前回の続きです。今日はネタバレですので、これから観ようと思っている方はご注意を。
この映画の中に出てくる家族は、上っ面は上手くいっているように見えます。しかし実際の所はバラバラ、自殺未遂を起こしたおじさんが、この家庭に来る所から物語は始まります。オヤジは何かっつうと、人生の勝利者になる為に必要な事を、子供や家族に説教しているが、自分はまだ成功しているわけではないにも関わらず、自分の勝利者になる為の法則を疑いもしない。奥さんはそんな旦那やバラバラになりそうな家族の間に立ち、旦那の言っている事をまともに聞いちゃいないし、旦那の成功を信じきっているわけではないが、表面上は信じているポーズをとり続ける。それによって旦那も誰も自分の話を聞いてもいない、という事に気付かない。息子はこんなバラバラな家族は大っ嫌いだと思いながら、ツァラトゥストラはかく語りきを愛読し、会話によってコミュニケーションを取るという事を自ら禁じ、自分の殻に閉じこもって、パイロットになる為にひたすら体を鍛えている。じいちゃんは口を開けば下ネタやヤクの話という不良ジジイ、息子である旦那の勝ち組理論に何かとチャチャを入れる。唯一そんな家族のバラバラな状況など全く気付いていない、家族全員に愛されている、素直で天真爛漫な幼い娘、決して見た目は美少女ではないが、家族を愛し信じるまっすぐな心はけがれを知らず、家族の言う事を疑いもしなければ、うるさいとも思わない。ひょんな事から憧れていたミスコンへの出場が決まり全身全霊で嬉しさを表現する様は、見ていてこういう子供が傷つくのは見たくないなと感情移入してしまう。自殺未遂を犯し、ゲイである傷心のおじさんは、彼氏を奪われしかもその相手が学者として自分より認められた存在になって輝いている事に嫉妬し、絶望している。
そのおじさんの包帯の巻かれた手首を見て、無邪気な娘は何で包帯を巻いているのか質問をする。父親はそんな微妙な話題をはぐらかそうとするが、おじさんは自分の境遇を娘に聞かせる。男なのになんで彼氏なの?と娘は意味がわからない。おじさんは男が好きなんだと説明されて、娘は無邪気に面白がって笑う。ゲイと言う言葉の意味も存在もわからない幼い子供には、それに対する偏見もないし、何を意味するのかわからない、聞いた事ないし、はじめて聞く珍しさによって大爆笑する。
腫れ物に触るように話をはぐらかしたり、同情した態度を見せたり、言葉で侮辱したりするのは、その意味を知っていないと出来ません。その意味を知らないものはゲイという言葉がすでに何かをさす世界には生きていませんから、偏見も持ちようがありません。素直に面白いから笑っているだけなのです。父親はそんなおじさんは人生の敗北者だという事を子供達に教える。こんな人間にはなってはいけないと。
レストランで食事をする場面で、娘はアイスクリームを頼みます。父親はミスコンを目指す人間はこんなものは食べないと説教をします。勝ちたければそれに必要な事をしろと。娘はその言葉を素直に聞くが、じいちゃんやおじさんや兄が頼んだアイスクリームを食べないなら食べちゃうよ、アイスクリームはおいしいぞ、と誘惑します。娘はそれを見て食べてしまう。父親の固い話に、そんな固い事言いなさんな、この子はまだ子供だぜと救いの手を差し伸べる。
息子は全く話も聞いちゃいませんが、父親は全く会話を断って、自分の未来の為にひたすら鍛錬する息子を、素晴らしいたいしたもんだと褒めそやします。中々マネ出来る事ではない、そういった人間が人生の勝利者となるのだと。自分の子供を尊重するという言葉で距離を取り、自分の価値観で賞賛し、息子には何の価値も感じられない美辞麗句で誤摩化す。しかし、じいちゃんはそんな孫に対して、お前、もうセックスはした事あるのか、十五にもなってまだ童貞か。若いうちは出来るだけ沢山の女とセックスしろ、それが年寄りの忠告だ的な言い方で、アウトローな生き方を進めます。父親はそんな卑猥な話を子供にするなとじいちゃんに怒鳴りますが、不良じいさん全く気にしない。おじさんも無言の少年を、父親のように自分の理想を押し付けそれでいて尊重すると距離を取る向き合い方とは違い、少年を一人の人間として向き合う。当然息子に取っては、父親の押しつけ的な愛情という欺瞞より、じいちゃんやおじさんの言葉の方が心地いい。父親は愛情を隠れ蓑にして、自分の価値観を押し付け自分の実存を満たしているにすぎません。しかし、じいちゃんやおじさんは少年に承認を与える。それは無条件の承認。
ゲイであるおじさんに対しても、父親は距離をとる。自殺未遂と言う傷を触らないように。しかしおじいちゃんはそんなの関係ない。おいホモ、ちょっとエロ本買って来てくれ、無修正のエロエロなやつだ、お前の好みのホモ雑誌も買っていいぞ、と金を渡しパシリとして使う。同性愛者に対して差別や偏見はいかんという常識を踏まえれば、おじいちゃん的な向き合い方はよくないと言われてしまうかもしれませんが、でも実際はどうなのでしょう。一見ゲイという立場を尊重しているようでもあり、あえてその話には触れないように、気を使って、腫れ物に触るように向き合う。本心ではどう思っているのかはわからず、ゲイを差別しない常識的な人間を装おう事によって、ただ単に自分の立ち位置を守りたいだけのように見えてしまう部分もあるのと、俺はホモは嫌いだが、一人の人間として尊重するぜという姿勢。本当に差別しているのはどちらなのでしょう。差別していない自分を演出したいだけで相手の話もたいして聞いていないのとのと、嫌いだから差別的な言い方はするが、人間としては対等に向き合うし話も聞くのと、承認を与えてくれるのはこの場合どちらでしょう。無条件の承認。
娘はじいちゃんに尋ねます。父親にアイスなど食っていると負け組になってしまうぞと言われた事を気にして。じいちゃんは言います。勝ち負けは関係ない、しかし負けるから勝負しない事こそ本当に負けるという事だと。
最近、子供を親がかこって、ノイジーなものを遠ざけ、親はよかれと思っているのかもしれませんが、自分の価値観を押し付け、それを愛情を注いでいると錯覚している人が増えているように感じます。そして子供が何か問題を起こした時になると、あれほど愛情を注いだのにとか、私なりに向き合って来たつもりだとか、自分の実存を満たす為に子供を利用していたという事に気付かない。あげくの果ては子供が何を考えているのかわからないとなってしまう。当然親とすれば、悪の道を教え込むようなじいちゃんは遠ざけたいと思うでしょうし、ゲイと言う微妙な問題で子供を刺激したくないでしょう。なるべくなら子供の成長に悪影響を及ぼすものは取り除きたいと考えるのは分からない話ではありません。しかし世の中はそうはなっていない。理不尽や不合理だらけであり、様々な価値観が溢れかえり、そして時には衝突したり傷つけあったりしています。
そういった様々なノイジーなものを遠ざけているという事が、かえって子供の脆弱な精神を生み出す事に加担してしまってもいます。多様性は確かに恐ろしく見えます。しかしそういう社会で生き抜いていく精神を養う為には、多様性を隠していてもどうにもなりません。脆弱な自分の価値観の中で物事を判断してしまう、他者性のない人間を育ててしまう事になります。他人との些細な意見の違いが許せなかったり、他人の事が思い通りにならないと腹を立てたり、耳障りな言葉を聞きたくないと感じてしまったり。それがそのまま他者を排除するイジメの論理につながってしまったりしていると思います。大人がそういった価値観の蛸壺化となった社会を生きていているから子供にそう教えてしまう。多様性を認めあい、承認を補完する社会と、自分に都合のいい蛸壺の中で引きこもって、外部を遮断し内輪受けの承認合戦をする事は、似ているようで微妙に違います。後者には甘えと依存、同調圧力による他者の排除という危険がはらんでいます。これは日本の様々なレベルにある問題です。役人のセクショナリズム、右翼や左翼などの思想に基づく集団、政治の手詰まり、会社と言う共同体においても、地方という共同体においてもそうです。日本には元々多様性というのは生まれにくい土壌なのかもしれません。海に囲まれ移民も少ないし、ほぼ単一の民族、言語も方言はあっても、日本語という共通のベースでの意思疎通、多様性を排除し、単純化した思考を共有する事によって仲間と認識し、同調圧力によって、多様性を排除する。
植民地化され徹底的に虐げられた過去もありませんから、甘えや依存がもたらす悲劇も知らない。
しかし日本の歴史の転換点を観てみますと必ず多様性というのが沸騰し、新しい時代を切り開いていったという過去もあります。思考が単純化していく事によって滅んでいった例は枚挙に暇がありません。戦国時代という多様化した時代があったから、平和な国づくりが出来たとも言えますし、統治機関の思考が単純化していく事によって衰退し、尊王、佐幕、攘夷、開国と様々な多様化した思想が沸騰し、その多様性を盛り込む事によって明治維新が成し遂げられます。やがてその多様性も、優等生病によって単純化していき、前大戦の泥沼へと突き進んでいった。しかしこの時は日本人のマインドは多様化してそうなったわけではなく、物理的な破壊によって、敗戦によって強引に転換しました。だから全く甘えと依存が生み出す、単純化した思考が生み出す弊害を学んでいません。そして現代、多様性に脆弱な社会となりつつあり、価値観の単純化したそれぞれの島宇宙で甘えと依存の承認合戦に陥っている。
単純化した共同体、種族や動物は必ず滅びます。それは歴史が示している。多様性を認めあった上で、承認を与えあう社会というのは、甘えや依存とは似ているようで微妙に違います。
日本は甘えや依存が蔓延した社会でもあると思います。こんなはずじゃなかった、そんな感じでよく絶望したりもします。かつては天皇に、今はアメリカに依存し、護送船団方式、会社共同体、地方共同体、学校、他者との関係性、そして家族。重要なのは自立です。自らの足で立つ、そして多様性を認めあい、承認を補完する。
恋人同士の間で、お互いを認めあう、束縛しない関係とかいうのがありますが、これは誰でもいいと言っているのと紙一重です。ですから自立し多様性を認めあい承認を補完するというのは簡単ではありません。束縛しないから付き合っているのか、愛しているから相手の立場を認めるのかの差になります。前者では結局自分の実存を満たす為にパートナーを利用している事になりますから、これは承認不足に陥る危険があります。束縛しなければ別に俺でなくても構わないのではないか、という感じです。
子供に承認を与えるときもそうです。勉強ができるから、スポーツが出来るから、言う事を聞くから承認を得る。条件付きの承認は非承認と同義になってしまいます。この条件付きの承認が世の中に溢れかえっています。金持ちだから、頭がいいから、仕事が出来るから、容姿が優れているから、これは条件を承認しているだけで、その個人を承認しているわけではありません。条件が一緒なら誰でもいいという事に、少し敏感になれば誰でも気付いてしまいます。だからその前提が崩れてしまったりすると、自分っていったいなんなのだろうと疎外を感じてしまったりするわけです。
我々はこの条件付きの承認というゲームを子供の頃から叩き込まれていますし、いまだにそういう子供を再生産している社会が回っています。競争のゲームです。仕事での自己実現なんて言い方もあったりしますが、結局は会社での兵隊になる事を、競争のゲームで勝ち残れと無自覚に教えているにすぎません。仕事なんてしなくてもその人はその人です。会社などでの研修なんてもんは殆どすべて戦争で末端の兵士に教育するプログラムと変わりません。いかに任務を疑問を感じずに己の感情を殺して遂行するか。それが出来る人間だけが勝ち残り、疑問を感じる人間は排除される。知らず知らずのうちに子供にもそういった事を叩き込んでいるのが我々の社会です。弱肉強食の生存競争に勝ち残れと。だから早々と諦めている子供達が沢山出て来たり、勝つ為には何でもやっちまえという子供達が出て来たりするわけです。しかしそれは子供に責任はありません。子供がおかしいとか言って騒ぎますが、すべて大人が教えている事であり、大人の責任です。
確かに生きて行くには収入を得なければなりませんから、仕事をして金を稼ぐという事は重要です。しかし手段を目的化しても何も生み出せません。肝心なのはその人が勝とうが負けようが、成功しようが失敗しようが、甘えや依存を排除した承認を得られる事が出来るのか、それが一番重要な事なのだろうと思います。無条件の承認を。
物語では中盤それぞれ登場人物に絶望が訪れます。出版予定の勝ち組ハウツー本の計画が吹っ飛んで収入の予定が消えてしまった父。その旦那をなじる奥さん。元恋人が新しいパートナーと仲良くしている所を目撃してしまうおじさん。車の中でゲームをしている時に自分が色盲であるという事に気付き、パイロットにはなれないと絶望する息子。そして、おじいちゃんのヤクのやり過ぎによって、旅の途中での突然の死。不思議な事に全く悲しみを演出していません。あまりにも突然すぎて悲しんでいるヒマを与えてくれません。物事というのはいつも突然訪れます。情緒的な演出で涙を誘うようなよくありがちな場面というのは現実世界では中々ある事ではありません。それは不意に訪れる。
しかしここから家族が次第に一つになっていきます。無条件の愛情と信頼と承認を与えてくれる娘、その夢であるミスコンに、何としても間に合わせなければならない。幼い娘は家族をひたすら信じ、必要とし、成功しようがしまいが、承認を与えてくれる。その愛すべき娘の希望だけは潰してはなるまいと、家族が一丸となります。
ミスコンの会場に何とか間に合いますが、周りの出場する女の子達を観て、家族は怖じ気づきます。こんな連中と競争させたのでは、娘は絶対に傷ついてしまう。出場する女の子達は、大人のようにバリバリに着飾り、メイクし、大人顔負けの特技を持っています。普通の素朴なお嬢ちゃんである主人公家族の娘では到底太刀打ち出来そうもない。家族の父、兄、おじさんは、娘が恥をかいてしまうのではないかと心配します。しかし娘は、じいちゃんに言われた言葉、勝ち負けは関係ない、だけど負けるのが恐いから逃げてしまう事が、本当に負けるという事だと言われた事を守り、思いっきりおじいちゃんに教わったダンスを舞台の上で披露します。
しかしこのダンス、おじいちゃん仕込みのストリッパーが踊るようなダンスだったのです。観客や主催者は目をそらし、娘を止めさせろと騒ぎます。それでも娘は懸命に踊り続けます。それはひたすら滑稽で、不細工で、下手クソで、恥ずかしい踊りです。しかし娘はそんな事知らない、おじいちゃん直伝のダンスを思いっきり披露する。家族達はそんな懸命な娘を何とか守ろうと必死で一緒になって踊ります。卑猥だ、汚らわしいと目を背け止めさせようとする主催者たちを退け、娘のダンスをなんとしてでも守る。
ストリッパーの踊りだろうがなんだろうが、その事を知らない娘にとってはダンスなのです。それを汚らわしいとか卑猥だと感じるのは、汚らわしい卑猥な事を知らなければ感じられません。家族は一緒に娘を守る為にみっともなくても構わないと懸命に踊ります。
これがおそらく無条件の承認なのではないかと思います。勝ち負けや世間体、恥ずかしかろうがなんだろうが、そんな事は関係ない。おじいちゃんが言った負けるから戦わない事こそ本当の負けだというのも、自立をしろ、そして自分で決めるのだ、その答えがなんであれ承認する。わからない事があれば助言もする、困っていれば助ける、間違っていれば正す、しかし、成功したか失敗したかどうであれ、お前はお前だ、そしてかけがえのない存在だと承認を与える。
今の子供は何かご褒美を貰えないと真面目にやらなかったり、父親を軽蔑したりする子供が増えていると思います。しかしそういう事は大人が教え込んでいる事です。条件付きの承認を教えている事に敏感にならねば、つまらない価値観や見た目や勝ち負けで物事を判断してしまうくだらない生き方しか出来ません。無条件の承認というのは中々難しい事かもしれません。しかし今日本の現状で最も必要な事なのではないかと感じるわけであります。そういった事を感じ取るのには、非常に素晴らしいテーマを描いた作品でした。
まあ細かいアラを言い出すときりがありませんが、勝つという事と負けるという事を対比させながら、勝つ事も大切かもしれないけれど、人生それだけが大切ってわけでもないんじゃないか。もっと手の届く所に大切なものはあって、それが得られれば勝ち負けなんてたいした問題じゃないよ。という感じでした。ニーチェとプルーストが勝ち負けの象徴として使われていました。ちょっとニーチェを誤読しているような気もしてしまいますが、細かい事は言いますまい。非常にいい気分になる映画です。
リトル・ミス・サンシャインを観て、あれこれと書いてみました。
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