世界同時株安から多少値は戻しつつも、嫌なムードの漂っている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。あれこれ文句を言いつつも、しっかり下値で拾っている三日坊主でございます。まあそんなに反発も期待出来ませんが、安売りでもあるので、ちょっと嬉しかったりもする、キャッシュな奴、現金な男でございます。
それにつけても金融リテラシーというか経済リテラシーのない方々の多さにグッタリです。普段はテレビは見ないのですが、バカなキャスターがなんて言うのか、恐いもの見たさ、笑い話になるかと思い、ニュース番組などを見ていました所、株が下がっても関係ないわ!!という街行く庶民の声を垂れ流していました。何を啓蒙したいのか意味がわかりません。
実体経済と直接関係がない、株なんてやった事無いから知らない、という方々がいったいどれくらい本当にいるのかは定かではありませんが、まあ政治家や日銀総裁があの体たらくですからしょうがないのかもしれません。
投資家はそもそも損をしても自業自得ですが選択肢があります。ヘッジをかけたりしてますから、空売りするなり、安値を拾うなり、資金を移すなりして被害を最小限にとどめる事も出来ますし、キッチリ儲けている人もいるでしょう。しかし無関係だと思っている方々は回避する選択肢もありませんし、最悪最終的には一番痛い目にあってしまったりします。もう少しそういった金の流れに対して、きちんと啓蒙出来ぬものかと言う思いでいっぱいです。
本当に必要な道路は作るべきだ!!だとか、環境の為にガソリンを安くするわけにはいかない!!とか、もはやあれこれ書くのもバカらしい様相を呈してきました。デレスケどもが多過ぎて嫌になってくる毎日であります。政治家のバカ発言や選挙目当ての彌縫策、日本の未来なんてどこ吹く風、己の責任をどうやって回避するかしか頭に無い官僚ども、そういった問題点に対して全くチェックなど働かない談合メディアのウジ虫ども、これが戦後政治の帰結かと思うとクラクラして参ります。
個別の事象にいちいちあれこれ書くのも面倒なので、細かい事はいろいろなブロガーさん達にお任せしまして、今日は思いっきり毒をまき散らしますので、ご用心を。
統治権力の腐れ具合、社保庁問題にしろ、現在のガソリン国会とか言って矮小化しているアホどもにせよ、そしてお前は仏像か!!と言いたくなるような、責任をしらっとバッくれている、奸賊、日銀及び福井にせよ、そもそもこういう連中にノーチェックで期待する事自体、ハナっから無理な話と言えば無理な話です。
彼らは国民を幸福にする為に存在するわけではないからです。国家権力の犬、もしくはそのものなわけですから、こんな連中に我々の未来を食い潰されたんじゃたまったもんじゃありません。
ナショナリズムというとアレルギー反応を起こす連中がこの国では非常に多いのですが、そもそもナショナリズムというのは国家権力に対する忠誠ではありません。日本という国に住む、国民の為の連帯であるわけです。元々は帝国主義の時代、植民地政策に抗ったアナーキスト達のインターナショナリズム、国境を越えた連帯、これがナショナリズムのそもそもの成り立ちです。
そもそも国家なんてもんはベネディクト・アンダーソンの言葉を借りれば、単なる「想像の共同体」に過ぎません。日本人とは何かを問う時に、文化、歴史、法律、それぞれの規定がありますが、これらは日本人、もしくは日本という国が実在している事を前提にしないと説明出来ません。それらは本質について何も説明していないからです。
文化的規定をしようとしても日本人と言ったって当たり前ですがいろんな人がいます。これらを一義的に定義するなんて不可能です。平均的な日本人のあり方が日本人だと言ってしまえば、日本人が誰なのかがわかっていなければ説明出来ません。文化的規定はすでに存在している日本人の特徴を説明するものでしか有り得ないのです。
歴史的規定もそうです。様々な偶然によって確定された現在の国境を、過去に向かって投影し、そこに生きた人々や起こった事件を勝手に都合よくつなぎあわせた単なるフィクションでしかないからです。
縄文人が俺は日本人だと思っているわけありませんし、例えば朝鮮半島や台湾の方々に対して戦前、何人かと問えば公の場においては彼らは日本人と答えていたでしょう。しかし今彼らは日本人ではありませんし、彼らの歴史は日本史の一部でもありません。
江戸時代だって分権化していた時代ですから、その時代に生きた人々に、何人かと問えば、薩摩人とか長州人とか会津人とか江戸っ子とかまず答えるわけで、彼らの歴史が日本史として残っているのは、今も彼らが日本人の一部として存在しているからです。歴史も日本人の本質を規定出来ません。日本人が歴史の範囲を規定しているのであって、その逆ではないからです。
法律に関しては明確な定義付けはあるにはあります。日本のパスポートを取得出来る人が日本人であるという規定です。ってことは我々の本質はパスポート程度のものによって規定されている事になります。それを持てるのか持てないのか?
しかし現実には例えば朝青龍に対するコミュニケーションなんかでもそうですが、彼の事を日本人として見ていない我々がいます。彼が日本人らしくないかどうかはわきにおいて、少なくともそうやって断罪する人々がいます。
それでその日本人らしさって、結局パスポートでしか規定出来ないのなら、彼は十分日本人です。でもそうだと表向きは認めていても、内心ではモンゴル人力士と誰しも思っているはずです。だからパスポートも所詮必要条件に過ぎません。それでは十分条件を満たすものは、言葉、日本人らしさ、日本に住んでいる年数、実に曖昧な定義付けにしかなりません。
あたかも太古の昔にその起源を持ち、今日に至るまで連綿と続いて来たと主張する、実際には出入りの激しいはずの日本人の境界を、閉ざされたものかのように装う、偶然の結果を共通の運命によってむすばれた共同体へと変える、こういった操作によって我々は日本人という主体を獲得しているのです。想像によって生み出された共同体が国家というわけです。
つまり国民の連帯という言い方も、本当は曖昧な言い方です。国民と非国民の線を引く分け方が起こってしまいがちな発想です。
だからナショナリズムとは本来、自分が大切に感じる周りの人間が不利益を被っている、国家権力と言う暴力装置によって虐げられている人々が世界中どこにもいる。それは中国人だろうがアメリカ人だろうが中東諸国の人々であろうがです。国民と言う想像の産物を煽動して利用している輩がどこにでもいる。それに対して抗うのがナショナリズムであるわけです。
まあ国民と書くのが手っ取り早いので、この後もそう書きますが、国民という言い方自体、非常に恣意性を内包した言い方だという事は自覚しておくべきでしょう。
最近ではこういったナショナリズムを全体主義的なものと区別する為に、パトリオティズムという言い方をよくします。郷土愛の心です。しかし想像の共同体とは言っても、そこで住んでいる我々の生活をどう考えても踏みにじっている輩が跳梁跋扈しています。
国家権力が握って統治のリソースとして活用するインチキナショナリズムではなく、我々の手にナショナリズムを取り戻す時なのではないかと思います。アレルギー反応もそろそろ卒業すべきときです。
ナショナリズムというのも本来は自由を取り戻し、幸福を取り戻す運動がそもそもの成り立ちなのですから、いつまでもその本質的な意味を勘違いしてアレルギー反応をしていたのでは、孤独を感じ、国家権力が作り出すインチキ・ナショナリズムという連帯に取り込まれ、柱にすがる脆弱な依存心を満足させ、官製の愛国という下駄を履く事によって孤独じゃないと錯覚してしまう方々、簡単に利用されてしまう人々を生み出す事に加担してしまいます。そこと向き合い、きちんと取り込む必要があるのではないかと感じているわけです。
右翼とか言っているくせに天皇陛下万歳なんてほざいている輩は、右翼でもなんでもありません。そしてそれを人に強要する輩なんてもんは、ただのバカです。
天皇を中心とした中央集権国家を作ったのは岩倉使節団系の連中で、そいつらは天皇の事なんて尊敬もしてなければ、単に利用していたに過ぎません。そして天皇家だって、江戸時代は仏教徒であり、神道をあがめ奉ったのも日本を近代化させる為の方便です。だから本当の愛国者なら、天皇を敬愛している人、別にそんな事はあまり気にしていない人、これらすべてをひっくるめて包摂するのが本当の愛国者ってもんです。
社会がちゃんとしても、世の中が発展しても、必ずそこからこぼれて、幸せになれない人々というのが出て来ます。そういう個人に目を向けて、そしてその幸福を踏みにじるような権力者は法を踏み越えてでもぶち殺すのが本当の右翼ってもんです。
個人から問題を立てずに、疎外を生み出す社会の問題点を考え、自由な精神を持ち、国家権力や特定の思想信条に縛られる事なく、人々の幸福の為に社会をちゃんと整えようと考えるのが左翼です。平和バカは左翼でもなんでもありません。
弱者救済を活動の為に利用しているような輩は手段が目的化している戯けです。
社会的な制度を利用し弱者をないがしろにしている連中に対してはテロでも何でも行って制裁するのが筋の通った左翼ってもんです。
警察に届け出て、警察に守られながら、看板掲げて、一般市民に迷惑をかけ、喚きながら行進するのは、やりたきゃ勝手にやればいいと思いますが、そんなものはクソの値打ちもありません。そんなこっちゃ絶対に声なんか届かない。利用されてお終いです。
やるだけ無駄だなんていう言い方をすると、じゃあ諦めろというのか、なんて言われそうですが、問題はその政治的鈍感さにあるわけです。アメリカ依存して平和主義だとほざく堕落した鈍感さ、国家権力のゆりかごの中でデモなんかやっている鈍感さに、人々は共感出来ない。例えるのなら、ヤクザに金払って街を走っている暴走族と同じで、それじゃ金払ってサーキットを走っているのと大差ない。ヤクザに尻尾ふってカッコつけても説得力がありません。
ようするに文句があったり、言いたい事があるのなら人々に共感を得られるやり方じゃなくちゃバカにされてお終いって事です。その為にナショナリズムを利用しないでどうするって事です。
何も物理的なゲヴァルトを用いて国家権力に抗えと言っているのではありません。まず己の吐いているきれいごとの背後にある怠落や堕落したマインド、鈍感さに気付く事が先決です。そういったきれいごとの御為ごかしでは動員は得られない。得られたとしても単なる理想じゃ世の中変わらない。手を汚さずにお花畑にいたのでは、本当に困っている人は救えない。手を汚してでも、現実と言う汚物に塗れてでもこうするんだ!!という意志が感じられない。
弱者救済と言っている連中がどんなに崇高なことを言っていても、資本主義のプラットフォームに乗っかって、貧しい国から踏んだくっている現実を無視して、ある部分の弱者にだけ光を当てている。例えばこれは環境問題なんかにも言える事です。
そこをどうやって救うのか言えと言っているのではありません。そこを無視していると自覚しろと言いたいわけです。自覚していればおのずとどうやって啓蒙するかも変わって来ます。
日の丸、君が代ごときの下らない問題で、どうのこうのなんてのはハッキリ言ってどうでもいい事です。あんなものは所詮薩長の設計した近代化の為の道具に過ぎません。別に好きなら敬意を評せばいいし、嫌いなら無視すればいいだけの話です。それを人に強要したりするのは右であれ左であれ、単なるクズで問題じゃありません。
別に学校で歌わされたって、心の中でどう思うかは個人の自由です。そこまではどんな圧政でも縛る事は出来ません。自由を認めろと言いながら反戦平和というイデオロギー、ある一つの価値観、不自由を強要しようとしている矛盾に気付けないバカでは永久に動員なんて得られないでしょう。
天皇陛下万歳でも、反戦平和でも、弱者救済でも、戦争責任謝罪外交でも、反日活動でも、日本の誇りを取り戻せでも、そう思いたかったらそれは自由ですから好きにすればいい。その事自体は責めるべき事ではありません。そういう事を妨げる奴は誰であろうが問題外です。そしてそれを人に強要する輩これは最悪です。
ようは何を思っていたって別に構わないが、(想像の産物であるが、確かに回りに存在する)国民同士で揉めてないで連帯を持てという事が言いたいわけであります。排除ではなく包摂、寛容、多様性、ムカつく思想信条を認める代わりでなければ自分の自由も主張出来ない。
強要する自由があるなどと考える輩がいるから厄介なんですが、強要する自由は他人の自由を侵害する自由です。他人の自由を侵害しておいて、自分の自由を主張する語義矛盾に鈍感なアホが多過ぎます。いずれにせよ人の自由を侵害しない次元においては、どんな思想信条を持とうがその事で揉めている場合ではないのです。
ただ、特定のイデオロギーを持ち出すのならせめてその本当の意味ぐらい理解したほうがいいとは思います。そうでないと、結局、政争のリソースとして利用されてしまいますから。
そして靖国参拝を個人の思想信条の自由だなどとほざく公人がいましたが、公人にはそんな権利はありません。公人が国民に保障するものです。公人である前に国民だと主張するなら、公人を辞めてから主張すべき事で、誰もなってくれなんて頼んだ覚えはないのです。勝手に成りたくてなっているくせに、都合のいい所だけ私人を持ち出して来て人気稼ぎのリソースにするような輩は問題外です。
右にせよ左にせよ国民的な連帯、即ちナショナリズムに立脚しなければ上手く行きません。全体主義のナショナリズムじゃなくて、国民的な連帯、国民の為の愛国という意味においてのナショナリズムです。そして有史以来統治権力を国民がコントロール出来たものというのは、このナショナリズム以外にありません。
つづく!!
それにつけても金融リテラシーというか経済リテラシーのない方々の多さにグッタリです。普段はテレビは見ないのですが、バカなキャスターがなんて言うのか、恐いもの見たさ、笑い話になるかと思い、ニュース番組などを見ていました所、株が下がっても関係ないわ!!という街行く庶民の声を垂れ流していました。何を啓蒙したいのか意味がわかりません。
実体経済と直接関係がない、株なんてやった事無いから知らない、という方々がいったいどれくらい本当にいるのかは定かではありませんが、まあ政治家や日銀総裁があの体たらくですからしょうがないのかもしれません。
投資家はそもそも損をしても自業自得ですが選択肢があります。ヘッジをかけたりしてますから、空売りするなり、安値を拾うなり、資金を移すなりして被害を最小限にとどめる事も出来ますし、キッチリ儲けている人もいるでしょう。しかし無関係だと思っている方々は回避する選択肢もありませんし、最悪最終的には一番痛い目にあってしまったりします。もう少しそういった金の流れに対して、きちんと啓蒙出来ぬものかと言う思いでいっぱいです。
本当に必要な道路は作るべきだ!!だとか、環境の為にガソリンを安くするわけにはいかない!!とか、もはやあれこれ書くのもバカらしい様相を呈してきました。デレスケどもが多過ぎて嫌になってくる毎日であります。政治家のバカ発言や選挙目当ての彌縫策、日本の未来なんてどこ吹く風、己の責任をどうやって回避するかしか頭に無い官僚ども、そういった問題点に対して全くチェックなど働かない談合メディアのウジ虫ども、これが戦後政治の帰結かと思うとクラクラして参ります。
個別の事象にいちいちあれこれ書くのも面倒なので、細かい事はいろいろなブロガーさん達にお任せしまして、今日は思いっきり毒をまき散らしますので、ご用心を。
統治権力の腐れ具合、社保庁問題にしろ、現在のガソリン国会とか言って矮小化しているアホどもにせよ、そしてお前は仏像か!!と言いたくなるような、責任をしらっとバッくれている、奸賊、日銀及び福井にせよ、そもそもこういう連中にノーチェックで期待する事自体、ハナっから無理な話と言えば無理な話です。
彼らは国民を幸福にする為に存在するわけではないからです。国家権力の犬、もしくはそのものなわけですから、こんな連中に我々の未来を食い潰されたんじゃたまったもんじゃありません。
ナショナリズムというとアレルギー反応を起こす連中がこの国では非常に多いのですが、そもそもナショナリズムというのは国家権力に対する忠誠ではありません。日本という国に住む、国民の為の連帯であるわけです。元々は帝国主義の時代、植民地政策に抗ったアナーキスト達のインターナショナリズム、国境を越えた連帯、これがナショナリズムのそもそもの成り立ちです。
そもそも国家なんてもんはベネディクト・アンダーソンの言葉を借りれば、単なる「想像の共同体」に過ぎません。日本人とは何かを問う時に、文化、歴史、法律、それぞれの規定がありますが、これらは日本人、もしくは日本という国が実在している事を前提にしないと説明出来ません。それらは本質について何も説明していないからです。
文化的規定をしようとしても日本人と言ったって当たり前ですがいろんな人がいます。これらを一義的に定義するなんて不可能です。平均的な日本人のあり方が日本人だと言ってしまえば、日本人が誰なのかがわかっていなければ説明出来ません。文化的規定はすでに存在している日本人の特徴を説明するものでしか有り得ないのです。
歴史的規定もそうです。様々な偶然によって確定された現在の国境を、過去に向かって投影し、そこに生きた人々や起こった事件を勝手に都合よくつなぎあわせた単なるフィクションでしかないからです。
縄文人が俺は日本人だと思っているわけありませんし、例えば朝鮮半島や台湾の方々に対して戦前、何人かと問えば公の場においては彼らは日本人と答えていたでしょう。しかし今彼らは日本人ではありませんし、彼らの歴史は日本史の一部でもありません。
江戸時代だって分権化していた時代ですから、その時代に生きた人々に、何人かと問えば、薩摩人とか長州人とか会津人とか江戸っ子とかまず答えるわけで、彼らの歴史が日本史として残っているのは、今も彼らが日本人の一部として存在しているからです。歴史も日本人の本質を規定出来ません。日本人が歴史の範囲を規定しているのであって、その逆ではないからです。
法律に関しては明確な定義付けはあるにはあります。日本のパスポートを取得出来る人が日本人であるという規定です。ってことは我々の本質はパスポート程度のものによって規定されている事になります。それを持てるのか持てないのか?
しかし現実には例えば朝青龍に対するコミュニケーションなんかでもそうですが、彼の事を日本人として見ていない我々がいます。彼が日本人らしくないかどうかはわきにおいて、少なくともそうやって断罪する人々がいます。
それでその日本人らしさって、結局パスポートでしか規定出来ないのなら、彼は十分日本人です。でもそうだと表向きは認めていても、内心ではモンゴル人力士と誰しも思っているはずです。だからパスポートも所詮必要条件に過ぎません。それでは十分条件を満たすものは、言葉、日本人らしさ、日本に住んでいる年数、実に曖昧な定義付けにしかなりません。
あたかも太古の昔にその起源を持ち、今日に至るまで連綿と続いて来たと主張する、実際には出入りの激しいはずの日本人の境界を、閉ざされたものかのように装う、偶然の結果を共通の運命によってむすばれた共同体へと変える、こういった操作によって我々は日本人という主体を獲得しているのです。想像によって生み出された共同体が国家というわけです。
つまり国民の連帯という言い方も、本当は曖昧な言い方です。国民と非国民の線を引く分け方が起こってしまいがちな発想です。
だからナショナリズムとは本来、自分が大切に感じる周りの人間が不利益を被っている、国家権力と言う暴力装置によって虐げられている人々が世界中どこにもいる。それは中国人だろうがアメリカ人だろうが中東諸国の人々であろうがです。国民と言う想像の産物を煽動して利用している輩がどこにでもいる。それに対して抗うのがナショナリズムであるわけです。
まあ国民と書くのが手っ取り早いので、この後もそう書きますが、国民という言い方自体、非常に恣意性を内包した言い方だという事は自覚しておくべきでしょう。
最近ではこういったナショナリズムを全体主義的なものと区別する為に、パトリオティズムという言い方をよくします。郷土愛の心です。しかし想像の共同体とは言っても、そこで住んでいる我々の生活をどう考えても踏みにじっている輩が跳梁跋扈しています。
国家権力が握って統治のリソースとして活用するインチキナショナリズムではなく、我々の手にナショナリズムを取り戻す時なのではないかと思います。アレルギー反応もそろそろ卒業すべきときです。
ナショナリズムというのも本来は自由を取り戻し、幸福を取り戻す運動がそもそもの成り立ちなのですから、いつまでもその本質的な意味を勘違いしてアレルギー反応をしていたのでは、孤独を感じ、国家権力が作り出すインチキ・ナショナリズムという連帯に取り込まれ、柱にすがる脆弱な依存心を満足させ、官製の愛国という下駄を履く事によって孤独じゃないと錯覚してしまう方々、簡単に利用されてしまう人々を生み出す事に加担してしまいます。そこと向き合い、きちんと取り込む必要があるのではないかと感じているわけです。
右翼とか言っているくせに天皇陛下万歳なんてほざいている輩は、右翼でもなんでもありません。そしてそれを人に強要する輩なんてもんは、ただのバカです。
天皇を中心とした中央集権国家を作ったのは岩倉使節団系の連中で、そいつらは天皇の事なんて尊敬もしてなければ、単に利用していたに過ぎません。そして天皇家だって、江戸時代は仏教徒であり、神道をあがめ奉ったのも日本を近代化させる為の方便です。だから本当の愛国者なら、天皇を敬愛している人、別にそんな事はあまり気にしていない人、これらすべてをひっくるめて包摂するのが本当の愛国者ってもんです。
社会がちゃんとしても、世の中が発展しても、必ずそこからこぼれて、幸せになれない人々というのが出て来ます。そういう個人に目を向けて、そしてその幸福を踏みにじるような権力者は法を踏み越えてでもぶち殺すのが本当の右翼ってもんです。
個人から問題を立てずに、疎外を生み出す社会の問題点を考え、自由な精神を持ち、国家権力や特定の思想信条に縛られる事なく、人々の幸福の為に社会をちゃんと整えようと考えるのが左翼です。平和バカは左翼でもなんでもありません。
弱者救済を活動の為に利用しているような輩は手段が目的化している戯けです。
社会的な制度を利用し弱者をないがしろにしている連中に対してはテロでも何でも行って制裁するのが筋の通った左翼ってもんです。
警察に届け出て、警察に守られながら、看板掲げて、一般市民に迷惑をかけ、喚きながら行進するのは、やりたきゃ勝手にやればいいと思いますが、そんなものはクソの値打ちもありません。そんなこっちゃ絶対に声なんか届かない。利用されてお終いです。
やるだけ無駄だなんていう言い方をすると、じゃあ諦めろというのか、なんて言われそうですが、問題はその政治的鈍感さにあるわけです。アメリカ依存して平和主義だとほざく堕落した鈍感さ、国家権力のゆりかごの中でデモなんかやっている鈍感さに、人々は共感出来ない。例えるのなら、ヤクザに金払って街を走っている暴走族と同じで、それじゃ金払ってサーキットを走っているのと大差ない。ヤクザに尻尾ふってカッコつけても説得力がありません。
ようするに文句があったり、言いたい事があるのなら人々に共感を得られるやり方じゃなくちゃバカにされてお終いって事です。その為にナショナリズムを利用しないでどうするって事です。
何も物理的なゲヴァルトを用いて国家権力に抗えと言っているのではありません。まず己の吐いているきれいごとの背後にある怠落や堕落したマインド、鈍感さに気付く事が先決です。そういったきれいごとの御為ごかしでは動員は得られない。得られたとしても単なる理想じゃ世の中変わらない。手を汚さずにお花畑にいたのでは、本当に困っている人は救えない。手を汚してでも、現実と言う汚物に塗れてでもこうするんだ!!という意志が感じられない。
弱者救済と言っている連中がどんなに崇高なことを言っていても、資本主義のプラットフォームに乗っかって、貧しい国から踏んだくっている現実を無視して、ある部分の弱者にだけ光を当てている。例えばこれは環境問題なんかにも言える事です。
そこをどうやって救うのか言えと言っているのではありません。そこを無視していると自覚しろと言いたいわけです。自覚していればおのずとどうやって啓蒙するかも変わって来ます。
日の丸、君が代ごときの下らない問題で、どうのこうのなんてのはハッキリ言ってどうでもいい事です。あんなものは所詮薩長の設計した近代化の為の道具に過ぎません。別に好きなら敬意を評せばいいし、嫌いなら無視すればいいだけの話です。それを人に強要したりするのは右であれ左であれ、単なるクズで問題じゃありません。
別に学校で歌わされたって、心の中でどう思うかは個人の自由です。そこまではどんな圧政でも縛る事は出来ません。自由を認めろと言いながら反戦平和というイデオロギー、ある一つの価値観、不自由を強要しようとしている矛盾に気付けないバカでは永久に動員なんて得られないでしょう。
天皇陛下万歳でも、反戦平和でも、弱者救済でも、戦争責任謝罪外交でも、反日活動でも、日本の誇りを取り戻せでも、そう思いたかったらそれは自由ですから好きにすればいい。その事自体は責めるべき事ではありません。そういう事を妨げる奴は誰であろうが問題外です。そしてそれを人に強要する輩これは最悪です。
ようは何を思っていたって別に構わないが、(想像の産物であるが、確かに回りに存在する)国民同士で揉めてないで連帯を持てという事が言いたいわけであります。排除ではなく包摂、寛容、多様性、ムカつく思想信条を認める代わりでなければ自分の自由も主張出来ない。
強要する自由があるなどと考える輩がいるから厄介なんですが、強要する自由は他人の自由を侵害する自由です。他人の自由を侵害しておいて、自分の自由を主張する語義矛盾に鈍感なアホが多過ぎます。いずれにせよ人の自由を侵害しない次元においては、どんな思想信条を持とうがその事で揉めている場合ではないのです。
ただ、特定のイデオロギーを持ち出すのならせめてその本当の意味ぐらい理解したほうがいいとは思います。そうでないと、結局、政争のリソースとして利用されてしまいますから。
そして靖国参拝を個人の思想信条の自由だなどとほざく公人がいましたが、公人にはそんな権利はありません。公人が国民に保障するものです。公人である前に国民だと主張するなら、公人を辞めてから主張すべき事で、誰もなってくれなんて頼んだ覚えはないのです。勝手に成りたくてなっているくせに、都合のいい所だけ私人を持ち出して来て人気稼ぎのリソースにするような輩は問題外です。
右にせよ左にせよ国民的な連帯、即ちナショナリズムに立脚しなければ上手く行きません。全体主義のナショナリズムじゃなくて、国民的な連帯、国民の為の愛国という意味においてのナショナリズムです。そして有史以来統治権力を国民がコントロール出来たものというのは、このナショナリズム以外にありません。
つづく!!