続きにて候。

大陸の歴史というのは奪い合いの歴史です。文化というのは常に侵略とセットになって伝播されます。だけどこの島国では海に囲まれているので、基本的に侵略の恐怖は少ないが、袋小路の大陸であるが故に、文化は様々な形で伝わってきます。普通の大陸での文化の伝わり方とはかなり違ったものだったはずです。文化が伝わるというのは侵略とセットなわけだから、普通は危機感を伴うものだし、侵略されれば良いも悪いもなく文化は変わらざるを得ません。だけどこの国では危機感が全くない状態で文化だけが伝わってくるわけですから、自分達の都合のいい所だけを選択して、この国に合うようにカスタマイズされて取り入れられます。

逆に合わなければ簡単に捨てる事も出来たのでしょう。何より仏教の伝わり方や定着の仕方、この国の文化との共存の仕方を見ればそれは明らかですし、律令制の伝わり方だってそれを示しています。漢字を日本語の当て字に使いやがて仮名を開発する所などはまさにお国柄といえるでしょう。そういう他の文化を換骨奪胎してしまう能力というのは、日本人の特性の一つです。独創性には乏しいが、他の文化の良い所を取り入れて、本家より使いやすく便利に作り替えてしまう、現代の日本で食される、中華やイタリアン、フレンチなど外国の料理は日本人の口に合うように、換骨奪胎したものですし、音楽、ファッション、エンターテイメント、テクノロジー、あらゆる所に、換骨奪胎したものが溢れています。そういう危機感の少ないお国柄で、文化に対する距離感やいい加減さが芽生えるのは必然と言っても良いかもしれません。コミュニケーションに対する甘えも多分この辺に理由があるような気がします。

本来言語というのは、他者に意思を伝える為のものだと言う事を、シンプルに考えられているものです。それはわかりあえないという前提があるからこそ切実にもなるわけです。多民族国家や大陸国家ではハッキリ意思を伝えないと自分の利害関係に大きく絡んできます。日本の土地は山や森が多く狭い、だから権利を獲得しようと思ったら直接的に他者と争わなければならなくなります。広大な土地に住む連中って言うのは、争って権利を奪われても、広大だから他に行けば済みます。だけど狭い所で争えば、権利を失えばすなわち死を意味します。だからお互い妥協して、争わないようにするのかもしれません。

温暖な気候と海洋資源に恵まれた、島国にどれほどのリスクがあったのか想像するしか出来ませんが、もちろん国内で争いあっていたりした事もありましたが、大陸のそれとはやはり違っていたのではないかという事は想像に難くないのではないでしょうか。食料が限定されていて争わなければ生きられないなら別ですが、そうする必要がなければ、生き物はその事にプライオリティーを求めたりしません。

この国では利害関係が絡んでいる状態でも、建前で譲り合ったりするのが美徳とされたり、本当に譲る気もないのに譲り合いが美しいって事になっていたりします。それはこういう事と無関係ではないでしょう。島国で大多数が日本人ばかりだから、まあ呑気なのかもしれません。どっちが偉くて、どっちが駄目だって言うんじゃありませんが、交渉事や利害関係の間では日本語は不利なのかもしれません。日本語はシリアスな会話には向かないと言いますし、子供の頃からイエスかノーで鍛えられている民族と、大の大人でも曖昧な表現が許される民族の差なのかもしれません。

だから日本人はコミュニケーションに対する甘えが蔓延っているのかもしれません。曖昧な表現というのは、相手を思いやるという事をエクスキューズにして実は自己防御しているだけとも言えます。自分で直接言わなくても済みますから傷つける事も、傷つけられる事も回避出来ます。曖昧な表現で自己防御する民族が甘ったれているのは必然とも言えるかもしれません。外部と交渉して自分の権利を獲得しようとする言語と、防壁をはって自分の権利を死守しようとする言語の差なのではないでしょうか。

責任って言う概念は他者、個人でも集団でもいいですし、あるいは物でも環境でもいいのですが、外向きの関係性を構築した時に発生するものです。自己防御しているだけで生じる責任があるとすれば自己管理だけです。それだって結局自分以外にも困る人は発生するわけですが、責任というのは決定です。だから決定を回避する曖昧な表現が蔓延っているんだと思います。内向きの決定は自分の事以外ありえませんから。そういう言語を操る民族に甘えた方や、責任感がない方が多いのは、一種の文化かもしれません。

自衛隊の存在に対するこの国の接し方なんか、まさに曖昧な文化を表していると思いますし、ニートがやたら多いのも、そう言う事とは無関係じゃないでしょう。

現在流動化した社会ではこういう前提で回って来たコミュニケーションに対する甘えでは通じない環境になりつつあります。他人の話を聞く事が出来ない人というのが非常に多い。他人の話を聞いてないのに、どうせ誰もわかってくれない、とか言って甘えたりするコミュニケーションもあります。自分の事を理解してもらう為には人の話も聞かないと聞いてもらえません。自分の話をただ人に押し付けたり、がなり立てても上手くいきません。

そして人に意志を伝達するという事はそんなに簡単な話ではない。基本的に人間は簡単にわかりあえない。簡単にはわかりあえないという事に切実にならなければ、伝えるという事に対しても切実になりようがありません。人に伝わらなくても生きて行けると錯覚出来るシステムの上で生きている事が、更に流動化による弊害を加速させてもいます。

人の話を聞いてない人が世の中に結構な数存在するという事を深刻に考えたのは、自分がある年齢になって、人に指導される立場から、人を指導する立場になった時、痛烈に感じたのが多分一番最初だったと思うのですが、最初の頃は結構悩みました。もっと若い頃もそういう事を感じたりしていたのかもしれませんが、人の話を聞く事の重要性をたいして認識していなかったと思いますので、きっとそれほど切実でもなかったのだと思います。

そういう事に気付きだすと不思議でしょうがありませんでした。何でこんなに人の話を聞けない人が世の中にいるのだろう?と言った感じで。言葉も通じるはずなのに。もちろん話を聞かない人というのは、年齢や性別関係ありません。どんなに人の上に立っていても話を全く聞いていない人もいます。

しかし上の人が話を聞かないで無能なのはどうしようもありませんが、その人の下にいる以上、強制的に辞めさせる手段がない以上、辞めるか話を聞くしか方法はありません。上の奴が話を聞かねえんだよ、と愚痴をこぼした所でどうにもならない。

例えば自分が最初に痛烈に感じたのは、仕事上でだったと思うのですが、少なくとも建前上は、自分達の生活の為に稼ぐという目的を持ち、仕事に従事しているからには、その仕事場が目指すべき目的やその為に実戦しなければならない役割や、こなさなければならない事というのは、ちょっと考えれば誰でも分かりそうな話なのに、なんでこんなに自分の我を通そうと、人の話も聞かず好き勝手に振る舞うのだろうと感じました。もちろん仕事をしている間ずっと真面目に脇目もふらず仕事に集中出来るような素晴らしさを人間全部が持っているわけではないでしょうし、精神状態や体調などに左右されたり、面倒くせぇなと感じたり、見てない所で気を抜いたりというのはある程度人間ですから誰でもあるでしょう。しかしどうもそういう事だけでは片付かないような話を全く聞いてないんじゃないか?と感じるようなチンプンカンプンな人が必ずいるわけです。

自分は比較的人の話を聞いたり、何をすべきか理解出来ていなければ、それを理解する為に必要な事をしなければ理解出来るはずない、という事は当たり前だと思っていたのですが、それから尚、人の話を聞くという事の重大さを再認識出来たというプラスはあったものの、言葉が伝わらないもどかしさに悩んだものでした。

これは自分の伝え方が悪い、その能力がない、そういう風に思い自分の中に原因を見いだし、上手く伝える事が出来るように模索しました。同じ事を何度言ってもわからない、複数の人の前で話をすると、聞いている人間と聞いていない人間というのは一目瞭然です。そういう人は言った事を聞いていないわけですから当たり前ですが、言った事が出来ません。何で話を聞いていないのだ?という事を問うと、自分なりに頑張っている、だとか、一生懸命やっているつもりだ、とか言い出します。あげくの果てに仕事が上手くいかないとか言って悩んだりしてたりします。

自分はある時期から、全員にわかりやすく伝えるのは不可能だと言う風に諦めてしまいます。人が集まれば聞いている奴と、聞けない奴がいる。だからそれでこぼれてしまう人間は歩留まりで考えるようになります。初めっからそういう人間が一定数出るという事を勘定に入れて、改善の余地がなければ切ればいい、という風に合理性で考えるようになり、万人に意志を伝えるという事に諦めを感じます。ダメな奴はダメなんだから仕方がない。自分は教育者でもなんでもないのだから、そういう人間がどうなろうが知ったこっちゃないわけだしと。そして基本的には伝わらない事を前提に考えるようになります。100回言って、1回伝わればいいくらいの感覚です。後はとりあえず話を聞く事に専念する。何を考えどう思っているのかをたえず聞き出します。

だいたい性格とか、人の話をどの程度聞いているかとか、そういう度合いが掴めるようになってくると、どういう事で悩んでいるのかとか、悩みを聞いてやったりしたときの反応もパターン化して来ます。性格とか個性とか言ったって、同じような教育を受け、同じような環境に育ち、そしてインプットに対する反応の度合いによって、だいたいこちらが何か言った事に対するレスポンスを見ていれば、どういう精神状態にあり、悩んでいるのかと言う事が、その人の置かれている立場や環境の変数を変えていけばだいたい予想出来てしまうものです。

管理するのはもので、人は導くものだ、という言い方がありますが、こちらの言った事を聞いてくれたり、それによって何かが変わったりする事に期待する事は止めて、話を聞き、考えるくせを付けさせ、自分で気付くのを待つ。人は誰かに言われても中々変わりませんが、自分で切実にそれが必要だと感じればあっという間に変わります。そして全く期待出来ない人は切る。そうやって割り切って考えるようになりました。仕事である以上仕方がないと。

自分が学んだのは人に話を聞いてもらいたいと思ったら、当たり前ですが、まず相手の話を聞かねば上手くいかないと言う事です。仕事や利害関係で繋がっている間柄というのはやっぱりどうしても限界があります。資本主義ですからルール主義を完璧に無視するわけにもいきません。ルールにどうしても従えない人間に対していつまでも寛容に接しているというわけにもいかないのです。どうしても排除選別をしなければならない。それが資本主義の限界でもあるわけです。

そういう関係ではない親密な関係であるのなら、相手の話を聞かなければ相手の気持ちもわかりません。今の世の中何でも自分の気持ちが一番、自分の気持ち至上主義が蔓延っていてこれがおそらく一番厄介な原因なのではないでしょうか。ブログなんて書いていておかしな話ですが、こういうコミュニケーションというのは何しろ自分の気持ち至上主義を加速させる手段です。
ブログがこれだけ普及している事の裏を読むと、自分の話を聞いてくれという人が増えている事と無関係ではないような気がします。それは多分コミュニケーションが上手くいかない状態に世の中がなっているからでもあるのでしょう。でも本当にそれが切実であるのなら、人の話を聞く事が何しろ一番近道です。

まあブログを長々と書いといて自分が言う事じゃありませんし、ブログぐらいいいじゃねえかとも思います。何しろ自分の体験などどうでもいいのですが、人の話を聞いたから即ちわかりあえるとか言いたいわけではありません。あくまでも仕事上の繋がりとして最低限必要な事ぐらいであれば、何とかなるという実感はありますが、本当に他者とわかりあうという事は簡単な話ではない。いくら話を聞いたってわかりあえない事もある。だけど話を聞かなけりゃどうにもならない。

次回でまとめます。