武士の一分/木村拓哉

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武士の一分 豪華版/木村拓哉

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武士の一分 豪華版(S) (5万セット限定 3大特典付)/木村拓哉

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グッタリするような話題ばかりのこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。本日のお題は最近DVDで観た映画の話をしたいと思います。山田洋次監督の武士の一分を観ました。今日はそれについてあれこれ書こうと思います。それでははじめます。
三部作の三作目となるこの作品、前作、前々作も観ましたが、一作目の素晴らしさはやはり超えられなかったと感じました。つまらないというわけではありませんが、良くも悪くも普通という感じです。前作、隠し剣鬼の爪と比べると、まあ同じ位の出来だとは思いますが、一作目のたそがれ清兵衛があまりにも素晴らしかった為に、少し期待を持ちすぎていました。前作も、この武士の一分も、邦画に溢れかえっているクソ映画と比べれば間違いなくいい映画だと思うのですが、比べる次元が高くなってしまう為に、輝きを感じる事は出来ませんでした。
キムタクが主演という事で、前作、前々作と比べてどうなのかな、と思っていましたが、目が見えなくなるという設定によって、キムタクの熱い演技、叫ぶ芸もワザとらしくは感じませんでしたし、何よりかっこ良かったです。何と言っても殺陣の出来は想像していたより素晴らしかった。自分はキムタクと同じ年なので、どうしても応援したい気持ちが強く、贔屓目に見てしまうのかもしれませんが、キムタクの演技やたたずまいは素晴らしかったです。
しかし全体としてみますと、予想していた以上のものはありませんでした。無難にまとまってはいますが、特別素晴らしいという感じではなく、普通の娯楽作品という感じでした。テーマとして扱っていたものが面白かったのに、それを生かしきれず、無難にまとめてしまった所が、良くも悪くも普通と感じてしまった所です。テーマとなっている部分をもっと突っ込んで描けば、面白そうなネタだっただけに残念無念という感じです。
知るという事によって生まれる苦しみか、知らぬが仏か、本当はどちらがいいのだろう、という誰しも一度はぶち当たる、人間が昔からぶち当たってきた簡単には答えのでない難しいテーマが根底に流れています。そこにタイトルになっている、武士の一分を通すという事はどういう事なのかが描かれていきます。
武士の一分、面目とか体面とか、名誉とかプライドと言った感じでしょうか。それを傷つけられたとき、武士は死んでもそれを貫く、そう言った感じで、本当にそうだったのかどうかは確認出来ませんが、そうであったと伝えられています。何となくそこに潔さとか、詩のような美しさとか、まあ美学という感じでしょうか。
主人公であるキムタクは、仕事上、いきなり降り掛かってくる理不尽によって、失明してしまいます。しかも誰が悪いという事もなく、たまたま運が悪くそうなります。普通に生きていて、悪い事をしたわけでもなく、ささやかなれど幸せな日々を送って来たのが、襲いかかってくる理不尽によって壊れていきます。主人公自身張り合いのなさに不満を抱えていた、毒味役という仕事、子供達に剣術を教える道場を開くというささやかな夢、そういう日常が、失明によって失ってしまいます。仕事に不満を持ったり、夢を持てるのも、健康であるがゆえの事であり、当たり前に生きて来た日々が、ある日突然何の前ぶれもなしに、絶望によって崩壊していく、これは現代社会にも通じる事で、事故や病気、会社が倒産するとか、クビになるとか、全く自分の力ではどうする事も出来ない理不尽というのがあります。
何で自分がこんな目にあわなきゃならないのか、おそらく全く自分にはどうする事も出来ない理不尽に遭遇した時、人はそう思うものなのでしょう。全部自分の責任で身から出た錆だというのに、そう思ってしまう事もあります。キムタクはそんな容赦のない理不尽によって絶望しますが、最初は静かに耐えます。しかし先行きの不安、生きている甲斐のなさ、自殺しようと考えたり、奥さんに辛く当たったり、次第に絶望を制御出来なくなっていきます。
これは現代にも通じる問題で、人に頼らなければ生きて行けない、誰かの世話にならなければ生活が立ち行かない、多くの状況と重なります。高齢化の問題や介護、身体的な問題でリタイアしてしまった人のケアをどうすればいいのか、物理的に生きている、という事と、生きている甲斐があるか、という事は必ずしも一致するわけではない、そう言った問題も絡んできます。この物語の主人公は人に頼らなくては生きて行けない状況に陥っているだけではなく、闇のなかを生きなくてはならない深い絶望を抱えています。
しかし絶望的に思えた先行きに少し光が差します。生きて行く糧がなくなるのではないかと言う不安、誰かに頼って施しを受けながらしか生きられないと言う悔しさが取り除かれます。絶望的に思えた収入が以前と同じように得る事が出来ると言う、温情的な沙汰によって生活の糧が確保出来たからです。自暴自棄になりつつあったキムタクはせめて収入が維持出来る事によって余裕が生まれ、少し明るさを取り戻します。物理的に生きて行くという条件は一応整った事になるからです。しかしそれでもやはり暗闇のなかを生きなければならず、人に頼って生きねばならないという問題は残り、ただ生きる事は出来るが、生き甲斐を持って生きる事が見いだせません。
そこに更に追い討ちをかけるような事実をキムタクは知る事になります。生活の糧の心配はなくとも、美しい奥さんは、そのうち嫌になって主人公を見捨てるのではないかという猜疑心をどうしても払拭出来ません。彼は奥さんの外出先を下働きの男を使って突き止めてしまいます。そしてその事実は更に主人公を絶望させる決定的なものとなってしまいます。愛する奥さんの浮気。しかも温情的な沙汰によって生活の糧を確保出来たのも、奥さんの浮気相手である上士の島田のはからいによるものだと知ってしまいます。奥さんはキムタクを愛するがゆえに、生活の相談をかねてからの知り合いであった島田に頼むのですが、その境遇と弱みに付け込まれ、密会を重ねてしまったと事情を奥さんから聞きます。キムタクはそれを信じたいという気持ちはあるのですが、どうしても妻を許す事が出来ずに離縁を言い渡します。出て行け、自分の知っている妻は死んだと。
何もかも失ったように見えた主人公ですが、実はその容赦のない絶望によって生き甲斐が生まれます。というより死に甲斐、武士の本分である死ぬ事の為に生きるという感じでしょうか。島田に対する復讐と憎悪によって、武士の一分を立てるという目標が生まれます。皮肉なものですが、剣を鍛え直し、島田を斬るという一点に向けて気迫を取り戻します。しかし目が見えないという圧倒的不利な状況は簡単に克服出来るものではありませんが、以前から鍛えていた剣術と師匠の助言によって、少しずつ目が見えないなりの戦い方をマスターしていきます。ここの所の展開がちょっと急すぎて描き込みが足りなかったように感じますが、そういったアラは後ほど書くとして本筋に戻します。
やがてかつての同僚から決定的な事実を主人公は聞く事になります。主人公に対する温情的な御沙汰は、実は島田の口添えでもなんでもなく、殿様の配慮によるものだという事を知ります。毒味役という仕事ゆえに起こった出来事であり、キムタクの犠牲がなかったら、もっと悲惨な状況になっていた事は間違いなく、その事に配慮して、全く下々の事など気にしていないかのように見えた殿様の人道的な配慮だったという事です。同僚は島田がそんな人の為に口添えなんてするわけがないと言います。自分の立身出世の事しか頭になく、下級の平侍の事など歯牙にもかけてくれるわけないと。
キムタクはその事実を知り怒りが爆発します。彼が許せなかった奥さんも、島田の口車に乗せられて、騙されていたのだという事、怒りは頂点に達し、果たし合いを決意します。島田は剣の達人でもあり、間違いなく死ぬ事になるであるかもしれぬが、せめて一太刀浴びせねば武士の一分が立たんという、覚悟を決めます。中間に果たし合いの口上を島田に伝えるように命じ、決闘に望みます。
島田は自分の剣の腕と相手の目が見えないという圧倒的優位を信じてか、一人で待ち合わせの場所に現れます。クライマックスの殺陣です。島田は予想以上のキムタクの善戦に戸惑い、卑怯な手段を使いますが、からくもキムタクは一太刀を浴びせ、島田が反撃出来ないような深手を負わせます。相手にとどめを刺す事もなく、自分の武士の一分を立てるという事に成功し、死なずに生きながらえる事も出来たキムタクは本懐を遂げた事になります。
果たし合いが世間にバレて、てっきり自分の命も無くなるに違いないと覚悟をしていたキムタクですが、島田が腹を切り口をつぐんだまま自殺してしまう事によって、犯人は見つからず、またまさか目の見えないキムタクがそれをやったなどと誰も思うはずもなく、生きながらえます。片腕に深手を受け、片腕が使えなくなってしまった事によって、武士として剣を握る事の出来ない島田は、目の見えない男に斬られたなどという、武士として恥ずべき振る舞いを誰にも言う事が出来ずに、武士の一分を通し腹を切ってしまいます。卑怯で他人の事など顧みない男と評されていた島田ですが、彼には彼の一分があったのかもしれません。
武士の一分を立てて、己の本懐を遂げたキムタクですが、スッキリしません。復讐という生き甲斐も無くなってしまい、妻のいなくなってしまった状況や、暗闇を生きねばならない己の宿命は結局当たり前ですが何一つ変わりません。キムタクは自問自答します。妻の浮気という事実を知らなければ、妻を失う事もなかったし、島田を斬る事もなかった。知ってしまったが為に妻を捨て、武士の一分を立てる為に、島田の人生も終わらせてしまった。妻の浮気は確かに腹が立つけれど、これで本当に善かったのか?命を奪うほどの事だったのか?許せない自分の小ささが本当は一番の問題ではないのか?しかし知らなかったからと言って、妻の浮気の事実は消えない、知ってしまう事によって自分が行った振る舞いははたして正しかったのか、愛する妻が、自分を思っておかしてしまった過ちなのだから、それを許していればこんな事にはならなかったのではないか。
これは古代から延々と考えられつづけてきた、人類の根源的な不滅の命題です。人は認知的バランス理論によってと申しましょうか、嫌な事は見たくない、知って苦しむのなら知らない方が幸せなのではないか、知っても現実は変わらないしどうにもならないのなら、知らない方が楽だ、我々が生きている現代でもそこら中に溢れかえっている問題です。見たくない真実をディナイアルする事によって、心の平静を保ったり、宗教によって、神やある真理に依存したり、教条的に何かの思想を盲目的に信じ込み他者を排除したり、気に食わない思想を攻撃したり、知る事によって生まれる苦しみにもがきながら、または知らずに楽する事によって、どうにもならない構造を放置しながら、その間で翻弄されたり、彷徨ったりしながら、営んで来たのが人の歴史というわけです。
真実を知り、自分が正しいと思える事を実行したとしても、それが必ずしもいい結果を生み出すとは限らない、この映画の主人公も己の信じる正義、武士の一分と言えばかっこがいいですが、結局、自分の視座から見た正しさでしかありません。武士の一分という自分の名誉やプライド、面目や体面などというものは結局自分勝手な思い込みの正義でしかありません。現実は解釈です。人それぞれの立ち位置によって、様々に違います。己にとって正しい事であったとしても、例えば島田という男にだって家族や友人、そして彼の家に使えるもの達がいるはずで、それらを路頭に迷わしても構わないから己の正義を貫く事が果たして本当にいい事なのか、自分の思い通りに行かないからって、他者を攻撃したり、排除すれば片の付く問題なのか、これは非常に難しい問題です。人類が延々と争いの歴史を繰り広げてきて、いまだにそれを止める事が出来ない愚かさを見ても、根の深さがわかります。他者を排除したり攻撃しても解決にはならない、しかし自分の立場の正しさを通そうと思えば他者を傷つけずにはいられない。
答えは結局わからない、解のない問題なのでしょう。しかし最後に奥さんがキムタクの元に帰って来ます。ここに一つの解決策ではありませんが、誰も傷つけずに済む唯一の方法が描かれています。許しです。他者を許し受け入れるという事、いや人間は神ではありませんから、人を許すとか許さないとか、本来おこがましいものなのかもしれません。愛する人が何か過ちを犯したからと言って、その関係が壊れてしまってはもともこもありません。愛しているがゆえに怒り、愛しているがゆえに苦しむのです。愛している人のありのままを受け入れる、愛しているのなら、関係を維持したいと思うのなら、本来それしか方法はないはずです。相手を思いやり、相手を受け入れる。怒りすぎて関係が破綻してしまったのでは、もっと大きなものを失う事になります。
この世は理不尽や不合理に溢れていて厄介ですし、解のない問題ばかりです。その現実に向き合う為に、人に力を与えてくれるもの、それは結局、人と人との繋がり、信頼関係なのではないか。目の見えない主人公は人に頼らなければ生きられない事に絶望しますが、健康であっても、一人で生きている気になっていたとしても、結局人は一人では生きられません。様々な問題が襲いかかって来る現実で、人と人との繋がりが、希望を見いだし、喜びを分かち合い、幸福に生きる数少ない方法なのではないか。そういう事を感じさせるラストでした。
とまあ深読みするともの凄く深いテーマが描かれているのですが、少し描き込みがたらないように感じました。まずキムタクの剣術の上達の仕方、緒形拳がいきなり出て来たりして、なんか話をはしょりすぎていると感じました。前作、前々作では主人公が最後の戦いに勝つ為の、前フリとして決定的な技術を身につけたり、達人ぶりを描いていたりしたのですが、この作品では全くそこが描かれていません。前半でキムタクのざっくばらんな性格を描いている部分を多少削ってでも、キムタクの強さのエビデンスを描いてほしかったです。目が見えないという三部作中最も窮地に立たされているのに、なんかよく分からないうちに強くなっちゃった感じで、描き込みがたりません。元々素晴らしい剣の腕を持っていたというような事は、説明的セリフによってわかるのですが、目が見えないのに剣の達人を打ち負かすという過程にしては描き方が軽すぎました。
毒味役のの責任者であった小林稔侍さんが責任を取って腹を切るのですが、その事にもあまり触れませんでしたし、主人公が藩主にお目通りするのですが、全く下級武士など歯牙にもかけていない。身分という不合理を、山田洋次さんの日本共産党支持者らしい、図式的な階級社会の不合理を描くのかなと思ったら、実は藩主はいい人で、キムタクに温情をかけてくれたり。そうすると小林稔侍さんが切腹して責任を取った事との整合性がスッキリしない感じもしましたし、世の中スッキリ片付かないものだというのはわかるのですが、もう少しそこらへんを突っ込んで描いてもらわないと、今イチ、誰もその事に触れないのも不自然に感じました。
アラを探すと沢山出て来てしまうのであんまりネガティブな事を書いても仕方がないので止めますが、非常に惜しい作品でした。
最近なんとなく武士の生き様的なものが見直されていたりします。武士の一分と言えば聞こえはいいのですが、それを通すよりもっと大切な事が世の中には沢山あります。武士の一分を立てるという事によって逆説的にその事を描いているのは非常にある意味タイムリーな作品かもしれません。また武士の一分を通す為に命をかけた武士もいたのだろうけれど、そうでない人もいたはずで、あまり美化して考えすぎるのもいかがなものかと感じてましたので、テーマ的にはなかなかいい描き方だったと思います。
山田洋次監督の武士の一分を観て、あれこれ書いてみました。

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三部作の三作目となるこの作品、前作、前々作も観ましたが、一作目の素晴らしさはやはり超えられなかったと感じました。つまらないというわけではありませんが、良くも悪くも普通という感じです。前作、隠し剣鬼の爪と比べると、まあ同じ位の出来だとは思いますが、一作目のたそがれ清兵衛があまりにも素晴らしかった為に、少し期待を持ちすぎていました。前作も、この武士の一分も、邦画に溢れかえっているクソ映画と比べれば間違いなくいい映画だと思うのですが、比べる次元が高くなってしまう為に、輝きを感じる事は出来ませんでした。
キムタクが主演という事で、前作、前々作と比べてどうなのかな、と思っていましたが、目が見えなくなるという設定によって、キムタクの熱い演技、叫ぶ芸もワザとらしくは感じませんでしたし、何よりかっこ良かったです。何と言っても殺陣の出来は想像していたより素晴らしかった。自分はキムタクと同じ年なので、どうしても応援したい気持ちが強く、贔屓目に見てしまうのかもしれませんが、キムタクの演技やたたずまいは素晴らしかったです。
しかし全体としてみますと、予想していた以上のものはありませんでした。無難にまとまってはいますが、特別素晴らしいという感じではなく、普通の娯楽作品という感じでした。テーマとして扱っていたものが面白かったのに、それを生かしきれず、無難にまとめてしまった所が、良くも悪くも普通と感じてしまった所です。テーマとなっている部分をもっと突っ込んで描けば、面白そうなネタだっただけに残念無念という感じです。
知るという事によって生まれる苦しみか、知らぬが仏か、本当はどちらがいいのだろう、という誰しも一度はぶち当たる、人間が昔からぶち当たってきた簡単には答えのでない難しいテーマが根底に流れています。そこにタイトルになっている、武士の一分を通すという事はどういう事なのかが描かれていきます。
武士の一分、面目とか体面とか、名誉とかプライドと言った感じでしょうか。それを傷つけられたとき、武士は死んでもそれを貫く、そう言った感じで、本当にそうだったのかどうかは確認出来ませんが、そうであったと伝えられています。何となくそこに潔さとか、詩のような美しさとか、まあ美学という感じでしょうか。
主人公であるキムタクは、仕事上、いきなり降り掛かってくる理不尽によって、失明してしまいます。しかも誰が悪いという事もなく、たまたま運が悪くそうなります。普通に生きていて、悪い事をしたわけでもなく、ささやかなれど幸せな日々を送って来たのが、襲いかかってくる理不尽によって壊れていきます。主人公自身張り合いのなさに不満を抱えていた、毒味役という仕事、子供達に剣術を教える道場を開くというささやかな夢、そういう日常が、失明によって失ってしまいます。仕事に不満を持ったり、夢を持てるのも、健康であるがゆえの事であり、当たり前に生きて来た日々が、ある日突然何の前ぶれもなしに、絶望によって崩壊していく、これは現代社会にも通じる事で、事故や病気、会社が倒産するとか、クビになるとか、全く自分の力ではどうする事も出来ない理不尽というのがあります。
何で自分がこんな目にあわなきゃならないのか、おそらく全く自分にはどうする事も出来ない理不尽に遭遇した時、人はそう思うものなのでしょう。全部自分の責任で身から出た錆だというのに、そう思ってしまう事もあります。キムタクはそんな容赦のない理不尽によって絶望しますが、最初は静かに耐えます。しかし先行きの不安、生きている甲斐のなさ、自殺しようと考えたり、奥さんに辛く当たったり、次第に絶望を制御出来なくなっていきます。
これは現代にも通じる問題で、人に頼らなければ生きて行けない、誰かの世話にならなければ生活が立ち行かない、多くの状況と重なります。高齢化の問題や介護、身体的な問題でリタイアしてしまった人のケアをどうすればいいのか、物理的に生きている、という事と、生きている甲斐があるか、という事は必ずしも一致するわけではない、そう言った問題も絡んできます。この物語の主人公は人に頼らなくては生きて行けない状況に陥っているだけではなく、闇のなかを生きなくてはならない深い絶望を抱えています。
しかし絶望的に思えた先行きに少し光が差します。生きて行く糧がなくなるのではないかと言う不安、誰かに頼って施しを受けながらしか生きられないと言う悔しさが取り除かれます。絶望的に思えた収入が以前と同じように得る事が出来ると言う、温情的な沙汰によって生活の糧が確保出来たからです。自暴自棄になりつつあったキムタクはせめて収入が維持出来る事によって余裕が生まれ、少し明るさを取り戻します。物理的に生きて行くという条件は一応整った事になるからです。しかしそれでもやはり暗闇のなかを生きなければならず、人に頼って生きねばならないという問題は残り、ただ生きる事は出来るが、生き甲斐を持って生きる事が見いだせません。
そこに更に追い討ちをかけるような事実をキムタクは知る事になります。生活の糧の心配はなくとも、美しい奥さんは、そのうち嫌になって主人公を見捨てるのではないかという猜疑心をどうしても払拭出来ません。彼は奥さんの外出先を下働きの男を使って突き止めてしまいます。そしてその事実は更に主人公を絶望させる決定的なものとなってしまいます。愛する奥さんの浮気。しかも温情的な沙汰によって生活の糧を確保出来たのも、奥さんの浮気相手である上士の島田のはからいによるものだと知ってしまいます。奥さんはキムタクを愛するがゆえに、生活の相談をかねてからの知り合いであった島田に頼むのですが、その境遇と弱みに付け込まれ、密会を重ねてしまったと事情を奥さんから聞きます。キムタクはそれを信じたいという気持ちはあるのですが、どうしても妻を許す事が出来ずに離縁を言い渡します。出て行け、自分の知っている妻は死んだと。
何もかも失ったように見えた主人公ですが、実はその容赦のない絶望によって生き甲斐が生まれます。というより死に甲斐、武士の本分である死ぬ事の為に生きるという感じでしょうか。島田に対する復讐と憎悪によって、武士の一分を立てるという目標が生まれます。皮肉なものですが、剣を鍛え直し、島田を斬るという一点に向けて気迫を取り戻します。しかし目が見えないという圧倒的不利な状況は簡単に克服出来るものではありませんが、以前から鍛えていた剣術と師匠の助言によって、少しずつ目が見えないなりの戦い方をマスターしていきます。ここの所の展開がちょっと急すぎて描き込みが足りなかったように感じますが、そういったアラは後ほど書くとして本筋に戻します。
やがてかつての同僚から決定的な事実を主人公は聞く事になります。主人公に対する温情的な御沙汰は、実は島田の口添えでもなんでもなく、殿様の配慮によるものだという事を知ります。毒味役という仕事ゆえに起こった出来事であり、キムタクの犠牲がなかったら、もっと悲惨な状況になっていた事は間違いなく、その事に配慮して、全く下々の事など気にしていないかのように見えた殿様の人道的な配慮だったという事です。同僚は島田がそんな人の為に口添えなんてするわけがないと言います。自分の立身出世の事しか頭になく、下級の平侍の事など歯牙にもかけてくれるわけないと。
キムタクはその事実を知り怒りが爆発します。彼が許せなかった奥さんも、島田の口車に乗せられて、騙されていたのだという事、怒りは頂点に達し、果たし合いを決意します。島田は剣の達人でもあり、間違いなく死ぬ事になるであるかもしれぬが、せめて一太刀浴びせねば武士の一分が立たんという、覚悟を決めます。中間に果たし合いの口上を島田に伝えるように命じ、決闘に望みます。
島田は自分の剣の腕と相手の目が見えないという圧倒的優位を信じてか、一人で待ち合わせの場所に現れます。クライマックスの殺陣です。島田は予想以上のキムタクの善戦に戸惑い、卑怯な手段を使いますが、からくもキムタクは一太刀を浴びせ、島田が反撃出来ないような深手を負わせます。相手にとどめを刺す事もなく、自分の武士の一分を立てるという事に成功し、死なずに生きながらえる事も出来たキムタクは本懐を遂げた事になります。
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武士の一分を立てて、己の本懐を遂げたキムタクですが、スッキリしません。復讐という生き甲斐も無くなってしまい、妻のいなくなってしまった状況や、暗闇を生きねばならない己の宿命は結局当たり前ですが何一つ変わりません。キムタクは自問自答します。妻の浮気という事実を知らなければ、妻を失う事もなかったし、島田を斬る事もなかった。知ってしまったが為に妻を捨て、武士の一分を立てる為に、島田の人生も終わらせてしまった。妻の浮気は確かに腹が立つけれど、これで本当に善かったのか?命を奪うほどの事だったのか?許せない自分の小ささが本当は一番の問題ではないのか?しかし知らなかったからと言って、妻の浮気の事実は消えない、知ってしまう事によって自分が行った振る舞いははたして正しかったのか、愛する妻が、自分を思っておかしてしまった過ちなのだから、それを許していればこんな事にはならなかったのではないか。
これは古代から延々と考えられつづけてきた、人類の根源的な不滅の命題です。人は認知的バランス理論によってと申しましょうか、嫌な事は見たくない、知って苦しむのなら知らない方が幸せなのではないか、知っても現実は変わらないしどうにもならないのなら、知らない方が楽だ、我々が生きている現代でもそこら中に溢れかえっている問題です。見たくない真実をディナイアルする事によって、心の平静を保ったり、宗教によって、神やある真理に依存したり、教条的に何かの思想を盲目的に信じ込み他者を排除したり、気に食わない思想を攻撃したり、知る事によって生まれる苦しみにもがきながら、または知らずに楽する事によって、どうにもならない構造を放置しながら、その間で翻弄されたり、彷徨ったりしながら、営んで来たのが人の歴史というわけです。
真実を知り、自分が正しいと思える事を実行したとしても、それが必ずしもいい結果を生み出すとは限らない、この映画の主人公も己の信じる正義、武士の一分と言えばかっこがいいですが、結局、自分の視座から見た正しさでしかありません。武士の一分という自分の名誉やプライド、面目や体面などというものは結局自分勝手な思い込みの正義でしかありません。現実は解釈です。人それぞれの立ち位置によって、様々に違います。己にとって正しい事であったとしても、例えば島田という男にだって家族や友人、そして彼の家に使えるもの達がいるはずで、それらを路頭に迷わしても構わないから己の正義を貫く事が果たして本当にいい事なのか、自分の思い通りに行かないからって、他者を攻撃したり、排除すれば片の付く問題なのか、これは非常に難しい問題です。人類が延々と争いの歴史を繰り広げてきて、いまだにそれを止める事が出来ない愚かさを見ても、根の深さがわかります。他者を排除したり攻撃しても解決にはならない、しかし自分の立場の正しさを通そうと思えば他者を傷つけずにはいられない。
答えは結局わからない、解のない問題なのでしょう。しかし最後に奥さんがキムタクの元に帰って来ます。ここに一つの解決策ではありませんが、誰も傷つけずに済む唯一の方法が描かれています。許しです。他者を許し受け入れるという事、いや人間は神ではありませんから、人を許すとか許さないとか、本来おこがましいものなのかもしれません。愛する人が何か過ちを犯したからと言って、その関係が壊れてしまってはもともこもありません。愛しているがゆえに怒り、愛しているがゆえに苦しむのです。愛している人のありのままを受け入れる、愛しているのなら、関係を維持したいと思うのなら、本来それしか方法はないはずです。相手を思いやり、相手を受け入れる。怒りすぎて関係が破綻してしまったのでは、もっと大きなものを失う事になります。
この世は理不尽や不合理に溢れていて厄介ですし、解のない問題ばかりです。その現実に向き合う為に、人に力を与えてくれるもの、それは結局、人と人との繋がり、信頼関係なのではないか。目の見えない主人公は人に頼らなければ生きられない事に絶望しますが、健康であっても、一人で生きている気になっていたとしても、結局人は一人では生きられません。様々な問題が襲いかかって来る現実で、人と人との繋がりが、希望を見いだし、喜びを分かち合い、幸福に生きる数少ない方法なのではないか。そういう事を感じさせるラストでした。
とまあ深読みするともの凄く深いテーマが描かれているのですが、少し描き込みがたらないように感じました。まずキムタクの剣術の上達の仕方、緒形拳がいきなり出て来たりして、なんか話をはしょりすぎていると感じました。前作、前々作では主人公が最後の戦いに勝つ為の、前フリとして決定的な技術を身につけたり、達人ぶりを描いていたりしたのですが、この作品では全くそこが描かれていません。前半でキムタクのざっくばらんな性格を描いている部分を多少削ってでも、キムタクの強さのエビデンスを描いてほしかったです。目が見えないという三部作中最も窮地に立たされているのに、なんかよく分からないうちに強くなっちゃった感じで、描き込みがたりません。元々素晴らしい剣の腕を持っていたというような事は、説明的セリフによってわかるのですが、目が見えないのに剣の達人を打ち負かすという過程にしては描き方が軽すぎました。
毒味役のの責任者であった小林稔侍さんが責任を取って腹を切るのですが、その事にもあまり触れませんでしたし、主人公が藩主にお目通りするのですが、全く下級武士など歯牙にもかけていない。身分という不合理を、山田洋次さんの日本共産党支持者らしい、図式的な階級社会の不合理を描くのかなと思ったら、実は藩主はいい人で、キムタクに温情をかけてくれたり。そうすると小林稔侍さんが切腹して責任を取った事との整合性がスッキリしない感じもしましたし、世の中スッキリ片付かないものだというのはわかるのですが、もう少しそこらへんを突っ込んで描いてもらわないと、今イチ、誰もその事に触れないのも不自然に感じました。
アラを探すと沢山出て来てしまうのであんまりネガティブな事を書いても仕方がないので止めますが、非常に惜しい作品でした。
最近なんとなく武士の生き様的なものが見直されていたりします。武士の一分と言えば聞こえはいいのですが、それを通すよりもっと大切な事が世の中には沢山あります。武士の一分を立てるという事によって逆説的にその事を描いているのは非常にある意味タイムリーな作品かもしれません。また武士の一分を通す為に命をかけた武士もいたのだろうけれど、そうでない人もいたはずで、あまり美化して考えすぎるのもいかがなものかと感じてましたので、テーマ的にはなかなかいい描き方だったと思います。
山田洋次監督の武士の一分を観て、あれこれ書いてみました。