ダーウィンの悪夢 デラックス版/ドキュメンタリー映画

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前回の続きです。今日は過激に書きますのでご注意下さい。
日本が経済的繁栄を遂げる事が出来たのは、地理的に冷戦の境目に位置していた為、アメリカにとっては意味があった。だからその巨大な軍事力に守られ、経済活動に専念し、今の繁栄を手にする事が出来た。西側諸国の一員となれば、こんなに発展出来るんだという宣伝材料になるからです。地理的にたいした利用価値もなければ、ただむしり取られて、希望の全くない地獄になっていたかもしれません。現状でもアメリカにむしり取られているという構図はありますが、少なくともこういう映画を観て、ちょっぴり問題意識を持っている自分という自己満足に浸っている余裕のある国である事は間違いない。さてこの構造、出口が中々見えませんが、少し理想論的な事を書きます。
こういった構造を打破する為には、外需産業はどんどん海外の安い労働力を使い、そういう国々の発展につながるように、資本を投入し続けるしか救う道はありません。彼らも不可逆な流れにさらされています。そして国際競争に勝ち残り、我が国の企業や、現地の労働者には、がんがん外貨を稼いで頂く。外貨を稼げない国というのは、究極はヴィクトリア湖周辺の方々や北朝鮮の方々のような生活になるという事です。それは極端な例ですが、国が経済的に衰退していくというのはそういう事です。そうじゃなくてもこの国は人口も減って行く社会になるわけですし、超高齢化社会になるわけです。移民でも受け入れればいいのかもしれませんが、国民のコンセンサスとなるのは難しいでしょうし、国そのものに魅力がなければ移民も住みたいとは思わないに決まっています。
そしてこの国ではまだまだ規制を取っ払えば生き返る所が沢山あります。土地代の高い都会への一極集中では戦争が起これば一巻の終わりです。不毛な通勤により疲れ果てた労働環境でいい発想など生まれるわけもありません。だいたい情報産業なんて都会にいる意味がよくわかりません。地代の安い地方へと広がっていく為には、ふるさと納税なんて、お上意識で中央に何とかしてもらうという発想では、中央の権限を益々強めるばかりで、権益や利権の温床になるに決まっています。例えば高速道路を無料化し、関所を取っ払えば(比喩です)、流動性が生まれます。血管が詰まっていたのでは、腐るのは当たり前です。血の巡りがよくなれば単に流通がよくなるという事だけではない、様々な効果があるのではないかと思います。人が移動しやすくなれば、それに伴いお金も落ちます。単に流通コストが下がるというだけではないと思います。そうすれば地方は活性化するでしょうし、町が大きくなれば、道路を作るより遥かに土建屋だって潤うでしょう。高速道路なんて普通タダが当たり前です。中国ですらそうです。観光も潤おうでしょうし、当然雇用も生まれるはずです。農業も再活性化させる必要があるでしょう。政治家は何かっつうと、国防と言うと軍事軍事とほざきますが、食料自給率の低い我が国では、そもそもその供給源を立たれれば一巻の終わりです。それは闇雲に補助金を使えという事ではありません。食料自給率が低い現状イコール未来はない的な危機を煽る必要はないと思いますが、リスクヘッジは大切だと思います。環境問題だって地域に金が回り、活性化すれば地域に根ざした観点からコミット出来るはずです。役人の裁量や一部の既得権者で金を回す為の環境事業と言う名の無駄な公共事業よりは絶対によくなるでしょう。
どうせなら残業代ゼロ法案と大騒ぎしたホワイトカラー・エグゼンプションも導入して、ホワイトカラーになる事が必ずしも安定した道ではないとする事も必要なのではないかと思います。それが導入されても選択肢があれば問題はないはずです。選択肢があって厳しくしすぎると人材が集まらなくなれば、企業だって理不尽な残業を強いるわけにはいかなくなるはずです。現在の学校制度や受験制度も、ホワイトカラーになる為の事務能力を競う制度です。当たり前ですが事務能力に優れているからといって、人間的に優れているわけではありません。あくまでも一つの得意分野という程度の話です。しかしそれが絶対条件になってしまっているのは、現在の一極集中外需中心の産業基盤が回っているからです。事務能力以外で優れた人材だって沢山いるはずなのにそれを無駄にしている。人口が減っていくという事は効果的な配置を行わなければ未来はありません。学校での競争に敗れた人の受け皿の多くがブルーカラー労働者という状況であり、ここが外国の安い人件費としのぎを削らなければならない構図が、不毛な経済格差を生み出してしまっています。そして子供達はそういった構造に傷つけられています。
漁業だって、林業だって、再活性化させればいくらでも魅力的な商売があるのですから、ゴミゴミした都会で通勤地獄と戦いながら働いてもたいして安定していないとなれば、他の仕事へ優秀な人材が流れていく可能性も秘めています。閉じた社会、アンチ・グローバライゼーションを叫んでも、世界は奪い合いの仕組みで動いてしまっています。それをひっくり返せる発言権もこの国にはありませんし、抜け出て独立独歩を歩むのに最低限必要な軍事力も皆無です。鎖国してユニラテラリズムを貫くような、もうそんな時代じゃありません。
アメリカの押しつけ的なグローバルスタンダードに対して、この国はあまりにも脆弱です。もはや言いなりにしか振る舞えない政府、アメリカさんのおこぼれに預かり、改革という名のインチキによって草狩り場となっている。役人も政治家も経済界もその事ばかりに心血を注いでいる。国を愛せとか言っている連中が、国民の平穏な生活を切り売りして、格差を利用した構造に胡座をかいている。ここで我々までが更なる弱者から搾取していく構造に胡座をかき自分の生活が何としても一番大切だとなったのでは、その構造で権益を握っている連中に加担する事になります。かといって閉ざしていても外圧をはねつけるだけのリソースも覚悟も権益者にはないでしょうし、国民の生活も結局はじり貧です。
一時この構造で勝っている一部の人も、いつかは負ける時が来る。閉ざしていてもむしり取られていくだけで対抗策は最近の企業じゃありませんが、結局買収防衛策とかになってしまう。株価が安いのは、業績が芳しくないからで、的確な設備投資をしていないからです。的確な経営をして、従業員のインセンティブがわくような給料体型や会社の制度を構築していれば、業績だってそれに見合ったものになっているはずです。そうなれば当然それに見合った株価になり、その金額も日本はアメリカよりむしろ割高に落ち着きます。それを今まで経営努力を怠り、設備投資や給料や配当にケチって来たツケを、従業員を守る為だとか言って、経営者のポジションを守る為に買収防衛など、ふざけるなという話です。それに対してむしろ日本人は日本的なものを守ると思って喝采している。外資から守るとかの問題より、そういうマインドを持った支配層が格差を利用した構造に胡座をかいていて、今後もそれを容認する事になりうる構造こそどうにかせねば話になりません。日本人の高額な給料を払うだけで経営が圧迫されるので株価が上がらず、それを守る為に買収防衛なのだとしても、それは経営者の言い訳にすぎません。そういう寝言が言いたいのであれば、上場などしなければいい話ですし、そういう状態であるのなら、会社の構造を変えねば遅かれ早かれ先行きはありません。
利益があるのならそれは見合った分だけ還元せねばやる気を出せと言っても不可能です。それは保証ではありません報酬です。こんなバカげた閉じた社会、服従する社会ではお先真っ暗です。グローバライゼーションというゲームのルールを逆手に取って逆襲せねば、この境遇から出る事は不可能だと思います。例え外資に買収されて、悪辣な経営や会社を切り売りするような事があったって、従業員側に選択肢があれば何の問題もありません。会社に不満を持ち仕事を辞めるという事が、即ち生活していけない社会である事が問題なのです。辞めたって食っていける選択肢が存在すれば、怖がる必要なんて何もないはずです。
ルールを設計している連中に対して、そのルールに縛られた国が反撃出来るのかと言えば確かに難しいのかもしれません。しかしそのゲームからの離脱も出来ず、ルールを無視する事も出来ないとなれば、そのルールを逆手に取るしか道はありません。かつての保守本流が反米の為の、独立繁栄の為の闘争のリソースとして憲法9条を利用していた時のようにです。戦後の護送船団方式のような全く多様性のない単純な思考で挑んだって、そこそこやれたのですから、諦めてシュリンクしていても益々弱みに付け込んで来るばかりです。歴史的な問題なども絡めて先のない国からむしり取ってやれという状態を黙っていれば希望は全く見えて来ません。
それは周りの国に喧嘩を売って威勢のいい事を言っていたのでは絶対に無理です。相手の機嫌を損ねて不仲になってもろくな事はありませんから。しかし言うべき事や主張すべき事はハッキリ意志を伝えねば、伝わるわけありません。官僚や政治家が保身の為に国民益を売り渡すなど問題外です。必要以上に媚びへつらう必要もありませんし、断固決然と外敵を設定して、国民感情を吸い上げるなど止めるべきです。そういった事はコントロール不能に陥って暴走していくトリガーになりがちです。
アメリカに属国化しているとは言え、名目上は一応独立国なのですから、どんなに問題があっても、いかにこのシステムにコミットしてどう出来るだけ多くの人間が幸福になる為の政策を打つのかと言う発想が絶対に必要なのです。国家権力というのは個人間の暴力能力の格差を無力化し、日常そういった事に怯えずに住む社会を担保する為には絶対に無くてはなりません。しかし何でも中央が管理して、権益に胡座をかき続けている社会ではもう手詰まりです。流動化というのは一種の多様性を容認する社会です。この国は多様性というのは苦手なのかもしれませんが、そこにこそ未来があるのではないかと思うのであります。少子化の問題を是正する為にも、未来に希望が持てる国づくりをする事がどんな少子化対策よりも役立つはずです。そしてそういう社会にする為に最も大切なのが、我々が自立した思考を持ち、甘えと依存を排除して、多様性のある成熟した市民社会を形成する事です。
そしてやはり先進国に住む我々は、大量消費に振り回されるライフサイクルというのも考え直すべきでしょう。物理的欲求というものも、生命維持に必要な欲求、例えば睡眠欲とか、食欲とか、性欲というのはある程度満たされればそれ以上は必要としません。しかし生命維持とは関係のない欲求というのは際限がありません。例えば金銭的欲求などがそうです。どんなに沢山かき集めても満たされない人々がいる。女性が痩せたいと思うのもそうでしょう。これは一つは違う自分になりたい、今の自分を超えた凄い自分になりたいという欲求が隠れています。しかしいくらお金をかき集めても、いくら痩せても、違う自分にはなれない、自分は自分のままです。お金を集めたり痩せたりするだけでは、成長出来ないからです。人が成長する為に必要な事はそんな単純ではありません。だからいつまでも満たされず、テトリス状態に陥ってしまうのです。
満たされない物欲のテトリス状態に陥ってしまいますと、感覚が麻痺して来ます。そして人間の本能として、潜在的に飢えへの恐怖というのがあります。グルメだなんだと煽られて、必要以上に食い過ぎている人もたくさんいます。そういう人達が増える事によって、ダイエット産業が潤うというバカバカしい構造もあったりします。人類が消費する食料の総量を分配すれば、地球上の飢えは克服出来ると言います。しかし現実はそうはなっていない。という事は、必要以上に食い過ぎて、ダイエットに勤しんでいる人や、食いきれないくらい確保して、捨てている状況があるという事です。ああ、何という理不尽。何というバカバカしい構造。人間の持つ物欲というものの厄介さをつくづく感じてしまいます。しかしそれが我々の社会なのです。必要以上確保しないと気が済まない。それどころか、それでも人は奪い合い、傷つけあい、殺しあう。妬み、怨み、疑い、裏切る。
物欲というのは生命維持に必要な欲求以外は、本当は錯覚にすぎません。幼児にお札を見せても、それは折り紙や新聞紙や広告の紙と区別はつかないでしょう。色鮮やかな広告の方が興味を示すかもしれません。お札が価値のあるものだと知らなければ単なる紙だとしか認識出来ないでしょう。お札というもので社会を分節する事を知らない人にはその価値はわかりません。それにこだわるのは、それが持つ意味を知っているからです。つまり、知る事によって欲求が生まれるのです。欲求があるから欲しいのではなく、知っているから欲しいのです。人は結局情報によって現実を認識しているにすぎません。映画のマトリックスではありませんが、現実であろうが、錯覚であろうが、脳がリアリティを感じれば、それは現実になります。錯覚である物欲も、それが切実だと感じれば自分にとって切実となります。しかしそれを手にしたか否かも、結局情報によって認識しているにすぎませんから、極論すれば手にしようがしまいが、情報によって満たされれば、脳がリアリティを感じる事が出来るのであれば、手にしたかどうかは実はそれほど重要ではない事になります。まあそう簡単にはいかないとは思いますが、情報化した社会でもあるわけですし、いい加減、必要以上の物欲とそこそこ折り合いを付けていかないことには、この世界の不毛な構造から、人類が抜け出る方法はないのではないかと感じます。
前々回、映画、不都合な真実と環境問題について書きましたが、我々がこの世界の環境を守る事は大切です。しかし環境を守るという事を口実にした金儲けに振り回されるという事は全く別物です。そんな暇と金があるのなら、こういった貧しい国々の方々の絶望をどうするのかと言う事の方が切羽詰まっている問題です。ヘタすると先進国では人口が減って地球が住みやすくなると考えている方々もいるのかもしれませんが、これはとんでもない話です。たまたま生まれた場所の運がいいだけで、己を神か何かと勘違いしている発想なのではないかと思います。過剰に経済支援をすればいいというものではありませんが、この状況を無視してどんな平和主義を唱えても、どんな人権主義を唱えても、どんな自国の格差是正を唱えても、単なる利己的な戯言にすぎません。利己的な戯言の思考に陥ってしまっていては、利己的な権力者を非難する資格はありません。とは言っても、結局はドーキンスではありませんが、人は本質的には利己的なものなのかもしれません。自分だって偉そうな事は言えませんが、我々が経済的繁栄を受けている影に必ずこういった構造に苦しんでいる人々が存在しているという事を多くの人が知れば、社会が変わる可能性は皆無ではありません。
オゾン層の問題で一時期大騒ぎしました。フロンの使用を禁じる事によって、オゾンの破壊を食い止めました。しかしこれには影があります。安い冷媒が使えなくなり、貧しい国の人々は被害を被りました。無駄になる食料が増えて、食中毒による被害も出ています。確かに地球の環境という観点から考えれば必要な事です。しかしそれに伴う影も必ず生じるし、我々はそんな事は全く気にも止めない。
DDTという殺虫剤を禁止したのもそうです。当時人体への毒性を批判されて使えなくなったのですが、実際この安全性に問題があるというのは嘘で、全く危険がないにも関わらず、パラチオンという殺虫剤に切り替えるわけですが、こちらは毒性の強いもので被害を出してしまった。この切り替えを強力に行ったのが環境保護という名の下にでした。何らかの権益があったのかもしれません。DDTに危険がないのは常識だったにもかかわらずです。DDTは蚊の駆除に効果的な殺虫剤でした。それを禁じてしまった為に、マラリアの発症例が増えて、年に200万人も死んでいます。総計すれば5000万人を超えています。ヒトラーの犠牲になった人の数より多いのです。貧しい国々はDDTの使用を禁じられているわけではありません。勝手に使ってもいいけれど、その代わりに対外援助は受けられないという事をアメリカに言われています。この殺虫剤が禁止される前は、マラリアによる死者は5万人程度でした。それが禁止になったとたんそういう状況を作り出したわけです。
こういう例はいくらでもあります。我々がよかれと思って行動しても必ず副作用がついて回ります。危険や恐怖を煽られ消費に費やすという構図の影で、苦しんでいる人々の存在を考え冷静になる事が必要です。
貧しい国の方々を救うクリアカットなソリューションはないかもしれません。我々は自分達の生活というのを第一に考えてしまう利己的な生き物です。弱者のいない社会なんて有史以来一度もありませんから、そんなきれい事では世の中は回らないとは思います。未来永劫弱者が救われる社会は訪れないかもしれません。しかし物理的欲求とある程度折り合いを付け、資本主義という矛盾に引き裂かれながらもそれを知り、我々の活動には必ず影が出来るという事を考えていく事でしか、結局は前に進めないのだろうと思います。
ダーウィニズムというのは、強者生存ではありません。適者生存です。人間がなぜ道具を手にしたのか。それは人間が弱かったからです。弱いからこそ、楽園の森から追い出されたのです。強ければ楽園の樹の上に君臨して、豊富にある食料の上に胡座をかき進化もなかったかもしれません。楽園から追い出された事によって、道具を使い獲物を捕るという適応をしたからこそ知恵も付き、社会性も獲得し、進化して生き残ってこれたわけです。弱者であっても適応出来れば道は開けるはずです。多様性や変化を恐れていたのでは適応出来ません。多様性を失った生物の末路は淘汰です。
ダーウィンの悪夢を観てつらつらと書いてみました。