固い話が続きましたので、本日は映画の話をしたいと思います。本日のお題は、リトル・ミス・サンシャインです。それでははじめます。
リトル・ミス・サンシャイン/アビゲイル・ブレスリン

¥2,380
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この物語は、ミスコンに憧れる不細工なお嬢ちゃんが、ミスコン(子供の)に出場するお話です。その過程で様々な出来事が起こる。笑える所も随所に盛り込まれていますし、結構ハラハラもする、そしてちょっと素敵な気持ちにさせてくれる。と中々面白い映画でした。そしてこの中で現代社会の抱えた問題をさりげなく描かれてもいます。非常に爽やかな気分にさせてくれるいい映画でした。
物語は不細工だけれどかわいらしい女の子とその家族、勝ち組になる為のハウツー本を出版して一儲けしようと企む父、禁煙出来ない母、ニーチェを愛読し、パイロットを目指して日々鍛錬し、その事が成し遂げられるまではしゃべらないと誓った兄、ヤク中でエロ大好きのおじいちゃん、ゲイであり、恋人にふられてしまい自殺未遂を犯した、自称第一人者のマルセル・プルースト学者であるおじさん。この一見バラバラな奇妙な家族が、幼い娘のコンテストの開催地目指して、黄色いバスで旅をする。
なんかここまで物語のアウトラインがわかると、展開や内容が読めそうですし、まあ所謂ハートフル・コメディー、家族達の再生の旅ってな感じで、いわれたりもしてますので、ある程度展開は読めます。しかしこの物語の根本に流れているテーマそんなに軽い話ではなく、現代の競争社会から疎外されてしまった人々がいかに再生していくのかという問題は、アメリカでもそうなのかもしれませんが、日本では本当にそこら中で顕在化していて、はやく対処しない事には益々問題は深刻になっていくのではないか、しかし対処すると言っても中々難しく、どうすればいいのか簡単ではない、その一つの答え、万人を救えるようなスカッとした回答ではありませんが、その答えを見いだすきっかけのようなものを感じ取る事が出来ました。これは非常に意味のある事です。単純に家族達の再生の旅だとか、ちょっぴり泣けるハートフルコメディなんて軽い言い方では足りない貴重なテーマです。
競争社会から落ちこぼれてしまった人間が疎外感を感じる。これは資本主義経済、グローバライゼーションを押し進めていく世界では非常に重要な問題です。この国では所謂インチキ保守のオヤジやババアが日本は経済的に恵まれており、貧しい国に比べれば全然マシであるという言い方をします。自分はこういった言い方は間違っちゃいないけれど、物事の本質をわかっていないと思ってしまいます。競争社会というのは必ず勝者と敗者が生まれます。そして勝者もいつかは敗れるときが来るか、もしくはいつか敗れるのではないかという不安を抱えて勝ち続けなければなりません。これが我々の社会です。したがって必ず、敗れてしまったものであっても、いつかは敗れるという不安を抱えているものであっても、承認不足による疎外がいつも付きまとっています。甘えるな的な言い方をされる方々は経済的に恵まれているはずだという視点で言いますが、承認不足によって疎外感を感じている人々の問題は、単に経済的な問題だけではありません。成功している人であってもそういった疎外感を感じてしまったりするのですから、精神的な問題です。経済的な問題が満たされれば、ある程度、精神的な疎外感を感じていても生きてはいける。しかし特にこの国では、そういった精神的な承認を得られるシステムがことごとく無く、かつてその役割を果たしているものが崩壊している。宗教によって承認を得るという事がアメリカのように一般的ではありませんし、かつては岩倉使節団系の明治初期の元勲達によって、天皇が統合の象徴として、その役割を果たす国づくりを設計しましたが、戦後はそこまでの承認補完システムとしては機能しづらくなってしまいました。地域の空洞化、会社という共同体の価値転換、価値観の多様化、個人主義の広がり、そして映画の中でも語られる、家族と言う他人。
そういった寂しさや疎外感を感じている人々を吸い上げる、ナショナリズム、宗教、思想というのは一歩間違えると非常に危険が伴うものです。戦前、廃藩置県によってバラバラであった国々を一つにまとめ、地域を空洞化し、薩摩や会津の愛郷心、西郷隆盛や松平容保に対する忠誠心に散々手こずった新政府は、この強烈なパトリオティズムを見本として、天皇陛下の臣民というフィクションを作り上げ、村人であった人々を国民として中央集権型の近代国家を目指しました。その過程では、承認不足を国家がナショナリズムを利用して吸い上げるという構造が上手く機能しましたが、その後、この承認補完システムは暴走していく事になります。現在でも承認不足に陥っている人々を、愛国者というカテゴリーからは一番遠い存在でもある売国奴どもが愛国心教育とか言ってますが、承認不足を担保する為に、そういうクズに利用される危険性が付きまとっています。アメリカでも宗教的良心やナショナリズムを戦争に利用したりもしています。
しかし承認不足の問題に対処しないで、こういった事を危険視しても、実際に疎外を感じている人々は沢山いるわけです。前回のエントリーでも少し触れましたが、こういった問題を対処する時、この国では格差問題という経済的、物理的な貧困という切り口で語ります。確かにそういった切り口で困っている人はいるのでしょう。生活も出来ない位の貧困に苦しんでいる方々に対処する事は必要な事です。今の舵取りをしている連中が本気でそういった事に対処する気があるようには残念ながら見えません。本当に困ったもんです。しかし自分はそれだけでは担保出来ない経済的物理的セーフティネットだけでは救えない、疎外という問題があるのではなかろうかと思うのです。寂しさや、孤独、実存の問題をケアするものがどんどん崩れていっている。
先日、京都市伏見区の民家で3兄妹が父親によって殺害された事件がありました。殺人容疑で逮捕された父親は在籍したことがない室内装飾会社を勤務先とし、妻に給料として毎月30万円を手渡していたのだそうです。父親は無職で同居する母から毎月渡される現金で1年以上前から家計を維持していたと。遺書には自分が死んだ後、子どもを大学へやる金がないので幸せな間に(子どもを)いかせてやりたいと書かれていたと報じられています。
全く身勝手な父親だと思います。経済的な袋小路に入ってしまっていて、追いつめられていたのだとしても、何も殺す事ないだろうと思います。死ぬなら一人で死ねばいいのにとも思います。どんな理由があったとしても許されない事です。こういった短絡的とも思える行動を引き起こすまで、経済的に追いつめられてしまう社会とは、いったいなんなのか、この国の現状は相当深刻だとも思います。
しかし自分が一番この事件を知った時にビックリした事は、どうして無職であるという事を、正直に奥さんに言わなかったのだろうというのが引っかかりました。そういった事を分かち合うのが、夫婦なんじゃないのかと思ったのです。奥さんがどういう方で、この父親がどういう人物なのか知りませんし、例えどんな原因があっても父親のとった行動は正当化出来る事ではありません。そういった行動をとってしまったのだから父親が問題のある人物だったのではないかとも思います。しかしなんで夫婦でありながら奥さんに嘘をつかなければならなかったのか。いろいろ理由はあるのでしょう。しかし自分の子供を殺すよりはマシだろうと思うのです。
正直に言っちゃえばひょっとするともっと別の道があったのではなかろうか。経済的に満たされれば、こういった悲劇は起こらなかったのかもしれません。しかし競争社会に敗れた人々をすべて経済的に救う事が出来るのかと考えると理想としてはそうあるべきかもしれませんが、残念ながらそういった望みを持つには絶望的なシステムによって回っているのが今の社会です。であるなら、せめてこんなバカげた最悪の事態を犯す前に孤独から抜け出る方法がなかったのか。経済的に救う事が無理であっても、精神的に救う事は出来るのではないのか。そうすれば子供達が殺される事もなかったのではないのか。奥さんがどう思っているのかわかりませんが、普通に考えれば簡単には立ち直れないくらい徹底的な精神的ダメージを受けてしまっているでしょう。
資本主義というのは経済的物理的な奪い合いの競争です。グローバライゼーションが広がれば広がるほど、その様相も益々激化し、経済的な貧困など全く無視した仕組みが動いています。結局、物理的経済的対処では、この構造に組み込まれてしまいますから、精神的な承認不足の問題には対処出来ません。多少生活が楽になれば、精神的な負担が軽減はするかもしれませんが、傍目には経済的に全く困っているように見えない人でも、疎外を感じている人が増えているのですから、経済的物理的対処は必要ですがそれだけでは限界がありますし、日本人みんなの生活水準をあげる為には、この奪い合いの構造で勝ち続けなければいけませんから、貧しい国は一層貧しくなるでしょう。こういった負の側面を無視して、先進国の人々ばかりが裕福になれば関係ないというのでは、アメリカ的なグローバライゼーションや小泉竹中的なるものを否定する資格はありません。同じ穴のムジナになってしまいます。
もちろん今のインチキ改革、勝者が永遠に勝ち続けるシステムを国民の為だなどとほざくクソっ垂れのゴミ野郎どもは話になりません。一部の既得権を握った連中の権益を守る為の改革などいい加減にしてもらいたいと本当に思いますが、そういった連中が自分達の権益を削って、国民の方向に向いた改革を行うインセンティブなど働きようもない仕組みでこの国は回っていますから全く期待出来ません。しかも我々国民がそれに対抗するリソースが、せいぜい投票行動とインチキをインチキと知る位しかありませんから、彼らに経済的物理的格差是正を期待しても見通しは暗いものしかありません。メディアも腐っていますからこれもダメ。となればせめて精神的な承認を担保出来る社会を、我々国民が構築するしかないのだと思います。そんなに難しく考える必要はありません。物理的経済的欲求といかに折り合いをつけ、自分の手の届く範囲から承認を担保する社会とはなんだろうと向き合う事がその一歩となります。そのヒントがこの映画には隠れています。
なんかやっぱり話が固くなってしまいました。この映画は映画としては面白いのですがそれなりにアラも目立ちますし、文句なしに素晴らしいと言ってしまうほどの素晴らしさがあるわけではありませんが、描かれているテーマは非常に重要だと感じますので、次回でもう少し具体的に内容について書きたいと思います。最近続きが多いなと、まとまらない未熟さを噛み締めて、続く。