教育委員会が悪い、モンスター・ペアレントが悪い、教師が悪い、校長が悪い、生徒が悪い、ゆとり教育が悪い、詰め込みが悪い、文科省が悪い、社会が悪い、国が悪い、消費経済が悪い、時代が悪い、グローバライゼーションが悪い、左翼が悪い、右翼が悪い、メディアが悪い・・・・・・・・
子供の教育の危機が最近更に加速して騒がれています。どういう子供に育てたくて騒いでいるのか今イチよくわからないのですが、勉強が出来るようになってほしいのか?生きて行く力を養いたいのか?はたまた元気に健やかに育ってほしいのか?どうなってほしいと思っているのでしょう?
幸せになってほしい。多くの大人はそう思うのでしょう。しかし何が幸せなのか、肝腎の大人達はわかっているのでしょうか?
子供達の教育が上手く機能していない状況は確かにあるのかもしれませんが、特に教育の問題は、誰が悪い、何のせいだ、という風に犯人探しをしていても、この状況では、それで是正される可能性があるのかと言うと、ほぼ有り得ません。
もちろん機会の平等を可能なかぎり担保するのは統治権力の責務であるという事になっていますから、もちろん彼らに責任はあるでしょう。しかし自由とは本来我々が望んだものでもあるという事になっています。彼らの無能を責める気持ちは理解出来ますが、その責任の一端は国民にもあります。結局国民の投票行動が国政に跳ね返ってくるという事を軽く見すぎて来た面は間違いなくあります。
教師にも、親にも、それぞれ責任はありますし、「誰々の責任だ」と断罪される対象にはそれぞれ責任があるのでしょう。いちいち書くのも面倒なので、本題に入りますが、これはようするに「私(私達)のせいでは無い」という事を確認しているにすぎませんから、ハッキリ言って時間の無駄です。何も言っていないのと一緒ですし、何の解決策も生みません。
また「私がその立場になればきちんと管理出来る」的な物言いをする人がよくいますが、これは無能な教師、バカ親、無責任な学校、教育委員会、国、それらのやり方を非難し、自分の有能さを単にアピールしているにすぎません。
例え実際にその人が有能で、何とか出来る能力を持っているのだとしても、大多数の親、教師、関係者は、そういう能力が無いから行き詰まっているわけで、有能さを自慢しても何の解決にもなりません。
またそういう物言いが結局己のポジショナリティを維持する為に、鍔迫り合いをしている大人の構図を形作っているわけですから、自分の有能さを自慢したいのかもしれませんが、自分はアホですと大騒ぎしているだけにしか見えませんので滑稽ですらあります。
忘れてはならないのは、自由というのは大切だという事になっています。
しかし自由とはいったいなんでしょう?
我々は何を自由に望んでいるのか?
そもそも我々は自由を望んでいるのか?
もう一度その意味をよく考える必要があるような気がします。何か対応策を取ろうと思えば、それは神様が引いた線ではありません。人が引いた線になります。我々という言葉は、必ず我々以外という存在を生み出します。
「人間が私という言葉を使って語り始めるその日から、彼はその愛しい自己を許されさえするかぎり押し出し、こうしてエゴイズムは前進してとどまる事を知らなくなる」
これはカントの言葉です。人間は自我が芽生えたその日から、私という言葉を使うようになるその日から、エゴイズムという袋小路に必ず陥ってしまう、これは不可避であると言っています。
もちろん程度の差はあるでしょう。しかし結局人は一人であり、からなず自分と他人の間に線が引かれています。人の事は例え愛する存在や家族であっても、どこまでいっても想像する事しか出来ません。自分は自分でしか無く、自分以外の事は正確にはわからない。
どんな大哲学者でも賢人でも、オカルトが実在するかどうかはわきにおいて、メディアで大騒ぎされる占い師であっても正確にはわからない。
自分の事だってよくわかっていない。だから第三者の助言はそういう意味では必要です。
他人の事を想像して思いやるという範囲も所詮人間一人の限界などたかがしれていますし、正確には自分の事も他人の事も正確に把握出来るわけではない。
しかし、コギトエルゴスム、「我思うゆえに我あり」デカルトの第一原理、これだけは少なくとも正常な人間であれば唯一確認出来る公理です。私は私であるという事を確認し、自我を認めた先には必ずエゴイズムという袋小路が待っている。
私が何かを語る時、私という存在を切り離して語るという事は非常に難しい事です。誰かのため、何かのため、そういう言い方で何かを語る時、自己を切り離して考えるという事は空論や無責任な物言いに陥りやすい危険性がありますし、自己を切り離さずに語れば、エゴイズムに帰結する危険性を内包している。それが自分と他人の間に隔てられた壁であり、人間である以上避けられない制約でもあるわけです。人は結局アウトプットもインプットも自己というフィルターを通さないと出来ない。
である以上、人間が自由を語る時、必ず恣意的な線は消せません。簡単にエゴイズムのぶつかり合いに陥ってしまう危険性を抱えているのです。自己責任という言葉があります。これも一歩間違えると、エゴイズムに陥ってしまう危険性があります。自由とは、そういうものでもあるわけです。そこを認識して自由と向き合わないと、ただ無軌道な物理的自由、無秩序に陥り、結果的に何も出来ない不自由に辿り着いてしまいます。
教育の問題を考える時、あまりにも混沌とした状況に陥っている為に、何かクリアカットなソリューションを求めたくなる方向性があります。人は知恵の実を食べてしまった存在である以上、カオスに耐えられるほど強い生き物ではない。過剰な流動化という自由にさらされ、認識出来る事がキャパシティを超えていれば、確かなもの、簡単には覆らないもの、絶対的なものを求めてしまう。そうすると自分のよって立つ旗印の正しさを喚きあう、実りの無い袋小路に、更にアクセルを踏んで行く事になってしまうのです。
お互いを排除していてもしょうがありません。現状は簡単に変わらない。しかし子供達は今この現在もこの状況の中で育っているわけです。だから個々の親は、自分の子供が将来困らないようにと、それが正しいかどうかはわきにおいて、いろんな事をしているわけです。人にやさしくとか、世の中は金だけではないとかいいながら、競争に勝て!!他人を蹴落とせ!!という風に。
個々のエゴイズムがぶつかりあうのが自由の帰結であるのなら、それを断罪してもしょうがありません。だからと言って不自由を差し出し、何か絶対的と思えるものに帰依する生き方というのを選択するのは自由ですが、それでもやっぱり何が正しいのかをめぐっての鍔迫り合いに陥ってしまいますし、国全体でそんな事をやるのも歴史が繰り返して来た悲劇を例に挙げればロクなもんじゃありません。
個々の親がそれぞれ最適化をはかるのは止めようもありません。それを断罪してもどうにもならない。全体的にどういう方向性を目指せば、みんなが幸せになれるのかを考えないと意味がない。
子供達がみんな勝ち組になれて、お金を沢山儲けて、所謂紋切り型の成功を全員がおさめるような教育など不可能です。親が全員子供の幸福の為の最適化を間違えないように教育するなんて不可能です。ダメ教師を全員クビにして、優秀な教師だけをスクリーニングするなんて不可能です。必ずそこには切りくずや歩留まりが出てくる。
つづく!!
子供の教育の危機が最近更に加速して騒がれています。どういう子供に育てたくて騒いでいるのか今イチよくわからないのですが、勉強が出来るようになってほしいのか?生きて行く力を養いたいのか?はたまた元気に健やかに育ってほしいのか?どうなってほしいと思っているのでしょう?
幸せになってほしい。多くの大人はそう思うのでしょう。しかし何が幸せなのか、肝腎の大人達はわかっているのでしょうか?
子供達の教育が上手く機能していない状況は確かにあるのかもしれませんが、特に教育の問題は、誰が悪い、何のせいだ、という風に犯人探しをしていても、この状況では、それで是正される可能性があるのかと言うと、ほぼ有り得ません。
もちろん機会の平等を可能なかぎり担保するのは統治権力の責務であるという事になっていますから、もちろん彼らに責任はあるでしょう。しかし自由とは本来我々が望んだものでもあるという事になっています。彼らの無能を責める気持ちは理解出来ますが、その責任の一端は国民にもあります。結局国民の投票行動が国政に跳ね返ってくるという事を軽く見すぎて来た面は間違いなくあります。
教師にも、親にも、それぞれ責任はありますし、「誰々の責任だ」と断罪される対象にはそれぞれ責任があるのでしょう。いちいち書くのも面倒なので、本題に入りますが、これはようするに「私(私達)のせいでは無い」という事を確認しているにすぎませんから、ハッキリ言って時間の無駄です。何も言っていないのと一緒ですし、何の解決策も生みません。
また「私がその立場になればきちんと管理出来る」的な物言いをする人がよくいますが、これは無能な教師、バカ親、無責任な学校、教育委員会、国、それらのやり方を非難し、自分の有能さを単にアピールしているにすぎません。
例え実際にその人が有能で、何とか出来る能力を持っているのだとしても、大多数の親、教師、関係者は、そういう能力が無いから行き詰まっているわけで、有能さを自慢しても何の解決にもなりません。
またそういう物言いが結局己のポジショナリティを維持する為に、鍔迫り合いをしている大人の構図を形作っているわけですから、自分の有能さを自慢したいのかもしれませんが、自分はアホですと大騒ぎしているだけにしか見えませんので滑稽ですらあります。
忘れてはならないのは、自由というのは大切だという事になっています。
しかし自由とはいったいなんでしょう?
我々は何を自由に望んでいるのか?
そもそも我々は自由を望んでいるのか?
もう一度その意味をよく考える必要があるような気がします。何か対応策を取ろうと思えば、それは神様が引いた線ではありません。人が引いた線になります。我々という言葉は、必ず我々以外という存在を生み出します。
「人間が私という言葉を使って語り始めるその日から、彼はその愛しい自己を許されさえするかぎり押し出し、こうしてエゴイズムは前進してとどまる事を知らなくなる」
これはカントの言葉です。人間は自我が芽生えたその日から、私という言葉を使うようになるその日から、エゴイズムという袋小路に必ず陥ってしまう、これは不可避であると言っています。
もちろん程度の差はあるでしょう。しかし結局人は一人であり、からなず自分と他人の間に線が引かれています。人の事は例え愛する存在や家族であっても、どこまでいっても想像する事しか出来ません。自分は自分でしか無く、自分以外の事は正確にはわからない。
どんな大哲学者でも賢人でも、オカルトが実在するかどうかはわきにおいて、メディアで大騒ぎされる占い師であっても正確にはわからない。
自分の事だってよくわかっていない。だから第三者の助言はそういう意味では必要です。
他人の事を想像して思いやるという範囲も所詮人間一人の限界などたかがしれていますし、正確には自分の事も他人の事も正確に把握出来るわけではない。
しかし、コギトエルゴスム、「我思うゆえに我あり」デカルトの第一原理、これだけは少なくとも正常な人間であれば唯一確認出来る公理です。私は私であるという事を確認し、自我を認めた先には必ずエゴイズムという袋小路が待っている。
私が何かを語る時、私という存在を切り離して語るという事は非常に難しい事です。誰かのため、何かのため、そういう言い方で何かを語る時、自己を切り離して考えるという事は空論や無責任な物言いに陥りやすい危険性がありますし、自己を切り離さずに語れば、エゴイズムに帰結する危険性を内包している。それが自分と他人の間に隔てられた壁であり、人間である以上避けられない制約でもあるわけです。人は結局アウトプットもインプットも自己というフィルターを通さないと出来ない。
である以上、人間が自由を語る時、必ず恣意的な線は消せません。簡単にエゴイズムのぶつかり合いに陥ってしまう危険性を抱えているのです。自己責任という言葉があります。これも一歩間違えると、エゴイズムに陥ってしまう危険性があります。自由とは、そういうものでもあるわけです。そこを認識して自由と向き合わないと、ただ無軌道な物理的自由、無秩序に陥り、結果的に何も出来ない不自由に辿り着いてしまいます。
教育の問題を考える時、あまりにも混沌とした状況に陥っている為に、何かクリアカットなソリューションを求めたくなる方向性があります。人は知恵の実を食べてしまった存在である以上、カオスに耐えられるほど強い生き物ではない。過剰な流動化という自由にさらされ、認識出来る事がキャパシティを超えていれば、確かなもの、簡単には覆らないもの、絶対的なものを求めてしまう。そうすると自分のよって立つ旗印の正しさを喚きあう、実りの無い袋小路に、更にアクセルを踏んで行く事になってしまうのです。
お互いを排除していてもしょうがありません。現状は簡単に変わらない。しかし子供達は今この現在もこの状況の中で育っているわけです。だから個々の親は、自分の子供が将来困らないようにと、それが正しいかどうかはわきにおいて、いろんな事をしているわけです。人にやさしくとか、世の中は金だけではないとかいいながら、競争に勝て!!他人を蹴落とせ!!という風に。
個々のエゴイズムがぶつかりあうのが自由の帰結であるのなら、それを断罪してもしょうがありません。だからと言って不自由を差し出し、何か絶対的と思えるものに帰依する生き方というのを選択するのは自由ですが、それでもやっぱり何が正しいのかをめぐっての鍔迫り合いに陥ってしまいますし、国全体でそんな事をやるのも歴史が繰り返して来た悲劇を例に挙げればロクなもんじゃありません。
個々の親がそれぞれ最適化をはかるのは止めようもありません。それを断罪してもどうにもならない。全体的にどういう方向性を目指せば、みんなが幸せになれるのかを考えないと意味がない。
子供達がみんな勝ち組になれて、お金を沢山儲けて、所謂紋切り型の成功を全員がおさめるような教育など不可能です。親が全員子供の幸福の為の最適化を間違えないように教育するなんて不可能です。ダメ教師を全員クビにして、優秀な教師だけをスクリーニングするなんて不可能です。必ずそこには切りくずや歩留まりが出てくる。
つづく!!