橋下弁護士が光市の弁護団に訴えられました。ネット上では凄まじい拭き上がりで嫌になりますが、メディアを通して俗情に媚びる手法は凄まじい破壊力を持っています。その事をしっかり念頭においてやらないと、間違った啓蒙活動や、危険なバッシングによって血祭りに上げる構図というのが野放しになってしまいます。いくら法的に間違っていないと主張されても、その影響力を考えて発言してほしいものです。
まず最初に誤解されると困りますので、自分はどちらの肩を持つつもりもありません。バランスを失うのが一番望ましくないと考えているだけです。
光市の旦那さんの無念を考えれば、こんな事で世論が吹き上がるのも、ゴシップ的に面白おかしく伝えられるのも、大概にしてほしいと思っています。
その前提を踏まえて書きますので誤解の無きように。
あの弁護団がムカつくという事や、おかしな連中だと思うのは勝手ですが、彼らの言い分が認められるか否か判断するのは我々が決める事ではありません。悪い事をしている人間は問答無用でぶち殺せというのであれば、これは暗黒裁判と紙一重です。
被告人や弁護団の姿勢が望ましくないとしても、求刑を少しでも軽くするために行動するという事に一定の合理性もあるはずです。悪い事をやったら反論も言い訳も許さない、というのでは、どんなに極悪人相手であったとしても、近代裁判、法治国家の原則をかなぐり捨てる事になるかもしれない状況に、敏感になるべきではないかと思います。
どう見ても極悪人で、明らかに人としてあるまじき行為をしているように見える。それは確かにそうだと思います。どう考えても許せない行いをしているように見えるし、テレビでもそう言っているし、検察もそう言っている。そして実際に命を奪われた人がいて、悲しんでいる家族もいる。普通に考えればまず絶対に間違いなく有罪に見えるし、それなりの制裁を加えてしかるべきだという風にも見える。
しかしどんなに心証が真っ黒であったとしても100%という事は有り得ない。我々人間が裁く以上、必ず間違いが付きまとうし、絶対なんて事は有り得ない。殺したという事が100%動かぬ証拠があるのだから、殺したという事実は動かないのかもしれません。しかし情状酌量の余地が全くないのかどうか、これはわかっていません。どう考えてもありそうに見えないかもしれなくとも、100%ないとは断定出来ない。限りなくゼロに近い数字かもしれないが、ゼロではない。人が人に罰を与えるという事は、取り返しのつかない事です。まして死刑にする、人を殺す、という事は回復不能の罰なわけです。
被告人は極めて言い逃れの出来ないような罪を犯している可能性が高いと、自分もそう思います。心情的に言えば絶対に許せない。
被告人は人間として最低、いや、人間以下の鬼畜と呼べるような振る舞いをしているように確かに見える。しかし真実を知っても絶対に許せるはずもないのだから、反論も命乞いも許さない、さっさとぶち殺せという風になってしまうのは、やはり行き過ぎのような気がするのです。
被告人は被害者家族に怨まれ、国家権力によって死刑に持ち込まれつつあり、国民も殆どがとっととぶっ殺せと思っている。彼はそれだけの取り返しのつかない事をしている可能性は極めて高い。殆どのこの国の人間が彼の死刑を待ちわびている。とっとと殺せと思っている。彼の意見など誰も聞かないし、死んでも誰も何とも思わないどころか、むしろせいせいするという状況です。その上さらに弁護士までが被告人の言葉を代弁するのを止めてしまうべきなのでしょうか?
彼をみんなで殺せという空気一色になっている中、彼の情状酌量を訴える人間は例え仕事といえども許せないのでしょうか?
弁護士が量刑を軽くするために行動する事は、仕事である以上、一定の合理性もあるわけですし、回復不能の罰を与える強力な権力が暴走しないように監視する役割をになっています。
悪人には弁護士なんて必要ない、多分やっているに決まっているから、殺してしまえばいいのでしょうか?
弁護団の弁護がいい加減なものであるかどうか、判断するべき立場にいる人間は裁判官です。いい加減な弁護のように見えるとしても、多くはテレビでそう言っているというのを聞いてが殆どのはずです。
もしも被告人に情状酌量の余地があったとしたら、これは可能性としては極めて少ないかもしれませんが、絶対にないとは言いきれない。言い切れないのだから、審議を尽くして判決を下すという姿勢をすっ飛ばすのは非常に危険です。
テレビや国家権力がそれほど信用出来るものでしょうか?
少なくともテレビや大手メディアは捏造やでっち上げのオンパレードです。国家権力に至っては、この国では完全な詐欺を平気な顔で行っている上に、全く責任を取るどころか、これっぽっちも罰すら受けていない、そういう連中が言っている正義というのが、絶対的な正しさであると信用するのは非常に危険な事です。
あの被告人は、例え審議を尽くしたとしても死刑になるかもしれません。しかしだから審議はする必要はないとはならないのです。それでも審議をして、法を執行する事が重要なのではないでしょうか。
橋下弁護士は一般人の感覚や被害者の感情を大切に考えるべきだという主張なのでしょう。それは確かに重要な事ですが、だから審議もする必要もないし、デュープロセスなどどうでもいいとはなってはならないのではないかと考えます。どんなクズでも、罰を与える、とりわけ殺すという罰になるかもしれないわけです。
どんな鬼畜野郎でも、例えクズだとしても、そこに至る何らかの理由はあるのかもしれません。それがあったとしても、判決は変わらないかもしれませんが、せめて聞く位、主張させるくらいの権利は与えたっていいのではないかと思うのです。
日本的な温情主義というのはもともとあったのか疑問ですが、少なくとも悪党にも理由があるのではないかと考えるのが日本的な温情主義と呼ばれるそれなのではないでしょうか。
この国では利権にまみれた薄汚い政治家や、企業の無能な経営者、権力者や既得権益層には恣意的な甘い日本的な温情主義とやらが、司法にまで及んでいますが、もう逃れる事も出来ないし、死刑になる可能性すらある何の権限も特権もない人間に対して、そこまで断固決然と地獄に叩き落とさなくとも、どっち道、あの被告人はもう回復不可能な罰を受ける事は間違いありません。せめて言い分くらい、下らない言い分かもしれませんが聞いてやってもいいのではないかと思うのであります。
従来の司法制度であれば、あの被告人が死刑になる蓋然性は極めて低かった。しかし世論の流れや時代の要望によって、その一線を踏み越えて重罰化に踏み切るか否かの分水嶺でもあるわけですから、それでも殺せと思うのかどうか、冷静になって考えておく必要があるのではなかろうかと思うわけであります。
世論は一気に重罰化支持へと感情的に吹き上がり、国家権力の権限を強化するという事に拍手喝采しています。国家がそれほど信用に足る存在なのか、冷静に考えるべきです。それをすっ飛ばして、国に、疑わしきは被告人の利益にという権利を自ら進んで差し出す行為は、非常に危険な発想です。誰しも罪をおかす可能性はあるわけですし、最悪冤罪に巻き込まれる事だってあるわけですから。
あの被告人はどう考えても冤罪にも見えないし、不届きな振る舞い、許せないような行いをしているように、確かに見えますが、だからそう言う時は前例も無視して、デュープロセスもすっ飛ばして、とっとと死刑にしてしまおうということ自体が前例になってしまうと、国家の裁量が恣意的になりかねない危険を含んでいるわけです。
そんな危険なんかないと思うのは勝手ですが、国家権力がどれほどインチキを繰り返しているのか、よく考えるべきなのではないかと思うわけであります。
つづく!!
まず最初に誤解されると困りますので、自分はどちらの肩を持つつもりもありません。バランスを失うのが一番望ましくないと考えているだけです。
光市の旦那さんの無念を考えれば、こんな事で世論が吹き上がるのも、ゴシップ的に面白おかしく伝えられるのも、大概にしてほしいと思っています。
その前提を踏まえて書きますので誤解の無きように。
あの弁護団がムカつくという事や、おかしな連中だと思うのは勝手ですが、彼らの言い分が認められるか否か判断するのは我々が決める事ではありません。悪い事をしている人間は問答無用でぶち殺せというのであれば、これは暗黒裁判と紙一重です。
被告人や弁護団の姿勢が望ましくないとしても、求刑を少しでも軽くするために行動するという事に一定の合理性もあるはずです。悪い事をやったら反論も言い訳も許さない、というのでは、どんなに極悪人相手であったとしても、近代裁判、法治国家の原則をかなぐり捨てる事になるかもしれない状況に、敏感になるべきではないかと思います。
どう見ても極悪人で、明らかに人としてあるまじき行為をしているように見える。それは確かにそうだと思います。どう考えても許せない行いをしているように見えるし、テレビでもそう言っているし、検察もそう言っている。そして実際に命を奪われた人がいて、悲しんでいる家族もいる。普通に考えればまず絶対に間違いなく有罪に見えるし、それなりの制裁を加えてしかるべきだという風にも見える。
しかしどんなに心証が真っ黒であったとしても100%という事は有り得ない。我々人間が裁く以上、必ず間違いが付きまとうし、絶対なんて事は有り得ない。殺したという事が100%動かぬ証拠があるのだから、殺したという事実は動かないのかもしれません。しかし情状酌量の余地が全くないのかどうか、これはわかっていません。どう考えてもありそうに見えないかもしれなくとも、100%ないとは断定出来ない。限りなくゼロに近い数字かもしれないが、ゼロではない。人が人に罰を与えるという事は、取り返しのつかない事です。まして死刑にする、人を殺す、という事は回復不能の罰なわけです。
被告人は極めて言い逃れの出来ないような罪を犯している可能性が高いと、自分もそう思います。心情的に言えば絶対に許せない。
被告人は人間として最低、いや、人間以下の鬼畜と呼べるような振る舞いをしているように確かに見える。しかし真実を知っても絶対に許せるはずもないのだから、反論も命乞いも許さない、さっさとぶち殺せという風になってしまうのは、やはり行き過ぎのような気がするのです。
被告人は被害者家族に怨まれ、国家権力によって死刑に持ち込まれつつあり、国民も殆どがとっととぶっ殺せと思っている。彼はそれだけの取り返しのつかない事をしている可能性は極めて高い。殆どのこの国の人間が彼の死刑を待ちわびている。とっとと殺せと思っている。彼の意見など誰も聞かないし、死んでも誰も何とも思わないどころか、むしろせいせいするという状況です。その上さらに弁護士までが被告人の言葉を代弁するのを止めてしまうべきなのでしょうか?
彼をみんなで殺せという空気一色になっている中、彼の情状酌量を訴える人間は例え仕事といえども許せないのでしょうか?
弁護士が量刑を軽くするために行動する事は、仕事である以上、一定の合理性もあるわけですし、回復不能の罰を与える強力な権力が暴走しないように監視する役割をになっています。
悪人には弁護士なんて必要ない、多分やっているに決まっているから、殺してしまえばいいのでしょうか?
弁護団の弁護がいい加減なものであるかどうか、判断するべき立場にいる人間は裁判官です。いい加減な弁護のように見えるとしても、多くはテレビでそう言っているというのを聞いてが殆どのはずです。
もしも被告人に情状酌量の余地があったとしたら、これは可能性としては極めて少ないかもしれませんが、絶対にないとは言いきれない。言い切れないのだから、審議を尽くして判決を下すという姿勢をすっ飛ばすのは非常に危険です。
テレビや国家権力がそれほど信用出来るものでしょうか?
少なくともテレビや大手メディアは捏造やでっち上げのオンパレードです。国家権力に至っては、この国では完全な詐欺を平気な顔で行っている上に、全く責任を取るどころか、これっぽっちも罰すら受けていない、そういう連中が言っている正義というのが、絶対的な正しさであると信用するのは非常に危険な事です。
あの被告人は、例え審議を尽くしたとしても死刑になるかもしれません。しかしだから審議はする必要はないとはならないのです。それでも審議をして、法を執行する事が重要なのではないでしょうか。
橋下弁護士は一般人の感覚や被害者の感情を大切に考えるべきだという主張なのでしょう。それは確かに重要な事ですが、だから審議もする必要もないし、デュープロセスなどどうでもいいとはなってはならないのではないかと考えます。どんなクズでも、罰を与える、とりわけ殺すという罰になるかもしれないわけです。
どんな鬼畜野郎でも、例えクズだとしても、そこに至る何らかの理由はあるのかもしれません。それがあったとしても、判決は変わらないかもしれませんが、せめて聞く位、主張させるくらいの権利は与えたっていいのではないかと思うのです。
日本的な温情主義というのはもともとあったのか疑問ですが、少なくとも悪党にも理由があるのではないかと考えるのが日本的な温情主義と呼ばれるそれなのではないでしょうか。
この国では利権にまみれた薄汚い政治家や、企業の無能な経営者、権力者や既得権益層には恣意的な甘い日本的な温情主義とやらが、司法にまで及んでいますが、もう逃れる事も出来ないし、死刑になる可能性すらある何の権限も特権もない人間に対して、そこまで断固決然と地獄に叩き落とさなくとも、どっち道、あの被告人はもう回復不可能な罰を受ける事は間違いありません。せめて言い分くらい、下らない言い分かもしれませんが聞いてやってもいいのではないかと思うのであります。
従来の司法制度であれば、あの被告人が死刑になる蓋然性は極めて低かった。しかし世論の流れや時代の要望によって、その一線を踏み越えて重罰化に踏み切るか否かの分水嶺でもあるわけですから、それでも殺せと思うのかどうか、冷静になって考えておく必要があるのではなかろうかと思うわけであります。
世論は一気に重罰化支持へと感情的に吹き上がり、国家権力の権限を強化するという事に拍手喝采しています。国家がそれほど信用に足る存在なのか、冷静に考えるべきです。それをすっ飛ばして、国に、疑わしきは被告人の利益にという権利を自ら進んで差し出す行為は、非常に危険な発想です。誰しも罪をおかす可能性はあるわけですし、最悪冤罪に巻き込まれる事だってあるわけですから。
あの被告人はどう考えても冤罪にも見えないし、不届きな振る舞い、許せないような行いをしているように、確かに見えますが、だからそう言う時は前例も無視して、デュープロセスもすっ飛ばして、とっとと死刑にしてしまおうということ自体が前例になってしまうと、国家の裁量が恣意的になりかねない危険を含んでいるわけです。
そんな危険なんかないと思うのは勝手ですが、国家権力がどれほどインチキを繰り返しているのか、よく考えるべきなのではないかと思うわけであります。
つづく!!