とっとと是正してもらわねば話になりません。不良債権を抱えた銀行は、結局、彼らの責任でそうなっているだけで、責任はちゃんと彼らにあります。そこを税金で救済しておいて、たまたま生まれた場所が地方の僻地というだけで、統廃合などによって教育の機会が担保されていない、学校に通うと言ったって、いちばん近い所が何十キロも離れた所にあったのでは選択の自由もクソもありませんし、小学生や中学生には不景気になった責任は何一つありません。
病院だって無くなるような政策しか打てない。確かに合理化という部分とバッティングするのはわかります。しかしそれをどうにか知恵を絞るのが統治権力の責務というものです。その能力も知恵も無いようなクズがそもそも統治権力者になんてなるべきではありません。闇雲に補助金バラまけと言っているのではありません。いくらでも方法はあります。
自己責任で勝手にしろというのなら、統治権力としての役目を放棄しているわけですから、そんな連中に従わなきゃいけない理由なんてもはやどこにも無い。それが要するに、小さな政府とか構造改革と言うなら勘弁してもらいたいもんだと思います。構造改革なんてそもそも、コンピューターを導入する事によって効率を高めるという程度の、企業経営論の話です。
かたやコーポラティズム、訳すと談合主義という言い方になります。非常に嫌な響きのするものですが、これは従来の官製談合を指すものではありません。しかし日本で談合主義と言うと、これしかありません。
不透明な腐りきった談合主義、利権を温存し、税金を無駄に湯水の如く使いまくり、いまだに道路だのなんだのほざいています。道路を作る事自体は否定しませんが、現在の体質では止めた方がいい。税金を単にドブに捨てるだけ、不透明な談合では乗数効果など得られるわけも無く、ただ単に政治家にキックバックとしてかえっていくだけです。
そういう腐った構造を是正するまでなんて待っていられないという思いもあるでしょう。しかしこれだけ地方間格差がどうにもならないような状況で、道路を作れば地方が救われるなどというのは戯言です。
だいたい道路を作るという事は流動化を加速させる事です。道路をいくら造っても、売るものや人を呼び込むものが無ければ、便利さを求め空洞化を助長するだけになります。そこの青写真が無ければ、道路なんか作ったってたいしたリターンもありません。遠くの街まで通える利便性は上がるのかもしれませんから、不便さに困っている方々からすれば、当然それは嬉しい事かもしれませんが、それでは結局短期的な彌縫策に陥って、結果的にもっと悲惨な状況になる。
だからネオリベでもコーポラティズムでも小さな政府でも大きな政府でも、そんな事を問題に出来るようなたいした国じゃないのです。その前に政治家や役人の腐った感受性、ノーチェックでやりたい放題の状況、全く無能でそうしているのか、それとも私利私欲でそうしているのか知りませんが、そこをまずどうにかしないと、どの道どのような舵を切っても無駄です。そしてそれが成せる方法は一つしかありません。選挙で監視するこれだけです。
機会の平等は担保しようとしているのか?自由や市場化とか言いながら、やっているのは老人や子供のように弱い存在を、競争しろ!!自己責任だ!!という状況にしているようでは話になりません。こんな社会で誰が子供を産みたいと考えるでしょうか?守るべき所はきちんと守り、例えば役人の天下りによる企業との不透明な癒着、もしくはそれに伴う談合は人を幸せにしません。薬害が繰り返されるのもそこに問題があるわけです。
天下りにしろ、談合するにしろ、公共事業にしろ、それ自体を悪と言いたいわけではありません。やらせるのなら透明に開かれたチェックが出来る仕組みになっていなければダメです。
官僚の優秀さを本当に必要とするのなら、別にそれは咎めるべき事ではないかもしれませんが、監督していた分野の企業に天下りをすれば、どう考えたってまともに機能するわけありません。企業だって口利き以外の目的で天下りさせたって何の権益もありませんし。
それが企業の入れ替えを生み業界を活性化させるなんていう言い方も無いわけではありませんが、あまりにもネガティブな要素の方が大き過ぎます。だからそんなものをきちんとチェックも無しに、官僚の自己管理でまともな状況になど絶対になるわけない。
市場経済で何でもかんでもやっていくと、ご近所の商店街やお店が潰れていきます。潰れていけば地域は空洞化する。空洞化すれば益々不安に煽られるようになる。だから市場経済に何でもかんでも叩き込めばいいというわけではありませんが、その代わりが不透明な薄汚れた談合主義ではもっと悲惨なツケを将来に回す事になる。
元々資本主義経済の初期の段階では、アダム・スミスの言うような、自由にすれば経済は神の見えざる手によって上手くいく、政府は余計な干渉をせずに、なるべく自由にしておくべきだ、小さな政府的な考え方で世の中は上手くいく、という風に言われていました。それが所謂古典経済学と我々が知っているものの代表的な考え方でした。
供給したものは、すべて需要されるなんて言う事が言われていたりしました。セイの法則というやつです。ですから失業も絶対に有り得ないという事になります。しかし世の中はそうはならない、不景気になれば失業も出てくるし、供給すればすべて売れるなんて事は有り得ません。
常識的に考えれば、当たり前だと思いますが、それでも小さな政府、自由市場が経済を上手く回すという考えそのものが間違っているわけではありません。自由にしておくと言っても、どうしたってそれには限界があります。労働者の賃金を好き勝手に安くしたり出来ませんし、商品だって、安くすると言っても限界があります。ただ同然で安く売れば、売れる事は売れますが、それでは生活は立ち行かない。
自由な状態にしておけば市場は上手く回る、のかもしれませんが、自由な状態にすると言っても制約があり、必ず不自由な状態が生まれます。である以上、上手くいかないのは当たり前というわけです。自由な市場経済という前提が有り得ない以上、神の見えざる手によって上手くいく事もなくなってしまいます。そこで生まれたのが、ケインズの言った経済学的な、大きな政府路線が出て来るわけです。
需要を公共事業によって増やし、乗数効果を利用して経済を活性化させたり、自由にはなり得ない市場経済に介入し経済を上手く回していくという発想です。資本主義というのは必ず貧困や失業を生み出しますので、資本主義を乗り越えなければならないとマルクスが言い、共産主義や社会主義なんて言う概念も生まれます。資本主義というのは搾取や収奪もあるし、失業も避けられないし、疎外を感じる人々も出てくる。
肝腎なのはマルクスは、社会を良くする為には、資本主義を無くさなければならない、とは言いましたが、資本主義を無くせば社会はよくなる、とは言っていません。ここの所を多くのマルキストは勘違いしました。だからやっぱり上手くいかない。
共産主義や社会主義のように、競争のない社会で真面目に頑張れるほど、人間は崇高な生き物ではありませんし、国が市場に介入したり、経済を活性化させる政策を打てる権限や裁量を大きく持ちすぎてしまいますと必ず腐敗する。悪い意味での談合体質や、癒着、恣意的な政策や裁量、日本の政治家や役人、既得権益層が腐っているのを見れば、人間が愚かな生き物であるという事がよく分かります。
政治家や役人の腐れ具合は確かに問題かもしれない、しかし仮にその立場に自分が立たされたとき、彼らと同じ判断を絶対にしないと言い切る事は出来ないとわかってもいますので、その状況に国民自体腹も立つけれど、ある種の諦めも存在する。
腐敗した構造を是正したり、そうならないようなルールを作れと言ったって、是正したりルールを作ったりしている連中がそもそも腐っているのだから、そんなインセンティブ働きようがない。そこで再び、小さな政府という路線が進んだのです。アメリカではレーガン、イギリスではサッチャー、そしてこの国では表面上は、小泉、安倍路線です。
小さな政府ではどうしても上手くいかない、自由にも限界がある、だけどそこに政府が介入している状況もやっぱり上手くいない、人間は神ではありませんので、権限や裁量が与えられれば必ず堕落する人が出てくる。日本もそれによって膨大な借金と、お先真っ暗な状況、出口のない不況、政治家や役人にこれ以上好き勝手させたのでは、本当にどうにもならないのではないか。それならまだ、レッセフェールにしておいた方が、マシなのではないかという事で、小さな政府路線に舵を切らざるを得なかったわけです。
しかしそもそも小さな政府、自由市場に任せるという事自体、上手くいかないのはわかりきっている事ですから、ただ政府を小さくして、レッセフェールにしておけばいいと言うものでもありません。
あくまでも政治家や役人が強力な権限や裁量を握って好き勝手にふるまい、全くノーチェックで税金を無駄にし、私益や組織益の為にグダグダやっているよりマシだと言う次元の話でしかありません。
当然レッセフェールにすれば、まあ全然レッセフェールもクソも無く非常に恣意的なのですが、国が個人に都合良く責任を押し付けていくと、国民は当然不安に煽られます。そこにつけ込んで権益を確保し私益や組織益の為にグダグダやる為に元通りにする事を正当化しているのが現在の福田政権というわけです。
市場経済というのは、富の奪い合いです。それぞれのイニシャルエンドウメント、初期手持ち量の差異により、パレート最適化され、価格の均衡点が決まります。最初にその初期手持ち量を物理的に確保するのが国家です。
あらかじめ決められた初期手持ち量の差異を国際的に解決するのが外交であり、国内では政策という事になります。武力を持たない我が国は物理的に確保するという事は交渉力によってしか出来ません。交渉力が無いのでそれが獲得出来ない。やられたい放題。当然それが出来なければ国民に分け与えるパイは少なくなります。
交渉力を上げる為にも、国内の政策で価値を創出しなければならないわけですが、それも出来ない。己の権益ばかりに邁進し、役立たず共がこの国の国家権力でもあるわけです。
ようするにこの国で言う所のそういった方向性の話は、それ以前のチェックが全く働かない、ルールが全く機能しない所か抜け穴だらけという何とも情けない、近代国家としての体を成していない、論外の状況を許している事が何より問題です。これではどのように舵取りをしても上手く行きっこありません。
結局自民党は小泉安倍で改革をちらつかせ人気を獲得し、改革しているポーズをとり、不人気になって来たので福田が逆行をちらつかせている。ようするに小泉以前も死んでましたが、小泉以降も何もやってないという事です。ちょろちょろとやった事はあるにはありますが、その時々の空気に乗せて党首を変え、戦略までも変え、一歩も前に進んでいない、それが自民党の存続戦略なのです。
何にもやらないけれどやっているようなふりをして、後で全部元通り、あれこれやっているふりをすればいろんなステークホルダーに金が落ち、自民党は生き残ると。こんなクソ野郎どもに公を収奪されていては、我々の未来はありません。公を国民の手に取り戻すべきときです。
つづく!!
簡単に言うとネオリベラル路線と、コーポラティズム路線での綱引き合戦状態です。しかもネオリベと言ったって、アメリカのネオコン的な全くの出鱈目政策で、機会の平等を担保するなんて事はハナっからやる気も無く、たいした利権など持っていない弱者は利権をどんどん吸い取られ、市場経済に叩き込むべき所ではない部分はどんどん市場化し、肝腎の市場は公平性の全く無い、恣意性に塗れている。
この国で言われる所の、小さな政府とかストラクチュアル・リフォーム、構造改革という代物は、本来するべき改革はいっこうに進まず、官から民へというお題目によって高らかに謳われている事柄の内幕は、権限と裁量は国家権力が握ったまま、責任は民間に押し付ける、ようするに国家権力の力をただ強化する所行にすぎません。天下りもむしろ増えていますし、より巧妙になっています。年次改革要望書を従っていくなかでの利権の争奪戦になっている。
銀行や大企業を優先した政策ばかりで、特に銀行は税金まで使って救済したのに、一般の国民の生活は全然向上しない、こういった物言いがされたりもしました。日本のプラットフォームを維持しようと思えば、一般の国民や中小企業から先に救う事は確かに出来ません。まず救うべき優先順位として、銀行や大企業から救わねば、国民の生活の向上もない。もちろん救って貰っといて、国民に還元する気の無い企業は問題です。
しかし国家権力がそこから先へ国民の生活を向上させる為だとか、醜い権限や裁量による腐敗の構造を是正して、風通しを良くするとかという振る舞いは全くする気もなく、ただ単にたいした権利もない弱者の権利を吸い上げ、更に国家権力の力を強める為の政策をバンバン強行採決によって通しました。こっちは更に大問題です。
弱者救済を旗印にあげますと、やっぱりそこにも利権は生まれ腐敗に繋がりますから、闇雲に弱者救済をすればいいというわけではありませんが、少なくとも最低限、機会の平等を担保する為の政策を打つ事くらいはやってもらわなければ、自由経済と言ったって、そもそも選択肢がなければ自由もクソもありません。結果平等を担保する必要はないと思いますが、アメリカさんの都合のいい政策ばかり、国家権力に都合のいい政策をせっせと打つ事ばかりやってないで、機会の平等を担保する為に打てる政策はまだまだ沢山あります。そこには権益も絡まってますので知らん顔しているというわけです。
教育の機会が、親の収入や住んでいる場所によって埋める事の出来ない格差になっているという現状は、とっとと是正してもらわねば話になりません。不良債権を抱えた銀行は、結局、彼らの責任でそうなっているだけで、責任はちゃんと彼らにあります。そこを税金で救済しておいて、たまたま生まれた場所が地方の僻地というだけで、統廃合などによって教育の機会が担保されていない、学校に通うと言ったって、いちばん近い所が何十キロも離れた所にあったのでは選択の自由もクソもありませんし、小学生や中学生には不景気になった責任は何一つありません。
病院だって無くなるような政策しか打てない。確かに合理化という部分とバッティングするのはわかります。しかしそれをどうにか知恵を絞るのが統治権力の責務というものです。その能力も知恵も無いようなクズがそもそも統治権力者になんてなるべきではありません。闇雲に補助金バラまけと言っているのではありません。いくらでも方法はあります。
自己責任で勝手にしろというのなら、統治権力としての役目を放棄しているわけですから、そんな連中に従わなきゃいけない理由なんてもはやどこにも無い。それが要するに、小さな政府とか構造改革と言うなら勘弁してもらいたいもんだと思います。構造改革なんてそもそも、コンピューターを導入する事によって効率を高めるという程度の、企業経営論の話です。
かたやコーポラティズム、訳すと談合主義という言い方になります。非常に嫌な響きのするものですが、これは従来の官製談合を指すものではありません。しかし日本で談合主義と言うと、これしかありません。
不透明な腐りきった談合主義、利権を温存し、税金を無駄に湯水の如く使いまくり、いまだに道路だのなんだのほざいています。道路を作る事自体は否定しませんが、現在の体質では止めた方がいい。税金を単にドブに捨てるだけ、不透明な談合では乗数効果など得られるわけも無く、ただ単に政治家にキックバックとしてかえっていくだけです。
そういう腐った構造を是正するまでなんて待っていられないという思いもあるでしょう。しかしこれだけ地方間格差がどうにもならないような状況で、道路を作れば地方が救われるなどというのは戯言です。
だいたい道路を作るという事は流動化を加速させる事です。道路をいくら造っても、売るものや人を呼び込むものが無ければ、便利さを求め空洞化を助長するだけになります。そこの青写真が無ければ、道路なんか作ったってたいしたリターンもありません。遠くの街まで通える利便性は上がるのかもしれませんから、不便さに困っている方々からすれば、当然それは嬉しい事かもしれませんが、それでは結局短期的な彌縫策に陥って、結果的にもっと悲惨な状況になる。
だからネオリベでもコーポラティズムでも小さな政府でも大きな政府でも、そんな事を問題に出来るようなたいした国じゃないのです。その前に政治家や役人の腐った感受性、ノーチェックでやりたい放題の状況、全く無能でそうしているのか、それとも私利私欲でそうしているのか知りませんが、そこをまずどうにかしないと、どの道どのような舵を切っても無駄です。そしてそれが成せる方法は一つしかありません。選挙で監視するこれだけです。
機会の平等は担保しようとしているのか?自由や市場化とか言いながら、やっているのは老人や子供のように弱い存在を、競争しろ!!自己責任だ!!という状況にしているようでは話になりません。こんな社会で誰が子供を産みたいと考えるでしょうか?守るべき所はきちんと守り、例えば役人の天下りによる企業との不透明な癒着、もしくはそれに伴う談合は人を幸せにしません。薬害が繰り返されるのもそこに問題があるわけです。
天下りにしろ、談合するにしろ、公共事業にしろ、それ自体を悪と言いたいわけではありません。やらせるのなら透明に開かれたチェックが出来る仕組みになっていなければダメです。
官僚の優秀さを本当に必要とするのなら、別にそれは咎めるべき事ではないかもしれませんが、監督していた分野の企業に天下りをすれば、どう考えたってまともに機能するわけありません。企業だって口利き以外の目的で天下りさせたって何の権益もありませんし。
それが企業の入れ替えを生み業界を活性化させるなんていう言い方も無いわけではありませんが、あまりにもネガティブな要素の方が大き過ぎます。だからそんなものをきちんとチェックも無しに、官僚の自己管理でまともな状況になど絶対になるわけない。
市場経済で何でもかんでもやっていくと、ご近所の商店街やお店が潰れていきます。潰れていけば地域は空洞化する。空洞化すれば益々不安に煽られるようになる。だから市場経済に何でもかんでも叩き込めばいいというわけではありませんが、その代わりが不透明な薄汚れた談合主義ではもっと悲惨なツケを将来に回す事になる。
元々資本主義経済の初期の段階では、アダム・スミスの言うような、自由にすれば経済は神の見えざる手によって上手くいく、政府は余計な干渉をせずに、なるべく自由にしておくべきだ、小さな政府的な考え方で世の中は上手くいく、という風に言われていました。それが所謂古典経済学と我々が知っているものの代表的な考え方でした。
供給したものは、すべて需要されるなんて言う事が言われていたりしました。セイの法則というやつです。ですから失業も絶対に有り得ないという事になります。しかし世の中はそうはならない、不景気になれば失業も出てくるし、供給すればすべて売れるなんて事は有り得ません。
常識的に考えれば、当たり前だと思いますが、それでも小さな政府、自由市場が経済を上手く回すという考えそのものが間違っているわけではありません。自由にしておくと言っても、どうしたってそれには限界があります。労働者の賃金を好き勝手に安くしたり出来ませんし、商品だって、安くすると言っても限界があります。ただ同然で安く売れば、売れる事は売れますが、それでは生活は立ち行かない。
自由な状態にしておけば市場は上手く回る、のかもしれませんが、自由な状態にすると言っても制約があり、必ず不自由な状態が生まれます。である以上、上手くいかないのは当たり前というわけです。自由な市場経済という前提が有り得ない以上、神の見えざる手によって上手くいく事もなくなってしまいます。そこで生まれたのが、ケインズの言った経済学的な、大きな政府路線が出て来るわけです。
需要を公共事業によって増やし、乗数効果を利用して経済を活性化させたり、自由にはなり得ない市場経済に介入し経済を上手く回していくという発想です。資本主義というのは必ず貧困や失業を生み出しますので、資本主義を乗り越えなければならないとマルクスが言い、共産主義や社会主義なんて言う概念も生まれます。資本主義というのは搾取や収奪もあるし、失業も避けられないし、疎外を感じる人々も出てくる。
肝腎なのはマルクスは、社会を良くする為には、資本主義を無くさなければならない、とは言いましたが、資本主義を無くせば社会はよくなる、とは言っていません。ここの所を多くのマルキストは勘違いしました。だからやっぱり上手くいかない。
共産主義や社会主義のように、競争のない社会で真面目に頑張れるほど、人間は崇高な生き物ではありませんし、国が市場に介入したり、経済を活性化させる政策を打てる権限や裁量を大きく持ちすぎてしまいますと必ず腐敗する。悪い意味での談合体質や、癒着、恣意的な政策や裁量、日本の政治家や役人、既得権益層が腐っているのを見れば、人間が愚かな生き物であるという事がよく分かります。
政治家や役人の腐れ具合は確かに問題かもしれない、しかし仮にその立場に自分が立たされたとき、彼らと同じ判断を絶対にしないと言い切る事は出来ないとわかってもいますので、その状況に国民自体腹も立つけれど、ある種の諦めも存在する。
腐敗した構造を是正したり、そうならないようなルールを作れと言ったって、是正したりルールを作ったりしている連中がそもそも腐っているのだから、そんなインセンティブ働きようがない。そこで再び、小さな政府という路線が進んだのです。アメリカではレーガン、イギリスではサッチャー、そしてこの国では表面上は、小泉、安倍路線です。
小さな政府ではどうしても上手くいかない、自由にも限界がある、だけどそこに政府が介入している状況もやっぱり上手くいない、人間は神ではありませんので、権限や裁量が与えられれば必ず堕落する人が出てくる。日本もそれによって膨大な借金と、お先真っ暗な状況、出口のない不況、政治家や役人にこれ以上好き勝手させたのでは、本当にどうにもならないのではないか。それならまだ、レッセフェールにしておいた方が、マシなのではないかという事で、小さな政府路線に舵を切らざるを得なかったわけです。
しかしそもそも小さな政府、自由市場に任せるという事自体、上手くいかないのはわかりきっている事ですから、ただ政府を小さくして、レッセフェールにしておけばいいと言うものでもありません。
あくまでも政治家や役人が強力な権限や裁量を握って好き勝手にふるまい、全くノーチェックで税金を無駄にし、私益や組織益の為にグダグダやっているよりマシだと言う次元の話でしかありません。
当然レッセフェールにすれば、まあ全然レッセフェールもクソも無く非常に恣意的なのですが、国が個人に都合良く責任を押し付けていくと、国民は当然不安に煽られます。そこにつけ込んで権益を確保し私益や組織益の為にグダグダやる為に元通りにする事を正当化しているのが現在の福田政権というわけです。
市場経済というのは、富の奪い合いです。それぞれのイニシャルエンドウメント、初期手持ち量の差異により、パレート最適化され、価格の均衡点が決まります。最初にその初期手持ち量を物理的に確保するのが国家です。
あらかじめ決められた初期手持ち量の差異を国際的に解決するのが外交であり、国内では政策という事になります。武力を持たない我が国は物理的に確保するという事は交渉力によってしか出来ません。交渉力が無いのでそれが獲得出来ない。やられたい放題。当然それが出来なければ国民に分け与えるパイは少なくなります。
交渉力を上げる為にも、国内の政策で価値を創出しなければならないわけですが、それも出来ない。己の権益ばかりに邁進し、役立たず共がこの国の国家権力でもあるわけです。
ようするにこの国で言う所のそういった方向性の話は、それ以前のチェックが全く働かない、ルールが全く機能しない所か抜け穴だらけという何とも情けない、近代国家としての体を成していない、論外の状況を許している事が何より問題です。これではどのように舵取りをしても上手く行きっこありません。
結局自民党は小泉安倍で改革をちらつかせ人気を獲得し、改革しているポーズをとり、不人気になって来たので福田が逆行をちらつかせている。ようするに小泉以前も死んでましたが、小泉以降も何もやってないという事です。ちょろちょろとやった事はあるにはありますが、その時々の空気に乗せて党首を変え、戦略までも変え、一歩も前に進んでいない、それが自民党の存続戦略なのです。
何にもやらないけれどやっているようなふりをして、後で全部元通り、あれこれやっているふりをすればいろんなステークホルダーに金が落ち、自民党は生き残ると。こんなクソ野郎どもに公を収奪されていては、我々の未来はありません。公を国民の手に取り戻すべきときです。
つづく!!