橋下弁護士の発言自体は、そういう方法がある、という啓蒙をしただけだと言えばそう言えない事はないと思いますが、テレビでの影響力を考えれば相当なもの。
何でもそうですが、何かに対してカウンターとなるような発言をする。それは何でも構わないのですが、ある思想なり、事実に対して逆の意見が必ず出て来ます。例えば温暖化懐疑説にしろ、9.11捏造説にしろ、必ずある意見がのさばると逆の視座を啓蒙する言説が意外と人気が出てしまうという事がよくあります。
温暖化懐疑説や9.11捏造説が本当か嘘かはわきにおいて、そう言う意見というのは面白いし、なんだよ騙されていたのか、と世論は一気に動く。ダイオキシンもそうだし、マイナスイオンなんてのもありました。
そう言うカウンターとなる意見も、単なる一つの視座であるという事をすっ飛ばして、世論が一気に逆にスイングバックする。小泉元総理が大人気だった世論から、一気にネオリベ的路線が不人気になる過程なんかもこれとよく似ております。
カウンターの意見が本当かどうか別にして、それがいったん人気を得てある程度コンセンサスを得ると、今度はもともとの主流派だった意見というのが、メディアでも取り上げられなくなる。
主流派の学者や知識人なりが逆説に対して、きちんと否定するなり意見を言うなりすればいいのですが、そうすると言葉尻を捉えられて、インチキ野郎扱いを受けてしまったりもする。いちいちそんな逆説に対して言うのも面倒でもあるし、そんな暇もないという事で、否定しなかったりする。すると、否定していないじゃないかという風になる。否定していないという事が根拠になって更につけあがる、そう言う構図があろうかと思います。
これは地球温暖化懐疑説にも、そもそもの温暖化説にもこういう構造が見えます。どちらが正しくて、どちらが間違っているかどうかはどうでもいいのですが、大手メディアを利用して、ある意見を言うと、非常に世論の動員力があるわけで、ある程度否定をして行かないと、手が付けられなくなってしまう。そう考えるとくだらない事で、有名タレント弁護士を訴えている場合じゃないだろうという気もしますが、しょうがない部分もあるのではないかと思うのであります。
自分も発言されている部分をYou Tubeで観ましたが、あの番組が一定の視聴率を得て、それを真に受けて吹き上がっている連中が多い事に、非常に危惧を感じてしまいます。
確かに戦後この国を浸して来た空気はおかしかった、あまりにもある事ない事、捏造やでっち上げによって、非常に偏った歴史認識や価値観を植え付けられて来た事は事実でしょう。
例えば、小林よしのりさんの、ゴーマニズム宣言のようなものを筆頭にして、そういった欺瞞を明らかにし、世の中に啓蒙した事には、一定の意味があったのではなかろうかと思います。
しかしそういった事を啓蒙された連中が何をしているかと言えば、価値観は180度転換したかもしれませんが、所詮同じ行動が逆にぶれているだけにしか見えません。
騙されていた、すべて嘘だった、冗談じゃない、大概にしろ、東京裁判は茶番だ。これは戦前軍部に騙されて、国民は嫌々戦争した、悪いのは国民じゃない、軍部だというストーリーと全く一緒です。
嘘は嘘として糾弾するのは構いませんが、きちんとバランスを保てないのであれば、騙されている方がまだマシかもしれません。かつて社民党の党首であった土井たか子さんが、言っていたのを思い出します。どうせ国民は馬鹿だから、憲法9条で縛って危険がないようにしていた方が安全だと。彼女は教条的な平和主義者なのかと思っていましたが、実は現実主義者なのだという事を実感した言葉でした。
せっかく所謂「サヨ」と揶揄されるような連中が行って来たインチキや、いい加減な人権主義、弱者救済はちょっとおかしいんじゃないか?という風になったのに、今の世論の流れを観ると、立ち位置が180度違うだけで、鏡に映っているかのような振る舞いにしか見えません。
価値転換をしても、そこで生きている人間は本質的に何も変わらないわけですから、ある意味しょうがないのかもしれませんが、それではバランスはいつまでも養えず、振り子現象が続いて行くだけです。
確かに人権主義者やプロ市民団体、「サヨ」と揶揄されるような連中が巣食っている団体は数多いかもしれませんが、それを、ここに「サヨ」がいるぞ、と叩いていたのでは、「サヨ」と揶揄していうる連中が、ここに弱者がいる!!ここに悪者がいる!!そう吹き上がっているのと全く同じです。
弱者救済のためには嘘や捏造も関係ないというのと、弱者救済のためにまどろっこしい手続きは不要だと考えるのは、全く同じ行為になってしまっている。
嘘をついていれば、嘘は止めてくれと思う、これは当然です。
弱者救済を盾に、被害者感情を無視する。ちょっとその前に被害者家族の感情の手当をどうするか考えるべきなのではないかと考える、これも悪い事ではない。
日本の司法制度は被害者家族に対する感情の回復という事を無視して来た側面もあるわけですし、被告人に罰を与えるという事は、一番は報復という意味もあるわけですから、推定無罪原則もいいけれど、被害者やその遺族にも向き合うべきなんじゃないか、と思うのは大切な事です。
しかしだからと言って、従来の裁判制度を根底から否定してしまうのは危険です。近代裁判というのは、主権を持つ国民にいかに利益になるような制度にするか、という所から考えられた制度です。一見不合理に見えるからと言って、よく考えもしないでその根底をひっくり返すのは危険だと思うのであります。
あの被告人を擁護したいとか、死刑制度に異を唱えるとか、そういう意味で書いているわけではありませんので、誤解の無きように。
死刑制度については以前書きましたので、自分の考えはわきにおいて、どっちにしろもう少し冷静になった方がいいのではないかと思うのです。
感情的に被害者家族を思えば自分も胸が痛い。だからこそ、全く関係ない我々第三者の感情的なスッキリ感に迎合するような裁判であってほしくないのです。
我々はその人が何を言っているのか、ではなく、何をしているのか、という事をもっと見るべきではないでしょうか。右翼的なアジェンダを掲げて、断固決然とアジっている人はそれによって収入も得ているわけです。左翼もそうです。
テレビや大手メディアが何をしているのか。そこに出てくる知識人や学者、芸能人、キャスター何でもいいのですが、彼らが何をしているのか。被害者感情を煽り、金儲けをしているわけです。彼らは光市の事件に怒りの感情を示す事によって人気を獲得し、金になるからやっているのです。それによって、本当に収入につながらないような、テレビに出られなくなるバッシングを受ける可能性のある事であったとしたら、彼らは同じ事を果たして言うでしょうか。
逆に被告人の弁護団は、被告を弁護する事によって何の得があるのでしょう。金になるからという事もあるのかもしれませんが、不人気になるのはわかりきっていますし、実際なっています。彼らが死刑制度に抗うために裁判を利用しているなんて言われ方もされます。仮に彼らがそうした目的のために裁判を利用しているとします。でもそれで死刑制度がもし廃止になったとして、彼らに何の得があるのでしょう。
光市の裁判団と、橋下弁護士の一連の騒ぎについて、あれこれ書いてみました。
何でもそうですが、何かに対してカウンターとなるような発言をする。それは何でも構わないのですが、ある思想なり、事実に対して逆の意見が必ず出て来ます。例えば温暖化懐疑説にしろ、9.11捏造説にしろ、必ずある意見がのさばると逆の視座を啓蒙する言説が意外と人気が出てしまうという事がよくあります。
温暖化懐疑説や9.11捏造説が本当か嘘かはわきにおいて、そう言う意見というのは面白いし、なんだよ騙されていたのか、と世論は一気に動く。ダイオキシンもそうだし、マイナスイオンなんてのもありました。
そう言うカウンターとなる意見も、単なる一つの視座であるという事をすっ飛ばして、世論が一気に逆にスイングバックする。小泉元総理が大人気だった世論から、一気にネオリベ的路線が不人気になる過程なんかもこれとよく似ております。
カウンターの意見が本当かどうか別にして、それがいったん人気を得てある程度コンセンサスを得ると、今度はもともとの主流派だった意見というのが、メディアでも取り上げられなくなる。
主流派の学者や知識人なりが逆説に対して、きちんと否定するなり意見を言うなりすればいいのですが、そうすると言葉尻を捉えられて、インチキ野郎扱いを受けてしまったりもする。いちいちそんな逆説に対して言うのも面倒でもあるし、そんな暇もないという事で、否定しなかったりする。すると、否定していないじゃないかという風になる。否定していないという事が根拠になって更につけあがる、そう言う構図があろうかと思います。
これは地球温暖化懐疑説にも、そもそもの温暖化説にもこういう構造が見えます。どちらが正しくて、どちらが間違っているかどうかはどうでもいいのですが、大手メディアを利用して、ある意見を言うと、非常に世論の動員力があるわけで、ある程度否定をして行かないと、手が付けられなくなってしまう。そう考えるとくだらない事で、有名タレント弁護士を訴えている場合じゃないだろうという気もしますが、しょうがない部分もあるのではないかと思うのであります。
自分も発言されている部分をYou Tubeで観ましたが、あの番組が一定の視聴率を得て、それを真に受けて吹き上がっている連中が多い事に、非常に危惧を感じてしまいます。
確かに戦後この国を浸して来た空気はおかしかった、あまりにもある事ない事、捏造やでっち上げによって、非常に偏った歴史認識や価値観を植え付けられて来た事は事実でしょう。
例えば、小林よしのりさんの、ゴーマニズム宣言のようなものを筆頭にして、そういった欺瞞を明らかにし、世の中に啓蒙した事には、一定の意味があったのではなかろうかと思います。
しかしそういった事を啓蒙された連中が何をしているかと言えば、価値観は180度転換したかもしれませんが、所詮同じ行動が逆にぶれているだけにしか見えません。
騙されていた、すべて嘘だった、冗談じゃない、大概にしろ、東京裁判は茶番だ。これは戦前軍部に騙されて、国民は嫌々戦争した、悪いのは国民じゃない、軍部だというストーリーと全く一緒です。
嘘は嘘として糾弾するのは構いませんが、きちんとバランスを保てないのであれば、騙されている方がまだマシかもしれません。かつて社民党の党首であった土井たか子さんが、言っていたのを思い出します。どうせ国民は馬鹿だから、憲法9条で縛って危険がないようにしていた方が安全だと。彼女は教条的な平和主義者なのかと思っていましたが、実は現実主義者なのだという事を実感した言葉でした。
せっかく所謂「サヨ」と揶揄されるような連中が行って来たインチキや、いい加減な人権主義、弱者救済はちょっとおかしいんじゃないか?という風になったのに、今の世論の流れを観ると、立ち位置が180度違うだけで、鏡に映っているかのような振る舞いにしか見えません。
価値転換をしても、そこで生きている人間は本質的に何も変わらないわけですから、ある意味しょうがないのかもしれませんが、それではバランスはいつまでも養えず、振り子現象が続いて行くだけです。
確かに人権主義者やプロ市民団体、「サヨ」と揶揄されるような連中が巣食っている団体は数多いかもしれませんが、それを、ここに「サヨ」がいるぞ、と叩いていたのでは、「サヨ」と揶揄していうる連中が、ここに弱者がいる!!ここに悪者がいる!!そう吹き上がっているのと全く同じです。
弱者救済のためには嘘や捏造も関係ないというのと、弱者救済のためにまどろっこしい手続きは不要だと考えるのは、全く同じ行為になってしまっている。
嘘をついていれば、嘘は止めてくれと思う、これは当然です。
弱者救済を盾に、被害者感情を無視する。ちょっとその前に被害者家族の感情の手当をどうするか考えるべきなのではないかと考える、これも悪い事ではない。
日本の司法制度は被害者家族に対する感情の回復という事を無視して来た側面もあるわけですし、被告人に罰を与えるという事は、一番は報復という意味もあるわけですから、推定無罪原則もいいけれど、被害者やその遺族にも向き合うべきなんじゃないか、と思うのは大切な事です。
しかしだからと言って、従来の裁判制度を根底から否定してしまうのは危険です。近代裁判というのは、主権を持つ国民にいかに利益になるような制度にするか、という所から考えられた制度です。一見不合理に見えるからと言って、よく考えもしないでその根底をひっくり返すのは危険だと思うのであります。
あの被告人を擁護したいとか、死刑制度に異を唱えるとか、そういう意味で書いているわけではありませんので、誤解の無きように。
死刑制度については以前書きましたので、自分の考えはわきにおいて、どっちにしろもう少し冷静になった方がいいのではないかと思うのです。
感情的に被害者家族を思えば自分も胸が痛い。だからこそ、全く関係ない我々第三者の感情的なスッキリ感に迎合するような裁判であってほしくないのです。
我々はその人が何を言っているのか、ではなく、何をしているのか、という事をもっと見るべきではないでしょうか。右翼的なアジェンダを掲げて、断固決然とアジっている人はそれによって収入も得ているわけです。左翼もそうです。
テレビや大手メディアが何をしているのか。そこに出てくる知識人や学者、芸能人、キャスター何でもいいのですが、彼らが何をしているのか。被害者感情を煽り、金儲けをしているわけです。彼らは光市の事件に怒りの感情を示す事によって人気を獲得し、金になるからやっているのです。それによって、本当に収入につながらないような、テレビに出られなくなるバッシングを受ける可能性のある事であったとしたら、彼らは同じ事を果たして言うでしょうか。
逆に被告人の弁護団は、被告を弁護する事によって何の得があるのでしょう。金になるからという事もあるのかもしれませんが、不人気になるのはわかりきっていますし、実際なっています。彼らが死刑制度に抗うために裁判を利用しているなんて言われ方もされます。仮に彼らがそうした目的のために裁判を利用しているとします。でもそれで死刑制度がもし廃止になったとして、彼らに何の得があるのでしょう。
光市の裁判団と、橋下弁護士の一連の騒ぎについて、あれこれ書いてみました。