前回の続きです。

そこで個性の問題に還ります。学校というのは元々、生徒を集めて1対多数で教育をする場ですから、個性を養うべき場所では本来であればありません。というか現状の学校制度では不可能です。先生に押し付けるのには無理がある。それじゃ家庭が悪い、親がバカだからけしからんという言い方がありますが、そこにも自分は組みしたくないわけです。確かにそういう親はいるでしょう。でもそんなの昔からいるわけです。昔の方がもっと理不尽な暴力や飲んだくれのオヤジというのがいたわけです。

学校の先生や親がバカだからけしからんというのは、確かにそうかもしれませんが、そんな事を言ってもどうにもなりませんから、そうであっても上手く機能する教育というものが必要なんだろうと思うわけです。今の時代は学校や親が子供を囲っています。だから教師や親がバカだと子供は逃げ場が無い。それをどうやってサルベージして、どうやってまともな教育を施すのかという事が最大の問題だと思うわけです。バカに向かってバカと言っても、簡単に直る事じゃありませんから、悪者を断罪していてもしょうがありません。スッキリするかもしれませんが問題は変わらない。

家庭や学校というのは、昔はもっと自由を抑圧する要素に溢れていた。家の稼業を継げと束縛されたり、オヤジに逆らえばぶん殴られたり、門限が厳しかったり、いろいろ束縛があった、学校にしろ、校則だの管理教育だの暴力教師だのと、今よりは全然抑圧的です。

体罰っつったって、昔の体罰はハンパじゃありませんでした。それこそボコボコにぶっ飛ばされるわけです。先生のストレス解消的なはけ口として。今はそういうものが緩和されているにもかかわらず、相変わらず個性、個性と騒いでいます。個性なんて誰でも持っているにもかかかわらずです。なぜか?

これは犯罪のところで触れた承認不足ともかぶるのですが、学校と家庭以外の共同体が空洞化した事によって、子供達の学びのチャンスが無くなってしまったからでもあります。

例えば昔はゲーセンというのが暗いうらぶれた空間でした。恐いお兄さんがたくさんいた。でもガキンチョはそういうところに行ってみたいと思ったりするわけです。当然親も学校もそんなところに行っちゃ駄目よと教育する、でも子供はそんな事は聞かない。地元商店街的なものや、駄菓子屋みたいなものがあって、怪しげな食い物を買い食いしたり、いたずらして、追っかけられたり、いろいろな濃密な体験があったわけです。

近所の空き地的なところで行われていたコミュニケーション、例えば基地を作るだとか、焚き火をするとか、そういうものが危険だと言うのもあり、どんどん希薄化していき経験によって個性を養う場所というのがどんどん無くなってしまった。親が厳しくとも、親族のうちに一人くらいはロクでもないおじさんみたいな、例えば飲んだくれの能天気な人がいたりした。そういう人が、まあまあ厳しい事言うなよ、いいじゃねえか別に、みたいな感じで、今よりも抑圧的であった家庭や学校でも、子供達の逃げ場というのがあった。裏町というのがあったわけです。そういうところで個性を養ったり、承認を得たりしていたわけです。学校や家庭で厳しい枠組みで一律に管理されていても、その抑圧を吐き出す場所というものがあった。しかしそういうものが段々無くなっていきます。

今から考えると、自分がガキンチョの頃などは相当きわどい遊びをしていました。たまに誰かが大けがしたりして、危険を学んでいたわけです。極端な言い方をすれば子供というのは死と戯れる遊びが大好きで、それによって経験値を積み大人になっていったわけです。

親達は善かれと思ってそうしたのかもしれません。確かに危険だと言う理由はわかります。しかし程度というものがある、やりすぎはかえってよくありません。潔癖主義的な断固対処が事をややこしくします。やわで脆弱にしかなりようが無い。

そうでなくとも、街並はコンビニやファミレスのように入れ替え可能の、どこに行っても同じような景色になり、裏町的なものはことごとく無くなり、地元商店街にあったような濃密なコミュニケーションはシャッター街になった事によって、完全に失われ、学校や家庭以外で補っていた子供の居場所、経験の場所、息抜きの場所が無くなりました。だから学校や家庭がそれを補わなければならなくなって、今のように大騒ぎしているわけです。それで結局何をしているのかと言えば子供達の息抜きの場所でもある携帯まで規制しようとしています。

それと全く平行するかのように、昔は兄弟が、テレビをみている傍らで勉強していたりしていたものが、どんどん個室化していく事によって、テレビが一人一台になっていきます。それに対応して深夜番組が増えていき、テレビの内容が親と一緒では見られないような内容に過激になっていきます。過激になった事と子供の過激な事件というのはあんまり関係ないので、こういうところには敏感になる必要はありませんが、何が言いたいのかと言いますと、学校や家庭の外にしかなかった子供の居場所というのが失われていくのと同時進行で、自室に引きこもる事によって快適な空間を担保するという方向にシフトしているわけです。

元々ソニーがウォークマンを開発した時からどんどん変わって来たわけですが、今や携帯や携帯ゲーム、iPodのような、個室にいるのと変わらないような快適さをいつでもどこでも担保出来る社会になってしまいました。

こうなると積極的に現実世界で外部とコミュニケーションをして経験を積むという事に対して動機付けが生まれなくなって来ます。別にそんな事しなくても生きて行けるというわけです。しかしこれは当たり前ですが弊害があります。どんなに実りがなくても、やっぱり外部とのコミュニケーションというのは不必要にはなり得ないからです。もちろん近い将来全くそういうものが必要なくなる社会になる可能性はありますが、少なくても現段階ではまだその時ではない。

携帯にしろパソコンにしろ、それなりに濃密な体験やコミュニケーションにはなるでしょうが、やっぱりそこでは名前のない匿名の存在である自分への承認ですから、現実の承認不足や経験不足を補う事は出来ますが代わりにはならない。にもかかわらずそれなりに魅力があるので、現実社会のくだらなさに対して何かをしようというインセンティブがなくなっていく。現実世界も実際に入れ替え可能な景色ばかりになり、濃密な体験や承認も得られないわけですから、外部に出て行く必然性もなくなってしまっているわけです。居場所がそこにあってそれなりに快適で、携帯やパソコンである程度補えるわけですから当然です。

大人というのは酒飲んだり博打やったりと、まあいろいろ日常から一時逃げ込む場所というのがあります。もちろん母親にもそれはある。しかし母親の場合はそれが確実に担保されていません。特に専業主婦ともなれば、そういうはけ口的なものがご近所付き合いみたいなものになってしまう。そこに適応出来ればいいのですが、これが適応出来ても多かれ少なかれストレスを感じたりするわけです。そうなるとはけ口が子供に向くわけです。子供の教育に熱心になったり、必要以上に期待をするようになる。これに答えなきゃならない子供は更にストレスを抱えます。それに子供の逃げ場というのがどんどん無くなってしまった。

だからバイトをしたりするくらいならいいのですが、一時問題になった援助交際なんていうのは、こういう逃げ場をきれいサッパリ取っ払ってしまったが為に、子供の行き着く場が無くなった事によって、流れていったわけです。ヒステリックに煽られて、善かれと思って何でもかんでも規制したり取っ払ったりすると還ってやぶ蛇になるといういい見本です。

こういう社会状況を見た上で制度設計をしないとどうにもならないのですが、人々は不安に煽られ、欲望を惹起され、それに媚びるメディアや政治家に踊らされている。学校や家庭だけでその穴埋めをするのは困難です。何度も言いますが学校には個性を伸ばす事とはバッティングする側面がどうしてもある。現行の学校の制度というかあり方自体を考えなきゃならないのですがそれがいっこうに進まない。

個性なんてもんは放っといてもどうにかなるので、本当は個性云々なんかより、承認不足にさらされて生きねばならない子供達は結構キツい状況に生きています。こっちの方が大問題です。

簡単に言えば勉強ができるから、頑張っているから、お利口だから、親もしくは教師に承認される。しかしこれは条件付きの承認です。勉強ができるから承認されるという事は、非承認と同じです。つまり誰でもいいと言われているのと同じなわけです。これは大人であってもそうです。良きお父さんという事を承認されている父親、同じく母親、会社での仕事ぶりに対する承認。面白いから、可愛いから、頭がいいから、金持っているから、と、条件付きの承認。

恋人なんかでもそうです。お互いを干渉しない、距離が大切なんていう下らない関係がいいんだ的になってますが、こんなのは干渉しなければ誰でもいいと言っているのと変わりません。クソみたいなもんです。ちょっとした事で傷ついたとか傷つけられたとか騒ぐ脆弱さ、本当に大切な存在であるなら、傷つこうがなんだろうが、この関係が大切なんだというのが本当の恋愛であるはずです。だから当然満たされるわけもない。単なるマスターベーションになっているというわけです。異性と付き合うという事は相手を承認し、そして承認がされたくて付き合うわけです。なのにそれが得られなければ、誰と付き合ったって同じ結果に辿り着きます。恋人であれ子供であれ、家族であれ、無条件の承認、というのが空洞化している。これが最大の問題なのです。

入れ替え可能な社会は役割とマニュアルが支配する社会ですから、その役割と、マニュアルに従う人間なら誰でもいい社会です。条件を承認されているだけで、入れ替え不可能のその人個人を承認するというコミュニケーションの作法が無くなってしまった。そしてもちろんそういう疎外や承認不足を感じていても、大人はそのはけ口があります。酒飲んだり、子供に依存して期待したりと。

しかし子供はそういうものがない、部屋に引きこもるしかない、携帯や携帯ゲームのようなものに引きこもるしかない社会になっているわけです。匿名の名前のない存在としての承認がそれを補っていても、結局は入れ替え不可能な自分の人格が承認されているわけではありませんので、代わりにはならない。これがそのまんま経験値を積んで、個性を伸ばすという事が出来にくい社会になってしまっている事に直結するわけです。

お前はたかだかお前だけれど、かけがえのない存在だ、という承認が不足している。かけがえがないのは、勉強を一生懸命頑張るから?言う事を聞くから?お利口だから?そういう関係性になっているわけです。

これが学校や家庭の間に共同体が存在した頃は、近所のおっちゃんに怒られたり、追いかけられたり、誰々さん家の何々ちゃん、という入れ替え不可能な人格をみんなが共有していたわけです。親が教育ママだろうが、学校が管理教育だろうが、暴力教師だろうが、それでも十分承認は補えた。親戚のアウトローなおじちゃんが、まあまあ固ぇ事いうなよ、ってな感じで煮詰まった状態をアイロニー化すると言うかバラす役割を担っていたりしたわけです。そういうものがすっからかんになって、経験値を獲得する場所がどんどん排除されていて、個性を養えと言っても無理がある。

もうそういうコミュニケーションしか知らない世代というのは、そういうもんだと感じてそれなりに対処している。傷つかないように、友達とも親友であっても距離をとり、本音の自分は見せられず、ブログや掲示板的なコミュニケーションが現実世界まで浸食している。キャラを演じ、時と場所で使い分ける。学校では学校の自分、友達の間での自分、家族の中での自分、それぞれの自分像に引き裂かれて、はけ口が外部に無い。

次回につづく!!