ビルマでの騒ぎが伝えられ、日本人ジャーナリストが死に、報道はショッキングにこの事実を煽りました。何でも軍政が酷い状況でコラプトしているとか、通貨を刷って役人の給料を賄っているので、インフレが厳しく酷い状況だとか、中国がこれを支援していてけしからんとか、ロシアも戦闘機を売っているとか、実験用の原子炉を作ろうとしているとか、天然資源が外貨獲得源になっていて、それが軍政が続いている理由なんだとか、いろんな事が伝えられました。

映像で軍事介入してデモを鎮圧している様は、非常に衝撃的ですし、天安門事件を思い出させるような気分になりました。平和と繁栄を表面上は謳歌している我が国から見ると、酷い状況ですし、一応自由である事が担保されている事になっている我が国からは想像も出来ない状況にも見えます。

現にメディアでも本当に興味があるのかどうか知りませんが、ショッキングな映像は視聴率獲得にもなるのでしょう。一時、大騒ぎになりました。

それでもこんな問題は遠くの国の出来事で、あっという間に次の話題が出て来て、そういえばそんなことあったね、と消費され時は流れて行く。この国にいれば、こんな話は全く他人事ですし、表面上の泣ける要素に吸い付いているだけで、本音の所は別にどうなろうと知ったこっちゃないというのが多くのメディアの本音でしょう。国民もそんな事より自分の日常の方が切実です。例えば今日の晩飯は何食うか?という事だとか。

別に自分はそういう状況を非難したくてこんな事を書いているわけでもなければ、ビルマの軍政に抗議したくて書いているわけでもありません。もちろんビルマの方々が悲惨な目にあっている現状は暗澹たる気持ちになりますが、自分には何も出来ないし、してもいませんから、偉そうな事は言えません。

何が言いたいのかと申しますと、余所事か?という疑問がわいて来るのであります。軍政が腐敗して、国民の生活を顧みない、国営企業は軍政の天下りポストになっている。

メディアでは別世界の恐怖政治として、生き生きと嬉しそうに報じていますが、軍隊で脅したり、言論弾圧はないけれど、どこかで聞いたような話ばかりに聞こえるのです。

この国では自由であるという事が何となくベースにありますが、本当にそうか?と感じます。選択肢が限られて、リソースの乏しい状況で、自由です。と言われても、例えば我々には選挙権があり、政治への自由、ポリティカル・リバティが保障されてもいます。しかし現実にカスみたいな候補者しかいない、クソみたいな政党しかない状況で、自由に選択して下さいと言われて、それが本当に自由なのかという問題があります。

言論の自由が保障され、個人でどういう信条を持とうが思想を持とうが自由だとも言われています。政治からの自由、シビル・リバティです。しかし例えばブログを使って個人的な拭き上がりを吐露していても、全然動員としては無意味に近いものがありますし、下らないメディアのクソみたいな言説が動員を得て、みんなそれがあたかも自分の思想であるかのような錯覚に陥り、例えば人気のない視座はメッタクソに叩かれたり、有罪推定で世の中が動いていたり、恣意的な御用メディアの世論調査で世論を煽動したりしている現状で、本当に政治からの自由が担保されていると言えるのか?

こういう事が言えるのだから、それは自由なんだ、という見方も出来ますが、限られたリソースの中で、自由である事を錯覚し、あたかも自分で選択しているような気になり、結果的にアーキテクチャーが誘引する方向に動機付けられて世の中が動くという現状を見ていると、自由がないと危機意識を持って抵抗しようとも思えないような、偽りの自由に囲まれて、家畜のように飼いならされて生きている状態は、考えようによっては自由がないと気付く事が出来る方がまだマシだという見方も出来ます。自由が切実になればそれを取り戻そうと努力します。今回のビルマの一件では無惨に鎮圧されましたが、人々が希望を失わないかぎり、いずれ言われているように軍政の状況が酷いのなら、時代は変わるでしょう。人々が必要としない、時代が必要としないものは存在意義はありません。時間はかかるかもしれませんがやがて淘汰されるでしょう。

ヘーゲルの理性の狡知ではありませんが、例えそれが熱狂的に国民に支持されていたとしても、やがてそのコストは歴史が支払うのではなく、時代を動かしている個人が支払わなければならないものでもあるわけです。歴史や時代は冷たいものです、ましてミャンマーの軍事政権は国民に支持されていないわけですから。

しかし人々がそこそこ満足に生かされていて、それなりに自由な気がする社会では、適度な不満を定期的にガス抜きして、壊れないようなアーキテクチャーに支配された状態から抜け出せない、そういう状況が永続する可能性すらあります。従って本質的な自由の意味をはき違え、無軌道な物理的自由に陥り、それが自由という事だと錯覚し、結果的に何も出来ない状況に陥る。

かつてジーコジャパンの頃の日本代表が典型的な例です。自由というのは不自由を知らなければ確認出来ない。自由と無秩序とは語義的意味においては大差がないのかもしれませんが、社会が規定する所の意味は違うはずです。しかしその区別が表面上の不自由や、目に見える汚いものを排除した結果、はき違えた輩が増えてもいる。

だからと言って多様性を認めあう社会になど全然ならない、些細な差異を断罪し、他人に不寛容になり、思考は画一化され、無秩序を謳歌しながら、結果的に不自由であるという事に気付きもしない。

三島由紀夫がアメリカの軍隊のままで良いのか?と市ヶ谷で自衛隊に呼びかけました。豚の幸せで良いのかと。彼は罵倒され死んじゃいますが、実際の現状は豚の幸せ、家畜の幸せを謳歌して我々は暮らしています。これが本当に自由で幸福なのでしょうか?

ビルマでは、アウンサン・スーチーさんという民衆が旗印に出来る象徴もありますし、仏教国にとって貴重な役割を占める僧侶も民衆の手にあります。言ってみれば時代をかえるリソースがあって、しかもそれが民衆の手の届く所にあったり、実際に民衆の手の中にあったりします。

自由であると錯覚して、民衆の側に玉となるリソースが何もない状況では、変えたくたって変えられませんし、そもそも変えたいという動員も得られない。自由であれば変えたくないと思うのも自由ですからそこは否定するつもりはありませんが、変えたいと思っても実際に選択肢が何もなければ、それはないのと一緒ですし、変えたいとも思わないようなアーキテクチャーに支配されていれば自由なんて嘘です。

つづく!!