前回の続きです。
これを教育の問題に当てはめて考えた時、ようするに親がバカでも子は育つ、教師がアホでも子は育つ、システムに期待せずとも子は育つ、という社会が壊れているという事が最大の問題です。そこを考えないと何の解決策にもなりません。親学とかちょっと前に騒ぎましたが、それでどうにかなるような親なら、ハナっからちゃんと子供を育てているでしょう。
また子供が悪いと言うのは構いませんが、ハッキリ言ってそれらは全部大人のせいですので、そんな事を言った所でどうにもなりません。体罰によって抑止するというような言い方をする人もいますが、個人的には否定しませんが、現状のこの国の空気、親達のマインドを考えれば、実現不可能な事を騒いでもしょうがありません。
子供相手に重罰化を叫んでいますが、重罰化というのは抑止効果には殆ど意味がありません。これは単に社会を守る為に、まともな教育を諦めて、子供を排除して強制的に教育を施すという事ですから、建前上は子供の為なのかもしれませんが、本音の所は大人達の不安を担保する為です。
現状のアーキテクチャーでは、イジメの問題なども処方箋もないし、根絶どころか減らす事も出来ないでしょう。まあこの手の問題は子供に限った事でもありませんし、古今東西、老若男女、あらゆる共同体に見られる現象ですので、教育のアーキテクチャーを劇的に変化させたとしても、減らす事は出来るかもしれませんが無くす事は無理でしょう。だからこれもイジメを減らすとか無くすとかいう事より、イジメがあっても生きて行ける社会をどう構築するかという問題だと思います。
そして子供が能力によって選別と動機付けを受けて、エリートに育って行くという必要はあります。そうしなければ社会は回りません。しかしそこからこぼれてしまった子供達が諦めて生きなければならない社会というのは問題です。社会にはそれぞれ役割分担があります。エリートにはエリートの、それ以外の人にはそれ以外の。
エリートになる事の出来ない人達の行き場所を流動化するのが、現在のグローバライゼーションの流れです。これは問題は沢山ありますが、どうにもならない問題でもあります。戦後経済復興の中、そういう人達が国やアーキテクチャーに依存して、裕福な生活が出来た社会というのは、おそらく有史以来珍しいケースかもしれません。初期手持ち量をリセットして格差をシャッフル出来るのは、戦争、革命、大恐慌、デフォルトなど、悲劇的な状況を必要とします。そういうものが無い現在、格差の固定化なんて言い方もありますが、ある意味仕方の無い側面もある。格差や貧困というのはいつの時代でもあったものですし、それがむしろ普通の状態で、逆にそれが担保出来た戦後の経済復興こそ歴史的にいえば非常に稀な事です。これは戦争によってインフラが破壊され、大量に人口が減ったからでもあります。血のながれる側面から真逃れるという恩恵を受けつつ、戦後復興再近代化の時のような恩恵を受けるのは難しいのだと思います。
だからこの当時の思い出や成功体験に浸って、それを基準にした価値観で幸福を考えていても袋小路に陥ってしまいます。ものがあれば人は確かに幸せになれる可能性はあるでしょう。だけどそれだけでは幸せになれない場合もある。ものがあるかないかは単なる必要条件です。結局は心の問題に行き着きます。
しかし現在の子供達が置かれている状況は、選別と動機付けでエリート教育について行けない子供の進むべき道に全く希望が無い。いくら流動化しているからとは言え、それじゃあんまりです。親や教師そして社会までもがそういう子供達に方向性を示す事が出来ない。
親や教師がバカだと逃げ道が全く無い。例えそういう子供がエリートになれたとしてもそれで人生終わりってわけではありません。まともに成長する為に必要なものはエリート教育だけすればいいというわけではありません。いろいろな体験が血や肉になり、経験や知識になり、幸福をつかみ取る方法を学べるわけです。それを子供が学ぶ機会が無い。
そして決定的なのは、これは大人もそうですが、入れ替え不可能な承認が不足しています。条件付きの承認や内輪受けの承認ばかりです。これがこの国を支配しています。子供達が直面している承認不足は、大人が昔や昔を語った物語を懐かしみ承認不足を嘆く構造とは決定的に違います。そんな甘っちょろい問題じゃありません。
親や教師、そして国など子供の教育に関わるすべてに言える事は、それぞれにはそれぞれの役割があり、出来る事は限られているという事です。親は単なる親でしかありません。かけがえがなかろうがなんだろうが、所詮親に出来る事など限られているわけです。教師もそうです。学校や家庭に子供達を囲っているあまり、あまりにもその責任者たるべく親や教師に出来もしない役割を多く抱え込ませすぎているのではないでしょうか。学校の先生なんて所詮学校の先生でしかありません。これは昔から何一つ変わっていない。親もそうです。所詮子供は親の子供でしかない。親がどんな人間か考えればそれ以上期待するのは酷な話です。
昔の親や教師が優れていて、今の親や教師がダメになっているわけでもなんでもありません。むしろ今の親や教師の方がよりいっそう余計な事まで引き受けてしまっています。子供が一見、親の能力を引き継いでいないように見えたからってヒステリックになってもしょうがありません。親や教師がダメになっていないのと一緒で、子供もダメになっているわけではない。社会が変わっただけです。不安のポピュリズム的メディアに乗せられて、ダメ教師、バカ親、子供の劣化ぶりを煽られている構造が何しろ問題です。
戦後の再復興した近代というのは濃厚な血縁関係や人間関係を否定し、束縛から自由になるという事を選択していますので、これは当然の帰結なのです。社会がこのように変容したのは我々が選択した事です。お気楽な入れ替え可能な関係性を選択したわけです。社会が担っていた役割を捨て去ってしまったわけですから、親や教師が余計な事まで抱え込まなくてはならないのも当然です。
しかし結局親は親でしかないし教師は教師でしかない。社会が担っていた役割の変わりなんてそう簡単に出来ません。そう簡単に出来ないのに抱えている。出来もしないのにやらなきゃいけない状況を選択してしまった。
そのあげく親や教師が本来担っていた領域での役割を忘れてしまっている。子供にその役割りとして裸の承認、入れ替え不可能の人格を肯定する承認を与えていない。そして与え方も忘れてしまっている。濃密な関係性を否定した所から出発した、戦後再復興近代化、高度経済成長。その中で社会として個人に入れ替え不可能の承認を与える場が消えてしまいました。
それは最近のグローバライゼーションの流れ、更なる過剰流動性によって、益々社会は役割とマニュアルに基づいた、簡単に言えばその役割を担っていれば、個人の人格などどうでもいい、マニュアルに従う事を要求され、個人的な差異を求められていない画一化された社会、恋人や家族、そして友人、同僚、クラスメートであっても、金持ちだから、勉強ができるから、やさしいから、顔がいいから、仕事が出来るから、面白いから、お互いの距離を大切にするとかいいながら、互いに干渉しあわない関係、深く関わり傷つくのを避け、ちょっと傷つくと大騒ぎする。人間は傷ついたり失敗しないと賢くならないのに、それを避け、条件付きの承認合戦、その条件を満たしていれば誰でもいいという関係性ばかり、自分がいいと思うものを他人に否定されたくない、自分の気持ちが一番、同じ価値観を共有出来る人間ばかりと内輪受けのコミュニケーション、マスターベーション的承認合戦、そういうクソみたいな関係性ばかりになってしまいました。あげくの果てにノスタルジーな感傷に浸って、レトロスペクティブのもに大人達は逃げ込み昔は良かった的なコミュニケーションで失ったものを懐かしんでいる。これではどうにもならない。
我々大人はかつてあったものを知っていたり、そういうくだらないノスタルジックなものを見たり需要したりしているので、何を失ったのか漠然とわかっている。しかしそれは自分達が選択して来た結果であり、こんなはずじゃないと嘆いても、子供達の環境は何一つ変わらないし、そもそも変える気もありそうに見えない。
今の子供達はもうすでに喪失感なんてありません。元々無いのだから、取り戻そうとも思っていない。そういう世の中で何とかうまく立ち回ろうと、入れ替え可能な承認によってかろうじて社会と繋がっています。そもそも危機感も無いのだから、それがどういう事なのかもわかっていないし知りもしない。濃密な入れ替え不可能な承認がどれだけ実りのあるものかも知らない。友人であっても親や教師であっても、必要以上に接近して、干渉されたり面倒くさい人間関係から回避し、傷つかない立ち位置で世の中を上手く渡って行く術を模索している。大人が言っている事に従っていても、いい人生を歩めるとは限らないと言う事に、子供は薄々気付いている。
これらは大人が作り出した社会に順応しているだけで、子供がおかしくなったわけでもなんでもありません。昔を懐かしんでいるヒマがあるのなら、子供に承認を与える事です。それに社会が壊れていると嘆いていても始まりません。社会は確かにかつてあった形とは変わっていますので、壊れているように見える。しかし社会は無くなっていないし、厳然として目の前にある。子供達は変容した社会にうまく対応しようとしているだけで、大人のような喪失感すらない、これが決定的な世代間の破断になってしまっている。
結局条件付きの承認と言うけれど、人間なんて何かに影響を受けたりしながら自己を確立して行くわけで、自分が自分と思っている自意識ですら、本当の所は何かによって単に生み出された錯覚でしかないのかもしれません。だから本当の意味での個人の裸の承認なんて無いのかもしれません。でも、それでも人は裸の入れ替え不可能の承認を必要とします。人間はその承認の為なら簡単に命も投げ出せる理不尽な存在だからです。
つづく!!!!
これを教育の問題に当てはめて考えた時、ようするに親がバカでも子は育つ、教師がアホでも子は育つ、システムに期待せずとも子は育つ、という社会が壊れているという事が最大の問題です。そこを考えないと何の解決策にもなりません。親学とかちょっと前に騒ぎましたが、それでどうにかなるような親なら、ハナっからちゃんと子供を育てているでしょう。
また子供が悪いと言うのは構いませんが、ハッキリ言ってそれらは全部大人のせいですので、そんな事を言った所でどうにもなりません。体罰によって抑止するというような言い方をする人もいますが、個人的には否定しませんが、現状のこの国の空気、親達のマインドを考えれば、実現不可能な事を騒いでもしょうがありません。
子供相手に重罰化を叫んでいますが、重罰化というのは抑止効果には殆ど意味がありません。これは単に社会を守る為に、まともな教育を諦めて、子供を排除して強制的に教育を施すという事ですから、建前上は子供の為なのかもしれませんが、本音の所は大人達の不安を担保する為です。
現状のアーキテクチャーでは、イジメの問題なども処方箋もないし、根絶どころか減らす事も出来ないでしょう。まあこの手の問題は子供に限った事でもありませんし、古今東西、老若男女、あらゆる共同体に見られる現象ですので、教育のアーキテクチャーを劇的に変化させたとしても、減らす事は出来るかもしれませんが無くす事は無理でしょう。だからこれもイジメを減らすとか無くすとかいう事より、イジメがあっても生きて行ける社会をどう構築するかという問題だと思います。
そして子供が能力によって選別と動機付けを受けて、エリートに育って行くという必要はあります。そうしなければ社会は回りません。しかしそこからこぼれてしまった子供達が諦めて生きなければならない社会というのは問題です。社会にはそれぞれ役割分担があります。エリートにはエリートの、それ以外の人にはそれ以外の。
エリートになる事の出来ない人達の行き場所を流動化するのが、現在のグローバライゼーションの流れです。これは問題は沢山ありますが、どうにもならない問題でもあります。戦後経済復興の中、そういう人達が国やアーキテクチャーに依存して、裕福な生活が出来た社会というのは、おそらく有史以来珍しいケースかもしれません。初期手持ち量をリセットして格差をシャッフル出来るのは、戦争、革命、大恐慌、デフォルトなど、悲劇的な状況を必要とします。そういうものが無い現在、格差の固定化なんて言い方もありますが、ある意味仕方の無い側面もある。格差や貧困というのはいつの時代でもあったものですし、それがむしろ普通の状態で、逆にそれが担保出来た戦後の経済復興こそ歴史的にいえば非常に稀な事です。これは戦争によってインフラが破壊され、大量に人口が減ったからでもあります。血のながれる側面から真逃れるという恩恵を受けつつ、戦後復興再近代化の時のような恩恵を受けるのは難しいのだと思います。
だからこの当時の思い出や成功体験に浸って、それを基準にした価値観で幸福を考えていても袋小路に陥ってしまいます。ものがあれば人は確かに幸せになれる可能性はあるでしょう。だけどそれだけでは幸せになれない場合もある。ものがあるかないかは単なる必要条件です。結局は心の問題に行き着きます。
しかし現在の子供達が置かれている状況は、選別と動機付けでエリート教育について行けない子供の進むべき道に全く希望が無い。いくら流動化しているからとは言え、それじゃあんまりです。親や教師そして社会までもがそういう子供達に方向性を示す事が出来ない。
親や教師がバカだと逃げ道が全く無い。例えそういう子供がエリートになれたとしてもそれで人生終わりってわけではありません。まともに成長する為に必要なものはエリート教育だけすればいいというわけではありません。いろいろな体験が血や肉になり、経験や知識になり、幸福をつかみ取る方法を学べるわけです。それを子供が学ぶ機会が無い。
そして決定的なのは、これは大人もそうですが、入れ替え不可能な承認が不足しています。条件付きの承認や内輪受けの承認ばかりです。これがこの国を支配しています。子供達が直面している承認不足は、大人が昔や昔を語った物語を懐かしみ承認不足を嘆く構造とは決定的に違います。そんな甘っちょろい問題じゃありません。
親や教師、そして国など子供の教育に関わるすべてに言える事は、それぞれにはそれぞれの役割があり、出来る事は限られているという事です。親は単なる親でしかありません。かけがえがなかろうがなんだろうが、所詮親に出来る事など限られているわけです。教師もそうです。学校や家庭に子供達を囲っているあまり、あまりにもその責任者たるべく親や教師に出来もしない役割を多く抱え込ませすぎているのではないでしょうか。学校の先生なんて所詮学校の先生でしかありません。これは昔から何一つ変わっていない。親もそうです。所詮子供は親の子供でしかない。親がどんな人間か考えればそれ以上期待するのは酷な話です。
昔の親や教師が優れていて、今の親や教師がダメになっているわけでもなんでもありません。むしろ今の親や教師の方がよりいっそう余計な事まで引き受けてしまっています。子供が一見、親の能力を引き継いでいないように見えたからってヒステリックになってもしょうがありません。親や教師がダメになっていないのと一緒で、子供もダメになっているわけではない。社会が変わっただけです。不安のポピュリズム的メディアに乗せられて、ダメ教師、バカ親、子供の劣化ぶりを煽られている構造が何しろ問題です。
戦後の再復興した近代というのは濃厚な血縁関係や人間関係を否定し、束縛から自由になるという事を選択していますので、これは当然の帰結なのです。社会がこのように変容したのは我々が選択した事です。お気楽な入れ替え可能な関係性を選択したわけです。社会が担っていた役割を捨て去ってしまったわけですから、親や教師が余計な事まで抱え込まなくてはならないのも当然です。
しかし結局親は親でしかないし教師は教師でしかない。社会が担っていた役割の変わりなんてそう簡単に出来ません。そう簡単に出来ないのに抱えている。出来もしないのにやらなきゃいけない状況を選択してしまった。
そのあげく親や教師が本来担っていた領域での役割を忘れてしまっている。子供にその役割りとして裸の承認、入れ替え不可能の人格を肯定する承認を与えていない。そして与え方も忘れてしまっている。濃密な関係性を否定した所から出発した、戦後再復興近代化、高度経済成長。その中で社会として個人に入れ替え不可能の承認を与える場が消えてしまいました。
それは最近のグローバライゼーションの流れ、更なる過剰流動性によって、益々社会は役割とマニュアルに基づいた、簡単に言えばその役割を担っていれば、個人の人格などどうでもいい、マニュアルに従う事を要求され、個人的な差異を求められていない画一化された社会、恋人や家族、そして友人、同僚、クラスメートであっても、金持ちだから、勉強ができるから、やさしいから、顔がいいから、仕事が出来るから、面白いから、お互いの距離を大切にするとかいいながら、互いに干渉しあわない関係、深く関わり傷つくのを避け、ちょっと傷つくと大騒ぎする。人間は傷ついたり失敗しないと賢くならないのに、それを避け、条件付きの承認合戦、その条件を満たしていれば誰でもいいという関係性ばかり、自分がいいと思うものを他人に否定されたくない、自分の気持ちが一番、同じ価値観を共有出来る人間ばかりと内輪受けのコミュニケーション、マスターベーション的承認合戦、そういうクソみたいな関係性ばかりになってしまいました。あげくの果てにノスタルジーな感傷に浸って、レトロスペクティブのもに大人達は逃げ込み昔は良かった的なコミュニケーションで失ったものを懐かしんでいる。これではどうにもならない。
我々大人はかつてあったものを知っていたり、そういうくだらないノスタルジックなものを見たり需要したりしているので、何を失ったのか漠然とわかっている。しかしそれは自分達が選択して来た結果であり、こんなはずじゃないと嘆いても、子供達の環境は何一つ変わらないし、そもそも変える気もありそうに見えない。
今の子供達はもうすでに喪失感なんてありません。元々無いのだから、取り戻そうとも思っていない。そういう世の中で何とかうまく立ち回ろうと、入れ替え可能な承認によってかろうじて社会と繋がっています。そもそも危機感も無いのだから、それがどういう事なのかもわかっていないし知りもしない。濃密な入れ替え不可能な承認がどれだけ実りのあるものかも知らない。友人であっても親や教師であっても、必要以上に接近して、干渉されたり面倒くさい人間関係から回避し、傷つかない立ち位置で世の中を上手く渡って行く術を模索している。大人が言っている事に従っていても、いい人生を歩めるとは限らないと言う事に、子供は薄々気付いている。
これらは大人が作り出した社会に順応しているだけで、子供がおかしくなったわけでもなんでもありません。昔を懐かしんでいるヒマがあるのなら、子供に承認を与える事です。それに社会が壊れていると嘆いていても始まりません。社会は確かにかつてあった形とは変わっていますので、壊れているように見える。しかし社会は無くなっていないし、厳然として目の前にある。子供達は変容した社会にうまく対応しようとしているだけで、大人のような喪失感すらない、これが決定的な世代間の破断になってしまっている。
結局条件付きの承認と言うけれど、人間なんて何かに影響を受けたりしながら自己を確立して行くわけで、自分が自分と思っている自意識ですら、本当の所は何かによって単に生み出された錯覚でしかないのかもしれません。だから本当の意味での個人の裸の承認なんて無いのかもしれません。でも、それでも人は裸の入れ替え不可能の承認を必要とします。人間はその承認の為なら簡単に命も投げ出せる理不尽な存在だからです。
つづく!!!!