早くも薄汚さをかっ飛ばしている安倍内閣。もはや何も言う気になりません。はぁー(溜息)という感じです。
まぁ政治家自体、多かれ少なかれ、清廉潔白な人というのもそうはいないのかもしれませんが、この素早さ反応速度、出来た途端にこの有様ですから、どんな理由があれ、どんな背景事情があれ、いくら何でも酷すぎて批判するきにもなりません。せめてこのくらいの素早さを、実際の舵取りで見せてほしいものですが、そうなると、強行採決ラッシュになってしまう。袋小路の我が国の未来、本当もう市民革命でも起こさないとダメなんですかね。
自分は日本的な温情主義や、丸く収める発想というのは嫌いじゃないのですが、それをいい事に腐敗と堕落の温床にもなってしまっている。逆に一般市民に対しては、都合良く自己責任原則を押し付け、自由競争という名の機会の平等を全く無視した政策を押し進め、重罰化によって断固決然と取り締まる。温情主義なるものは、権力者や既得権を握っている連中が、己の権益を守る為にメディアに乗せてほざく御為ごかしになっています。
安倍さんは何もいい所の無いクズにしか見えませんが、あのお坊ちゃんがいなくなったって、誰か変わりがいるのかと思えば、ドングリの背比べ。森喜朗から脈々と続く、サメの脳味噌の伝統は断ち切れるかもしれませんが、五十歩百歩。民主党が政権を握れば解決するかと言えば、民主党も爆弾を抱え込んでいる模様。
考えてみればこの国は二進も三進もいかなくなると、天皇を中心として、時には天皇を利用して、世俗の統治権力が変わって歴史を築いて来た過去があります。戦後60年しか経っていませんので、まだその時ではない気もしますが、現代はテクノロジーの発達、情報化によって時の流れが早まっています。もしかするとこの国に内包されている国民性や風土、民族の習性として、定期的に体制変革が起きないと、どうしても腐敗や堕落を断ち切れないのではないか、なんて考えてしまいます。
アメリカは相当酷い国です。しかし我が国と比べるとバランス感覚が優れている。とんでもない方向に舵を切っても、必ず批判や不満による世論が惹起して、スイング・バックする。我が国はそういった振り子現象をアメリカに追従してマネするのですが、振り子が振れるたびに、どんどん壊れていきバランスを失って行く、どんどん劣化して行く。そして腐敗や堕落だけが延々と続いて行く。
例えばメディアなどが、翼賛報道や政権批判の狭間をスイングする。俗情に媚びた報道や啓蒙の狭間でスイングする。するとどんどん報道の質そのものが劣化し、守るべきジャーナリズムとしての責務や統治権力の監視機能と言う側面はどんどん崩壊し、結局残っている守るべきものは、彼らにとって守るべきものと成り下がり、有り得ないような権益や特権、スポンサーのご意向、腐敗と堕落の構造だけで、国民にとって必要なものは殆ど空洞化してしまっている。
昨日まで行われていた、世界陸上の中継などを見ていてもつくづく思うのですが、競技そのものは素晴らしいのに、中継の仕方や実況の酷さ、特に実況の絶叫すればいいと思っている姿勢には辟易します。うるさい。見ていればわかるよ。そういう感じです。そう、中身が何にも無い。もはや邪魔にしか感じない。せっかくのスポーツ中継を台無しにする以外、何の役にも立っていない。これはスポーツ全般に言える事です。
この実況のスタイルを確立したのは、現在では不愉快極まりない、見るのも吐き気がする古館伊知郎が元祖だと思うのですが、今は好きじゃありませんが、プロレスの実況をしている頃の古館は凄かった。ある意味天才だったと思います。
しかしあのスタイルは誰にでも真似出来るものではない。プロレスという娯楽である事と、古館自身の才能があってこその、スタイルだったと思うのですが、そういうのが非常に劣化した状態で、スタンダードになってしまっている。
古館はニュースを読む現在も、絶叫こそしませんが俗情に媚びた、激情型の報道スタイルのままです。ニュースでそれがスタンダードになってしまうと、もはやニュースではなくニュース・バラエティになってしまいます。実際、ニュース・バラエティ型の番組や、政治バラエティ型の番組、そこにぶら下がる薄汚い芸能人や学者、政治家の多い事。感情をフックにした中身の全くない報道ばかり。
政治もどんどんポピュリズムになり、政策にサブスタンシャルなものは何も無い。政局に利用する為、人気を確保する為が唯一の行動原理に成り下がっている。
民主政治というのが、もはや衆愚政治に成り下がり、足の引っ張りあい、権益の争奪戦、利己的な鍔迫り合いになってしまっている。日本という泥舟が沈没しかかっているのに、いっこうにそういう姿勢を止めない。話し合いや合意形成で全く前進や解決の兆しが見られないとなると、解決法はもはやゲヴァルト、武力闘争によって変革する以外ない、という風になりかねない。
そこまで行かなくとも、もうこんな国に未来は無い、どこか外国で暮らしてマシな生活を送ろうという風に感じている人だって増えて来ています。自分もたまにそう思う時があります。この腐り切った国内事情を見ていれば、まともな感覚の持ち主ならそう思って当然で、むしろそう思わない方がどうかしているようにも感じる。
しかしだからと言って、本当にこの国が沈没するまで腐敗や堕落を断ち切れず、医療が受けられず、伝染病が蔓延したり、どんどん人が死んで行くような社会になったり、腐敗した権力構造を維持する為に内向きのゲヴァルトによって、ばんばん取り締まり重罰化を行う社会になったり、国民の不満を吸い上げ、外向きのゲヴァルトによって戦争を行うようになったりしても関係ないぜってわけには、そう簡単に行きません。日本で生まれた日本人であるという制約が、我々日本人には常に限界として付きまとい続けます。
海外に行ってよろしくやるという行動そのものは、日本がまともな国家としてあるからこそ、日本人である我々のバックボーンを形成し、我々を認めてもらえるという部分があるのだろうと思います。自分の生まれた国が腐り切ってどうにもならない状況であれば、今現在日本人が受けている諸外国の人々からのまなざしはがらりと変わります。この国が無くなりでもしようものなら尚更です。自分の国を失うという事がどういう事になるのか、流浪の民が受ける扱いがどんなものなのか、歴史が語っています。そうでなくたって、民族間、肌の色の違いによる軋轢は現在でも色濃く残っています。
今後中国がどんどん経済大国として、世界を席巻するようになれば、中国人の価値観というのがどんどんスタンダードになりますから、彼らの日本人に対するまなざしが世界的なコンセンサスになって行くでしょう。現にもうなっています。北東アジアに根深く残るこの国に対するルサンチマンは、ヨーロッパにおけるかつてのユダヤに対するそれと近いものがあるのではないかと思うのです。ユダヤ人と我々が決定的に違うのは、我々には祖国があり、ユダヤにはそれが無かった。
だから我々が日本人であるという事を、例え国籍を変えられたとしても、本質的に何も変わらない以上、日本という国がダメ国家であり続けたり、日本という国が沈没してもらっては困るのです。日本にずっと居続けるとなれば尚更言うまでもありません。ユダヤ人が祖国を取り戻すのに2000年かかっているという現実を忘れてはなりません。いったん失ったものを無理矢理回復させる事によって、凄まじい弊害も起こっているわけです。
自分は心情的にナショナリズムには何の関心もありませんが、パトリに対する愛着はあると思っています。生まれ故郷というわけでもありませんし、人生の半分くらいは他所の土地で過ごしていますが、今自分が住んでいる場所に対する愛着は、愛憎入り交じる感覚ではありますが持っています。ですからパトリオティズムという意味合いでは自分は右翼的な感覚を持っているとも言えます。しかしそれはこの国の政府に対するものではない。外国にでかいツラする為のものでもない。
心情的に言えばインチキや腐敗堕落からいっこうに脱却出来ない政府に対しては反体制の感覚、つまり左翼的な感覚と共感しあえる部分もあります。ですが、決定的にそこと一線を画すのは、政府が無くなっても何も解決出来ないと思っている点です。政府が腐っていてどうにもならないのは認めますが、権力構造が無くなったからと言って何か解決につながるのかと言えば、そうはならないのではないかと思うのであります。結局国家権力というものが無ければ、解決出来ない次元の問題が沢山あります。
国家権力というものがあるからこそ、国内の暴力格差を無効化出来る側面も間違いなくあるわけですから、政府を倒せば、国家権力を超えれば幸福な社会になるとは思えません。例え革命を起こして現体制を倒したとしても、今度はその革命を起こした勢力が体制になるだけで、国家権力と言うものが必要なくなる時代はそう簡単に訪れるように感じられません。
自分は革命なんて起こらないで済むのなら、起こらないにこした事はないと考えます。結局、体制変革をして一時いい時代になったとしても、それを定期的に繰り返さねばまともではいられない状況というのでは、繰り返しの連鎖から抜け出る事は出来ないと考えるからです。歴史は繰り返すしかないのか、腐敗や堕落の連鎖を断ち切って、まともな国として浮上して行く事が出来るのか、今、この国は非常に重要な局面を迎えつつあるのではないかと思うのです。
歴史は繰り返すしかないのなら、自分が望もうが望まなかろうが、いずれ体制変革の流れは来るでしょう。今はまだその時ではないかもしれませんが、もうすでに多くの人が現体制に絶望しています。政権交代なんて起こったって、どうせ何も変わらないと。
腐敗や堕落というのは一般レベルの感覚で言えば、国民だって偉そうな事は言えないような腐敗堕落にまみれています。人間である以上、そこを完全にシャットアウト出来ない業を背負っているものなのかもしれません。
社会というシステムというのは、どうしたって既得権益というのは無くす事は出来ない。それどころか既得権益というものこそが社会というシステムを駆動させてもいると思います。だからそれ自体が悪で、それを排除すれば善い社会になるかと言えば、そんなものは幻想にすぎませんし、不可能な話です。
しかし現在の一部の既得権益に胡座をかいている連中の傍若無人ぶりは、いくら何でもほどがある。いくら何でも酷すぎます。
人間というのは持つものに対して、持たざるものはルサンチマンをどうしても抱えてしまいます。それがブースとして行かないと何も変えられないのか?持つものは持たざるものから狡猾に搾取する構図を利用し続けるのか?繰り返す歴史の連鎖から抜け出す事が出来るのか?それとも無関心に支配されたまま行く所までいかないと、目覚める事もないのか?
日本的な温情主義を否定するつもりは毛頭ありませんが、そこに胡座をかいている既得権益層の方々、国民の感情を煽って利用している方々、あまり度が過ぎると、痛い目にあうかもしれませんよ。国民の絶望感をなめていると、高くつくかもしれませんよ。
革命など起きず、まともな国になる事に希望を抱き、あれこれ書いてみました。
まぁ政治家自体、多かれ少なかれ、清廉潔白な人というのもそうはいないのかもしれませんが、この素早さ反応速度、出来た途端にこの有様ですから、どんな理由があれ、どんな背景事情があれ、いくら何でも酷すぎて批判するきにもなりません。せめてこのくらいの素早さを、実際の舵取りで見せてほしいものですが、そうなると、強行採決ラッシュになってしまう。袋小路の我が国の未来、本当もう市民革命でも起こさないとダメなんですかね。
自分は日本的な温情主義や、丸く収める発想というのは嫌いじゃないのですが、それをいい事に腐敗と堕落の温床にもなってしまっている。逆に一般市民に対しては、都合良く自己責任原則を押し付け、自由競争という名の機会の平等を全く無視した政策を押し進め、重罰化によって断固決然と取り締まる。温情主義なるものは、権力者や既得権を握っている連中が、己の権益を守る為にメディアに乗せてほざく御為ごかしになっています。
安倍さんは何もいい所の無いクズにしか見えませんが、あのお坊ちゃんがいなくなったって、誰か変わりがいるのかと思えば、ドングリの背比べ。森喜朗から脈々と続く、サメの脳味噌の伝統は断ち切れるかもしれませんが、五十歩百歩。民主党が政権を握れば解決するかと言えば、民主党も爆弾を抱え込んでいる模様。
考えてみればこの国は二進も三進もいかなくなると、天皇を中心として、時には天皇を利用して、世俗の統治権力が変わって歴史を築いて来た過去があります。戦後60年しか経っていませんので、まだその時ではない気もしますが、現代はテクノロジーの発達、情報化によって時の流れが早まっています。もしかするとこの国に内包されている国民性や風土、民族の習性として、定期的に体制変革が起きないと、どうしても腐敗や堕落を断ち切れないのではないか、なんて考えてしまいます。
アメリカは相当酷い国です。しかし我が国と比べるとバランス感覚が優れている。とんでもない方向に舵を切っても、必ず批判や不満による世論が惹起して、スイング・バックする。我が国はそういった振り子現象をアメリカに追従してマネするのですが、振り子が振れるたびに、どんどん壊れていきバランスを失って行く、どんどん劣化して行く。そして腐敗や堕落だけが延々と続いて行く。
例えばメディアなどが、翼賛報道や政権批判の狭間をスイングする。俗情に媚びた報道や啓蒙の狭間でスイングする。するとどんどん報道の質そのものが劣化し、守るべきジャーナリズムとしての責務や統治権力の監視機能と言う側面はどんどん崩壊し、結局残っている守るべきものは、彼らにとって守るべきものと成り下がり、有り得ないような権益や特権、スポンサーのご意向、腐敗と堕落の構造だけで、国民にとって必要なものは殆ど空洞化してしまっている。
昨日まで行われていた、世界陸上の中継などを見ていてもつくづく思うのですが、競技そのものは素晴らしいのに、中継の仕方や実況の酷さ、特に実況の絶叫すればいいと思っている姿勢には辟易します。うるさい。見ていればわかるよ。そういう感じです。そう、中身が何にも無い。もはや邪魔にしか感じない。せっかくのスポーツ中継を台無しにする以外、何の役にも立っていない。これはスポーツ全般に言える事です。
この実況のスタイルを確立したのは、現在では不愉快極まりない、見るのも吐き気がする古館伊知郎が元祖だと思うのですが、今は好きじゃありませんが、プロレスの実況をしている頃の古館は凄かった。ある意味天才だったと思います。
しかしあのスタイルは誰にでも真似出来るものではない。プロレスという娯楽である事と、古館自身の才能があってこその、スタイルだったと思うのですが、そういうのが非常に劣化した状態で、スタンダードになってしまっている。
古館はニュースを読む現在も、絶叫こそしませんが俗情に媚びた、激情型の報道スタイルのままです。ニュースでそれがスタンダードになってしまうと、もはやニュースではなくニュース・バラエティになってしまいます。実際、ニュース・バラエティ型の番組や、政治バラエティ型の番組、そこにぶら下がる薄汚い芸能人や学者、政治家の多い事。感情をフックにした中身の全くない報道ばかり。
政治もどんどんポピュリズムになり、政策にサブスタンシャルなものは何も無い。政局に利用する為、人気を確保する為が唯一の行動原理に成り下がっている。
民主政治というのが、もはや衆愚政治に成り下がり、足の引っ張りあい、権益の争奪戦、利己的な鍔迫り合いになってしまっている。日本という泥舟が沈没しかかっているのに、いっこうにそういう姿勢を止めない。話し合いや合意形成で全く前進や解決の兆しが見られないとなると、解決法はもはやゲヴァルト、武力闘争によって変革する以外ない、という風になりかねない。
そこまで行かなくとも、もうこんな国に未来は無い、どこか外国で暮らしてマシな生活を送ろうという風に感じている人だって増えて来ています。自分もたまにそう思う時があります。この腐り切った国内事情を見ていれば、まともな感覚の持ち主ならそう思って当然で、むしろそう思わない方がどうかしているようにも感じる。
しかしだからと言って、本当にこの国が沈没するまで腐敗や堕落を断ち切れず、医療が受けられず、伝染病が蔓延したり、どんどん人が死んで行くような社会になったり、腐敗した権力構造を維持する為に内向きのゲヴァルトによって、ばんばん取り締まり重罰化を行う社会になったり、国民の不満を吸い上げ、外向きのゲヴァルトによって戦争を行うようになったりしても関係ないぜってわけには、そう簡単に行きません。日本で生まれた日本人であるという制約が、我々日本人には常に限界として付きまとい続けます。
海外に行ってよろしくやるという行動そのものは、日本がまともな国家としてあるからこそ、日本人である我々のバックボーンを形成し、我々を認めてもらえるという部分があるのだろうと思います。自分の生まれた国が腐り切ってどうにもならない状況であれば、今現在日本人が受けている諸外国の人々からのまなざしはがらりと変わります。この国が無くなりでもしようものなら尚更です。自分の国を失うという事がどういう事になるのか、流浪の民が受ける扱いがどんなものなのか、歴史が語っています。そうでなくたって、民族間、肌の色の違いによる軋轢は現在でも色濃く残っています。
今後中国がどんどん経済大国として、世界を席巻するようになれば、中国人の価値観というのがどんどんスタンダードになりますから、彼らの日本人に対するまなざしが世界的なコンセンサスになって行くでしょう。現にもうなっています。北東アジアに根深く残るこの国に対するルサンチマンは、ヨーロッパにおけるかつてのユダヤに対するそれと近いものがあるのではないかと思うのです。ユダヤ人と我々が決定的に違うのは、我々には祖国があり、ユダヤにはそれが無かった。
だから我々が日本人であるという事を、例え国籍を変えられたとしても、本質的に何も変わらない以上、日本という国がダメ国家であり続けたり、日本という国が沈没してもらっては困るのです。日本にずっと居続けるとなれば尚更言うまでもありません。ユダヤ人が祖国を取り戻すのに2000年かかっているという現実を忘れてはなりません。いったん失ったものを無理矢理回復させる事によって、凄まじい弊害も起こっているわけです。
自分は心情的にナショナリズムには何の関心もありませんが、パトリに対する愛着はあると思っています。生まれ故郷というわけでもありませんし、人生の半分くらいは他所の土地で過ごしていますが、今自分が住んでいる場所に対する愛着は、愛憎入り交じる感覚ではありますが持っています。ですからパトリオティズムという意味合いでは自分は右翼的な感覚を持っているとも言えます。しかしそれはこの国の政府に対するものではない。外国にでかいツラする為のものでもない。
心情的に言えばインチキや腐敗堕落からいっこうに脱却出来ない政府に対しては反体制の感覚、つまり左翼的な感覚と共感しあえる部分もあります。ですが、決定的にそこと一線を画すのは、政府が無くなっても何も解決出来ないと思っている点です。政府が腐っていてどうにもならないのは認めますが、権力構造が無くなったからと言って何か解決につながるのかと言えば、そうはならないのではないかと思うのであります。結局国家権力というものが無ければ、解決出来ない次元の問題が沢山あります。
国家権力というものがあるからこそ、国内の暴力格差を無効化出来る側面も間違いなくあるわけですから、政府を倒せば、国家権力を超えれば幸福な社会になるとは思えません。例え革命を起こして現体制を倒したとしても、今度はその革命を起こした勢力が体制になるだけで、国家権力と言うものが必要なくなる時代はそう簡単に訪れるように感じられません。
自分は革命なんて起こらないで済むのなら、起こらないにこした事はないと考えます。結局、体制変革をして一時いい時代になったとしても、それを定期的に繰り返さねばまともではいられない状況というのでは、繰り返しの連鎖から抜け出る事は出来ないと考えるからです。歴史は繰り返すしかないのか、腐敗や堕落の連鎖を断ち切って、まともな国として浮上して行く事が出来るのか、今、この国は非常に重要な局面を迎えつつあるのではないかと思うのです。
歴史は繰り返すしかないのなら、自分が望もうが望まなかろうが、いずれ体制変革の流れは来るでしょう。今はまだその時ではないかもしれませんが、もうすでに多くの人が現体制に絶望しています。政権交代なんて起こったって、どうせ何も変わらないと。
腐敗や堕落というのは一般レベルの感覚で言えば、国民だって偉そうな事は言えないような腐敗堕落にまみれています。人間である以上、そこを完全にシャットアウト出来ない業を背負っているものなのかもしれません。
社会というシステムというのは、どうしたって既得権益というのは無くす事は出来ない。それどころか既得権益というものこそが社会というシステムを駆動させてもいると思います。だからそれ自体が悪で、それを排除すれば善い社会になるかと言えば、そんなものは幻想にすぎませんし、不可能な話です。
しかし現在の一部の既得権益に胡座をかいている連中の傍若無人ぶりは、いくら何でもほどがある。いくら何でも酷すぎます。
人間というのは持つものに対して、持たざるものはルサンチマンをどうしても抱えてしまいます。それがブースとして行かないと何も変えられないのか?持つものは持たざるものから狡猾に搾取する構図を利用し続けるのか?繰り返す歴史の連鎖から抜け出す事が出来るのか?それとも無関心に支配されたまま行く所までいかないと、目覚める事もないのか?
日本的な温情主義を否定するつもりは毛頭ありませんが、そこに胡座をかいている既得権益層の方々、国民の感情を煽って利用している方々、あまり度が過ぎると、痛い目にあうかもしれませんよ。国民の絶望感をなめていると、高くつくかもしれませんよ。
革命など起きず、まともな国になる事に希望を抱き、あれこれ書いてみました。