前回からの続きです。
さていろいろと問題点のあるこの制度ですが、一つ誤解のないように書いておきます。例えばこの映画のような冤罪であったり、前回書いたような問題点が表面化して、刑事裁判が正しく機能しないという事は全体からすると稀だと思います。殆どがこういった問題点に対して無頓着でもなんの弊害もなく片付く事ばかりなのも事実でしょう。実際本当に犯罪を犯している人が被告人である事が大半でしょうし、中には罪を軽くしようとして検察や警察に嘘をつく輩もいるでしょうから、検察や警察、そして司法制度自体がインチキばかりを行っていて、全然公正な社会が担保されていないというわけでもない。一般市民の安全安心を担保するのが統治権力の義務でもあるわけですから、そういった意味でも否定する事も出来ないどころか、そういう機関がなければ国民が暴力格差に怯えずに生きてもいけませんので、絶対必要なものであるわけです。
しかし現行の制度というのは殆ど問題が表面化しないとしても、確実にこの映画のようなアリ地獄にハマってしまう問題もあるわけです。大勢の人々の安心安全を守る為であれば、多少の冤罪的な犠牲はしょうがないと考えるのか。
先日某有名な動物園で、動物達にとってフラッシュ撮影がよくないとの事で、フラッシュ撮影を禁止しているにもかかわらず、一向にそれをする輩が減らないという事をたまたまテレビで見ました。動物園の係員の人がフラッシュ撮影は禁止ですと懸命に叫んでも、園内の至る所に告知をしても、やっぱり人々は止めない。
「フラッシュの切り方がわからない」「みんなやっている」「知らなかった」「ダメだとはわかってるんですけれどね」
いろいろ身勝手なお客さんの意見があるようですが、自分一人くらい関係ねえだろ、という勝手な論理が積極的にしろ消極的にしろまかり通ってしまい、それを強制的且つ物理的に排除したり対処しない事にはこういった身勝手な論理というのはどうにもならないようにも見える。フラッシュを焚いたら罰金50万円とか、懲役3年とか、何らかの罰か、実際に恐そうな人が直接注意するとかすれば、減らせる事が出来るのかもしれませんが、口で言ってわかってもらえるだろうという良心ではどうしてもこういった輩には対処出来ない。
自分の経験で恐縮ですが、人を管理する立場にいる場合、やっぱりある一定の確率でちゃんと仕事しろと言っても伝わらない人が必ずいる。そういう人の話を聞くと「ちゃんとやっている」とか「自分なりに頑張っている」というのですが、やっぱりどう見ても能力的な問題かもしれませんし、向き不向きもあるのかもしれませんが、どうしても伝わらない場合がある、そしてそれは周囲に伝染もする。
そうすると自分は教師ではありませんので、ある程度までは教育しようとは思いますが、費用対効果に見合わなければ辞めてもらうか、辞めるように仕向けます。最初のうちは自分の管理能力に悩んだり、伝わらないもどかしさに歯痒くなったり、教育出来ない自分の未熟さを反省したり、なんとか伝えようと努力したりするのですが、なれてくるとこういった存在も人を管理する以上ある程度歩留まりだと考えるようになる。何が言いたいかと申しますと、ある一定の枠に強制的に押し込めるような強制力を行使しないかぎり、どうしても枠があればそこからはみ出す人が出てくる。これは強制力など使わなくても、管理能力で減らす事は出来るかもしれませんが、無くす事は出来ない。
これと全く同じ構造が、この国のいや世界の至る所にあるわけです。ゴミを捨ててはいけないという事なんて誰だってわかっている話ですが、そこら中にゴミを捨てている人が沢山いる。貧しい国から搾取している現実を知っていても、クーラーの効いた部屋で環境問題の本を読む的な事をしていたりはするが、実際にこの構造に対してどうにかしようという力学など生まれても動員力は非常に低い。ようするに、例えばある制度やアーキテクチャーに問題点があるのはわかるけれど、実際に万人がそれを共有して、善き方向に進むにはあまりにも見通しが暗すぎる。ゴミを捨てるな、フラッシュを焚くな、真面目に働けというのは誰でもわかっているはずなのに、自分は絶対そんな事はしないと思ったとしても、必ずそういったモラルやコモンセンスを共有出来ない輩や、ルールをバイオレートする輩が出てくる。そうなると今度は自分だけ真面目にやっていてもアホらしいぜ、という思いや、他人の抜け駆け感を強く感じる社会になってしまう。これをどう考えればよいのか?
実際、政治家や官僚を見れば立場を利用し腐敗しているように見えるし、近隣諸国の軍事圧力を感じたりもするし、ルールを守らない輩も沢山いるし、安心安全を侵害して来ているようにも見えるし、という事で政治家や官僚相手に吹き上がってもそう簡単に何も変わりませんが、国内に対しては断固対処、重罰化で取り締まれ、国外に対しては核武装だ、的基地攻撃論だ、テロ殲滅だ、となってしまう。ネオコンの奥義もまさにそこにあるわけです。万人を真実に導いて善き方向に進むなんてヌルい事をしていても、テロなどにあえば滅茶苦茶になってしまう。だから一部の真実を知っている人間が大衆を管理し、やられる前にやっちまえということになるわけです。
この国では今そういった状況に徹底対処という重罰化の方向に舵を切っています。海外に対する吹き上がりに関しては、安倍さんのあまりの能無しぶりに少し落ち着きを取り戻しましたが、これはアメリカに釘を刺されたからでもあります。それはあくまでも戦勝国側の権利であり、日本にはその権利はまだ認めないと。そうすると国外もダメ、政治家や官僚に向けられたものも変わるわけない、したがってはけ口は国内の方向に向きます。つまり重罰化で徹底的に取り締まれと。
この流れは事前チェック型の裁量行政の制度から、事後チェック型社会に舵を切って行く流れとも合致します。腐敗や悪しき談合が幅をきかせている状況ではいっこうに社会は善くならない所か、借金ばかりが雪だるま式に増えてもいますので、この流れには逆らえませんし、一度、そういった事前チェック型の腐敗を捨て去らなければこの国は立ち行かない。これはおおむね事実ですので、この流れはしょうがない側面もあります。
しかしこれがあらゆる所で顕在化している。政治家や役人の権益にまみれた腐敗もそうですし、悪しき談合による不透明な社会もそうです。責任を民営化する事によって、以前であれば表面化しなかったものが、表に出て来て重罰化によって取り締まる。ライブドア、村上ファンド、不二家、ミートホープ、コムスン、白い恋人。しかしここにも裁量によって不公平に見える部分もまた見える。オリックスの宮内、日興コーディアル、キャノンの偽装請け負い、日銀の福井総裁。事後チェック型の社会に舵は切っているものの、恣意的な運用が見られます。もちろん検察というのは一罰百戒でありそもそも警察ではありませんので、すべての案件に突っ込んで行く義務はないので、不公平なのはある意味当たり前なのですが、事後チェック型の社会に舵を切っているのにルール主義が恣意的でいいのか、という問題があります。
そういった恣意的な運用の影には、個別の案件の当事者の力関係が背後に見え隠れしていますので、ルール主義が徹底されてないじゃないかという面はあるものの、比較的力の弱い所、所謂弱者切り捨てと叫ばれる部分は容赦なく切り捨てて行きます。地方や老人、病人などに対する配分は不可能だと言う事でパージされて行く。学校や親によって子供の教育が事前チェックによって管理出来なくなっていると叫ばれ、少年の重罰化が正当性を帯びてしまう。この背景にはメディア、政治、役人、法曹が結託して、恐怖や不安を煽り、国民はそれに煽られながら、ファナティックに重罰化を拍手喝采する。
司法制度もそういった流れの中にいます。裁判の被害者家族参加制度もその一環です。確かに従来の司法制度というのは被害者遺族の感情の手当を無視して来た側面もありますから、遺族の無念をそれなりに汲み取るという事は必要かもしれませんが、裁判員制度によって市民参加が決まってから、後だしジャンケンのようにこういった制度が決まってくる。市民は感情をメディアに揺さぶられ、情緒的な怒りに流されやすい構造の下で、この制度を運用して行くという事は非常に危うさも感じてしまう。
メディアは被害者感情をかき立て、検察の情報を垂れ流す、本来公人が情報をリークする事自体守秘義務違反ですが、全くそういった所は簡単にスルーして、被告人を感情的に裁くべしと言う世論が沸騰する。裁判というのが感情劇になってしまい、一方は被害者遺族の悲劇や被告の非道さを、一方は被告が悔い改め反省している面や、犯行に至る情状酌量の余地をあるいは悲劇的に演出し、裁判員という素人の感情の釣り合いに陥ってしまう可能性すらある。
アメリカの陪審員制度の問題点としてまさにその事を特集していた番組を遥か昔に見た覚えがあります。被告人が有罪か無罪かを決める証拠を吟味する場所なのに、例えば被告人は神を信じているか否か、例えば黒人として人種差別を受けていたか否か、そういう論点が判決に影響してしまう。もちろんそれらが情状酌量の余地になる可能性は否定しませんが、有罪か無罪かを決める過程で、そういった情緒論に邪魔されて、有罪なのに無罪になったり、無罪なのに有罪になってしまう可能性があるわけです。
という事は現状の報道体制、取り調べ過程の問題点等から考えてみた時に、日本の裁判員制度はプロの裁判官と、素人の裁判員の多数決ですので、感情劇に陥ってしまう事に一定の歯止めにはなるのかもしれませんが、しかし同時に99,9%という有罪率を国民の感情を吸い上げて正当化する力学がどうしても見え隠れしてしまうわけです。この映画のような冤罪というのは滅多にないかもしれませんが、やっぱりどうしてもそういう危険を感じてしまうわけであります。
果たして一般市民である裁判員が、感情論に左右されず、どう見てもやってそうに見えるか否かをわきにおいて、有罪を立証するのはあくまでも検察の仕事であり、検察の言い分を冷静にジャッジする事が出来るのか?遺族が可愛そうなのもわかるし、許せない悪事を直感的にどう見てもやっているように見える、しかしながら感情論にさおさして判決を下すという事がいかに危険を伴うのか自覚出来るのか?メディアによる啓蒙は全く期待出来ない現状を、クズのような解説者やキャスターが国民の感情にさおさし、きれい事を垂れ流す現状を考えれば、非常に危うい気がするのです。
近代裁判の鉄則を守るのなら、どんなに有罪に見えたとしても、デュープロセスがほんの僅かでも正しく機能していなければ無罪となります。公正な裁判を目指すという事によって、本当は有罪である人間であっても、証拠不十分で無罪となれば一般市民にも危険が及ぶかもしれない。
大多数の安心安全を担保する為には、多少の犠牲となる切りくずが出て来る事を歩留まりだと考えるのか?
正しく裁判を執行すれば本当は有罪であるべき人間が無罪となり、我々に危険が及ぶかもしれないが、無実の人間が冤罪で罰せられるような制度はやっぱり問題があるんじゃないかと考えるのか?
これは非常に難しい問題です。自分が被害者やその遺族達の立場になる事を考えれば、また冤罪でぶち込まれる事を考えれば、それぞれ感情はブレてしまいます。しかしこの矛盾を全く知らずにこの制度を運用して行くのは非常に問題ありです。近代国家として、まともな法治国家を目指すのであれば、やはり冤罪で無辜の民を罰するなかれという、国家権力を監視するという感覚は大切です。そういった問題点をこの映画は見事に描いています。
極論すると、誰も信用出来ない、冤罪でぶち込まれる可能性もあるが、全く犯罪のない社会を目指すのか。犯罪はあるし、危険な事は目に見えてわかる、もしかすると自分もそれによって死ぬかもしれない、しかし周りを信用しおたおたせずに、少なくとも無実のものを罰するような制度ではないを社会目指すのか。という事になるでしょう。どちらが望ましい社会でしょうか。
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この映画は主人公が冤罪で司法制度のアリ地獄にハマって行ってしまう映画なのですが、突っ込みどころは沢山あります。まず満員電車であるにもかかわらず、不用意に女性の背後に正面で密着してしまっている。そして背広がドアに挟まれてしまい、それを引き抜こうとゴソゴソ動いているわけです。慌てていた、時間がなかった、いろいろ言い訳があるわけですが、その体制で正面の女性が痴漢に遭えば、どう考えたって状況証拠から言って、誰が見たって怪しいと思われてしまっても仕方がない。被害者女性は泣いているわけです。傷ついたと。しかもその子がいたいけな中学生ともなれば当然、誰が見たって嘘をついているようには見えない。少なくとも主人公はそういう状況を不用意に作り出してしまっている所は間違いなくあります。やっていない事は立証出来ませんし、その段階でどんなに無罪を言った所で非常に不利なわけです。本当にやったか否か、もう絶対に後からでは立証する事は不可能なのですから、そういう状況に立たされないような普段の心掛けや注意は必要なのだと思います。結局他人が見たわけでもないのに有罪か無罪か決めるわけですから。
痴漢という行為は確かに非常に卑劣です。何でそんな事するんだろうと思います。自分の大切な人がされたら絶対に自分はキレるでしょう。関係ありませんが遥か昔の話です。自分の彼女が外国人の集団に電車の中ではありませんが痴漢まがいの事をされた経験があります。自分を待っていた待ち合わせの場所で胸だかお尻だかを触られたと泣いていたのです。そのとき自分は咄嗟に彼女にダッシュで逃げろと言い残し、外国人一人をメッタクソにぶっ飛ばしました。当然直後に外国人の集団に追いかけ回されて必死でとんずらした事があります。今考えると後先考えずにバカだったと思います。まあ逃げ切れたのですが、確かにそういう場合、自力救済するか泣き寝入りするしかありません。
ですのでそういった事をしている輩は個人的に許せません。がしかし、痴漢という罪を立証されてしまった人は凄まじい社会的制裁を受ける事になります。それは直接暴力によって制裁を加える事より、遥かに強力な報復になるわけです。大人になって好きな男性が出来て付き合えば、全く同じ事をしたってその男性は罰を受ける事はありません。心が傷つくというはわかります。しかしそれで一人の男の一生を台無しにする可能性のある罰を与える事が、果たして妥当なのかと考えると、ちょっとやりすぎのような気もしてしまうのです。
女性は怒るかもしれませんが減るもんじゃないからです。そういう卑劣なやつからは大金を踏んだくるとか、ぶっ飛ばして痛い目にあわせるというのは大賛成ですが、ブタ箱にぶち込んで回復不能の社会的制裁を加える事が果たして妥当なのかどうかこの辺が非常に難しい。そういう事も少し感じてしまう映画でした。もちろん直接武力行使なんて女性では出来ませんし、そんな事をすれば逆にこちらが法を犯している事になってしまいますから、他に有効な手段がなく、当然統治権力が変わりに制裁しなければしょうがないのですが、中々難しい問題があるなと思ってしまったのであります。
昔の話ついでに実は自分、若かりし頃に留置所にぶち込まれた経験があります(不起訴でしたが)。いやもちろん痴漢じゃありませんよ(ここ重要です)。その時の経験からすると、この映画の描き方はやはり冤罪に巻き込まれてしまった主人公の視座から描かれていますので、少し偏っているような気がしました。大多数が悪い事をしているわけですから、推定無罪とは言うもののある程度そういった輩を管理するには警察のやり方にも一定の合理性はないとは言いきれません。警察がいなければ確かに一般市民の日常の安心安全は担保されないわけですから。
さて自分の話はどうでもいいのですが、いろいろと問題点が見えてくる裁判員制度、どっちにしても決まってしまっていますので間もなく始まるわけです。一時地獄を見るかもしれないが、この国の市民性の成熟の為の特効薬になりうるのか?はたまたただ単に現状維持で何も変わらないのか?それとも国民が感情で被告を罰する翼賛体制という最悪の事態になってしまうのか?それはこれからの我々次第という事になりそうです。
映画「それでもボクはやってない」を観て裁判員制度についてつらつらと書いてみました。