前回の続きにて候!!
人命尊重や弱者救済という言葉は結局の所、単なるお題目に過ぎません。我々はすでに命の重さを恣意的な線を引いて選別している世界に生きています。命の価値が平等だなどというのは嘘です。
だから感情論でこういう事を問題にすると、その個人が救済されて話はお終いという事になってしまう。なぜなら我々は命の選択をしている社会に生きているからです。生き物をぶち殺してその死体を食い、大切な命を奪って生きているどころか、それを捨ててさえいる。貧しい国に住む子供が生まれた瞬間に死んでいったり、エイズでどんどん死んでいったりする構造の上に乗っかって、搾取、収奪し、大量消費社会を満喫して我々は暮らしています。
命に意味があって大切なのだとしたら、そういう人々の命と我々先進国に住む命が平等だと言えるでしょうか?
命なんてもんは生まれただけでは何の価値も意味もありません。それがあるとすればこの違いはなんでしょう。あるのは単に運が良いか悪いかそれだけです。意味を持つ事があるとすればどう生きるかにかかっています。
意味のないものに意味がもともとあるのだなんてくだらない啓蒙をするから人は迷うわけです。そんなものは磨いていってなんぼのもんです。
きっかけがあれば自分も変われるはずだと夢想する人々に希望を与える為に、きっかけはなんですか?という事を成功者に尋ねるコミュニケーションが横行していますが、きっかけのおかげではなく、その人がその目標に向かって科学的に努力し鍛錬したからに他なりません。
きっかけは単なるきっかけでしかないのです。自分がダメなのはきっかけが無いからだと言い訳をしている人間に本当に必要なのはきっかけではありません。そんなものを求め己の脆弱な依存心に言い訳をするようなメンタルが問題なのです。
こういうコミュニケーションの延長線上に、誰に対してもアラを探す。己が汚れているという事を知ってか知らずか、他者や祭り上げられた人のアラを探し、ほらアイツも所詮汚れている、偉そうな事を言っているけど所詮そんなものだよ、と言った風に貶める。ちょっとアラが見つかるとみんなで叩きのめす。偉そうにしている人間を貶めてカタルシスを得る。
命に意味があるとか、人間の命は尊いとか教えたあげく、意味の無い人生を送っているように感じたり、尊くない人生を歩んでいると感じる人々にはルサンチマンが蓄積する、だから他人を貶めてスッキリする。アイツも俺達と所詮変わらないんだというエビデンスが欲しくなる。人間なんてくだらないと。
しかしこれは当然で人間なんて誰でもくだらなさを持っている。情けなさを誰でも持っている。目先の利益に右往左往したり、人の評価が気になって仕方がなかったり、異性にモテたくてうずうずしていたり、誰かに嫉妬を感じてしまったり、そんな事は恥ずべき事でもなんでもない。
恥ずべきなのは、そのくだらなさに対する寛容さのない事、そしてそれで他者にどれだけ迷惑をかけているのかという度合いによるものです。愛する人や親しい人に自分の醜い部分を見せてしまったとき、それに対する申し訳なさを感じる事が出来るか。そして当然それで人に多大な迷惑をかけるような事になれば、場合によっては罰を受けるわけです。
この国では役人の不作為かなんだか知りませんが、仮にもそれで多くの人が被害を受ける事にいたっても、責任者が責任をとらないどころか彼らを罰する法律も整備されていないし、彼らの公正さを担保するチェック&バランスのシステムもない。
バケツの上部で目の細かい濾し網で濾すような事をしていながら、バケツの底が思いっきり抜けていて、水がじゃんじゃん流れ出ているような状況、昔は濾し網の目は今よりは多少荒く、底に多少穴が開いていても、水がちょろちょろ流れ出ているに過ぎなかったこの国のアーキテクチャーは、今や完全に底が抜けきって全く底のない状態、そして中身がどんどん流れ出てしまいすっからかんの状態になってしまっている。
そういう底の抜けた、足の引っ張りあいの構図で強者には矛先が向かないシステムになっている。厚労省の役人や政治家をいくら貶めて笑っても彼らは痛くも痒くもないし、何の罰もお咎めも受けない。人間のくだらなさを感じさせる事によってガス抜きになってしまう。
厚労省の問題点や、防衛省の問題点なんて薄々気付いている人が増えていても、絶対に深い闇まで追求する事なんて有り得ないと諦めている。守屋の後ろに小泉純一郎、飯島秘書官ラインが隠れているのを知っていても、どうせそこまで行きっこ無いと諦めてしまう。
旧経世会の防衛族の現防衛大臣だって、防衛族である久間、額賀だって、それ以外の閣僚、総理大臣だって、こういう構造や自分達が散々貪ってきた利権を知らないはずは無い。山田洋行や日本ミライズの問題だけでない事くらい誰でもわかる、にもかかわらず絶対に深い闇までは届くはずも無いと国民は諦めている。
バカなメディアがきれい事を吐き、たいした権益のない存在を、自らの立ち位置に気付かないのか知らん顔しているのか知りませんが、徹底的に叩き厚顔無恥に振る舞う。人々は寛容さを忘れ、自分達と同じ汚れた存在であるにもかかわらず、もしくは自分達の汚れた部分を見もせずに、抜け駆けをしている奴にたえず目を光らせ、ちょっと汚れているとアイツはもう終わった、汚れたと烙印を押す。
しかし本当に汚れている存在、それによって他者に多大な迷惑をかけ続けている存在に対しては無力でもあるので諦めが生じる、この社会に貢献したり真面目に頑張ったりする事が尊いと、子供の頃から叩き込まれながら、一方で弱肉強食の世界をまざまざと見せつけられ、他者を蹴落とせ、足を引っ張れと教育もされる。
そしてこの社会に貢献したり頑張ったりする事が実りがあって、その先に希望や善き社会というのを語ったり、ビジョンを見せる事が出来るのなら、社会に貢献する事が意味があるのだと教える事も出来るが、この社会がそもそも実りもなく公正さも期待出来ないような社会になっていれば、ソシアルコストを払えとか、パブリック・コントリビューションしろとか、言ったって、どうせ腐った社会、そんな事したってやるだけ無駄だ、という風になってしまうのも当然の帰結で、社会の底が抜けきってスッカラカンの状況では、そんな事ない、頑張れば報われるという言葉で動機付けようとしたって全然歯が立たない。
かつてはあると信じられていた、公正さ、ジャスティスがどこを見渡しても無くなってしまっている。結局は恣意的な線引きでありアドホックな視座であり、簡単に足場は崩れ、あっという間に貶められてしまう。夢や希望、そして求めていく社会の姿というのを誰も信じていない。どうせ無駄だと諦めてしまっている。従来のヒューマニズムや弱者救済のビジョンでは人々を動機付け出来ない。
そういう構造は少し考えれば誰にでもわかる事です。だから感情的に吹き上がりガス抜きとしてスッキリしてしまうと、正義を振りかざす我々自身もそんな事を言えるのか?という問題が降り掛かってくる。そうすると構造は温存され同じ事を延々と繰り返すシステム、歴史という歯車に絡めとられてしまう。
みんな仲間、平等、平和を謳ったあげく、平等ではない社会に引き裂かれ、平和ではない社会に引き裂かれる。仲間というのは敵という概念が無いと確認出来ない記号です。だから敵を作り出して線を引く社会にどんどん突き進んでいる。
平和というのは混乱状態が無ければ認識出来ません。平和が当たり前ではありがたみも消えてしまいます。だから傷つけあわないと確認出来なくなってしまう。現に平和と呼ばれる社会である日本、それほど多くの人が幸福を感じて生きているでしょうか?人間は現状では満足出来ない生き物です。ここではないどこかを必ず求めて止まない。
希望というのは絶望を知らなければ認識出来ません。絶望する事も無く単に諦めている世界では希望なんて絶対に芽生えない。
安心安全というのは、不安を知らないと確認出来ません。これ以上無い安心安全に囲まれていてもヒステリックに不安を探し出し恐怖におののいていないと、自分達が安心安全かどうか確認出来なくなって麻痺してしまう。だから禁断症状のように不安を求めたえず立ち位置を確かめていないと、安心で安全なのかどうかわからなくなってしまう。
自由というのは不自由を認識しないと確認出来ません。生まれた時から自由だと教育されたあげく、物理的な無軌道な自由に落ち込み結果的に何も出来ない状況になっている。自由だと言われてもアイデンティティの確立も出来ないし寄る辺も無いので、不自由な精神的支えに帰依するという生き方に帰結してしまったりもする。
底の抜けた公正さや正義、そして未来への救済のビジョンのない社会では、何も信用出来ないし足場は簡単に崩れる、そうすると簡単には揺らがない柱や精神的な支えを求め待望するというメンタリティに簡単に直結する。潔癖主義的断固決然バカに簡単に騙されてしまう。
しかしまだそういう単純なきれい事の簡単にメッキのはげる輩であればすぐに汚れているという烙印を押され貶められるからマシですが、汚れているというフィンガー・ポインティングの全く通じない相手も出てくる。これが一番厄介です。
そもそも俺は汚れているし人間の醜さ情けなさも知っている、だけどどうしても許せない輩がいるだろ、そいつらこそが敵だ、抵抗勢力だ!!という言葉に簡単に引っかかってしまう。
抵抗勢力とやらは抜け道を用意しており、国民は利用されたあげく自分達の首を自分達で絞めている。
国民同士の連帯に、悪者はだれだ?という分断が起こり強者には決してその刃は向かないし、向いても何の効力も持たないものになってしまった。
この汚れているという烙印の通じない輩に簡単に人は騙される。騙されたがっている。人々の感情にさおさし悪者を指差してくれる柱にコロッと騙される。何を言っているのかという事ばかりに目が行き、何をしているのかという所には目がいかない。
弱者救済が問題なのではありません。ルールの恣意的な適用を利用したり、そういう構造を利用して利権を貪っている人間が永久に勝ち続けるシステムが問題なのです。本当は弱者を救済出来る社会を目指す方がいいに決まっていますが、この構造に手を入れるのは簡単な話ではない。
まずは適応可能であり、抜け道を恣意的に利用させないようなルールの構築、そしてそれの運用、第三者のチェック&バランスが機能し、そういう(とりあえずの)公正さを担保したシステムにした上でないとその先を論じても虚しい話になってしまいます。
そういう意味ではこの国のルールやその運用、そしてそのチェックシステムは全く機能しておらず、たいした権益も持っていない対象に向かって重罰化で対処するという社会に舵を切っています。未成年のガキンチョにまで、未成年?そんなの知るか!徹底した重罰化で取り締まれ!!ってな社会になりつつあります。
性善説、性悪説なんて話はこの際あまり意味の無い話です。そんな事はどっちだって構わないと言うか論じるだけ時間の無駄です。なぜなら今の社会の現状を見てみろという事です。現時点で機能していない、チェックシステムが無い、本当の問題点は温存され、たいした権益も握っていない人間にばかり法の矛先が向いている。
正義か悪者かという構図も意味がありません。そんな事はどうでもいいのです。ちゃんとルールが機能していない事が問題なのです。感情論に絡めとられると、こういう構造はいつまでたっても変わりっこありません。
なぜならルールを無視している人間が悪者かと言えば、誰でもそういう目先の利益を欲したり、邪悪な心を少なからず持っているからです。だからヘタをするとルールを逸脱しているけれど悪い人じゃないというコミュニケーションに陥ってしまったりします。
悪い人かいい人かは法治国家ではどうでもいい事です。ルールを破ったかそうでないかが問題であるわけです。そしてそのルール自体が公正さが無く恣意性に溢れている事が問題でもあるわけです。厚労省の悪者を叩いてもその構造が温存されてしまえば意味がありません。
本当は41キロで走っている人間まで取り締まるような社会がいい社会だなんてもちろん思いません。本来であればそういう固い事を言わずとも共通前提にもとづき善意と信頼で回る社会がいい社会に決まっています。しかしそこには腐敗と堕落が表裏一体として存在し、過剰流動性の吹き荒れる現代社会ではそういう統治システムでは回らなくなってしまっている。そこにつけ込む輩も沢山出てくる。
無念!つづく!!
人命尊重や弱者救済という言葉は結局の所、単なるお題目に過ぎません。我々はすでに命の重さを恣意的な線を引いて選別している世界に生きています。命の価値が平等だなどというのは嘘です。
だから感情論でこういう事を問題にすると、その個人が救済されて話はお終いという事になってしまう。なぜなら我々は命の選択をしている社会に生きているからです。生き物をぶち殺してその死体を食い、大切な命を奪って生きているどころか、それを捨ててさえいる。貧しい国に住む子供が生まれた瞬間に死んでいったり、エイズでどんどん死んでいったりする構造の上に乗っかって、搾取、収奪し、大量消費社会を満喫して我々は暮らしています。
命に意味があって大切なのだとしたら、そういう人々の命と我々先進国に住む命が平等だと言えるでしょうか?
命なんてもんは生まれただけでは何の価値も意味もありません。それがあるとすればこの違いはなんでしょう。あるのは単に運が良いか悪いかそれだけです。意味を持つ事があるとすればどう生きるかにかかっています。
意味のないものに意味がもともとあるのだなんてくだらない啓蒙をするから人は迷うわけです。そんなものは磨いていってなんぼのもんです。
きっかけがあれば自分も変われるはずだと夢想する人々に希望を与える為に、きっかけはなんですか?という事を成功者に尋ねるコミュニケーションが横行していますが、きっかけのおかげではなく、その人がその目標に向かって科学的に努力し鍛錬したからに他なりません。
きっかけは単なるきっかけでしかないのです。自分がダメなのはきっかけが無いからだと言い訳をしている人間に本当に必要なのはきっかけではありません。そんなものを求め己の脆弱な依存心に言い訳をするようなメンタルが問題なのです。
こういうコミュニケーションの延長線上に、誰に対してもアラを探す。己が汚れているという事を知ってか知らずか、他者や祭り上げられた人のアラを探し、ほらアイツも所詮汚れている、偉そうな事を言っているけど所詮そんなものだよ、と言った風に貶める。ちょっとアラが見つかるとみんなで叩きのめす。偉そうにしている人間を貶めてカタルシスを得る。
命に意味があるとか、人間の命は尊いとか教えたあげく、意味の無い人生を送っているように感じたり、尊くない人生を歩んでいると感じる人々にはルサンチマンが蓄積する、だから他人を貶めてスッキリする。アイツも俺達と所詮変わらないんだというエビデンスが欲しくなる。人間なんてくだらないと。
しかしこれは当然で人間なんて誰でもくだらなさを持っている。情けなさを誰でも持っている。目先の利益に右往左往したり、人の評価が気になって仕方がなかったり、異性にモテたくてうずうずしていたり、誰かに嫉妬を感じてしまったり、そんな事は恥ずべき事でもなんでもない。
恥ずべきなのは、そのくだらなさに対する寛容さのない事、そしてそれで他者にどれだけ迷惑をかけているのかという度合いによるものです。愛する人や親しい人に自分の醜い部分を見せてしまったとき、それに対する申し訳なさを感じる事が出来るか。そして当然それで人に多大な迷惑をかけるような事になれば、場合によっては罰を受けるわけです。
この国では役人の不作為かなんだか知りませんが、仮にもそれで多くの人が被害を受ける事にいたっても、責任者が責任をとらないどころか彼らを罰する法律も整備されていないし、彼らの公正さを担保するチェック&バランスのシステムもない。
バケツの上部で目の細かい濾し網で濾すような事をしていながら、バケツの底が思いっきり抜けていて、水がじゃんじゃん流れ出ているような状況、昔は濾し網の目は今よりは多少荒く、底に多少穴が開いていても、水がちょろちょろ流れ出ているに過ぎなかったこの国のアーキテクチャーは、今や完全に底が抜けきって全く底のない状態、そして中身がどんどん流れ出てしまいすっからかんの状態になってしまっている。
そういう底の抜けた、足の引っ張りあいの構図で強者には矛先が向かないシステムになっている。厚労省の役人や政治家をいくら貶めて笑っても彼らは痛くも痒くもないし、何の罰もお咎めも受けない。人間のくだらなさを感じさせる事によってガス抜きになってしまう。
厚労省の問題点や、防衛省の問題点なんて薄々気付いている人が増えていても、絶対に深い闇まで追求する事なんて有り得ないと諦めている。守屋の後ろに小泉純一郎、飯島秘書官ラインが隠れているのを知っていても、どうせそこまで行きっこ無いと諦めてしまう。
旧経世会の防衛族の現防衛大臣だって、防衛族である久間、額賀だって、それ以外の閣僚、総理大臣だって、こういう構造や自分達が散々貪ってきた利権を知らないはずは無い。山田洋行や日本ミライズの問題だけでない事くらい誰でもわかる、にもかかわらず絶対に深い闇までは届くはずも無いと国民は諦めている。
バカなメディアがきれい事を吐き、たいした権益のない存在を、自らの立ち位置に気付かないのか知らん顔しているのか知りませんが、徹底的に叩き厚顔無恥に振る舞う。人々は寛容さを忘れ、自分達と同じ汚れた存在であるにもかかわらず、もしくは自分達の汚れた部分を見もせずに、抜け駆けをしている奴にたえず目を光らせ、ちょっと汚れているとアイツはもう終わった、汚れたと烙印を押す。
しかし本当に汚れている存在、それによって他者に多大な迷惑をかけ続けている存在に対しては無力でもあるので諦めが生じる、この社会に貢献したり真面目に頑張ったりする事が尊いと、子供の頃から叩き込まれながら、一方で弱肉強食の世界をまざまざと見せつけられ、他者を蹴落とせ、足を引っ張れと教育もされる。
そしてこの社会に貢献したり頑張ったりする事が実りがあって、その先に希望や善き社会というのを語ったり、ビジョンを見せる事が出来るのなら、社会に貢献する事が意味があるのだと教える事も出来るが、この社会がそもそも実りもなく公正さも期待出来ないような社会になっていれば、ソシアルコストを払えとか、パブリック・コントリビューションしろとか、言ったって、どうせ腐った社会、そんな事したってやるだけ無駄だ、という風になってしまうのも当然の帰結で、社会の底が抜けきってスッカラカンの状況では、そんな事ない、頑張れば報われるという言葉で動機付けようとしたって全然歯が立たない。
かつてはあると信じられていた、公正さ、ジャスティスがどこを見渡しても無くなってしまっている。結局は恣意的な線引きでありアドホックな視座であり、簡単に足場は崩れ、あっという間に貶められてしまう。夢や希望、そして求めていく社会の姿というのを誰も信じていない。どうせ無駄だと諦めてしまっている。従来のヒューマニズムや弱者救済のビジョンでは人々を動機付け出来ない。
そういう構造は少し考えれば誰にでもわかる事です。だから感情的に吹き上がりガス抜きとしてスッキリしてしまうと、正義を振りかざす我々自身もそんな事を言えるのか?という問題が降り掛かってくる。そうすると構造は温存され同じ事を延々と繰り返すシステム、歴史という歯車に絡めとられてしまう。
みんな仲間、平等、平和を謳ったあげく、平等ではない社会に引き裂かれ、平和ではない社会に引き裂かれる。仲間というのは敵という概念が無いと確認出来ない記号です。だから敵を作り出して線を引く社会にどんどん突き進んでいる。
平和というのは混乱状態が無ければ認識出来ません。平和が当たり前ではありがたみも消えてしまいます。だから傷つけあわないと確認出来なくなってしまう。現に平和と呼ばれる社会である日本、それほど多くの人が幸福を感じて生きているでしょうか?人間は現状では満足出来ない生き物です。ここではないどこかを必ず求めて止まない。
希望というのは絶望を知らなければ認識出来ません。絶望する事も無く単に諦めている世界では希望なんて絶対に芽生えない。
安心安全というのは、不安を知らないと確認出来ません。これ以上無い安心安全に囲まれていてもヒステリックに不安を探し出し恐怖におののいていないと、自分達が安心安全かどうか確認出来なくなって麻痺してしまう。だから禁断症状のように不安を求めたえず立ち位置を確かめていないと、安心で安全なのかどうかわからなくなってしまう。
自由というのは不自由を認識しないと確認出来ません。生まれた時から自由だと教育されたあげく、物理的な無軌道な自由に落ち込み結果的に何も出来ない状況になっている。自由だと言われてもアイデンティティの確立も出来ないし寄る辺も無いので、不自由な精神的支えに帰依するという生き方に帰結してしまったりもする。
底の抜けた公正さや正義、そして未来への救済のビジョンのない社会では、何も信用出来ないし足場は簡単に崩れる、そうすると簡単には揺らがない柱や精神的な支えを求め待望するというメンタリティに簡単に直結する。潔癖主義的断固決然バカに簡単に騙されてしまう。
しかしまだそういう単純なきれい事の簡単にメッキのはげる輩であればすぐに汚れているという烙印を押され貶められるからマシですが、汚れているというフィンガー・ポインティングの全く通じない相手も出てくる。これが一番厄介です。
そもそも俺は汚れているし人間の醜さ情けなさも知っている、だけどどうしても許せない輩がいるだろ、そいつらこそが敵だ、抵抗勢力だ!!という言葉に簡単に引っかかってしまう。
抵抗勢力とやらは抜け道を用意しており、国民は利用されたあげく自分達の首を自分達で絞めている。
国民同士の連帯に、悪者はだれだ?という分断が起こり強者には決してその刃は向かないし、向いても何の効力も持たないものになってしまった。
この汚れているという烙印の通じない輩に簡単に人は騙される。騙されたがっている。人々の感情にさおさし悪者を指差してくれる柱にコロッと騙される。何を言っているのかという事ばかりに目が行き、何をしているのかという所には目がいかない。
弱者救済が問題なのではありません。ルールの恣意的な適用を利用したり、そういう構造を利用して利権を貪っている人間が永久に勝ち続けるシステムが問題なのです。本当は弱者を救済出来る社会を目指す方がいいに決まっていますが、この構造に手を入れるのは簡単な話ではない。
まずは適応可能であり、抜け道を恣意的に利用させないようなルールの構築、そしてそれの運用、第三者のチェック&バランスが機能し、そういう(とりあえずの)公正さを担保したシステムにした上でないとその先を論じても虚しい話になってしまいます。
そういう意味ではこの国のルールやその運用、そしてそのチェックシステムは全く機能しておらず、たいした権益も持っていない対象に向かって重罰化で対処するという社会に舵を切っています。未成年のガキンチョにまで、未成年?そんなの知るか!徹底した重罰化で取り締まれ!!ってな社会になりつつあります。
性善説、性悪説なんて話はこの際あまり意味の無い話です。そんな事はどっちだって構わないと言うか論じるだけ時間の無駄です。なぜなら今の社会の現状を見てみろという事です。現時点で機能していない、チェックシステムが無い、本当の問題点は温存され、たいした権益も握っていない人間にばかり法の矛先が向いている。
正義か悪者かという構図も意味がありません。そんな事はどうでもいいのです。ちゃんとルールが機能していない事が問題なのです。感情論に絡めとられると、こういう構造はいつまでたっても変わりっこありません。
なぜならルールを無視している人間が悪者かと言えば、誰でもそういう目先の利益を欲したり、邪悪な心を少なからず持っているからです。だからヘタをするとルールを逸脱しているけれど悪い人じゃないというコミュニケーションに陥ってしまったりします。
悪い人かいい人かは法治国家ではどうでもいい事です。ルールを破ったかそうでないかが問題であるわけです。そしてそのルール自体が公正さが無く恣意性に溢れている事が問題でもあるわけです。厚労省の悪者を叩いてもその構造が温存されてしまえば意味がありません。
本当は41キロで走っている人間まで取り締まるような社会がいい社会だなんてもちろん思いません。本来であればそういう固い事を言わずとも共通前提にもとづき善意と信頼で回る社会がいい社会に決まっています。しかしそこには腐敗と堕落が表裏一体として存在し、過剰流動性の吹き荒れる現代社会ではそういう統治システムでは回らなくなってしまっている。そこにつけ込む輩も沢山出てくる。
無念!つづく!!