前回の続きです。
さてそこで原発に話を戻します。人間は認知的バランス理論によって、リスクマネジメントが出来にくいリスクに対して、見たくないという習性があります。電気が使えないと困るだろ、というのは確かにそうなんですが、原発がメルトダウンを起こせば困るもへったくれもありません。すべて無茶苦茶になるわけです。温室効果ガスの問題もクソもなくお終いです。という事は電気の需要もわかるし、温暖化に対処するのもわかりますが、優先順位で考えれば原発がそもそも持っている危険性や、核廃棄物の問題の方が切実なはずです。しかしそこの所が麻痺してしまっている。前提がへんてこりんでも、それで社会が回ってしまいますと、中々その構造を覆すのは難しい。が、原子力の問題はそういう構造そのものを無茶苦茶にする強力な破壊力と、回復不能の環境破壊を引き起こす事にもなるわけですから、我々の生活そのものをぶっ壊してしまいかねません。原発に依存している現状は、ある種、異常事態です。装填され安全装置をはずした銃をこめかみに押し付けて、山道をジープで駆け回っているようなものです。いつ暴発するのかわからない。
安全だと豪語していたものが、本当に大丈夫なのかという疑問が沸き上がっている。隠蔽体質は問題外ですが、地震の多いこの国で、時間的にも空間的にも、その規模ですら、全く予測不能なものに対して、絶対安全なんて事が有り得るのか考えれば、あるわけないのが当たり前です。予測出来ない事態に対して、絶対なんて有り得ないと論理的に考えれば当たり前ですが、我々はそんな当たり前の思考をすっ飛ばして、お上が絶対と言う御為ごかしを甘えや依存によって信用したり、無駄だという諦めが蔓延しています。絶対という事は有り得ません。時間ですら相対的なものです。この世で絶対的なものなどありはしない。まして政府がほざく絶対なんて間違いなく嘘に決まっています。社保庁のていたらくを見るまでもなく当たり前の話です。
しかしまるで神に依存するが如く、絶対的な安心安全を我々は信仰します。その人気取りに走る政治家は、安心安全を絶対的に保証するとどこの党もほざいていますが、誰一人責任なんてとるわけもない。たかだか政治家ごときに依存し甘え信用するのは危険です。それは神に対する信仰よりも危険です。神は常にいかなる場合でも絶対的な存在として君臨していますから、信仰を持つものにとって裏切られる事はありません。しかし人間に信仰するという事は必ず裏切られる。それは目に見えない存在ではなく、実際に呼吸をして物理的に目に見える存在だからです。人間というのはどんなに優秀な人であっても、絶対的完全な人間なんているわけないし、いた事もない。
神の絶対性が揺るがないが為に、戦争のエビデンスとして利用され続け、争いが無くならないという問題はありますが、この国では特定の強力な信仰や神が存在しない変わりに、本来依存したり甘えたりするべきでないものに対して信仰を持ったりしています。それは神に依存するより遥かに危険な事だと知らねばなりません。宗教に馴染みのない我が国は、宗教によって繰り返される戦争を見て、酷い話だなと多くの人が感じているでしょう。しかしこの国ではもっと不完全なものを信仰している方々が沢山存在します。人間に信仰するという事は、自らを人間以下に貶めている行為でもあります。素晴らしい人格者を尊敬するというのはいい事です。しかし政治家が口先だけでほざく言葉など信頼に値しない、行動のみがその人の信頼を形成するものだと我々が自覚する必要があるのではないでしょうか。
そして現在の選挙戦で各党党首が高らかに叫んでいる事は、どう考えても、どう聞いても、きれい事の御為ごかしにしか聞こえません。奴らは選挙に勝たなければ政治家にはなれませんので、民衆に媚びてそうなっているという部分があります。ポピュリズムというより、ポピュラリズムという感じでしょうか。そういうくだらない戯言ばかりをほざく連中ばかりなのは、需要があって、我々がそれを許しまた依存しているからだとも思います。投票率が異様に低いのも、そんなレベルの低い政治家ばかりなので諦めてしまっている人々もいるのでしょう。政治家がそんな戯言では当選出来ない社会にならないと、この腐りきった現状は永久に変わらないのではないかと思います。
特に左派、野党の方々、与党と同じ思考停止のポピュラリズムに乗っかっていたのでは一時人気は得られても、すぐに国民に飽きられてしまいます。絶対的な政策など打てるわけないからです。脱原発をほざくなら、きれい事だけ言っていても全然伝わらない。ちゃんと原発が抱えているリスク、そして安心安全なんてものは相対的なものでしかなく、絶対的なものなど有り得ないという当たり前の事実をきちんと伝え、それでも現状の我が国の原発への依存的な状況を踏まえた上で、我々はこういった脆弱で危険な構造の上に立脚して社会を営んでいるという現実を啓蒙し、原発がなければ社会は回らないかもしれないが、原発に依存している状態というのは、例えそれで社会が回っているとしても非常に危険な状態なんだ、それでも皆さんは原発に依存した社会を選びますか?現在のこの国の方針は、まず原発推進ありきが前提です。それでも皆さんはいいのですか?と根本的な所からしかも可及的速やかに啓蒙してこそこの依存的な民度からの脱却、選挙できちんと選択する社会になるのだろうと思うのですが、まあ無理っぽいですね今の左派には。
依存的な甘えによる投票を獲得する事ばかりでは与党と同じ土俵に乗っかってしまっています。一見違う言葉を発していますが、依存的な国民の感情を吸い上げるという意味においては全く同じ構造で勝負しているようにしか見えません。国民に自立的な思考などもたれては困るという事なんでしょうか、これじゃいつまでも変われないし、こういった現状に辟易している人々は益々諦めが蔓延してしまうでしょう。
そしてこの国では原爆に対するアレルギーというのも凄まじいものが存在します。大臣の不用意な発言は、自分も不適切だと思いますし、その後のヘラヘラした態度を見ていても程度の低いオヤジだなとも思いました。大臣というのは公的な立場であり、発言に気を使うのは当たり前だと思います。アメリカがやった所行は自分も許せないと思いますし、考えるだけではらわたが煮えくり返る気持ちです。しかしそういった事は思いますが、実際の世界はそうなっていないし、この国の現状ですら、原発に依存して繁栄し、アメリカの核の傘の下で生活しています。非核三原則なんて御為ごかしです。それは情緒的な悲劇とは無関係な世界の現実、この国の現状でもあるわけです。例えば、ユダヤ人の方々にヒトラーの政治手腕は素晴らしかったと言っても怒られないと聞いた事があります(もちろん公的な立場でそれを言う人もいないでしょうし、公的な立場でそんな事を言えば叩かれるとも思います)。そう思うのは個人の自由だからです。しかし、ホロコーストがなかったと言うと烈火の如く怒るそうです。ヒトラーが行った行為をどう思うかは個人の自由であるが、ヒトラーが行った行為がなかったと言うのは許さない。この国の核に対するスタンスを当てはめて考えたとき、原子力の恩恵を受けた社会が回っているのに、タブーが存在していて、核武装なんて議論だけでもけしからんというアレルギー反応では全然賢くなれないのではないでしょうか。核というのは現実として世界に存在するわけです。
思考停止的に核廃絶を訴えても、それをどうやって世界に訴えていくのかと言えば、話し合いによってというのでは、何も言ってないのと同じです。残念ながら国際社会というのはパワーポリティックスのぶつかり合いです。我が国に発言力がないのは、アメリカに依存しているくせに、きれい事を吐いているからでもあります。日本には自衛隊という便利な言葉がありますが、諸外国から見ればただの軍隊にしか見えません。しかし日本の憲法では軍備を持たない事になっている。にもかかわらず世界第二位の軍事費を費やしている国でもある。というのが日本を見る海外の目です。大半は人件費だという言い訳もよく聞きますが、端から見ればこんな矛盾した国はありません。中国や北朝鮮をとやかく言う前に、この国の前提には嘘ばかりが蔓延しています。それで信用しろと言ったって、無理ってもんです。だから当然日本の発言なんてどこの国でも全く信用していない。
こういう前提を抱えたまま、この国の構造は回っています。この社会は不完全なもので必ず矛盾が存在します。しかしこの状況はいくら何でも酷すぎます。左派にしても右派にしても、与党にしろ野党にしろ、こういった矛盾に満ちた社会であるにもかかわらず、口当たりのよい理想論や御為ごかしを叫んでいます。原発賛成反対、自衛隊の是非、改憲護憲の問題いずれにせよ、どちらが理想的かはわきにおいて、もう少しきれい事を排除し、現実を啓蒙し、その上でどのように振る舞うのかという事を主張するようにならないと、どちらになるにせよ依存的で甘えた民度の情緒的な拭き上がりを吸い上げて政治的なリソースにするという構造は変わらないのかもしれません。政治家さん達には期待できませんし、メディアも全く話にならない、こういった構造に気付いている人々の数は圧倒的に少ないのかもしれませんが、諦めてしまえば流されていくしかありません。
原発の是非、自衛隊の是非、憲法の問題、それぞれ自分の意見はありますが、例え自分とは間逆の思想であったとしても、きれい事を排除し、現実を踏まえた上での主張なら尊重出来ますし、御為ごかしをほざく連中よりはよっぽど支持も出来ます。特に左派、一気に与党並みの議席は獲得出来るわけないのですから、一歩進んだ次元での議論が伝わる民度を醸成する為の啓蒙が、将来の議席獲得につながるはずです。自由とは責任がついて回ります。責任のない自由など有り得ません。依存的な甘えた自由など有り得ない。自立した思考を啓蒙する事が、真のリベラルにつながるのだろうと思います。それが我々が戦争や不安や恐怖に煽られなくとも、生きるインセンティブを持ち、未来を切り開いてゆく為にも必要な事なんだろうと。
そして原子力発電所が自分の地域に出来るのは反対だけれど、その恩恵を受けて生活している現実との乖離、自分の地域になければたいした興味もないと言うのでは、やっぱりこの問題は解決どころか、まともな議論さえ出来ません。そういう矛盾に満ちた、個人のエゴのぶつかり合いでもあるのがこの社会の本質なんだという所から問題を立てないと、解決策は絶対に見いだせないのではないでしょうか。きれい事はわかる、正論べき論もわかる、しかしザインとゾルレンを峻別出来ない議論では不毛です。きれい事や正論というのは気持ちがいいのかもしれませんが、実際の社会での実効性を考えると、殆ど意味のない事をだったりもしますし、国の舵取り、国際政治の駆け引きでは全く無力です。そういう戯言にたぶらかされない事が、我々にとって一番大切な事なのではないのかと思うわけであります。
地震による原発の不祥事を知り、あれこれと書いてみました。