本日は少し前に話題になった本を人に借りて読みました。安部司さんの「食品の裏側」について書こうと思います。それでは始めます。
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物/安部 司

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自分は料理関係の仕事をしていましたので、一般の方々よりは多少味覚に敏感だと思います。今現在のこの国の食の現状には非常に暗い気持ちになっているのですが、この本を読むと更にこの国が浸っている病癖が、食の観点から極めて明確に示されています。そのキーワードが我々が首までどっぷり浸かって、日常まみれている添加物。いかに我々が営んでいる構造の土台になる前提条件が、不確かないい加減なもののまま回ってしまっているのかがよくわかります。しかも多くの人がその事を知らずに生きている。
そういう真実を知ったり、発癌性分質である事が判明した時などにありがちですが、この本のなかでも書かれていますが、何かっつうと添加物はけしからんという風潮に一気に流れていきがちです。この本は添加物の真実が書かれていますので、知らない人にとっては驚愕の事実です。そんなものを口にしていたのかとなるかもしれません。しかしこの本にも書かれていますが、添加物イコール悪ではない。添加物を駆使するようになった現代の我々の生活は、飛躍的に便利にもなっている。コンビニに行けば好きな時に食事が出来たり、食事を作る事にかかる手間も昔では考えられないくらい軽減されています。そういう光の部分の恩恵も間違いなくこの社会は受けているわけです。そこをすっ飛ばしてヒステリックに添加物イコール悪となるのはあまり賢くないと思います。しかしそうであっても、この添加物にまつわる現実は、読むものを愕然とさせるでしょう。こんなもの食っているのかと。肝心なのはその事を知らずに食べている現状だとこの本には書かれています。知って食べるのと、知らずに食べ続けるのでは全く違います。
添加物という便利な代物があるおかげで、保存も利くし、値段も安いし、いつでも好きな時に腹を満たせる社会になっているわけです。そこを踏まえた上で、添加物まみれの現代社会を知り、どの変で折り合いを付けるのか、それが肝心だと書いてあります。
作者である安部司さんは元々食品添加物のセールスマンで、その世界では食品添加物の神様と呼ばれていたそうな。添加物を駆使する事によって便利な社会になる事はいい事だと、ひたすら仕事に打ち込んでいたのですが、ある日、自分の子供が添加物まみれのミートボールを旨そうに食べている姿を見て、自分の家族も消費者であるという現実に気付くと同時に自分の家族には食べさせたくないものを売っていたという事に気付き、会社を辞めて現在に至るそうです。食品添加物を売る側から、食品添加物の真実を消費者に伝える側になった。
この本が伝えている事実は、いかにこの国の(あらゆる面でこういう傾向が見られますが)前提がいい加減な裁量行政によって回っているのかという側面が垣間見えます。BSE問題しかり、鳥インフルエンザ問題しかり、最近では中国産の物に関する問題しかり、表面的に大騒ぎする諸問題について右往左往します。偽装問題、ミートホープ、不二家、納豆、メディアなども俗情に媚びて煽りますし、政治家もバレてしまった諸問題に関しては対処する振りをします。役人は強力な裁量を握っており責任重大というより半ば同罪に近い物があっても、知らなかったと装って断固対処している振りをする。しかしこういった表面に出てくる問題などは、氷山のほんの僅かな一角であり、食品表示のインチキ具合がまかり通っているだけでも多くの人は全く知らずに信用しているのでしょう。そしてこの本に書かれている、食品添加物に関わる諸問題もしかり。
某有名チェーン店のハンバーガーの肉が例えば米国産牛肉ではないからといっても、そこには膨大な添加物や、産地がどこなのかわからない食材が使われているわけです。この国の裁量行政はすべてそうですが、消費者の方なんか全然向いていない。業者の方ばかり向いています。そして叩かれる業者や問題化する業者というのは比較的力のない所ばかりで、役人にとってたいして旨い汁もない物ばかりです。バレてしまった時だけは消費者の方を向いている振りをしますが、その他大勢の問題を抱えている業者の事や、そもそもの問題点は知らん顔して、一つか二つガス抜きとして叩き、落としどころに着地するというインチキを毎度毎度繰り返しているわけです。
BSE問題が大騒ぎしたとき、米国産牛の輸入をストップしました。その後この問題に対する政府の対応は酷いを通り越して絶望的でしたが、一番の問題点は我々に選択肢、つまり米国産牛を食べないという選択が、輸入をストップしないと担保出来ないという所でもあると思います。加工食品であれなんであれ、米国産牛が使われていて、危険があるかもしれないという事がきちんと表示されていれば済む話です。
感染経路がわかっておらず、全面ストップにしなければ対応出来なかったのかもしれません。しかし現在でも我々が気付かぬうちに食べたくない物を食べてしまっているのかもしれないという、情報開示の恣意的な部分というのは変わっていません。問題になった部分だけをちょこちょことオポチュニスティックに見えてしまうように対応しているだけです。役人が裁量を手放さず、あたかもそういった不祥事が起こるのは、役人の権限が行き届いていないからだと裁量行政をむしろ強化するという力学さえ感じます。これではこういった腐敗堕落の体質は全く変わらない。問題は我々に情報が開示されていて、選択肢があるかどうかの方が大切なはずです。
この国では護送船団方式という役人の裁量行政、事前チェック型の社会から、すでに事後チェック型ルール主義の社会に舵を切っています。それは金融だけではありません。事前チェック型の社会というのは旧大蔵省的な腐敗堕落の温床となっていたのを見るまでもなく問題点だらけでした。現在の社保庁を見るまでもありません。社保庁改革というインチキでも結局は厚労省の裁量は変わらないどころか、むしろ強化されています。1900億流用されていたものが1700億程度になり、その分を無駄遣いは止めると言っているだけで、それがむしろ堂々と出来る条項まで潜り込ませてあります。無駄遣いは止めるというインチキの影で、国民健康保険との連動や住基ネットの活用によって、強制的に徴収する仕組みも盛り込まれています。これによって不払いを無くそうという事なのでしょうが、健康保険にも入れず、病院にも行けないという人達だって出て来るのです。
社保庁は単なる窓口であり厚労省の年金利権に手を付けないと改革なんて出来るわけもないにも関わらず、社保庁解体を高らかに叫んでいるわけです。民間への委託も一見いい事のように聞こえますが、天下り先確保にもなりますし、誰も責任を取らなくて済む制度にしようというわけです。年金の流用は変わらず、絶望的な金額の財投の焦げ付きは今も続いています。これのどこが改革なのか。一事が万事この国の腐りきった現状はみんなこんな感じです。与野党が繰り広げている問題点はほんの入口にすぎません。そして入口だけを改革して、問題点を先送りしているしているわけです。
事後チェック型のルール主義の社会に舵を切って、末端では流動化の波にさらされています。しかしこういった裁量行政はむしろ強化している。流動化した社会に舵を切っているのに流動化が担保されておらず、勝つ方は常に決まっている社会になってしまっています。そして弱者救済というエサに引かれて、国民も中央の権限強化をむしろ翼賛している。メディアが翼賛するのは、メディアが規制によって守られている巨大な既得権益ですから当たり前です。しかし裁量行政を強化させるのを許しても、流動化の波にさらされてしまった人々は救えません。流動化の流れは不可逆性が必ず生じてしまうからです。もう元には戻れない。一端事後チェック型の社会に舵を切ってしまったら、もう後戻り出来ない流動化が進んでいるわけです。商店街は潰れ、非正規労働者は増え、地方は厳しい状況に追い込まれてしまっています。この状況を打破するのは既得権の強化ではありません。事後チェック型、ルール主義の社会が貫徹出来る仕組みを構築する事です。流動化していてもまともに生きられる社会。
食品の問題もこういう構造が背後にあります。一見、一罰百戒でミートホープや不二家のように事後チェック型、ルール主義を貫徹するかのごとく摘発し叩きます。しかしそれ以外の業者もどんどん摘発するのかと言えばそんな事は絶対にしない。曖昧な基準の裁量は残し、情報開示は恣意的なまま、目くらましとして一社を徹底的に叩き、国民感情のガス抜きをする。金融のように一気に制度も穴だらけのまま、事後チェック、規制緩和に舵を切ってしまいますと、外資につつかれ放題になってしまう、という事を懸念して、小出しにルールを変更しているのかもしれませんが、だから腐敗堕落の裁量行政をしていても構わないという理由にはなりません。せめて情報開示の徹底くらいはやってもらわねば、長年食べ続けてしまってからでは手遅れです。
この本は食品の裏側の一つの部分、添加物の影にスポットを当てています。それは非常に興味深く面白すぎます。こういう本を読まないと本当の情報を知り得ない現状が一番の問題点だと思います。
うどんの麺、餃子の皮、真っ黒なごぼうやレンコンを漂白したカット野菜、殺菌プールで洗浄されたサラダ、添加物まみれのアジの干物、クズ肉のミートボール、膨大な添加物によって高級品に変身するタラコや明太子、無着色というシールが貼られて売られる明太子は数十種類の添加物の中から二~三種類の着色料をはずして、合成着色料は使っていないと謳い、消費者を誤解させている。安いハムの事実、かまぼこの事実、低塩梅干しの嘘、添加物まみれの漬け物、真っ黒なしなびた大根がピカピカのたくわんに変わる事実、しょうゆ風調味料、みりん風調味料のインチキ、誤摩化しの塩、偽物の酢や砂糖、安い食材にはそれなりに理由があり、その事を知って尚、安い方がいいというのであればそれは選択の自由です。しかしこういった事実を知らずに、安いからと言う理由で飛びつくのは非常に問題があります。カップ麺やスナック菓子などは誰でも体にはあまりよくないと知っていますが、あまり変なものは食べない方がいいと気を使っていても、結構口に入れてしまっている現実。
ファミレスなどで、コーヒーフレッシュが使い放題な理由、食品表示のアミノ酸等、イーストフード、かんすい、香料、乳化剤、pH調整材、膨張剤、酵素、ガムベース、軟化剤、酸味料、光沢剤、苦味料、などの一括表示のまやかし、化学調味料、たんぱく加水分解物、増粘多糖類、ブドウ糖果糖液糖、様々な知られざる現実。某有名な食物繊維がふんだんに入っていると謳っている、オレンジ色の透明な飲料水が虫をすりつぶして着色していると知ったら、今喜んで飲んでいる人々がはたして飲めるでしょうか。
そしてこういった食材によって我々だけでなく、子供達までどんどん汚染されてしまっていて、味覚が麻痺してしまっています。自分もジャンクフードにまみれた若者と話をした時にビックリしたのですが、ちゃんとだしをとった味噌汁を飲んだ事がないからインスタントの味噌汁でもおいしく感じる、きちんと漬けた漬け物では物足りなく感じるというのです。本当に旨い物を食べようとすると、結構手間がかかったり、コストがかかったりするわけですが、それでも旨いものとは何かを感じる感覚が、添加物によって麻痺してしまっている。これは由々しき事態だと思った事があります。自分のような料理人がいくら手間をかけても、いくら本物を使っても、それを識別出来ない人が増えていく、これは将来のこの国の食文化が根底からぶっ壊れるのではないかと思ったのです。本当に旨い物を作っても、それを旨いとわかる人間がいなければ、どんどん料理人だって楽な方に流れていってしまいます。本物志向のお店はそういう味覚のわかる一部の金持ちの道楽に成り下がり、普通の人々は安くて添加物まみれの食べ物をありがたがって食べる社会。もう半ばそういう社会になっていますが、肝心なのはやろうと思えば、それほどコストをかけなくとも本物は食べる事が出来ます。しかし旨いと思えないのでは本物を食べる理由は無くなってしまう。
自分はいろんなお店で料理をしましたが、ハッキリ言える事は、店舗の規模が大きくなればなるほど、お客の顔が見えなくなる。すると相対的にそういう店の職人というのはいい加減な人が多い。大きなホテルなんかに行きますと、仕事はハッキリ言って流れ作業と同じ、同じ事を延々と繰り返しているだけですから面白くも何ともない、お客さん一人一人の顔も見えにくい、したがって旨い料理を作ろうという意志が、調理場で統率がとりづらい、早く仕事を終えて、パチンコに行くとか、飲みに行くとか、きれいなねえちゃんのお店にいくとか考えている人が多かったような気がします。自分はギャンブルもお酒もやりませんし、おねえちゃんのいる店も虚しくて嫌いだったので、随分変人扱いされたものです。お前生きていて何が楽しいんだと。
この本のなかでも書かれていますが、食べる人の身になって料理を作るという感覚が大切です。自分の子供や愛する人に、変なものを食べさせたいとは誰でも思わないでしょう。忙しい日々まともなものを食べさせたいとは思うけれどその暇がないという人も大部分だと思いますから、いきなり全部そうしようとしても難しいのかもしれませんが、出来る所から少しずつ相手を思いやる食事を作るようにする事が大切なのだと思います。思いやりの無いものを食べさせられて、子供に思いやりを持てと言っても無理というものです。家族が手伝ってくれなければ難しいという事もあるかもしれませんが、相手を思ってつくる姿勢が伝われば協力だって出来るはずです。そういうものまで失ってしまっている側面が大量消費の影にあります。便利なぬるま湯にいると中々そんなめんどくさい事やりたくないと思うかもしれませんが、そういう当たり前の精神を失ってしまっている事が現在のこの社会の弊害を作り出してしまっている側面もあるのではないでしょうか。
生きるという事は、食べるという事です。それは他の生物を殺しバラバラに切り刻んで、火あぶりにして、ようは死体を食っているわけです。植物だって生き物ですから生き物の命を奪っているという事は変わりません。一般的なモラル、命は大切だという感覚とは対極にある行為です。しかしそうしないと人は生きられない。料理の仕事をしているとそういう矛盾を感じる事があります。我々はそういう現実を忘れ、子供にも教えずきれい事にまみれています。ハムというのはハムという食材があるのではない、豚をぶっ殺してバラバラに切り刻んで作るわけです。この本にも書かれていますが「いただきます」というのは他の生き物の命を頂いているという感謝の言葉でもあるわけです。そういう現実を伝え、大量に消費し、捨ててさえしまっている社会が我々の社会なのだと。
役人や政治家が己の権益ばかりに夢中になり、全く国民に顔を向けていないのも、国民の顔が見えていないからでもあると思います。大きな店舗の職人と同じです。身近な人が困ってしまうのであれば、この本の作者のように考え方を変えるかもしれません。お上に期待しても見通しは真っ暗ですから、我々は手の届く所から、今の社会を考え直す必要があるのではなかろうかと思うわけであります。
安部司さんの「食品の裏側」を読みつらつらと書いてみました。