今回の選挙、いろいろ思う所ありますが、その中の一つとして投票率の低さが気になります。何でこんなに低いのでしょう。何でこんなに無関心でいられるのでしょう。不思議でしょうがないのですが、理由はいろいろあるでしょうし、答えは簡単には見つからないと思いますが、投票率の低い理由というより、投票率の低い社会をどう考えるのか、今日はそこの所を少し考えてみます。
投票率を上げる為に、まずよく言われるので、実現可能性は低いけれど、やれば絶対効果覿面だろうと感じる処方箋に、重罰化によって投票の動機付けを惹起するというのがあります。理由も無く棄権した有権者には、税負担を重くするとかといった類いの、お仕置きによって投票行動へのインセンティブを高める。まあ逆に言えば投票すれば税を免除されたり出来るので、エサをちらつかせて、鼻先に人参をぶら下げて投票への動機付けを行うわけですから、ある側面では得になるというインセンティブによってという事も出来るでしょう。
しかしこれではこの国での実現可能性は低いような気がします。近代国家では重要な概念として、一番が立憲、次に人権(政治からの自由)、そして民主(政治への自由)という事を考えれば、選挙というのを何か罰や得をちらつかせて動機付けを与えるというのは、何となく違うような気もしてしまいます。
それによくわかっていない層というのもいるわけで、そういう人々がわけもわからず選挙権を行使するとなると、国家が暴走して行く引き金になりかねない恐れもあります。現段階でもメディアに煽られ、政治家さん達のパフォーマンスに乗せられて、ファナティックに選挙結果に反映してしまうという事がありますから、危険と隣り合わせです。まあ例えそうだとしても、民主主義国家を標榜するのであれば、基本的には投票によって政治家を選ぶという事を万人が行うというのは、民主主義国家の理想型ですからあながち否定するわけにもいかない。
自分がこの手の方法でよく思うのは、選挙で選ばれた政治家が不祥事を起こしたとき、その人を選んだ地域の人々を(投票した人も、棄権した人も)連座制にして罰するという事を考えてみたりします(選ばれた政治家はもちろんブタ箱にぶち込んで、選挙民は税金が高くなるなどの)。こうすると投票率が上がり、短期的な己の権益の為に支持すると、後で手痛いしっぺ返しがあるかもしれないという恐れが、いい加減な汚い政治家がファナティックな支持によって、政治家になれない仕組みとしていいのではないかと考えたりしてしまいますが、まあ政治家がそんな制度許すわけないですし、自分達が痛い目にあっちゃかなわないと思う国民が殆どだと思いますので、絶対に実現は無理でしょう。
ようするに、はやい話が、こういった方法で投票率を上げるという方法は、現時点のこの国のアーキテクチャーや民度を考えますと、ほぼ不可能な話ですので、効果があって導入した方が明らかに善い社会になるのだとしても、実現は不可能だと言う事です。仮に導入出来たとしても、殆ど実効性の薄いものしか無理なのではないかと思います。ないよりはあった方がいいけれど、殆ど動機付けにはならないような。
制度的なもので人々に動機付けを与えるという事にあまり希望がないのであれば、啓蒙活動が重要になりますが、大手メディアには全く期待出来ません。ここが果たす役割としては、ある程度、政治に関心がある層を、バイアスのかかった報道によって、一方的な世論を形成する事には一役買いますが、彼らには何の責任もありませんし、また絶対に責任も取りません。
政治と言う退屈なものを、味付けをして人々を引き込み興味を持たせるという意味合いにおいて、多少政治に興味のない人達を振り向かせる事に一役買っているのかもしれませんが、現状の大手メディアの劣化ぶりは、もうまともなレベルのジャーナリズムは期待できませんので、よい影響があったとしても、悪影響に相殺されてしまい、差し引きで考えると遥かに悪影響の方が上回っているように感じます。現状のいい加減な大手メディアの立ち位置を知る為のリテラシー教育は必要だと思います。
結局の所、立憲主義にしても、人権にしても、民主主義にしても、突き詰めて考えて行くと、必ず矛盾にぶち当たります。透明な再配分にしろ、機会の平等を担保した競争社会にしろ、突き詰めて考えて行くと矛盾は避けて通れません。
国家権力を縛るのが憲法、しかし憲法を制定するのに必要な権力というのは憲法外にいるわけで、国民だけで憲法がつくれるわけではありません。憲法で平和を謳っているからといって、日本が攻撃を受けて、国民が死んでいるという時に、憲法を守っていたのでは国民を守れない事態に陥る場合だってあります。そういう時には脱法しろというのが、マックス・ウェーバー的な立憲の裏の概念としてあるわけです。本来の立憲の概念とはどうしても矛盾してしまう。
人権もそうです。結局、先進国での男女同権というのは、女性を男性と同じ権利を認めようと言う事です。そうすると当然収入や、社会的発言権が高まります。先進国の男女が全く同じ収入を得るという事は、貧しい国は更に貧しくなってしまいます。資本主義というのは誰かが儲かれば、必ず誰かが損をする。それは弱い立場から搾取する事にもなる。人権もいいけれど、先進国だけでその事を論じても、貧しい国ではただ生きて行くだけでも困難な状況に叩き込まれているわけです。そこを無視してそんな事を言っていていいのか。
戦後この国ではずっと、自民党的な再配分によって国を回して来ましたが、これは腐敗と表裏一体なわけです。国が借金まみれになり、再配分はいいけれど必ず腐敗が起こってしまう。そこでネオリベ的な方向に舵を切るわけです。アメリカでもイギリスでもいったんはそこへ舵を切りました。最近のフランスもそういう風に見えます。しかしこれもやっぱり競争ですから弱者が生まれてしまう。国内で仮に機会の平等を担保出来たとしても、国際社会を見れば、結局、力の論理で最初に初期手持ち量を物理的に確保する事によって、格差は必ず生まれてしまう。現在のこの国の非正規雇用者が増えている現状はけしからんとは言ってみても、中国やインドのような貧しかった国々が、その分裕福になっているわけです。先進国ばかりが勝ち続けるシステムがいいのか、貧しくてもチャンスがあった方がいいのか考えてしまうと、日本国内だけを見て弱者救済と叫んでいてもしょうがないような気もする。いくら貧しい国々に先進国が金を注ぎ込んで再配分しても、底なし沼的な状況で全く効果無かったものが、先進国のマネジメントや技術の提供を行う事によって、やっと外貨が稼げるようになった。しかしやっぱりそうなるとグローバライゼーションの競争の原理に巻き込まれてしまいますから、不可逆な弱肉強食社会になってしまう。矛盾は排除出来ない。
いややっぱりけしからん。それで懐を肥やしている輩がいるだろう、弱者を食い物にして儲けている輩がいるだろう。それでは自民党的ではない、クリーンな再配分、アメリカではクリントン政権で、イギリスではブレア政権がとった道、所謂、第三の道的な方向に舵を切るべきだ。現在、我が国の民主党はそういう路線に舵を切っているように感じます。しかしここにも問題が生じます。クリーンな公平なって言うけれど、そこには必ず人が再配分するわけですから、恣意性を排除出来るのか考えると、疑問に思ってしまう。現にこの国の官僚や、政治家、そして様々な既得権のホルダーが腐敗している状況があるわけで、それだったら規制を取っ払ってレッセフェールの方がマシなような気がしないでもない。そんなノーブレス・オブリージュの伝統もないし、政治家や役人にそんなコンピタンスなんてあるわけない。それがあればこんな腐った国になんてなっていない。現行の制度を相当手直ししないかぎり、無理に決まっているし、その制度を設計する側の人間が権益を握っているわけだから、そう簡単に手放すようには思えない。安倍さんが権力にしがみついている様を見ても、国民の声なんて絶対に届くわけもない。人というのはそれほど懸命な生き物ではない、だから権限を持てば必ず腐敗する輩が出てくる。そこは否定出来ない。
民主主義にしてもそうです。国民の声に耳を傾けると言っても、公平に立場の違う人々すべてが満足する政策など打てるわけありません。国民はそれほど日々政治の事について考えているわけではありませんから、そこに迎合しすぎてしまうとポピュリズム政治に陥ってしまう。小泉さんの郵政選挙しかり、アメリカでブッシュが一時期支持されたのもしかり、中国、韓国の現状もそうでしょう。戦前の我が国、アメリカのレッドパージ、優生学、黄禍論、ナチスの台頭、ユダヤ人に対する迫害、熱狂的に政治家のアジテーションに乗せられたり、自分達の生活の困窮に対するクリアカットなソリューションを求めたり、愛国という下駄を履き、柱にすがろうとしたり、そこには常に間違いがつきものです。
間違いがつきものであるから、わかっている人間が、パターナリズム的に人々を導くという風になってしまいますと、必ず足を引っ張る輩や、抜け駆け感を感じる人が出てくる。それにそういう社会ではもはや民主主義とは言えないような気がしないでもない。
つづく。