前回の続きです。黒幕説や陰謀論についてあれこれ書きましたが、自分は基本的にそういった類いの話は好きであります。前回基本スタンスは書きましたので繰り返しませんが、どんなに信憑性がなさそうに思えたとしても、聞く分には面白いからです。中には笑って面白がっている場合ではないというような、恐ろしい、身も蓋もない厄介な陰謀論や黒幕説もありますが、ビビって恐ろしいとは思いますが、距離はとるようにしておりますし、絶対に有り得ないと断定出来ない以上、恐いから知りたくないと閉じていても、危機がなくなるわけではありませんから、何も出来ないのだとしても知っておかないとマズいだろうとも思います。
世の中様々な黒幕説や陰謀説に溢れています。アメリカ、中国、北朝鮮、韓国、ロシア、イスラエル、反米アラブ諸国、ユダヤ陰謀論、ユダヤ金融権力黒幕説、ネオコン、9・11における疑惑、ロスチャイルド、ロックフェラー、フリーメーソン、300人委員会、孝明天皇暗殺説、オウム真理教、統一教会、中にはWTC純粋水爆説、ホロコースト捏造説、ナチスのユダヤ傀儡政権説、ヒトラーは生きていた説、などなど、恐ろしいですね。
こういった話を突き詰めていきますと、この国が立ち行かない様々な原因や、世界の弊害、歴史上の様々な事件、あれもこれもみんな何か黒幕がいて、その手の平で踊らされているにすぎない。全く希望も何もあったもんじゃない、暗黒世界なのではないかと思ってしまうほど、どうにもならない悪しき存在がいて、我々の運命もそういう存在の思うがままなのでしょうか。事実だとすればとんでもない話ですし、我々はあまりにも無力、絶望するしかないようにも思える。
こういった説が本当かそうでないのか、それは自分には判断する材料がありませんのでわかりません。ありそうな気もするし、まさかそこまでという気もする。したがって前回と同じですが、「黒幕が存在するという人間がいる事には理由がある」という視点で書きたいと思います。これは「黒幕が存在する」という問題とは次元の違う話です。黒幕が存在するのかしないのかという事が書きたいわけではありませんので、誤解無きように。
まず、ユダヤ人の一部の方々がこの世界を牛耳っていて、我々はその手の平で踊らされているにすぎない、という説があります。ユダヤ金融資本というのはもの凄い力を握っていて、この世界のあらゆる事象に干渉し、自らの権益を確保する為にひたすら振る舞っている。歴史上のあの人もこの人も、みんなユダヤ人で我々はいわば家畜のようなものであり、戦争も、経済も、自由自在に好き勝手にコントロールをしている。あの国の将軍様も、その国の大統領も、我々がよく知っている総理大臣、及び歴代の総理大臣、その影に付きまとう悪しき巨大な権力。ユダヤ人社会には我々の知らないネットワークがあり、まるでそれが一つの意思を持っているかのように、様々な舞台裏で暗躍している。こういった説がよく聞かれます。日本人の感覚で言いますと、ある種、異常とも思えるような連帯性、朝鮮半島の方々や在日の方々などに対する感覚もそれに近い、それが事実かどうかはわきにおいてそう感じている人達が沢山いるという感じかと思います。
しかしユダヤ人ってなんなのか、という風に問題を設定しますと、これが意外と難しい。スピノザ、カール・マルクス、グルーチョ・マルクス、ジグムンド・フロイト、エマニュエル・レヴィナス、クロード・レヴィ・ストロース、ジャック・デリダ、アルバート・アインシュタイン、チャーリー・チャップリン、ウディ・アレン、ポール・ニューマン、グスタフ・マーラー、ウラジミール・アシュケナージ、リチャード・ドレイファス、スティーブン・スピルバーグ、ロマン・ポランスキー、などなど、旧約聖書、アウシュビッツ、イスラエル、パレスチナ難民、中東戦争、ネオコン、ドレフュス事件、カバラー、タルムード、シオン賢者の議定書、アンネの日記、ユダヤ人というキーワードから連想出来るものも様々です。
「ユダヤ人は『ユダヤ人』だよ」という言い方があります。この同語反復文は、主語であるデノタシオン(辞書的語義)としての価値中立的な意味であり、属詞のユダヤ人はコノタシオン(含意)として、異教徒、神殺し、守銭奴、ブルジョワ、権力者、売国奴・・・・・・という感じの意味が込められています。
ユダヤ人と言う記号、シニフィアンはデノタシオンとコノタシオンを含むシニフィエがあります。こういった含意が張り付いているのは珍しい事ではありません。日本人、アメリカ人、中国人、朝鮮人、都会人、田舎者、江戸っ子、関西人、九州男児、九州男児であれば九州の男の人という意味の他に、質実剛健で、胆力があって、酒飲みで、男尊女卑思想の持ち主で、とかいった感じで、それが必ずしも正確かどうかは別にして、もちろんこれらの特質がすべての九州男児に当てはまるわけではないにもかかわらず、共通の前提となって、多くの人々が共有しているであろうイメージが張り付いています。ですからこういった表現は別に珍しくも何ともありませんが、ユダヤ人という言葉に張り付いている含意は、多くのそういったものとは比較にならないくらいのものがあります。
肝心なのはユダヤ人という記号は、価値中立的な辞書的語義だけで用いる事はほとんど不可能な世界に我々は生きているという事です。仮に、いやいやそんな事はない、ユダヤ人は誠実で、勤勉で、優秀な才能に溢れている方々も多く、一般的なイメージは必ずしも正しくない、そういう風に立場を取る人がいたとしても、すでにユダヤ人という記号が含む意味が存在していて、前提になっている世界でなければ通じないコミュニケーションです。ユダヤ人という記号が示すものを知っている世界に我々は生きていて、そこから自由になるのは良い意味であれ、悪い意味であれ、中々難しくほとんど不可能に近い前提が、構造的前提条件、ストラクチュアル・プレサポジションにすでに刻まれてしまっている上に我々は乗っかって生活している。ひっくり返せば足場は崩れてしまいますし、前提を全く無視して中立的な立場を取るには、あまりにも取り返しのつかない構造に組み込まれている社会に我々は生きているという事です。そういう含意を取っ払って、辞書的語義という部分だけを取り出して、ユダヤ人という記号の示すものを考えた時に何が残るのか。
ユダヤ人というのは国民名ではない。世界中に散らばっていて、国籍も、言語も、ライフスタイルも違います。イスラエルでさえもセファルディーム系はラディノ、アシュケナジーム系はイディッシュ、というそれぞれ、レコンキスタ完了以前のスペイン語が元になっているものと、ドイツ語の方言とスラブ語、主にポーランド語、ヘブライ語が混じったものという、違った言語をいまだに維持しておりますし、イスラエル国民の20%はイスラム教徒ですから、イスラエルは厳密な意味ではユダヤ人の国ではありません。ヘブライ語を習わせたりする、敬虔なユダヤ教徒もいますが、現代ヘブライ語と、聖書ヘブライ語は別の言語です。
ユダヤ人は人種ではない。浅黒い肌に巻き髪の黒髪、鉤鼻ででっぷり太った欲深そうな、もしくは痩せて鉤鼻で残忍そうな、現代に至ってもユダヤ人を揶揄したり攻撃したりするとき、欧米に広がっているプロパガンダ的、シェイクスピアのヴェニスの商人にでてくるシャイロック的なイメージというのがあります。頭蓋骨の直径がアーリア人種とは違うと主張した人類学者もかつてはいましたが、ユダヤ人と他の民族集団を差異化できる有意な生物学的特徴は存在しません。ガラリヤのユダヤ教共同体の内部に育ち、アラム語で布教活動を行い、ゴルゴタの丘で処刑された、ラビとその使途達が、同時代、同地域、同宗派内での論争相手であった、サドカイ派やパリサイ派の人々と人種が違うとは誰も思えないでしょう。しかしこのラビが発したと福音書が伝えた、ユダヤ人に対する呪いは、今に至っても人種差別の論拠を提供して来ました。ユダヤ人を人種概念として一義化しようと組織的に試みたのが、ナチス・ドイツのニュルンベルク法です。1215年第四回ラテラノ公会議でイノケンティウス三世が定めたユダヤ人規定、その血のうち八分の一にユダヤ教徒を含むものをユダヤ人とする、を甦らせたものです。しかしこの法制もユダヤ人に定義を与える事には成功しませんでした。キリスト教徒のドイツ人でありながら、ユダヤ人に区別されて差別の対象となった人々が万単位で出現する事になったからです。
ユダヤ人というのはユダヤ教徒の事ではない。近代市民革命による、ユダヤ人解放以後、かなりの数のユダヤ人がキリスト教に改宗しました。しかし、ユダヤ人はいかなる宗教を信じていようがいまいが、ユダヤ人であるという事を止める事が出来ないと、ニュルンベルク法と「ホロコースト」は教えました。ユダヤ人とユダヤ教徒が同義語だったのは近代以前のことです。ティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ人の国が消滅して以降、ユダヤ教徒は世界中に離散し、程度の差こそあれ差別的な待遇を受けて暮らしてたと言われています。十字軍のときのマインツでの虐殺、リチャード獅子心王不在時の英国での虐殺、ペスト流行時、ユダヤ教徒が井戸に毒を投じたという流言からの虐殺、バチカンが公布した黄色い布着用の命令、エドワード一世による英国からの追放令と資産の没収、パリのタルムードの焚書命令、セビリアとコルドバにおける虐殺、フランスからの追放令、イベリア半島からのユダヤ人追放令、コサックによるポーランド・ユダヤ人虐殺、中世から近代にかけてのユダヤ人の歴史は迫害によって覆い尽くされています。もっともそれが事実だったのかどうか確かめる術もありませんから、自分にはわかりません。我が国の前大戦での行いの塗り替えられ方を見ても凄まじいものがありますから、捏造されて歴史が作られていくという事はあり得る話なのかもしれません。ひょっとすると、アウシュビッツでのガス室は無かった説なども、それが事実かどうか自分にはわかりませんが、歴史の塗り替えられていく様を知れば、全く有り得ないナンセンスだと斬って捨ててしまえるほど言い切れるものではないのかもしれません。もちろん様々な要素を勘案して、確認は出来なくとも、ホロコーストはあったのではないか、というのが常識ですし、自分もあった可能性の方が高いとは思います。しかしほんの半世紀ちょっと前の我が国の出来事も、世の中の力学によって作り替えられてしまい、それに抗う方法が無いのですから、何百年も前に起こった出来事が真実かどうか、これは例えどちらであれ確認も出来ない事ですし、肝心なのは、みんなのそういう前提の上に今の世界が構築されているという事です。
そういう歴史的な迫害にあったにもかかわらず、近代以前ユダヤ教徒はかたくなに改宗を拒否しました。弾圧や恫喝にも関わらず強制改宗事業は上手くいかず、キリスト教徒にとって、社会のキリスト教化が成就していない事を意味します。彼らが改宗を拒み、差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実が、ミシェル・フーコーが論じる所の「神の呪い」の生ける証拠、となり逆説的な意味で神の存在を正当化するロジックの材料として使われ続けました。近代になりユダヤ人の解放というロジックでさえも、結局ユダヤ人という存在に縛られている所から出発しており、抑圧しているがゆえに、解放が出来ると言う、逆向きの思考のようにも思えますが、結局そこに捕われ、上に立った目線でしか眺められないという呪縛からは抜け出る事が出来ませんでした。
ユダヤ人とは、人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間の事である。サルトルはそういいました。ユダヤ人とは国民国家の構成員でも、人種でも、宗教共同体でもなく、実体がわからない存在であるにもかかわらず、確かに存在していると誰もが思っているし、現に存在もしているように見える。含意を取り除き、辞書的語義を見いだそうとしても、なんなのかよくわからない、肝心なのはユダヤ人とは、それなしでは世界を分節出来ないような種類のカテゴリーになっているという事です。ユダヤ人という概念で人間を分節する習慣の無い世界にはユダヤ人は存在しません。ユダヤ人が存在するのは、ユダヤ人という名詞が繰り返し同じ何かをさすと信じている人間がいる世界の中だけです。ユダヤ人と言うシニフィアンを得た事によって世界は今のようになっているのではないかという事です。
ユダヤ人が金融の世界を牛耳っているというのも、もとを正せば、人々が嫌がる卑しい仕事を、彼らに押し付けた所を出発点として、信じられないような成功を収めた人々が一握り出て来たという話です。確かに信じられないような成功を収め、冗談だろ、というロスチャイルド家のような逸話もありますし、現在でも非常に強力な力を握っているようにも思えます。しかし押し付けといて成功したら成功したで許せない、これはフェアではありません。陰謀かどうかは自分にはわかりません。奴らはやっているに違いない、という歴史上繰り返され続けて来た色眼鏡で見てしまう危険が内包されているという事にも敏感であらねばならないのではないかと思います。
実際ユダヤ人と呼ばれている方々が非常に成功を収めている人々が沢山存在する事も事実です。実態がわからないのに、常にそこにいて、しかも表舞台にのぼっている、なんだかよくわからないけれど、もの凄い権力を握っているように見える、人が不安になるのは、情報をコントロール出来ないからでもあります。なんだかわからないのに、確かにそこにいる強烈な存在としてあるように見える、世界の様々な所で、理解不能の恐ろしい出来事が起こる、そういう様々な事象をあるキーワード、黒幕説という繋がりでひも解いてみると、情報をコントロールしているような錯覚に陥る。有り得ないと言いたいわけではありませんし、自分もありそうだなと思っている話も沢山あります。強力な権力を握っていて多くの人々を苦しめているようにも見えます。しかし、一歩間違えると、それは神への依存と変わらなくなります。神への依存は別にそれで救いが得られるのなら悪い事ではありません。しかしそれを旗印にして他者を断罪する振る舞いと紙一重だという事は忘れてはならないと思います。複雑な世の中の様々な力学によって、合成の誤謬によって、解決不能のどうにもならなさが、何か原因を設定する事によって、取り除く事が可能だと錯覚出来るものでもあるという非常に危険な思想と裏表でもあります。
現にそういった情報を手に入れている方々が、それを知らずに生きている方々に対して、蔑みの言葉で攻撃したりするコミュニケーションになってしまったりもします。あっち側の人間ではなく、自分もこちら側の人間なんだと何か選別する基準を自らが設けて、実存を満たすと言う行為が、愛国心の鍔迫り合い、北東アジアの方々に対する、断固としたコミュニケーション、同じくアメリカに対するもの、左翼に対する侮蔑、右翼に対する嘲笑、そういったものに変じる危険性を常に抱えています。あいつは何々主義者だから信用出来ない、話も聞かない、という風になっていきますと、益々自分の心地いい蛸壺の中に閉じこもって、脆弱な自我に陥ってしまうという危険性を孕んでいます。
話は途中ですが長いので続きます。
世の中様々な黒幕説や陰謀説に溢れています。アメリカ、中国、北朝鮮、韓国、ロシア、イスラエル、反米アラブ諸国、ユダヤ陰謀論、ユダヤ金融権力黒幕説、ネオコン、9・11における疑惑、ロスチャイルド、ロックフェラー、フリーメーソン、300人委員会、孝明天皇暗殺説、オウム真理教、統一教会、中にはWTC純粋水爆説、ホロコースト捏造説、ナチスのユダヤ傀儡政権説、ヒトラーは生きていた説、などなど、恐ろしいですね。
こういった話を突き詰めていきますと、この国が立ち行かない様々な原因や、世界の弊害、歴史上の様々な事件、あれもこれもみんな何か黒幕がいて、その手の平で踊らされているにすぎない。全く希望も何もあったもんじゃない、暗黒世界なのではないかと思ってしまうほど、どうにもならない悪しき存在がいて、我々の運命もそういう存在の思うがままなのでしょうか。事実だとすればとんでもない話ですし、我々はあまりにも無力、絶望するしかないようにも思える。
こういった説が本当かそうでないのか、それは自分には判断する材料がありませんのでわかりません。ありそうな気もするし、まさかそこまでという気もする。したがって前回と同じですが、「黒幕が存在するという人間がいる事には理由がある」という視点で書きたいと思います。これは「黒幕が存在する」という問題とは次元の違う話です。黒幕が存在するのかしないのかという事が書きたいわけではありませんので、誤解無きように。
まず、ユダヤ人の一部の方々がこの世界を牛耳っていて、我々はその手の平で踊らされているにすぎない、という説があります。ユダヤ金融資本というのはもの凄い力を握っていて、この世界のあらゆる事象に干渉し、自らの権益を確保する為にひたすら振る舞っている。歴史上のあの人もこの人も、みんなユダヤ人で我々はいわば家畜のようなものであり、戦争も、経済も、自由自在に好き勝手にコントロールをしている。あの国の将軍様も、その国の大統領も、我々がよく知っている総理大臣、及び歴代の総理大臣、その影に付きまとう悪しき巨大な権力。ユダヤ人社会には我々の知らないネットワークがあり、まるでそれが一つの意思を持っているかのように、様々な舞台裏で暗躍している。こういった説がよく聞かれます。日本人の感覚で言いますと、ある種、異常とも思えるような連帯性、朝鮮半島の方々や在日の方々などに対する感覚もそれに近い、それが事実かどうかはわきにおいてそう感じている人達が沢山いるという感じかと思います。
しかしユダヤ人ってなんなのか、という風に問題を設定しますと、これが意外と難しい。スピノザ、カール・マルクス、グルーチョ・マルクス、ジグムンド・フロイト、エマニュエル・レヴィナス、クロード・レヴィ・ストロース、ジャック・デリダ、アルバート・アインシュタイン、チャーリー・チャップリン、ウディ・アレン、ポール・ニューマン、グスタフ・マーラー、ウラジミール・アシュケナージ、リチャード・ドレイファス、スティーブン・スピルバーグ、ロマン・ポランスキー、などなど、旧約聖書、アウシュビッツ、イスラエル、パレスチナ難民、中東戦争、ネオコン、ドレフュス事件、カバラー、タルムード、シオン賢者の議定書、アンネの日記、ユダヤ人というキーワードから連想出来るものも様々です。
「ユダヤ人は『ユダヤ人』だよ」という言い方があります。この同語反復文は、主語であるデノタシオン(辞書的語義)としての価値中立的な意味であり、属詞のユダヤ人はコノタシオン(含意)として、異教徒、神殺し、守銭奴、ブルジョワ、権力者、売国奴・・・・・・という感じの意味が込められています。
ユダヤ人と言う記号、シニフィアンはデノタシオンとコノタシオンを含むシニフィエがあります。こういった含意が張り付いているのは珍しい事ではありません。日本人、アメリカ人、中国人、朝鮮人、都会人、田舎者、江戸っ子、関西人、九州男児、九州男児であれば九州の男の人という意味の他に、質実剛健で、胆力があって、酒飲みで、男尊女卑思想の持ち主で、とかいった感じで、それが必ずしも正確かどうかは別にして、もちろんこれらの特質がすべての九州男児に当てはまるわけではないにもかかわらず、共通の前提となって、多くの人々が共有しているであろうイメージが張り付いています。ですからこういった表現は別に珍しくも何ともありませんが、ユダヤ人という言葉に張り付いている含意は、多くのそういったものとは比較にならないくらいのものがあります。
肝心なのはユダヤ人という記号は、価値中立的な辞書的語義だけで用いる事はほとんど不可能な世界に我々は生きているという事です。仮に、いやいやそんな事はない、ユダヤ人は誠実で、勤勉で、優秀な才能に溢れている方々も多く、一般的なイメージは必ずしも正しくない、そういう風に立場を取る人がいたとしても、すでにユダヤ人という記号が含む意味が存在していて、前提になっている世界でなければ通じないコミュニケーションです。ユダヤ人という記号が示すものを知っている世界に我々は生きていて、そこから自由になるのは良い意味であれ、悪い意味であれ、中々難しくほとんど不可能に近い前提が、構造的前提条件、ストラクチュアル・プレサポジションにすでに刻まれてしまっている上に我々は乗っかって生活している。ひっくり返せば足場は崩れてしまいますし、前提を全く無視して中立的な立場を取るには、あまりにも取り返しのつかない構造に組み込まれている社会に我々は生きているという事です。そういう含意を取っ払って、辞書的語義という部分だけを取り出して、ユダヤ人という記号の示すものを考えた時に何が残るのか。
ユダヤ人というのは国民名ではない。世界中に散らばっていて、国籍も、言語も、ライフスタイルも違います。イスラエルでさえもセファルディーム系はラディノ、アシュケナジーム系はイディッシュ、というそれぞれ、レコンキスタ完了以前のスペイン語が元になっているものと、ドイツ語の方言とスラブ語、主にポーランド語、ヘブライ語が混じったものという、違った言語をいまだに維持しておりますし、イスラエル国民の20%はイスラム教徒ですから、イスラエルは厳密な意味ではユダヤ人の国ではありません。ヘブライ語を習わせたりする、敬虔なユダヤ教徒もいますが、現代ヘブライ語と、聖書ヘブライ語は別の言語です。
ユダヤ人は人種ではない。浅黒い肌に巻き髪の黒髪、鉤鼻ででっぷり太った欲深そうな、もしくは痩せて鉤鼻で残忍そうな、現代に至ってもユダヤ人を揶揄したり攻撃したりするとき、欧米に広がっているプロパガンダ的、シェイクスピアのヴェニスの商人にでてくるシャイロック的なイメージというのがあります。頭蓋骨の直径がアーリア人種とは違うと主張した人類学者もかつてはいましたが、ユダヤ人と他の民族集団を差異化できる有意な生物学的特徴は存在しません。ガラリヤのユダヤ教共同体の内部に育ち、アラム語で布教活動を行い、ゴルゴタの丘で処刑された、ラビとその使途達が、同時代、同地域、同宗派内での論争相手であった、サドカイ派やパリサイ派の人々と人種が違うとは誰も思えないでしょう。しかしこのラビが発したと福音書が伝えた、ユダヤ人に対する呪いは、今に至っても人種差別の論拠を提供して来ました。ユダヤ人を人種概念として一義化しようと組織的に試みたのが、ナチス・ドイツのニュルンベルク法です。1215年第四回ラテラノ公会議でイノケンティウス三世が定めたユダヤ人規定、その血のうち八分の一にユダヤ教徒を含むものをユダヤ人とする、を甦らせたものです。しかしこの法制もユダヤ人に定義を与える事には成功しませんでした。キリスト教徒のドイツ人でありながら、ユダヤ人に区別されて差別の対象となった人々が万単位で出現する事になったからです。
ユダヤ人というのはユダヤ教徒の事ではない。近代市民革命による、ユダヤ人解放以後、かなりの数のユダヤ人がキリスト教に改宗しました。しかし、ユダヤ人はいかなる宗教を信じていようがいまいが、ユダヤ人であるという事を止める事が出来ないと、ニュルンベルク法と「ホロコースト」は教えました。ユダヤ人とユダヤ教徒が同義語だったのは近代以前のことです。ティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ人の国が消滅して以降、ユダヤ教徒は世界中に離散し、程度の差こそあれ差別的な待遇を受けて暮らしてたと言われています。十字軍のときのマインツでの虐殺、リチャード獅子心王不在時の英国での虐殺、ペスト流行時、ユダヤ教徒が井戸に毒を投じたという流言からの虐殺、バチカンが公布した黄色い布着用の命令、エドワード一世による英国からの追放令と資産の没収、パリのタルムードの焚書命令、セビリアとコルドバにおける虐殺、フランスからの追放令、イベリア半島からのユダヤ人追放令、コサックによるポーランド・ユダヤ人虐殺、中世から近代にかけてのユダヤ人の歴史は迫害によって覆い尽くされています。もっともそれが事実だったのかどうか確かめる術もありませんから、自分にはわかりません。我が国の前大戦での行いの塗り替えられ方を見ても凄まじいものがありますから、捏造されて歴史が作られていくという事はあり得る話なのかもしれません。ひょっとすると、アウシュビッツでのガス室は無かった説なども、それが事実かどうか自分にはわかりませんが、歴史の塗り替えられていく様を知れば、全く有り得ないナンセンスだと斬って捨ててしまえるほど言い切れるものではないのかもしれません。もちろん様々な要素を勘案して、確認は出来なくとも、ホロコーストはあったのではないか、というのが常識ですし、自分もあった可能性の方が高いとは思います。しかしほんの半世紀ちょっと前の我が国の出来事も、世の中の力学によって作り替えられてしまい、それに抗う方法が無いのですから、何百年も前に起こった出来事が真実かどうか、これは例えどちらであれ確認も出来ない事ですし、肝心なのは、みんなのそういう前提の上に今の世界が構築されているという事です。
そういう歴史的な迫害にあったにもかかわらず、近代以前ユダヤ教徒はかたくなに改宗を拒否しました。弾圧や恫喝にも関わらず強制改宗事業は上手くいかず、キリスト教徒にとって、社会のキリスト教化が成就していない事を意味します。彼らが改宗を拒み、差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実が、ミシェル・フーコーが論じる所の「神の呪い」の生ける証拠、となり逆説的な意味で神の存在を正当化するロジックの材料として使われ続けました。近代になりユダヤ人の解放というロジックでさえも、結局ユダヤ人という存在に縛られている所から出発しており、抑圧しているがゆえに、解放が出来ると言う、逆向きの思考のようにも思えますが、結局そこに捕われ、上に立った目線でしか眺められないという呪縛からは抜け出る事が出来ませんでした。
ユダヤ人とは、人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間の事である。サルトルはそういいました。ユダヤ人とは国民国家の構成員でも、人種でも、宗教共同体でもなく、実体がわからない存在であるにもかかわらず、確かに存在していると誰もが思っているし、現に存在もしているように見える。含意を取り除き、辞書的語義を見いだそうとしても、なんなのかよくわからない、肝心なのはユダヤ人とは、それなしでは世界を分節出来ないような種類のカテゴリーになっているという事です。ユダヤ人という概念で人間を分節する習慣の無い世界にはユダヤ人は存在しません。ユダヤ人が存在するのは、ユダヤ人という名詞が繰り返し同じ何かをさすと信じている人間がいる世界の中だけです。ユダヤ人と言うシニフィアンを得た事によって世界は今のようになっているのではないかという事です。
ユダヤ人が金融の世界を牛耳っているというのも、もとを正せば、人々が嫌がる卑しい仕事を、彼らに押し付けた所を出発点として、信じられないような成功を収めた人々が一握り出て来たという話です。確かに信じられないような成功を収め、冗談だろ、というロスチャイルド家のような逸話もありますし、現在でも非常に強力な力を握っているようにも思えます。しかし押し付けといて成功したら成功したで許せない、これはフェアではありません。陰謀かどうかは自分にはわかりません。奴らはやっているに違いない、という歴史上繰り返され続けて来た色眼鏡で見てしまう危険が内包されているという事にも敏感であらねばならないのではないかと思います。
実際ユダヤ人と呼ばれている方々が非常に成功を収めている人々が沢山存在する事も事実です。実態がわからないのに、常にそこにいて、しかも表舞台にのぼっている、なんだかよくわからないけれど、もの凄い権力を握っているように見える、人が不安になるのは、情報をコントロール出来ないからでもあります。なんだかわからないのに、確かにそこにいる強烈な存在としてあるように見える、世界の様々な所で、理解不能の恐ろしい出来事が起こる、そういう様々な事象をあるキーワード、黒幕説という繋がりでひも解いてみると、情報をコントロールしているような錯覚に陥る。有り得ないと言いたいわけではありませんし、自分もありそうだなと思っている話も沢山あります。強力な権力を握っていて多くの人々を苦しめているようにも見えます。しかし、一歩間違えると、それは神への依存と変わらなくなります。神への依存は別にそれで救いが得られるのなら悪い事ではありません。しかしそれを旗印にして他者を断罪する振る舞いと紙一重だという事は忘れてはならないと思います。複雑な世の中の様々な力学によって、合成の誤謬によって、解決不能のどうにもならなさが、何か原因を設定する事によって、取り除く事が可能だと錯覚出来るものでもあるという非常に危険な思想と裏表でもあります。
現にそういった情報を手に入れている方々が、それを知らずに生きている方々に対して、蔑みの言葉で攻撃したりするコミュニケーションになってしまったりもします。あっち側の人間ではなく、自分もこちら側の人間なんだと何か選別する基準を自らが設けて、実存を満たすと言う行為が、愛国心の鍔迫り合い、北東アジアの方々に対する、断固としたコミュニケーション、同じくアメリカに対するもの、左翼に対する侮蔑、右翼に対する嘲笑、そういったものに変じる危険性を常に抱えています。あいつは何々主義者だから信用出来ない、話も聞かない、という風になっていきますと、益々自分の心地いい蛸壺の中に閉じこもって、脆弱な自我に陥ってしまうという危険性を孕んでいます。
話は途中ですが長いので続きます。