前回の続きです。
何を持って自由と言うのかこれは難しい問題があります。束縛がなければ自由だ、という言い方も出来ますが、端から見て、本来行使出来る選択肢が選択出来ない、その可能性が遮断されている状況を不自由と呼ぶのであれば、邪魔されたり脅されて出来ないというビルマ的不自由ももちろんありますが、必要な情報を知らされていなかったり、情報を知らされたり知る事が出来たとしても、それを現実化するための選択肢もなければ教育も受けていなかったり、その教育自体も受ける事が出来なかったりすれば、それは不自由と変わらない。
看板の色、大きさ、高さ、字の大きさや色、字体、店内の内装、照明の明るさ、冷暖房の温度、テーブルの配置、椅子の堅さ、有線の音量、店内のディスプレイ、店員のマニュアルに基づいた対応、メニューの配置、様々な設計されたアーキテクチャーによって、客の回転率をコントロールされ、売れ筋の商品を消費し、自由に選択している気がするだけで、実はアーキテクチャーに誘引され、多くがコントロール下に置かれている。店に入れとも出て行けとも言われるわけでもないし、何を買えとかこれを食えとか命令されているわけでもないので、不自由を認識する事は難しいが、これは自由に選択している結果でもなんでもない。
最近問題になっている沖縄の教科書問題。軍関与があったのかなかったのかという問題も、軍人が半ば強制的に関与した事はほぼあったであろう蓋然性は高いと思いますが、軍の直接関与があったと決定付けるような証拠もないのもまた事実。しかし銃を持った帝国軍人がいて、アメリカに占領されればほぼ酷い目にあう、皆殺しにされるという事が間違いないと言われ、一億層玉砕と叫ばれ、生きて敵の辱めを受けるなと教育された状況で、選択肢があったのかと考えれば、選択肢が日本国家によって遮断されているという見方も取れるわけで、表面的な命令があったとかなかったとか言い争っていても不毛な話です。
暴力団の恐ろしい輩を相手にして、例えば何でも言いたい事は言ってくれと言われたとします。しかし相手が恐ろしい存在だという事が常識的にわかっている人間であれば、自由だと言われても自由には言えるわけない。更に相手が銃をちらつかせていれば当然さらに自ら自由を制限せざるを得ない。
例えばそういう相手とのコミュニケーションであれば、咳払い一つだとか、言葉でも、あんたの言いたい事はわかったよ、と言われるだけでも、例えばそろそろいい加減にしないと殺すぞ、とか、痛い目にあいたくなかったら黙っていろ、というような深読みだって出来るわけです。相手が直接脅すような言葉を言っていなくとも、立場と関係性で裏の言葉というものが出て来ます。それで脅していないそんな事は言った覚えはないと言えばそれは嘘ではありませんが、関係性やその時の状況をひも解けば、言語でのコミュニケーションでは汲む事の出来ない、共通合意に基づく裏の言葉にならない言葉というのが存在するわけです。
そこまで強制的に自由を制限されなくとも、例えばメディアでは社内での言論の自由の問題というのもある。自由だと言われてもスポンサーの意向とか、自分の生活とか、そういうものをはかりにかけて、勝手に自己規制してしまう。クビになったり飛ばされたりするのではかなわない。例えば生中継の報道番組なら言おうと思えば何でも言えるが、実際にはそれは出来ない。黙っていれば収入は安定しているし、将来性も今の所問題ない、そうすればリスクを冒して、自由に真実を報道するのなんて、普通の人間であればバカらしくなって当然でもある。
スーパーで食料品を買う際、多くの人が食品表示を見て、これは国産だから大丈夫とか、添加物が入っているかいないか、調べています。しかし多くの人は食品表示法そのものは知らない。何をどうやって書く事になっているのかというルールを知らないのに、書いてあるものだけを見たって無意味。食品表示法は調べれば見ようと思えば誰でも見れる。全くの自由です。しかしそれをせずに国産だとか何々産だとか調べている。
どういう風に加工されているのか、どういう風に調理されているのかという事は知らないで、食品表示だけを見て安全かどうかを判断している。これでは確かに自由に選択しているのかもしれませんし、制約もないのですが、全然自由でもなんでもない。
これは医療や薬物などにも言えますし、それこそありとあらゆる分野でこういう側面がある。
ヤフーでもグーグルでもインターネット上での検索システムによって何かを調べる。そうすると、多くの人が見ているものが多くの人々の合意になり、選択している気はするけれど、同じような見解や感覚が広がっても行く。
どこかに旅行に行こうと思い、ネット上で検索をかける。紅葉、花見、それぞれのシーズン人気の場所というのがあるわけで、自分で選択して選んでいるつもりになっても、それはネット上でアグリゲートされた結果に誘引されて、自分で選択していると錯覚する事になる。
ある地域に旅行に出かけるとして、その周辺で旨い物を探す、名所を探す、特産品を探す為に検索する。そうすると人気のあるものが引っかかってくる。その中から必然的に選択していれば、旅行が本来持っていた楽しみ、知らない土地に行って、旅をするという楽しみは面倒くさいし、手間もかかるので、あらかじめ調べて知っている場所にただ行くという風になり、すべて計算可能なものになってしまう。凄いとよばれている事や、旨いと言われているものを追体験して来るだけ、それでは旅行が本来持っていた楽しみが削がれ、自由に選択しているわけでもなんでもなくなってしまう。単なるマニュアルに書いてある通りの事をマニュアル通りに実行するのと変わらなくなってしまう。
マニュアル通りの日常、代わり映えのしない日常の気分転換を、マニュアルに基づいて旅に行く。これが現代の閉鎖性に直結する問題でもあります。
自由に選択していると思っている事の殆どが、選択させられているだけなのが現代社会。ロールとマニュアルに支配された社会では、日常のコミュニケーションで人格は関係なくなり、ロールとマニュアルに従っているという事が要求される。条件付きの承認というわけです。同じ条件を持っていれば入れ替え可能な社会、夫婦や恋人であっても、家族であっても、共同体に置いても、属性や固有名は関係なくなり、入れ替え不可能な人格的なものはどうでも良くなり、たいして意味のないものになり、コミュニケーションにおいて不必要になってしまいます。
それに社会は適応し、以前は人を一人前に育て上げるという事に対して、社会がコストと時間をかけて、教育訓練し、世間的なものや、共同体の雑多なコミュニケーションによって揉まれて成長し、主体化して、命令されなくとも一定のフォーマットにしたがって、一人前の大人として まともに振る舞えるようにしていたものが、段々面倒くさいという事もあるし、入れ替え可能な社会では難しいので、人格的に多少問題があっても、アーキテクチャーによって、快不快の感覚さえあれば、一定のフォーマットに従って振る舞えるようにシステムそのものを作ってしまうという方向に社会は進んでいます。
個人にいちいちコストをかけて一人前の大人に育て上げる事など、かったるいというわけです。それよりはある一定の枠に放っておいてもおさまるようなアーキテクチャーによって管理し、その枠から外れた人間に対しては重罰化で徹底対処、もしくは自己責任原則という事で、ダメなのは頑張っていないからだというプレッシャーによって抑圧する事になるわけです。
主観的に自由だと思う事の多くはすでに錯覚であり、たいした問題ではなくなりつつあります。選ぶ自由は良いけれど、誰がその選択肢を作っているのか。「三択問題」問題というやつです。設計図は誰が書いているのか。
明確な主体や存在があればまだ幸せです。それを打破すればそこから脱却出来る可能性があるからです。ひょっとすると、これが多くの人々が望んだ結果のアグリゲートされた合成の誤謬であり、そんな悪しき意志などどこにもない可能性だってあるわけです。我々の共通合意が自らリミッターをかけて自由を捨て去っているのかもしれないのです。
そういう社会に我々は生きていて、表面的な邦人ジャーナリストが撃ち殺されたという悲劇に誘引されて、ビルマでの問題を余所事として消費しているような気がするのであります。
水が高い所から低い所へ流れるが如く、人は易きに流れ、便利さを求め、結果的に自由までも放棄してしまおうとさえしています。世界の流れは国民国家を否定し、自由主義的帝国主義に時代はシフトしつつあります。以前はそれに対抗するためにファシズムやコミュニズムが台頭し、世界大戦になったわけですが、今はそういう時代でもありません。
しかしこの国でも軽いファシズムというよりボナパルティズム的なものが、すべてを代表する事によって、議会制の諸党派の対立をアウフヘーベン、止揚してしまうような形態が台頭したりもしています。今は若干スイングバックの感はありますが、何となく絶対的なものや普遍的な善を求めるが如く、クリアカットな解決策を求め、多様性を失い、報道は単純な二項対立的な図式で物事を切って行きます。我々がこの流れに対して無自覚であり続けるのなら、時代は再び繰り返されるしかありません。
自由というのはあらかじめあって、それを無償で延々と得られるものでは、国家という枠組みがある以上残念ながらありません。我々が自覚的にたえず意識しておかないと、むしろ望んでそれを失う事を選択して行く事にもなりかねません。自由というのは責任が伴い時に苦しかったりします。主体性を持ち何かを判断し続けるという事は疲れるものでもあります。だからその弱みに依存と言う麻薬がいつでも入り込む可能性があるわけです。それが宗教であったり、ボナパルティズムであったり、何かの思想であったりするわけです。
ビルマの報道を見ていて、そんな事を考えてしまいました。最後に日本人ジャーナリスト長井健司さんのご冥福をお祈りします。少なくとも彼のおかげで日本ではこの問題に光が当たりました。それを無駄にしない事を願って止みません。
何を持って自由と言うのかこれは難しい問題があります。束縛がなければ自由だ、という言い方も出来ますが、端から見て、本来行使出来る選択肢が選択出来ない、その可能性が遮断されている状況を不自由と呼ぶのであれば、邪魔されたり脅されて出来ないというビルマ的不自由ももちろんありますが、必要な情報を知らされていなかったり、情報を知らされたり知る事が出来たとしても、それを現実化するための選択肢もなければ教育も受けていなかったり、その教育自体も受ける事が出来なかったりすれば、それは不自由と変わらない。
看板の色、大きさ、高さ、字の大きさや色、字体、店内の内装、照明の明るさ、冷暖房の温度、テーブルの配置、椅子の堅さ、有線の音量、店内のディスプレイ、店員のマニュアルに基づいた対応、メニューの配置、様々な設計されたアーキテクチャーによって、客の回転率をコントロールされ、売れ筋の商品を消費し、自由に選択している気がするだけで、実はアーキテクチャーに誘引され、多くがコントロール下に置かれている。店に入れとも出て行けとも言われるわけでもないし、何を買えとかこれを食えとか命令されているわけでもないので、不自由を認識する事は難しいが、これは自由に選択している結果でもなんでもない。
最近問題になっている沖縄の教科書問題。軍関与があったのかなかったのかという問題も、軍人が半ば強制的に関与した事はほぼあったであろう蓋然性は高いと思いますが、軍の直接関与があったと決定付けるような証拠もないのもまた事実。しかし銃を持った帝国軍人がいて、アメリカに占領されればほぼ酷い目にあう、皆殺しにされるという事が間違いないと言われ、一億層玉砕と叫ばれ、生きて敵の辱めを受けるなと教育された状況で、選択肢があったのかと考えれば、選択肢が日本国家によって遮断されているという見方も取れるわけで、表面的な命令があったとかなかったとか言い争っていても不毛な話です。
暴力団の恐ろしい輩を相手にして、例えば何でも言いたい事は言ってくれと言われたとします。しかし相手が恐ろしい存在だという事が常識的にわかっている人間であれば、自由だと言われても自由には言えるわけない。更に相手が銃をちらつかせていれば当然さらに自ら自由を制限せざるを得ない。
例えばそういう相手とのコミュニケーションであれば、咳払い一つだとか、言葉でも、あんたの言いたい事はわかったよ、と言われるだけでも、例えばそろそろいい加減にしないと殺すぞ、とか、痛い目にあいたくなかったら黙っていろ、というような深読みだって出来るわけです。相手が直接脅すような言葉を言っていなくとも、立場と関係性で裏の言葉というものが出て来ます。それで脅していないそんな事は言った覚えはないと言えばそれは嘘ではありませんが、関係性やその時の状況をひも解けば、言語でのコミュニケーションでは汲む事の出来ない、共通合意に基づく裏の言葉にならない言葉というのが存在するわけです。
そこまで強制的に自由を制限されなくとも、例えばメディアでは社内での言論の自由の問題というのもある。自由だと言われてもスポンサーの意向とか、自分の生活とか、そういうものをはかりにかけて、勝手に自己規制してしまう。クビになったり飛ばされたりするのではかなわない。例えば生中継の報道番組なら言おうと思えば何でも言えるが、実際にはそれは出来ない。黙っていれば収入は安定しているし、将来性も今の所問題ない、そうすればリスクを冒して、自由に真実を報道するのなんて、普通の人間であればバカらしくなって当然でもある。
スーパーで食料品を買う際、多くの人が食品表示を見て、これは国産だから大丈夫とか、添加物が入っているかいないか、調べています。しかし多くの人は食品表示法そのものは知らない。何をどうやって書く事になっているのかというルールを知らないのに、書いてあるものだけを見たって無意味。食品表示法は調べれば見ようと思えば誰でも見れる。全くの自由です。しかしそれをせずに国産だとか何々産だとか調べている。
どういう風に加工されているのか、どういう風に調理されているのかという事は知らないで、食品表示だけを見て安全かどうかを判断している。これでは確かに自由に選択しているのかもしれませんし、制約もないのですが、全然自由でもなんでもない。
これは医療や薬物などにも言えますし、それこそありとあらゆる分野でこういう側面がある。
ヤフーでもグーグルでもインターネット上での検索システムによって何かを調べる。そうすると、多くの人が見ているものが多くの人々の合意になり、選択している気はするけれど、同じような見解や感覚が広がっても行く。
どこかに旅行に行こうと思い、ネット上で検索をかける。紅葉、花見、それぞれのシーズン人気の場所というのがあるわけで、自分で選択して選んでいるつもりになっても、それはネット上でアグリゲートされた結果に誘引されて、自分で選択していると錯覚する事になる。
ある地域に旅行に出かけるとして、その周辺で旨い物を探す、名所を探す、特産品を探す為に検索する。そうすると人気のあるものが引っかかってくる。その中から必然的に選択していれば、旅行が本来持っていた楽しみ、知らない土地に行って、旅をするという楽しみは面倒くさいし、手間もかかるので、あらかじめ調べて知っている場所にただ行くという風になり、すべて計算可能なものになってしまう。凄いとよばれている事や、旨いと言われているものを追体験して来るだけ、それでは旅行が本来持っていた楽しみが削がれ、自由に選択しているわけでもなんでもなくなってしまう。単なるマニュアルに書いてある通りの事をマニュアル通りに実行するのと変わらなくなってしまう。
マニュアル通りの日常、代わり映えのしない日常の気分転換を、マニュアルに基づいて旅に行く。これが現代の閉鎖性に直結する問題でもあります。
自由に選択していると思っている事の殆どが、選択させられているだけなのが現代社会。ロールとマニュアルに支配された社会では、日常のコミュニケーションで人格は関係なくなり、ロールとマニュアルに従っているという事が要求される。条件付きの承認というわけです。同じ条件を持っていれば入れ替え可能な社会、夫婦や恋人であっても、家族であっても、共同体に置いても、属性や固有名は関係なくなり、入れ替え不可能な人格的なものはどうでも良くなり、たいして意味のないものになり、コミュニケーションにおいて不必要になってしまいます。
それに社会は適応し、以前は人を一人前に育て上げるという事に対して、社会がコストと時間をかけて、教育訓練し、世間的なものや、共同体の雑多なコミュニケーションによって揉まれて成長し、主体化して、命令されなくとも一定のフォーマットにしたがって、一人前の大人として まともに振る舞えるようにしていたものが、段々面倒くさいという事もあるし、入れ替え可能な社会では難しいので、人格的に多少問題があっても、アーキテクチャーによって、快不快の感覚さえあれば、一定のフォーマットに従って振る舞えるようにシステムそのものを作ってしまうという方向に社会は進んでいます。
個人にいちいちコストをかけて一人前の大人に育て上げる事など、かったるいというわけです。それよりはある一定の枠に放っておいてもおさまるようなアーキテクチャーによって管理し、その枠から外れた人間に対しては重罰化で徹底対処、もしくは自己責任原則という事で、ダメなのは頑張っていないからだというプレッシャーによって抑圧する事になるわけです。
主観的に自由だと思う事の多くはすでに錯覚であり、たいした問題ではなくなりつつあります。選ぶ自由は良いけれど、誰がその選択肢を作っているのか。「三択問題」問題というやつです。設計図は誰が書いているのか。
明確な主体や存在があればまだ幸せです。それを打破すればそこから脱却出来る可能性があるからです。ひょっとすると、これが多くの人々が望んだ結果のアグリゲートされた合成の誤謬であり、そんな悪しき意志などどこにもない可能性だってあるわけです。我々の共通合意が自らリミッターをかけて自由を捨て去っているのかもしれないのです。
そういう社会に我々は生きていて、表面的な邦人ジャーナリストが撃ち殺されたという悲劇に誘引されて、ビルマでの問題を余所事として消費しているような気がするのであります。
水が高い所から低い所へ流れるが如く、人は易きに流れ、便利さを求め、結果的に自由までも放棄してしまおうとさえしています。世界の流れは国民国家を否定し、自由主義的帝国主義に時代はシフトしつつあります。以前はそれに対抗するためにファシズムやコミュニズムが台頭し、世界大戦になったわけですが、今はそういう時代でもありません。
しかしこの国でも軽いファシズムというよりボナパルティズム的なものが、すべてを代表する事によって、議会制の諸党派の対立をアウフヘーベン、止揚してしまうような形態が台頭したりもしています。今は若干スイングバックの感はありますが、何となく絶対的なものや普遍的な善を求めるが如く、クリアカットな解決策を求め、多様性を失い、報道は単純な二項対立的な図式で物事を切って行きます。我々がこの流れに対して無自覚であり続けるのなら、時代は再び繰り返されるしかありません。
自由というのはあらかじめあって、それを無償で延々と得られるものでは、国家という枠組みがある以上残念ながらありません。我々が自覚的にたえず意識しておかないと、むしろ望んでそれを失う事を選択して行く事にもなりかねません。自由というのは責任が伴い時に苦しかったりします。主体性を持ち何かを判断し続けるという事は疲れるものでもあります。だからその弱みに依存と言う麻薬がいつでも入り込む可能性があるわけです。それが宗教であったり、ボナパルティズムであったり、何かの思想であったりするわけです。
ビルマの報道を見ていて、そんな事を考えてしまいました。最後に日本人ジャーナリスト長井健司さんのご冥福をお祈りします。少なくとも彼のおかげで日本ではこの問題に光が当たりました。それを無駄にしない事を願って止みません。