続きです。
さてそこで映画の話に戻ります。この映画は終戦直後の天皇陛下の日常を淡々と描いています。天皇陛下がいい人だったとか、悪い人だったとか、そんな事は全く触れていません。ただあの戦争の旗印となっていた存在の生活は、戦争と言う状況から全く隔離された、ある種、台風の目が静かであるが如く、戦争という狂気の中で異質な静寂の中で囲われて生活していた様が垣間見えます。映画自体はそれなりに面白いので、興味がある方は是非見てみる事をオススメします。この映画を観ていると常日頃自分が前大戦に抱いている違和感が、余計に強く感じられるようになってしまいました。
太陽

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少しここからは暴論かもしれませんが書いちゃいます。歴史というのは後からああだこうだ言ってもしょうがないものだという事は百も承知ですし、結果的に見てそれが誤った選択だったからと言って、その時点、その立場でものを考えているわけではない後世の人間が、過去を断罪するのは無意味ですし、不遜だとも思いますが、あえて書きます。
自分が前大戦で一番腹の立つ事は、あれだけ大勢の日本人を天皇陛下万歳と死なせ、沖縄や各地で戦った人々を見捨て、玉砕と叫んでいたのに、原爆二発で本土決戦を前にビビってあっさり降参してしまった。そして天皇陛下万歳とあれだけの人を死なせてしまったのに、天皇陛下をあっさりとGHQに差し出してしまった。GHQが天皇を占領統治の旗印にしようと利用したからよかったようなものの、処刑されるリスクだってあったはずです。簡単に天皇陛下を差し出して、あっさり降参するくらいなら、もっと前の段階で引き時というものがあったはずです。天皇陛下万歳と言うフィクションによって散っていった人々に、何と言い訳をするというのか。
よくアメリカが日本の降参を受け入れてくれなかった的な言い訳が言われますが、形式上は日本がアメリカの挑発に乗って、しかも外交官の不作為とはいえ、アメリカ的な視点で言えば、宣戦布告なしのスーニックアタックという、最も蔑まされる卑怯な手段を使い始まった戦争なわけです。それを日本が負けているのに、日本に有利な講和条件などアメリカが飲むはずありませんし、そこを何とかするのが交渉ってもんです。
もう日本は絶対に勝てないとわかった時点で速やかに不利であっても講和を結ぶ努力をすれば、あれだけ悲惨な状況だって回避出来たかもしれません。あんなになるまで犠牲を強いて、あげくの果てに天皇を差し出して許して下さいなど、ふざけるなって話です。天皇陛下万歳というのが、いかに国民を騙す為のフィクションだったかがわかります。天皇陛下の事を利用していただけなのでしょう。ハルノートだなんだと言いますが、結果的にこの国はボロクソに負けているわけです。そりゃ最初は調子が良かったのかもしれませんが、勝っている時点で何とか出来なかったのか?負け戦だとわかった時点でなぜ早期講和を結ぼうともっと努力出来なかったのか?屈辱的な条件を飲む事が出来ずに、堪忍袋の緒がキレたと戦争するわけですが、あれほど悲惨な目にあうより、屈辱を飲んで他日を期するという選択肢がなかったのか?明治維新を遂げる前、攘夷の嵐が吹き荒れていました。しかしそれでは日本そのものが沈没してしまうかもしれない。そこで幕府は弱腰と蔑まされながらも、不平等条約を結び他日を期した。幕府を倒す新政府だって名目上は開国して他日を期したわけです。不平等条約を改正する為に近代化を進め、そして本当に攘夷が果たせるだけの国力を蓄える。帝国主義全盛の荒波を乗り切る為の微妙な舵取りがなされたのです。どうしてそれが出来なかったのか。
天皇を差し出す事で、日本人全員が救われたからよかったではないか、という声が聞こえて来そうですが、確かにそれはそうかもしれません。しかし制圧作戦というのは非常に難しいものです。イラクやベトナムを見るまでもありませんが、当時本土制圧に要するアメリカの試算では、アメリカ兵の犠牲は50万とも100万とも計算されていたそうです。自分は思うのです。その時点でアメリカ兵相手に竹槍でも何でも持って、国民がゲリラ戦を仕掛けて、アメリカ兵と命のやり取りをしていれば、こんな奴隷国家にはなっていないはずです。石原莞爾だってゲリラ戦に持ち込めば勝機はあると言っていました。もちろんそうなれば戦後の繁栄もなかったかもしれません。しかしこの国が一丸となって乗っかっていたフィクションをあっさりビビって捨ててしまった。あれだけ人を死なせてしまったのに簡単に天皇を差し出して降参してしまった。天皇にぶら下がっていたメンタリティが、GHQそして現在のアメリカ、お上意識、そういうこの国独特の甘えと依存の構造から脱却出来ずにいる弊害を生み出してしまったのではないかと思うのです。
あのとき徹底的な悲劇を味わい、政府や役人に甘えたり依存するのは危険だ、特定の思想や何かにすがって自立出来ずにいる事によって生まれる悲劇を、徹底的に学ぶチャンスを逃してしまったのではないかと思うのです。それが現在のこの国の病癖にもなってしまっている。ニーチェ的な悲劇の共有がなされるチャンスだったのに、アメリカが救いの手を差し伸べてしまった。アメリカが日本の講和を受け入れたのは本土制圧作戦の難しさを知っていたからです。それが今でもアメリカに文句は言わないけれど、むしろ日本政府を憎み続けるという弊害を生み出してもいます。あれだけ信用したのに、という感じでしょうか。国家権力なんてもんは、そんなものだという自立が今でも出来ません。そういう国民の情緒的なメンタリティを吸い上げる運動を、政治家もメディアも相変わらず繰り返しています。全く前大戦前夜と同じ構図です。少しも成長していない。自分の書いている事は暴論かもしれません。普通に聞かれればもちろんそんな事は言いませんし、皆殺しにあわなくてよかったなあとも思います。しかし現在の我が国の最も唾棄すべきメンタリティというのはその辺に理由があるような気がしてしまうのです。
そして三島由紀夫ではありませんが、天皇の人間宣言、これは決定的にこの国のアーキテクチャーを固定化する手段でした。GHQがそこまで設計図を書いているのだとすれば、驚嘆するべき事です。なぜか。
この国はいつも天皇を中心として、時には利用して、革命の玉として歴史が動いて来ました。天皇制度というのは比較的はやい段階で、世俗の権力と、祭事を司る精神世界の権力とをわけた事が、天皇制度が続いて来た理由でもあります。天皇は精神世界に君臨する存在だったわけです。世俗の権力争いをしている人々からすれば都合のいい存在だったはずです。だからいつも必ずしも天皇は尊敬されていた存在かと言うと、権力争いの方便として利用していた側面もありました。それは明治の元勲もそうです。天皇陛下万歳を設計した人々は、天皇主義を統治のシステムとして利用していたわけですから。戦後簡単に天皇陛下をGHQに差し出した所を見ると、前大戦で天皇陛下万歳と煽っていた連中も、天皇陛下を利用していたにすぎないのでしょう。
天皇制度というのは古い体制を打ち砕き、天皇を囲い新しい体制をつくる。これは何度もこの国で繰り返された事です。信長や秀吉もそうですし、征夷大将軍というのは天皇に任命されるわけですから、実質上天皇には何の力もなかったとしても、天皇によって世俗の権力者が生まれるという構図を繰り返して来たわけです。乱暴な言い方をすればヨーロッパでのローマ教皇みたいな感じです。それはいわば革命を起こしても、天皇に任命されればそれだけでレジティマシーを調達出来るシステムだったわけです。
幕末、天皇を中心にこの国は激動の時代を迎える事になります。幕府や会津、長州や薩摩、土佐などが天皇をめぐって鍔迫り合いをするわけですが、最終的に薩長連合が天皇を担いで、錦旗を掲げ、官軍となり、幕府軍や会津などを蹴散らすわけです。これも一種の革命であり、そこに正当性をもたらしたのは天皇というシステムでした。戦後GHQがこの国の設計をした時も天皇を中心として国家体制が変わりました。天皇制度というシステムを上手く利用したわけです。
しかし天皇は人間宣言してしまった。どういう事か、それはアメリカに都合のいい日本の政治システムが天皇システムを無効化して、尚かつ囲い、二度と天皇システムを利用した革命は起こせない状況を制度化してしまった。絶対に革命が起きないのですから、政治は腐敗します。アメリカにさえ気を使っておいて、国民を騙してそこそこ支持されていれば、いい加減な政治運営でも革命が起こって首を切られる事はない。だからそこには緊張感は全くない。近代立憲主義を生み出したジョン・ロックの思想では、抵抗権である革命権とセットの制度です。しかしこの国では革命を起こす為の、アメリカのような武装権もないし、天皇システムも無力化されてしまった。だから革命は起こりにくいシステムが回っている。アメリカのやりたい放題になっている現在の弊害や、緊張感のない与党も野党も腐りきっている現状を生み出しているわけです。国内の革命の玉としてレジティマシーを調達出来た天皇システムというのは、親アメリカの政治制度に奪われてしまった。ようするにアメリカに囲われているという事です。しかも人間宣言をして、教育でも、メディアでも、二度と天皇システムが革命の玉として機能しないように骨を抜き、現在に至っているわけです。
この国が腐っている理由は恐らくここに起因しているのだろうと思います。資本主義を駆動させていく為の、プロテスタンティズムの神の変わりとしての天皇制度も壊れているし、腐りきった政治システムを打破する為の、国家権力を再構築する事の出来る天皇システムも骨が抜かれて囲われてしまっている。
政権交代などというものも、結局現行制度で誰が権力を握るかという程度の話です。与党が牛耳ろうが野党が牛耳ろうが現行の制度そのものが、アメリカが設計したアメリカに都合のいい制度であり、それを変更する有効な手段が奪われてしまっている。ここまで予測して設計しているのだとすれば、終戦後のアメリカの洞察力は凄まじいものがあります。今のアメリカの指導者と比べれば、月とスッポン。悔しい事ですが恐ろしい観察力です。
緊張感の全くない政治制度や官僚システムは必ず腐敗します。ぬるま湯にいれば当然です。だから現行のシステム上の政治家や役人や、彼らが生む出した利権構造というのは、ヴァルネラビリティーが必ず生まれてしまいます。アメリカにしてみればそういったヴァルネラブルな体質を突っ込めばいくらでも身ぐるみを剥ぐ事が出来る。例えばアメリカから自立的な行動を取ろうとした政治家や官僚というのは、高い確率で失脚します。田中角栄などがそうです。現在でもアメリカ的なものから自立をしようと、例えば親中派などがどんどん権力を失っていく構図というのは、このシステムで回っているからです。
戦後焼け野原から再近代化し繁栄する過程では、冷戦構造という特殊事情があったとはいえ、アーキテクチャーがいい加減でも、誰が舵取りをしたってゼロからの出発なわけですから、天皇システムが壊れていようがいまいがある段階までは繁栄出来た。しかしバブルも弾け、冷戦構造も終わり、この国が抱えていて放置していた問題点が一気に浮上して来た。繁栄にうつつを抜かし、アメリカに与えられたフレームでしかものを考えられなくなってしまった。
困ってしまいますね。これでは参院選など無意味だと言っているようにも聞こえてしまうかもしれませんが、無意味かもしれませんが現時点で我々国民が政治家に意見を言う機会は投票しかありませんから、無駄かもしれませんが何もしないよりはマシなのではないかと思います。
GHQによって天皇制度の骨を抜かれ、この国のシステムをアメリカにとって都合のいい状態に再設計したわけですが、それでも戦後間もない頃というのは、戦争の記憶もあったわけですし、面従腹背でとりあえず日本が独立する為にはアメリカの要求を受け入れざるを得ないと、それなりに戦略的に振る舞っていたわけです。憲法九条や日米安保というのはそもそも反米ナショナリズム、保守本流の闘争のリソースだったはずです。アメリカの再軍備要求に対して、アメリカの起こした戦争で日本人が死ぬのはかなわない、だからアメリカのくれた憲法を逆手に取って、日本は戦争が出来ませんと突っぱねるエビデンスとして利用した。アメリカの言うなりにはならないようにしようじゃないかって事で安保条約を結ぼうという事になる。安保条約を結び経済発展に専念出来た事によって、急激な勢いで再近代化を果たす事も出来た。左翼勢力というのもアメリカとの交渉の匕首として機能していた。アメリカがあまり無体な要求を突き付けると、革命が起きますよと。アメリカにとって共産勢力というのは脅威でしたから、日本が革命によって体制が変わるのは何としても避けねばなりません。左翼の叫んでいた事は空論でしたが、アメリカを脅す手段としては十分機能を果たしていた。いわば自民党的なものを支えていたのは、左翼勢力の脅しとセットだったわけです。それによってアメリカからゲインを引き出してもいた。
五十年代を通じて、日本国憲法と安保条約のセットはアメリカの言うなりにならない為の道具だった。岸信介の安保改定あたりから、安保条約というのは日帝、日本のブルジョワジーがアメリカのブルジョワジーと手を携えてアジアを支配する帝国主義的図式なんだという話になって、それから右と称する人間は憲法九条が自衛隊の桎梏になっている、自衛隊を外に出しさえすれば日本は一人前だっていう図式になり、左翼の方は憲法九条を守りさえすれば平和主義なんだという図式になる。
右も左も問わず六十年代、七十年代前半くらい、田中角栄政権くらいまでは、いかにして将来自立するのか、方法論は違っても、本義本懐は同じだというベースがどこかにあったはずです。アメリカの意のままにはならないぞという選択肢を呼び込むのが保守本流であり、左翼だってアメリカ的な帝国主義に追従していく路線は断固許せん。アメリカから自立するべしと謳っていた。その為には暴力革命という手段を用いるという覚悟が青いかもしれませんがあった。
それが今では、対米追従というアメリカの戦争のお手伝いをする、奴隷根性丸出しの選択肢か、冷戦構造が終わり、全く脅威でなくなってしまった左翼勢力は反戦平和を話し合いで実現するというお花畑の図式になってしまった。冷戦が終わったというのにパラダイムシフトが出来ていないどころか、劣化さえしている。朝鮮戦争でぼろ儲けして、核の傘の元で経済発展した国が何が平和主義だという当たり前の感覚が忘れ去られてしまっている。どうやって自立するのかという目標の為に運動しているようには全然見えない。右とか左とかはどうでもいいのですが、いかにして自立と国民の平和と繁栄を担保するのかという発想が全く見えない。
もう一度我々は原点に返り、あの前大戦を相対化し、そもそも戦後、我々が当たり前に持っていたはずの常識を掘り起こし、どうやって自主独立と平和を担保するのかという所から考え直さねば、護憲だ改憲だと言い争っても不毛です。アメリカに依存する為の改憲や、国家権力に取って都合のいいい改憲では話になりません。国家権力の暴走から国民を守る為にあるのが憲法です。しかしかといって国家の危急存亡の危機が訪れたとき、憲法を守っていたのでは国民の安全を守れない可能性がある。そういう時は脱法行為も辞さないのが政治家であるわけです。当然それによって罰せられる可能性だってあります。そういう覚悟を持った、矛盾を背負った存在が国家権力を動かしていくべき存在なのです。
また憲法を護持すれば、平和が担保されるんだという話も冗談じゃありません。戦争は一国で出来るものではないからです。我々がどんなに平和を望んだ所で、相手がそう思っていない場合だってあります。その時にどうするのか、話し合いで解決しますでは誰もそんな奴に任せる気にはなりません。日本人はどうせバカだから、平和憲法で縛っておかないと危険だ、自動的に安全装置として機能するはずだという発想では、我々の自立を妨げてもいます。甘えや依存の蔓延した現在の民度から、自立した民度に成長し自主独立と平和を目指す為には、我々が何を憲法に意志するのか、憲法意志があってはじめて憲法は機能するものです。改憲が必要であれば改憲する。必要なければ変えない。憲法が先で我々が存在するわけではありません。どんなに立派な憲法を持っていても我々がそれを守っていこうという意志がなければ無意味です。
せめてこういう映画を外人に撮られているようではガッカリします。硫黄島からの手紙を観た時にも思いましたが、こういう映画は日本人が前大戦を相対化してつくるべき代物です。この国で戦争映画と言うと、男達の大和的な可愛そうという、情緒に訴えかける映画ばかりです。いつまでも被害者意識で悲惨さを伝えているだけでは、なぜそういう戦争に我々は突っ走っていってしまったかという学びは得られません。理不尽な存在がいて、我々は何も悪くないのに被害を受けたという発想では、例えそうだったのだとしても、何の役にも立ちません。どうやって平和を守るのか、その為に必要なのは祈りではありません。それを阻止する思考と行動です。我々はいい加減そういう情緒的なものに甘えるメンタリティから卒業せねば同じ過ちを繰り返してしまうのではないでしょうか。天皇陛下を主人公とした映画「太陽」を観て、こういう映画を日本人が撮れるようになったらいいのに、という悔しい気持ちでいっぱいになり、つらつらと書いてみました。