最近、食品偽装などを筆頭にして、インチキが溢れかえっている我が国。そしてそれをメディアに煽られて沸騰し、メッタクソに叩くと言う構造が繰り返されています。やや時間が経ち憤激がおさまると今度はカウンターとなるような擁護論的なものが出てきて、揺り戻しを起こしそして往復する過程で一通り騒いだ後は消費されつくし忘れ去られる。

食品だけではなく、政治も経済も社会問題も、スポーツもエンターテイメントもあらゆるジャンルで繰り返される不毛な構造。祭り上げて大騒ぎを繰り返すだけで、何も変わらないし、何の学びも起こらない、何も気付かない。

いい加減ウンザリ感でいっぱいの人も沢山いるのでしょうが、圧倒的なリーチを握っている大手メディアが炎上報道を繰り返すわけですから、中々この構造から脱却出来ないし、この自分の立ち位置である足下が泥まみれであるのに、他者を断罪する情けなさの連鎖がかろうじてガバナンスにもなってしまっている現実。

もちろんこの構造は、お前が言うな!!と墓穴を掘らないように、微妙な問題を避け、強者に矛先の向かないガバナンスですので、結局の所、金と暴力がものを言う構造にシフトしています。これは弱肉強食肯定の路線になるので社会という共同幻想が壊れている、もしくはその形を変えようとしているのだと思われます。

金と暴力と言えばその権限を一手に引き受ける、国家権力の物理的な力が強まる事に他ならず、事後チェック型のこの国で言う所の恣意的なインチキネオリベ的小さな政府路線というのは、要するにそういう事でもあるのでしょう。世界が自由経済的帝国主義化しているのとリンクしています。

最近C型肝炎の問題が沸騰しています。患者の方々が涙ながらに画面に映り、政府の非人道性を訴えています。最初に断りを入れておきますが、自分の親戚もこれが原因で癌が発生し、決して死ぬような年齢では無かったにもかかわらず亡くなっていますので、感情的には厚労省や国会議事堂に爆弾でも仕掛けてやりたい気持ちでやまやまです。もちろんいくら感情的にそう思ったからと言ったって、そんな事すれば掴まりますし、直接関係のない人まで被害が飛び火しますから、自分は理性が多少はありますのでそんな事はもちろんしませんが、それは少しわきにおいておきます。

確かにこの問題は大きな問題です。非常に許せない気持ちでいっぱいです。しかし感情的な釣り針を使って人々を動員する、情緒にさおさし可愛そうだからというフックを使って盛り上がるのは危惧を感じてしまいます。いきなり総理大臣に会いにいって、会えないと涙の会見をする。会ってやらない総理大臣という形で報道をする。当たり前ですがいくら会いたいと言ったって仮にも相手は国家権力の一番上に座っている人物です。自分は福田なんていうクソみたいな人間の事を擁護しようなんて微塵も思いませんが、そういう立場の人間に会ってくれと言って簡単に会えるわけでもないという事は当たり前と言えば当たり前です。

何でこんな事を書くのかと言うと、こういうフォーカスの当て方をすると、福田総理が会ったりする、もしくは何らかのこの問題に対する妥協点が見つかると、こういった国家権力の恣意的な権限、法の恣意的な運用の構造は手付かずのまま雲散霧消する可能性があるからです。あの涙を見せた方々の感情が回復すれば、よかったよかったと終わってしまう可能性すらある。事はそんなに単純な話ではありません。国家権力の構造をなんとかせねばどうせ同じ事が起こるに決まっています。

福田総理に政治決断を迫る力学もありますが、総理大臣が法律の適応を逸脱し、伝家の宝刀を抜くという事は非常に危険と表裏一体です。人道的な問題だからこれはしょうがないのだ、という事は理解出来ますが、あの程度の人間にそれを簡単に許してしまうとなると、法治国家としての根幹を揺るがしかねない暴走を引き起こす可能性すらあるのです。

小泉さんにはそういう所があり、それを国民が支持してしまったが為に、安倍さんのような存在を生み出してしまったわけですから、こういう事は単に目先の人道や感情に左右されると、国家権力がそれを悪用する可能性がある事に対して、あまりにも危機感が無いのではないかと思ってしまうわけです。論理性が感情論によってぼやけている。

防衛省の問題にしたって、ああいった利権構造はそれこそありとあらゆる所に存在するものです。しかし利権構造は温存されそうな勢いです。

バカなボクサーや横綱の話だってそうです。いつの間にか構造そのものの話はアウト・オブ・デートな感じになり、個人の謝り方がどうとかこうとかって話になり、謝り方がちゃんとしていれば、もういいんじゃないか的になるし、不遜であればまだ叩き足りないとなる。しかし彼らに問題がないとは思いませんが、彼らのような存在を生み出す構造は全く手がつかず、軽いスッキリ感を持ち忘れてしまう、という構造に巻き込まれています。

食品偽装だってそうです。悪者を叩けば済む話なのかと言えば、こういう問題は根が深い問題です。言うなれば車の法廷速度と同じ問題とも言えます。制限速度40キロの道路で、本当にその制限速度を守って走っている人間がいったいどれだけいるのか?自分も車に乗りますからわかりますが、10キロ、20キロオーバーで走っている人なんて殆どだと思います。中には80キロ、100キロで走っている人だっている。100キロで走っている人は危険ですから取り締まって欲しいと思いますが、それと、45キロで走っている人を、同じく犯罪者と罰っし、血祭りに上げ叩きのめす構造って公正なルールの適応と言えるのでしょうか?

急に今まで50キロくらいで走っているのは当たり前だったのに、国がそれは犯罪だと言って、例え41キロでも、厳しく取り締まるようになるという構造になったとしたら、それはいい社会と言えるのでしょうか?

そんな制度が果たしてきちんと担保されて抜け駆け感を感じる事なく、動いていくような社会構造になっているでしょうか?

仮にそういう制度を運用出来たとしても、そういう車を売っているメーカーに責任は無いのでしょうか?40キロでしか走れない車を作るとか、まあそれは無理にしたって、150キロ以上出るような車を売る必然性ってどこにあるのでしょう?そこに問題は無いのでしょうか?

自分は料理関係者ですので、この制限速度40キロを守る(比喩ですよ)という事は並大抵の事じゃありません。ハッキリ言って頭の固いバカ扱いを受ける事すらあります。本当に車で道路を走っている時だって、40キロで走っていたら、ヘタをすると追い越されたり、煽られたり、クラクションで早くいかんかコラーってな感じになってしまいます。そういう構造が我々の社会にはあるわけです。

料理だって同じ構造があります。どうせわかりゃしねぇんだよ、というプレッシャーがあります。自分は今の社会構造から考えた時の取り返しのつかなさを訴えるわけですが、中々理解してもらえない。

もちろん今なら大騒ぎしていますので理解出来るのは当たり前ですが、人は簡単に忘れ同じ事を繰り返すという性質を持っていますから、41キロで走っていた、絶対に許すな、血祭りに上げろ、叩きのめせと、100キロで走っている人と同列に扱うような事をやっていたって、絶対にこういう問題はどうにもならないような気がするのです。

確かに法律を破っているじゃないかと言われればそれはそうです。全く異論はございません。しかし法廷速度を守っている人間が殆どいないのをどう考えるのかという事です。そういう人達はみんな法律を犯しているから罰すればいいのでしょうか?

食中毒で死ぬ人口より、交通事故で死ぬ人口の方が圧倒的に多いはずです。それに食品偽装っつったって、死んでいる人や深刻な健康被害を受けている人がどれほどいるというのか?

被害が多い少ないは関係ないのはそりゃそうなんですけれど、テロ特で戦争の、いっぱい人を殺すという事のお手伝いを、国民の事なんか無視して通そうとしている事に対しては、まあしょうがねぇかってな話になっちゃったりするのに、たいして被害のないものに正義をぶつけている構造を見ていると虚しくなって来るのです。

しばらく前に飲酒運転によって痛ましい事故がありました。あの当時、飲ませた飲食店も同罪だ、飲ませた同席者も同罪だ、的な話は出てきましたが、車のメーカーも同罪だってな話は聞いた事ありません。

お酒を売って、後は自己責任で、という事と、お酒を飲んでも運転可能な車を売って、しかも公道では必要の無い速度や機能や人にぶつかれば確実に死に至らしめるような外装の車を売っといて、後は自己責任で、という事と何がどう違うのか自分にはよくわかりません。自分はよっぽど車そのものの方に原因があるような気がします。

お酒を飲んだ人がみんなとんでもない行いをしているのか、と言うとそんな事はありませんし、もちろん車に乗っている人もそうでしょう。しかしどちらの方が相対的に物理的な被害を目に見える形で社会に及ぼしているのか、そんな事は言うまでもありません。その分の恩恵があるから人が死んでも構わないのだという理由が通るのであるのなら、人命尊重なんて単なるお題目になってしまいます。

こういう構造は至る所で見受けられます。単位未履修問題だって似たような構造です。みんな知っている話のはずが、ある時を境に急にそれが、ルールを破っているじゃないか、という問題になる。確かにルールを破っているから難しいのですが、こういう構造が今この国に吹き荒れています。

これは共同体に新しい成員が入ってくる事によって吹き出す問題です。今まで共通前提として、確かに法的にはダメだって事になっているけれど、別にそれで誰も困っていないから、本当にそれを思いっきりバイオレートして人に迷惑をかけるような人は罰しても、ルールの適応を厳罰化せずとも社会は回っていました。

しかしそこに新しい成員が増えてくると、共通前提?そんなの知るか!!あぶねえじゃねえか!!法律を破っているじゃねえか!!という話になり、ルールを破っている方が端から見ても問題があるだろって事は簡単にわかるので、みんなで血祭りに上げる。

しかしそれを車の法廷速度という問題にレイヤーを上げて考えれば、全く同じ構造が見えて来るはずです。みんな車に乗っているから気にならないけれど、みんな50キロで走っている?そんなの知るか!!法律で40キロと決まっているじゃないか、ぶつかったらどうするんだ!!と言ってしまえば身も蓋もありません。

もちろんルールを破って金儲けをしたり、税金を無駄遣いしたりしているのは問題ですから許す必要はありませんが、今の社会の構造ですと、強者である国家や、大儲けしている大企業には絶対に矛先の向かないシステムとして回っており、問題になるのは別にそんなにかさにかかって叩かなくとも弱い存在ばかりです。

こういう社会に突っ走っておいて、国民もそれに乗っかっているのに、弱者救済とか格差社会とか笑っちゃうんですけれど、そういう事を問題にするのならこのサイクルに巻き込まれていたのでは、絶対にそこからの脱却なんて不可能です。

つづく!!