本日はアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画、「太陽」を観て感じた事を書こうと思います。主に感想というより、映画を観て気になったこの国に蔓延している空気、その辺を少し書こうと思います。
太陽

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天皇陛下万歳、そうやって沢山の人々が死んでいった前大戦。我が国ではいまだに相対化出来ずにいます。まして天皇陛下を主人公とした映画など、この国では不可能な感じがしてしまいます。
我々にとってはタブーとも言える題材を、外国人の目から、極めて客観的に且つ淡々と天皇を一人の人間として描いています。天皇陛下を演じていた、イッセー尾形さんの演技は特徴を捉えており、あの口癖「あ、そう」というのも、そういえばよくおっしゃっていたなあと思い出させてくれました。しかしちょっとやりすぎているのではないか、こんなにやっちゃって大丈夫なのかと思うほどハラハラしてしまいました。そう、それくらい戦後のトラウマからまだ相対化出来ていない現状が、今でもこの国では蔓延しています。戦前、負けを口にする事が出来なかったように、戦後、60年以上たちながら、あの戦争についてのタブーが残っていて、それを口にするだけで断罪される空気がこの国を支配してもいます。
例えば先日叩かれまくった、元防衛相、確かにあの人の発言は不用意ですし、常識をわきまえていないとも思います。しかし国民が一丸となって血祭りに上げる空気に支配されているという事は、やはり戦前と同じように一つの空気に支配されていて、その枠に当てはまらない異論は同調圧力によって排除される。確かにあんな非常識で不愉快な事を、しかも大臣が言うなんて許せない、という気持ちはわかるのですが、何となく戦前の弱腰な発言に対して「貴様、皇軍が負けるとでも言うのか」と吹き上がる(所謂ステレオタイプな)将校やこの国を満たしていた空気に似ているような、戦後、なぜあんな無謀な戦争に突っ込んでいったのかという話になると、誰かが止めてくれると思った、という山本七平さん的な空気に支配されているような気がします。戦前翼賛体制の元、戦意を高揚していたメディアや軍人、一般の人々は戦争で負けた途端にマッカーサーに手を振って、民主主義の旗を振るわけです。仮にアメリカに見捨てられて、北朝鮮や中国からミサイルが飛んで来て、壊滅的な打撃を受けたとしたら、現在この国を満たしている空気はどうなるのでしょう。だからあれほど核武装しろと言ったのに、とか、非核は危険だとは思ったけれど、周りの空気には逆らえなかった、となるのでしょうか。まあそんな事態になる可能性は低いと思いますがゼロではないでしょうから、それでも断固核廃絶と訴え続けられるのか、いったいどれだけの日本人が、核攻撃を受けて滅茶苦茶になっても核武装はするべきではないと考えているのかと思うと、そこまで覚悟を持って言っているようには感じません。そんな事起こりっこ無いという前提で言っているような気もしますし、アメリカがいるから大丈夫という前提で言っているような気もします。それってちょっとおかしいのではないかと思ってしまうのです。
アメリカの核の傘の下にいて、原発の恩恵を受けて、原子力に対してはきれい事以外は許さないというのは、あまりにも幼稚な発想と言わざるを得ません。国連体制のもと、IAEAの監視下で、食料自給率もエネルギーの問題でも、海外に依存している現状で出来るか出来ないかを考えれば、限りなく不可能に近いと自分も思いますが、アメリカから自立し、近隣諸国の圧力から手っ取り早く、この国の安全を考えれば、核武装というのは低コストでそれを担保してくれるものになりうるのではないかと、全く論理性がないかと言えばそうでもない、アメリカに依存し、原発に依存していて、原子力によって実質的にこの国の繁栄を担保しているのに、建て前だけで平和を論じても無意味です。原発で偽りの繁栄を謳歌しているのに、根本的な原発の危険性に対してディナイアルになっている事の方がよっぽど危険なのではないかと思います。
また悪気はないのだと思いますが、素朴に非武装平和や核廃絶を訴えている方々は、争いのない理想的な社会を目指すべきだと思ってそういっているのかもしれませんが、もうすでにそういう人々の存在そのものが、アメリカにとってのリソースになってしまっている。そういう人々が目覚めぬかぎり、日本はアメリカから自立出来ないからです。安全保障で自立出来なければ、国民すべての合意にはなりにくい。アメリカが、どうせ自立なんて出来るわけないこの国の足下を見続けているのは、そこに一つの理由があるわけです。そしてアメリカは何をしているのかと言えば、中東で戦争しているわけで、それに我が国も手を貸しているわけです。アメリカのリソースになっているだけではありません。北東アジア諸国にとっても日本のそういう勢力はリソースになってしまってもいます。
第二次大戦以前、ヨーロッパの空気はまさしく平和主義が蔓延していました。しかしその事がナチスの増長を招いたわけです。そんな事起こりっこ無いという楽観が招いたものです。ヨーロッパを救ったチャーチルは戦前戦争屋と蔑まれていたわけですが、結果的に彼がいなければヨーロッパはもっと悲惨な目にあっていたかもしれません。
現代はテクノロジーの発達によって戦争をするという事は即ち滅びの道につながるので、いくら武装してもこれでよいという状態にはならずきりがない、だから憲法九条を旗印に平和外交を武器にするべきだという意見もあります。正論です。まさしくその通りかもしれません。しかしだから武装はしなくてよいという風に直結するのは短絡的すぎます。武装は確かにきりがない、どこまでいってもこれでよいというのもない、しかしだから武装が無意味とはならない、それでもやっぱり人は武装しないといられない、暴力の問題は結局暴力によってしか解決出来ない。悲しい事ですがそれは事実です。国家という暴力装置がなければ、個人間の暴力能力格差を無力化出来ません。警察や検察と言う暴力装置がなければ、我々の安全は担保されないのです。国際関係で言えばもっと複雑で、言葉や文化も違い、モラルやコモンセンスも微妙に違うわけです。同じ民族、同じ言語を有する国内問題ですら、暴力装置なしでは安全は担保出来ないのですから、国際社会でどうかなど考えるまでもありません。
テクノロジーが発達したからと言って、進歩を進化とはき違えるのは危険です。歴史は繰り返す、これはどんな事よりも人類普遍の法則だと知らねば同じ過ちを必ず繰り返します。我々が過去の人類より万能だと考えるのは、あまりにも慢心していると言わざるを得ません。進歩はしているのかもしれませんが我々人類はそれほど賢くなっていないわけです。昔の人々が愚か者だったから戦争をしたと考えるのはあまりにも危険です。平和は目指すべき理念ですし、非武装も究極の理想でしょう。しかしそれを担保する為には残念ながら現時点では暴力を否定しても出来ないわけです。否定して例え死んでも構わないから外交努力によって目指すというのは理想としてはカッコいいのですが、それが国民的な合意には残念ながらならない。またそれは、例え死んでもアメリカに一矢報いるという戦前のメンタリティとたいして変わらないように感じます。
日本を攻撃しても資源もないし、メリットなんてないと言う人もいます。それはそうかもしれません。しかし日本には魅力的なものがあります。それは技術力です。非武装でアメリカから例え自立出来たとしても、アメリカが現在、我が国に及ぼしている影響力の代わりを務めたいと考える国が出てこない保証はどこにもありません。日本人の奴隷根性は筋金入りですから、武力をちらつかせゲインを引き出すという、アメリカ流の占領統治植民地政策を引き継ぐ事が出来れば、おいしい市場に見えるのではないでしょうか。それに日本の地理的な条件だって、太平洋で覇権を握ろうと思えば魅力的なはずです。アメリカが日本を手放す可能性があるとすれば、日本が自主防衛能力を持ち、アメリカには絶対に反抗しないという事が担保されないかぎり不可能です。日本はいざとなると何をしでかすかわからないというイメージがありますから、それは非常に難しい、建て前と本音の使い分けや、ロジカルに思考出来ず、情緒的に左右されてしまう思考は、きっと理解不能だと思いますし、嘘つきだというイメージが張り付いています。アメリカに依存しながらきれい事をほざく輩の多さを見ても、いかに非論理性が満ちているのかがわかります。それを戦略的思考に基づいて使っているのならまだ救いようもありますが、本気でそう思っている輩が沢山いる。そういうきれい事を嘘といいます。それに死んでもいいから一矢報いるというメンタリティを総動員態勢で一丸となる国民性は脅威でしょう。
アメリカが先に中国やロシア、北朝鮮などと協力関係を強固にして、日本の地理的な優位性が無効化されて無視されるという可能性はあるかもしれませんし、現時点でそういう兆候も見えますが、この国からふんだくれるうちは簡単には手放さないでしょう。アメリカ、中国、ロシアの関係が強固になって、この国の経済が少子化や腐った統治機関によってどんどん衰退していけば、無視されて結果的に独立出来るという可能性はあるかもしれませんが、それでは繁栄もクソもありませんから本末転倒です。ダーウィンの悪夢的な貧困に陥ったとしても独立出来ればそれでいいんだというのであれば、選択肢としてはありなのかもしれませんが、国民的な合意が得られるか考えると、不可能な話だと思ってしまいます。
また断固決然とアメリカへの隷属外交を非難し、北東アジアとの対決姿勢を煽り、核武装を主張している方々もいます。気持ちはわかります。気持ちはわかりますが、本当にそれを実現しようと思うのなら、吹き上がって威張り散らしていたのでは、絶対に不可能だと思います。後から後からある事ない事、捏造してこの国の前大戦のフィクションである過ちをいつまでもグジグジうるせえよ、と自分も思いますが、そこから脱却しようと思ったら、戦略的に思考せねばなりません。怒りに任せてスッキリするのが目的ならば別に構いませんが、本当に自主独立、重武装中立を目指すなら、繊細な駆け引きが必要です。食料自給率やエネルギー問題によって我が国は首根っこを押さえつけられてしまっている状態です。アメリカにも、北東アジアの方々にも、それ以外の諸外国の方々に対しても、この国が武装してアメリカから自立しても、必ず暴走はしないと信用を勝ち取り、説得せねばなりません。外圧に対して弱腰はけしからんと吹き上がっていたのでは、前大戦の時と全く同じ思考です。
重要なのは我々は前大戦で負けたのです。悔しいけれどそれは事実であり、それを認める所から、戦後の繁栄も始まったという事を忘れてはなりません。その繁栄にただ乗りしておいて、それを否定するという行為は、そもそも矛盾します。
そういう意味では、自分は嫌いですが親米保守の方が戦略的と言わざるを得ません。アメリカはそう簡単に日本の自主独立や重武装化など許すはずがない、だからアメリカには絶対に逆らいませんという意志を見せ続けなければ、重武装化など出来るはずがない、それが出来なければ絶対に自主独立など有り得ない。小泉さんや安倍総理がそこまで戦略的に考えているのかどうかはわかりませんが、そう思って対米依存を装っているのだとすれば、それはそれで合理的と言えない事もない。
ただし自分は例えそうだとしても、現在のアメリカの中東政策に追従して、自衛隊を海外に送ってアメリカの戦争の片棒を担ぐという選択はハッキリ言って受け入れられません。日本にとってリスクが増えるからです。リスクが増えないと重武装化の国民的な合意が得られないという事は理解出来ますが、重武装化は国を守る為のものです。危険を人為的に増やして重武装化するというのは順番が逆です。それに北東アジアやロシアとの関係が今の状態のままで重武装化に踏み切れば、必ず将来に火種を持ち込む事につながります。重武装化はするべきだとは思いますが、国民を危険に陥れて重武装化するというのでは本末転倒です。国民を守る為に重武装化はするべきものです。
当たり前ですがアメリカとの関係だけで重武装化に踏み切れば火種を抱える事になります。重武装化する為にはそれ以外の諸外国との関係性も重視せねばなりません。日本はもう十分に独立しても危険がない国なのではないかというプレゼンテーションが必要です。現在のアメリカの政策は、世界的にもアメリカ国内においても、大変不人気です。それに追従していく行為は自殺行為に近いものがあります。今はそれに異を唱えてこそ、国際社会や将来のアメリカからの信頼を獲得する事につながるのではないかと思うのです。今のままではアメリカが政権交代したあかつきには、責任をブッシュに押し付け、ブッシュ的なものを支持した我が国のような国々に責任を押し付けて、アメリカは脱皮をはかりかねません。そうなったあかつきには我が国は益々不人気に陥ってしまう。現段階でもすでにその兆候は見られます。ブッシュ政権ですらそうなのですから、民主党のヒラリーあたりが大統領にでもなろうものなら悲惨な状況は目に見えています。政権が変わったからと言って、すぐにイラクから撤退出来る状況ではないとは思いますが、イラク戦争は止めるべきだという流れはどんどん高まってくるでしょう。
だからと言って現在のアメリカと我が国の力関係を考えれば、そういった選択肢は難しいのかもしれませんが、イラク戦争に加担する事を、国際貢献と言う御為ごかしで誤摩化すのは酷い話です。アメリカの行動の後追いを率先して先頭でついていくのではなく、後追いをするにしても、ブッシュ後を睨んだ戦略的な思考と諸外国へのプレゼンテーションが大切なのではないかと思うのです。
重武装も、非武装も、対米依存も、反米も、北東アジア脅威論も、北東アジア友好外交も、改憲や護憲も、それに基づいたアジェンダセッティングをしてしまうと、カードが限定されてしまいます。最終的な目標、日本が自主独立して平和な国家として繁栄し、世界平和を目指し、貧しい国々に貢献するという事の為の手段にすぎません。マキャベリ的な発想で何でも使って国民を守るのが国家であるはずです。手段を正当化する為に、目標をねじ曲げたのでは本末転倒ですし、そもそもの国家の責務である国民を守るという事を無視したのでは全く話になりません。諸外国にいい顔をしたいから、国民益を無視するなどあってはならない事であるはずです。何でもハイハイ言う事を聞いて、グズグズしている姿勢では嘘つきと呼ばれてもしょうがありません。国民益を守る為には、受け入れるべき事は受け入れ、拒否するべき所は拒否し、ある思考に基づいた行動を真理だと信じ込み、それ以外は排除するという思考では前大戦と同じ結果を招く事につながりかねません。親米ありきや反米ありきではなく、将来のこの国にとって今なすべき事は何なのか、理想論ではなく現実的に思考する事が大切なのではないかと思うのであります。
右的な思考で吹き上がる方々が言うように、東京裁判史観や所謂戦後体制というのは、フィクションです。それを我々は語り継いでこなかった、ある時期から本気で日本は悪い事をしたんだ、という戦勝国が吹聴したフィクションがネタではなくなってしまった。戦争直後、それを受け入れるしか選択肢が無く面従腹背で受け入れたものが、ベタになってしまった。戦前翼賛報道の旗ふり役をつとめ、あの戦争に突っ込んでいく世論を煽り、後戻り出来ない形で突き進んでいく原因を、最も最前線で火をつけていたメディアが、天皇の戦争責任とか、A級戦犯とか言い出す始末。
所謂A級戦犯と呼ばれる人々を犯罪者とする事によって、天皇、メディア、国民を免罪した。それが戦後体制です。天皇を殺してしまったのでは、この国の統治は出来なかったかもしれません。天皇の責任を免罪する事によって、すんなりとこの国は戦後体制を受け入れたのです。同時に最も無責任に戦争を煽ったメディア、そして国民すべてには罪はないというフィクションは、戦犯を罰する事によって免罪されたものです。そんな事は常識だったはずです。しかしそれを語り継いでこなかった。
東京裁判はインチキだ、そんな事当たり前です。しかし我々は負けてしまい、その事さえ語り継いでこなかった。A級戦犯に罪はないという事になれば、誰に罪がある事になるのでしょう。考えればバカでも分かる話です。だから昭和天皇は靖国参拝を途中で止めたわけです。戦犯を本気で犯罪者だと騒ぎ立てる世論に腹を立てて、A級と呼ばれる方々を合祀してしまった宮司の気持ちは分からない話ではありませんが、我々が今の繁栄した生活を享受出来るのも、戦後体制を受け入れ、戦犯は犯罪者だというフィクションの上に立っての事です。その事を忘れてしまっては本末転倒です。また靖国を政治的な人気取りのリソースにする輩などは、最も愛国者からは遠い存在です。外圧を政局に利用する輩も問題外でしょう。己の野望の為に国民益を売り渡す行為は止めてもらいたいもんです。
重たい話題ですので、次回に続きます。
つづく