前回の続きでござ候。

ずっと民主党の騒動の顛末についてあれこれ書いて来ましたので、話がその事に集中してしまいましたが、話を戻しますと人間とは結局自我があり、他人と自分の間に線がある。だから完璧な意思疎通というのは不可能なものなのかもしれませんが、この国ではコミュニケーションは自明である。みんなわかりあえると言うベースが残っています。

日本というのは今は殆ど無くなっちゃいましたが、寛容さや包摂的な社会であったという事がいわれたりします。これは簡単な話で、地理的に海に囲まれ、外敵からの侵入がほぼ物理的に不可能であったという事、ほぼ単一民族であり単一の言語、単一の文化を共有しているので、同一性が高く、この事がコミュニケーションに対する甘え、みんなわかりあえるというベースを生み出しているものでもあるのでしょう。したがって寛容であるように見えただけで、共同体の縛りに従わないものはむしろ徹底的に排除するという文化だと思います。

まあ話がそれそうなので戻しますが、そういった同一性によるコミュニケーションへの甘え、寛容さとか丸くおさめるという発想というのは腐敗や堕落と表裏一体です。日本というのは近代化とともに資本主義に舵を切りました。ある時期から前大戦に敗れるまで、一時期軍国主義と現在言われている、社会主義政策に舵を切り替えますが、敗戦とともに資本主義に舵を戻します。官僚というのは戦前の国家総動員態勢、社会主義体制からの残滓が深く残っており、その事が現在の弊害をもたらしています。

資本主義社会というのは、カルヴァンの言った予定説。プロテスタンティズムの精神を必要とします。そして初期ギリシャ、アリストテレスの形式論理学を必要とします。この両輪が資本主義を駆動させました。日本人には予定説の神もいませんし、アリストテレス的な論理的な思考も未だ根付いていません。だからこの国の資本主義は根本の所で決定的に足りないものがあります。

資本主義というのは寛容さや人間関係より、契約を守ったか否かこれが一番の問題になります。だからかつてあった寛容さのようなものがなくなったと騒いでいますが、当然の帰結でもあるわけです。欧米では寛容さや人間関係を補填する為に宗教があるわけですが、それはこの国ではありません。かつて天皇がその穴埋めをしたわけですが、それも完全に骨を抜かれてしまいました。近年グローバル化の波が更に世界を覆い尽くし、更なる流動化した社会に生きねばならないのが現在の日本(だけではないのですが)の状況でもあるわけです。

資本主義であるという事はプラットフォームは契約や論理で回らなければ上手く機能しません。ルール主義です。これは善いとか悪いとかの問題とは関係ありません。資本主義という土台の上で生活している以上、間違っているとか言ったってどうにもならないからです。この国ではこのルール主義の取り扱いが極めて恣意的であり、ルール主義として機能していなかったりします。だから世の中が上手く回らないわけです。寛容さが無くなったという事とは無関係です。特に統治権力側の恣意的なルールの適用はあまりにも杜撰でいい加減で近代国家の体を成していません。

寛容さがないとか人間関係が希薄化しているとか、人々のアノミー化の問題は資本主義の帰結ですからルール主義を怨んでもしょうがありません。人々の寂しさを吸い上げて、恣意的なルールの適応を正当化するプロセスが至る所に存在します。資本主義を駆動させる以上、情緒より論理、寛容さよりルール、という状況になるのは避けられないのです。この国の資本主義が上手く機能しないのは、情緒や寛容さによる負の側面、腐敗や堕落の温床となってしまっているものがあまりにも多すぎると言う事に問題があるわけです。

しかし資本主義を駆動させる以上、流動化するわけですから、かつてあった動かなかったものの形も変わってしまい、寛容さや包摂的な社会も形が変わっていきます。そうすると人々は必ず寂しさを感じたり疎外感を感じてしまったりします。それを汲み取る宗教もこの国にはない。だからこう言った問題を語る時に資本主義というプラットフォームの上にいたまま、ルール主義だけ批判するという形になりますと、それを悪用する輩が跳梁跋扈するだけで、アノミー化に対する解決には何一つなりません。本当にこの問題を考えるのなら現在の資本主義のあり方そのものを考える必要があるでしょう。でもそれは簡単な話ではない。

資本主義、とりわけ現在のグローバライゼーションの名の下に広がる自由経済というのは、流動化を押し進めれば押し進めるほど弱肉強食の側面が強まって来ます。善いか悪いかという話は触れません。もちろん現在のグローバライゼーションのもとで行われている自由競争というのは、機会の平等が全く担保されていませんので、勝側は永久に勝ち続けるシステムであり、その最初の初期手持ち量を物理的に確保するのが国家であり、ゲヴァルトである。という事はあるのですが、これを問題にしても簡単なソリューションはありません。

競争社会というのは勝者と敗者が生まれます。最後まで勝ち続けられるものは一つしかありません。後は全部負けます。一位がそう取り出来るシステムというわけです。一位になってもずっと勝ち続けていられるかどうかはわかりません。しかし現状の世界を見渡してみますと、経済も軍事も圧倒的なパワーを見せつけているのがアメリカです。つまり一位のアメリカ以外は全員度合いの差こそあれども、みんな敗者です。だからこの自由化と言うアメリカンスタンダードをアメリカ以外が嫌うのは当然の帰結な訳です。この競争のシステムにいる以上、当面はアメリカに勝てない。アメリカは経済だけでなく軍事でもチャンピオンですから、言う事に従わなければ脅すという事まで出来るわけです。

だからアンチアメリカ的になるのはヨーロッパでもアジアでも避けられません。みんな負けて悔しい思いをしているわけですからしょうがない。そしてこれはアメリカの巨大な軍事力に抗う手段がないかぎり言う事をある程度聞かざるを得ない。アメリカ自身が悔い改めないかぎり、このシステムをどうにかするのは不可能なのです。だからアメリカの言う事を出来るだけ聞きたくないと考えれば重武装化する以外選択肢はありません。そういう国が無くならないのもある意味仕方のない側面があります。

今の所この流動化を食い止める手段はないし、この国ではアメリカに尻尾を振って言う事を聞くのを前提にしか考えてもいません。交渉して国益を引き出すような能力が政治家にも役人にもありません。これも大変問題なのですが、肝腎なのはそういうシステムは必ずルール主義を必要とするという事です。

そうすると人々のかつてあった寛容さや信頼関係を失い、アノミー化していくのは、程度の違いこそあれ当然の帰結であり、それを汲み上げる宗教もこの国にはないし、かつてあった幻想的な古き良き日本に浸っているだけで、実際の所は疑心暗鬼の社会が蔓延しています。

中国や朝鮮半島の人々に対して、信用出来る、という人と、信用出来ない、という人がいます。彼らには西洋哲学的な形式論理学ではなく、彼らの論理で思考しています。法家思想と儒家思想がその根幹にあります。つまり信用出来るか否かは人間関係によって決まる。信用出来る存在に対しては命をかけても信頼を守るが、日本人のように原理原則もないし、本音と建て前を使い分け、嘘ばかりついているようにしか見えない存在との約束事は簡単に反古にする。だからいつまでたっても溝は埋まりっこありません。アジアでもグローバライゼーションの波が襲っています。そうするとやっぱり流動化が起こり、それをナショナリズムによって吸い上げている。

イスラムでもそうです。イスラムの論理というのがある。しかしそれも流動化にさらされている、だから彼らは絶望的な戦いに身を投じてもいる。

しかしこれらの国は中華思想だったりイスラム教であったりと、流動化を汲み取る心の拠り所というものがあります。それがかえって悪影響を及ぼす側面はあるものの、日本のようになにもかも底が抜けきってスッカラカンになるという状態は少なくとも避けられます。

よくB層という言葉や愚民化という言葉があります。この国の国民がそういう状態になっていると、俺はこいつらとは違うという事を確認する為の、フィンガーポインティング的なコミュニケーションが溢れています。肝腎なのはB層であれ愚民であれ、ああいう奴らがいるから迷惑なんだ、という排除的なコミュニケーションというのは、グローバライゼーションやアメリカンスタンダードに抗う為の手段にはなりえません。余計寛容さを失い、疑心暗鬼の社会にさらにアクセルを噴かす事にしかなり得ないという事です。

そしてこれの最悪の帰結は流動化では簡単に動かないような正当性のある完全な何かに依存する、魔女裁判、優生学、イエローペリル、原理主義、ボナパルティズム、ファシズム、そしてネオコンと最悪の形を繰り返す事に繋がりかねません。

黒幕説や悪魔的な背後でコントロールする完全な存在を信じるものも結局同じ袋小路に辿り着きますから、これも善し悪しです。悪魔というのは神の裏をかく事の出来る存在であるからです。だから神の存在、絶対的な何かを信じていなければ、物事をあらかじめ計算済みで選択出来る存在がいるとは思えない。それはクリアカットな解決策を求めてしまう脆弱な依存心に繋がります。これはゲーデルやハイゼンベルグが証明済みの命題です。神はサイコロを振るのです。

だからこれに向かい合う為にはグローバライゼーションやルール主義に片足は突っ込みながらも、周りの大切な人間に対しては信頼しておたおたせずに向き合うしかないのではないか?という事を以前書きました。だからその事は置いておきます。

グローバライゼーションという流動化は疑心暗鬼の社会を生み出し、日本人の同一性も破壊しています。もう我々日本人という文脈では何も語れなくなってしまっている。様々な立場様々な環境、幸福な人、不幸な人、儲かっている人、損している人、勝者と敗者、みんな一緒、わかりあえる、という甘えたコミュニケーションでは通じなくなっている。

にもかかわらず依然として蔓延る、コミュニケーションに対する甘えが様々な弊害を及ぼしているように感じます。同一性があって、日本人を一括りで語れるような文脈が通用した時代であれば、人の話など聞かなくとも想像したり、理解出来たりしたのは事実でしょう。お前が考えているのはこういう事だろ、ってな感じで阿吽の呼吸と言いますかわかりあえて、みんな一緒の価値観を共有出来たのかもしれません。

小沢騒動の黒幕であるナベツネや中曽根がどういう思惑でああいう事をしたのか知りませんが、仮に本気で日本の事を憂いてそう思っていたとしても、昔はこういうパターナリズム的なお前の事は俺が一番わかっていると言った感じで、導くという事に対してそれを受け入れるだけの同一性があったのかもしれませんが、今の世の中余計なお世話でしかなくなってしまっている。俺たちの幸せの為だって言うのはありがたいけれど、お前にそんな事される筋合いじゃねぇよ、放っといてくれ、と言った感じでしょうか。

まあ最もあの連中が本気でパターナリズム的な発想でそうしたようには見えませんし、どうせ己の利権が隠れてるだろ、という風に見えてしまうという事が最大の問題なのでしょうが、どちらにしろ、例えば福田や小沢が日本の未来を憂いて手打ちをしようとしているのだとしても、お前らが決める事じゃねぇよ、それを判断するのは国民だろ、という反応は民主主義としてはまともと言えばまともです。

すでに過剰流動化というのは日本人のわかりあえるという感覚を壊しています。個人間の壁にもなっているし、世代間の断絶にもなっています。という事は人の話を聞くという事がこれまでよりも更に重要になっている社会であるという事です。

にもかかわらず携帯のメールやインターネットなどのコミュニケーションなどのように、一口コメント化、物事の簡略化が進み、一方通行が進んでいます。その事によって人の話を聞くという面倒くさい事をやらなくても生きて行けるように錯覚出来るアーキテクチャーに生きています。だからコミュニケーションも文化も政治も思想もマスターベーション化しているわけです。

人の話を聞くという事は、傷ついたり誤解する可能性もあるので面倒くさい、そして相変わらず世間ではわかりあえる、みんな一緒という幻想が残っているし、大人も子供にそうやって教えている。わかりあう為にはわかりあう努力をしなければならないのに、肝腎要のその部分は全然伝えていない。表面的な引っかかりのないコミュニケーションがつるつる滑りながら、狭い価値観の中で理解出来ないものを排除する。自分の気持ちが一番と言った感じで。

コミュニケーションが上手くいかない、相手の話を聞けないというのは、社会を営んでいく上では決定的な欠如です。近年コミュニケーションに依存しないでも生きて行ける環境は整っていますが、それだけで自己完結してしまっては社会は完全に閉じてしまいます。どうしたって他者との繋がりが必要であり、それがなければ社会は上手く機能しません。だからコミュニケーションに依存せずに生きて行ける環境があるということ自体は、コミュニケーションに行き詰まりを感じてしまった人の拠り所にもなるので否定しませんが、社会全体がそういう方向に行ってしまうのはやはり危険です。

ところがこの国では同一性とコミュニケーションに甘えて来た部分があるので、人の話を聞く、わかりあうというコミュニケーションが本来持つ機能がもともとありません。世の中、夫婦、人間関係、親子関係、果ては国家間の関係に至るまで、結局の所、夫婦喧嘩から戦争まで事の発端はコミュニケーションが上手くいかないという事が原因です。相手の話を聞かず、己の我を通そうとすれば必ず無視するか排除せずにはいられない。言葉の通じない外国人と話が通じないのは、文化も違うわけですし、ある意味仕方のない側面もある。だから外交はスッキリしない手打ちでしか解決もしない。

しかし同じ言語を話し、同じ文化圏に生きている人間が全く言葉が通じなかったり、排除しあっていたのでは実りは全くありません。外部に向き合いコミュニケーションするという事は、わかりあえないという前提が切実にならないと、上手く機能しません。この国の現状の手詰まりというのはこの相手の話を聞かないコミュニケーションの行き詰まりに問題があるような気がします。これは簡単な話で相手の話を聞けば済む事なのですが、それが単なる自己主張に陥ってしまったり、あいつはこういう奴だというレッテル貼りに終始してしまったりと、中々上手い事行きません。

相手の主張をただ聞いて受け入れるだけでは当たり前ですが自分の主張は通りませんので、それはコミュニケーションとは言いません。単なる隷属です。しかしお互い主張しあい、それぞれの言い分を聞き排除ではなく包摂した社会を目指さないと、どんどん悲惨に世の中はなっていってしまいます。

寛容さや包摂した社会を失うのはグローバライゼーションの帰結でもあると書きました。だからこそ今コミュニケーションが切実なのではないかと思うわけであります。グローバライゼーションの善い所は多様化するという所です。

しかしこの多様化というのは脆弱な依存心しか持たない人間からすると非常に恐ろしく見える。多様化するという事はわからない人間が沢山増えるという事ですから、そこを見ないようにしていたのでは、狭い価値観の中で排除する方向性にしか進みようがありません。

多様化というのはゆらぎを持つという事です。何か厄介な事態に陥っても、多様性があれば乗り切る事が出来ます。逆に同一性しかない場合は一つの困難で全員厄介な事態に陥る可能性を秘めています。ゆらぎのない多様性のない種は必ず滅びます。文明もまた同じです。蛸壺化した狭い価値観の中で排除しあっていたって、多様性の担保になるのではないかとは思いますが、コンフリクトの起こらない多様性は脆弱なマスターベーションにしかなりようがありません。それに蛸壺から、共同体からはじかれた人間の行き場所もなくなってアノミー化してしまいます。多様化した開いた社会が根底にあってこそです。その為には今コミュニケーションを真剣に考えておかないと、取り返しがつかなくなるのではないかと考えるわけであります。

つづく!!!