●森田必勝、「俺の恋人、誰かと思う。神のつくりし日本国」
●サミュエル・ジョンソン、「愛国心はならず者の最後の避難場所である」
●田中卓、「皇族の御意志というなら、第一に天皇陛下の御叡慮こそ」
●三島由紀夫、「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限る事は無い」
「愛国心は嫌いだ」
前回がアニメ版、時をかける少女、少し前に、プラダを着た悪魔、そして今日が、新右翼、民族派、一水会元代表の鈴木邦男さん著、愛国者は信用できるか。
段々方向性が意味不明になりつつあるような気がしますが、今日はそれについて書こうと思います。
愛国者は信用できるか/鈴木 邦男

¥735
Amazon.co.jp
最近右傾化だとか、愛国心とか、一時期よりは熱も冷めたと思いますが、安倍総理の事を右とか、保守とか、勘違いしている人も多く、この本はそういったインチキ右翼やインチキ愛国心ではなく、本来あるべき右翼的な思想とは何か、愛国心や愛国者というのはどう振る舞うべきあり、どういう人を指すのか、わかりやすく書かれています。
自称日本一の愛国者、世界一の愛国者と自負する著者が、本当の愛国心を教えてやるという感じで始まるのですが、御自分の愛国心もいい加減だったという反省にもなっている。愛国運動をずっと続けて来た人間でさえ、愛国心を正しく持ち、本当の愛国者として振る舞い続けるのは簡単な事ではないという事をよく分からせてくれます。
いろいろと恐ろしいイメージや武勇伝を聞く、鈴木邦男さんですが、テレビなどに出て来たりすると、本当に同一人物なのかというほど、ニコニコ人の良さそうな笑顔で物腰も柔らかく、逆にビックリしてしまった記憶があります。この本に書かれてある事などを読むと、メディアなどが大騒ぎした右傾化や、政治家などがほざいている愛国心などは、本来の右的な思想からすれば相当ずれてしまっていて、鈴木さん的な物言いはそういう今的な右傾化や愛国心からすれば、よっぽど常識的で中道的で、普通の当たり前を言っています。
愛国心という言葉の元に、鍔迫り合いをして、愛国心の量を競ったり、他人の愛国心の足りなさを断罪したり、左的な思想を反日的だという理由で不寛容になったり、北東アジアの奴らが気に食わないから、強気の姿勢で威張り散らし、謙虚な心を忘れてしまっている。右だろうが左だろうが、日本人が本来持っていた道徳的な善さを忘れて、愛国者もクソも無いだろうと。
愛国という下駄を履き、周りに居丈高になるのは、愛国心があればはたして許される事なのか?自分と違う意見や、違う思想だからと言って、よく意見も聞かず頭ごなしに否定するのではなく、多種多様な意見があるのは当たり前で、他者の意見を聞き、よりよき国にしていく事こそ愛国であり、国民にとって良い国にする事こそ、本来の右的な発想なのではないか。そういう意味では方法論こそ違え、左的な思想だって、国民がより良く暮らす為の方法論であるはず。国家権力が利用する愛国は胡散臭くなりがちだから、注意が必要なのではないか。右も左も、国家権力側の人間が人々を動員する為のツールとして悪用している事こそ問題なのではないか。そういう当たり前ですが、右翼思想というより、日本人として、筋の通った常識的なバランスの取れた心構えが書かれています。
右翼の重鎮がこんな事を書かなければならない、この国の病んだ現状は厄介極まりないと思いますが、かつて三島由紀夫が左翼学生達と議論し、天皇と一言言ってくれたら共闘出来る、と言ったように、現状のインチキ愛国心や、にわか右翼に、右翼の大物が、優しく諭しているような、そんな文章でした。右翼としてというよりまともな大人とはどういう事か、という感じで。
そう考えるとこんな事をこの人が言わなければならない状況は、三島が左翼学生を諭していた時代より、著しく劣化しているのかもしれません。それは当時学生運動に奔走していながら、その事を若気の至りだと達観し、様々なアーキテクチャーを設計する側に回っている、この国の舵取りをされている方々の責任でもあると思います。バブルと言う幻想によって、この国の反映を食い潰し、本来守らなければならないはずのヘリテージを、右も左も若い世代に語り継いでいません。完全なアプレゲールと化している。かつての学生運動だって、アプレゲール的であった事は事実かもしれませんが、守るべきものがなんなのか、そういう核になる部分はきちんと残っていたはず。それが今では完全に、表層的なお花畑的、お涙頂戴的反戦平和や、下駄を履き、柱にすがる愛国心しか残っておらず、何の為の闘争のリソースだったのかという事が、我が国の最も悪しき弊害である忘却癖によって、遥か彼方に忘れ去られてしまっています。そういう事へのおとしまえを著者はつけようと、責任を取ろうと、ヘリテージを伝えようとしているように読めます。また著者が全力でぶつかるべく左翼が完全に死んでしまっている。もはや著者が本気になってカウンターパートを努めるべき相手が存在していない寂しさも、読んでいて感じました。愛国というより、憂国の思いを持つ人々が、右にも左にも殆どいなくなってしまった。そういう歯痒さもあるのではないかと感じました。
TVタックル的な番組で、表層的な左右の対立を流す。国民も多くが勘違いしてしまっている部分もあると思います。左的な言説は完全に死に絶え、もはや残っているのは空疎な反戦平和を叫べば平和になると勘違いしている幼児並みの平和主義しかありません。それを面白おかしく叩く事によってスッキリ感を得る。またそういった平和主義者が少なからず再生産され、非武装中立反戦平和を騒ぎ立てる事によって、北東アジアの方々のみならず、アメリカにとってのリソースにもなってしまっている。自立する為の武装という選択肢に反対する連中がいる以上、アメリカ依存からは脱却出来ない。かつての左翼も確かに空疎な反戦平和を叫んでいたとは言えますが、アメリカが無体な要求を突き付ける事に対して、革命を起こし自立するぞというアメリカとの交渉のリソースとなったのに比べれば、自立する気もないし、革命なんて起こす気もない、戦後的な繁栄の上で大量消費社会を満喫しながら、ただ平和と叫べば平和になると勘違いしている。そういう連中が自立する為に必要な事をちゃんと社会にプレゼンテーションできず、甘えた現状のままで理想を思えば理想が叶う、夢を叫べばそれが実現されるという、自分の足で立つ事を何一つ戦略的に考える事も出来ず、幼稚でバカげた発想から目覚める事が出来なければ、益々アメリカや諸外国にとって都合のいい、依存的な自分の頭では何も考えられず、自分の事は何一つ出来ない国からは成長は出来ません。かつて国家権力のインチキや横暴に対抗する為に、リソースとして使っていた捏造やインチキは、左翼側の方ばかりが残り、国民にバレ、国家権力の嘘や捏造の方が本当は遥かに問題であるはずにも関わらず、身近なスッキリ感が簡単に得られるからなのか、左翼的な嘘捏造には国民も、反日的だ、と厳しい。拠り所になっていたソ連が崩壊し、北朝鮮の実態がバレ、中国が資本主義路線に舵を切ってしまった事により梯子をはずされてしまったというのもあるのだろうが、目的を遂げる為の、方法論が全くない、平和になる為にどうすればいいのかという発想は空疎なものしか残っていない。
それに対して、本来の右翼や保守という発想からすれば全くかけ離れた、今的な右と呼ばれる発想は、そんな叩くほどの価値も無い、幼稚な発想に対して威張り散らし、北東アジアには強気の姿勢を示せても、アメリカ依存のベースからどうすれば自立出来るかという発想は、丸っきり出てこない、アメリカに強気の発言をしても、これも戦後的な繁栄に乗っかった上でただの空論に過ぎず、親のスネをかじっている状態で、親に歯向かっている状態と何ら変わりなく、どうすれば戦略的に自立出来るのかという発想は感じられない。北東アジアやアメリカに威張ってスッキリするのが目的ならば、死ぬまでやっていればいいが、自立する為には駆け引きが重要であり、その為に必要なのは戦略的な思考であるはず。戦略的に諸外国と仲良くしようとしているのかとおもえば、ただ単に依存しているだけだったり。つくる会的、保守の中での、反米、親米での、内ゲバ的状況に陥って鍔迫り合いをして、他者の発言に不寛容であったり。
憲法論議も全く同じで、護憲派は我々が暴走しても、九条が自動的にリミッターとなり戦争を回避してくれるはずだと言う、ありがたく神棚に平和憲法を祭り上げていれば、馬鹿な国民や政治家が何を意思しようとも、平和維持装置として縛ってくれると言う、戦争は一国で出来るものではなく、またこれだけ憲法を好き勝手いい加減にしか考えていない国で、絶対的な装置として機能するはずだなど戯言に過ぎません。結局人が何を意思するのかによって、最終的には決まる事であり、憲法で縛ろうがなんだろうが、この国の民度では無意味。また、憲法が何とかしてくれるはずだという、憲法依存は自立から益々遠ざかるだけであり、何を意思しそれをどう憲法に書きとめ、それを民主国家としていかに守っていくかという民度が育たなければ、永久に自立は不可能でしかない。
対する改正派と言えば、この国が自立する為には憲法を改正し、国際貢献が出来なければ一人前になれないなどという戯言を言っている。アメリカからの自立無くして、一人前の国だなどと思ってくれる国など世界中どこにもあるわけが無い。ようはアメリカさんの都合のいい国になる為に言っているようにしか聞こえず、憲法を改正すれば、自動的に自立した国になるなど、全く同じ意味で護憲派の戯言と変わらない。憲法を改正し一人前の国として認めてもらう為には、アメリカから自立する事はもちろんだが、自立し武装するとなれば、北東アジアの国々を説得しなければならず、もちろんアメリカもそれを簡単に許すはずも無く、その為には戦略的な思考が不可欠であり、それを成す為に憲法改正と言っているようには全く聞こえない、アメリカからの依存状態を脱却せずに、自立もクソも無い。何を意思し、それをどう憲法に書きとめ、守っていくという国民的な合意が無ければ、憲法なんて変えようが護持しようが何も変わらない。
国民投票法案とは、単なる手続き法で、本来もっと早い時期につくっておくべきものであり、あるべき状態が当たり前だなどとほざく、自民系のバカ議員がよく言いますが、改正する為に変えているのは、小学生にだって分かりそうな話であり、それを単なる手続き法だなどと逃げるのは、バカも休み休み言えと言いたくなるほどの詭弁にしか聞こえない。
そんな論点で鍔迫り合いをしている現状の左右対立。勝手に死ぬまでやってろと、無視するには人口が多すぎて、ヘタするとそういった論点のいずれかが社会的なコンセンサスになってしまう可能性もあり、これまた厄介。そういった幼児並みの民度である我が国の現状に対して、この本は、スッキリしたいのはわからないでも無いけれど、少し大人になりなさいよ、そんな感じで言っているように感じました。
もちろん右翼的な本来の思想や歴史も一般人にもわかりやすく書かれています。入門的でもありますが、今の右的と言われる思想が、本来の愛国と言う意味からは相当かけ離れてしまっている事が非常に理路整然とわかるのではないでしょうか。国を好き勝手にいい加減に舵取りしている連中がのさばっていれば、それに対して声を上げる事が愛国心であり、愛国とは本来民衆の側にあるべきもので、国家権力が動員の為に使うものを簡単に信用するのは危険だと。ましてそれを制度化するなど、言語道断なのではないかと。
また天皇論も独特の目線で書かれています。とは言ってもそれほど突っ込んだ話ではありませんが、突っ込んだ話をする前の心構えみたいな事が主に書かれています。非常にバランスの取れた常識的な目線であり、それを踏まえて大いに議論すればよしという感じで、結論は簡単に出る事ではないが、まずそういった議論をする時に表層的な違いで鍔迫り合いをして揉めるのではなく、じっくり議論する事が大切だと。
天皇制というのは、事実かどうかはわきにおきますが、神話の時代から続いている日本独自の制度です。ホメロスのトロイア戦争に出てくるアガメムノンの数代前がゼウスという事になるのだと思いますが、その子孫が今も生きているようなものです。旧約聖書に出てくる、アブラハム、イザアクの子孫が今も生きているような話です。それが事実かどうかそんな野暮な事を言っちゃ身も蓋もありません。そんな事よりそういう神話の時代から続いているとずっと語り継がれて来た血統が連綿と続き、今も存在している。まずその奇跡的な状況を大切にする事は非常に重要なのではないかと思います。もちろんそういう事が納得いかない人もいるのでしょうが、少なくとも、そういう方々が滅ばずに残っているこの国の太古からの知恵、寛容さは守るべきヘリテージなのではないかと思います。
三島由紀夫その人について、著者の目を通して興味深く書かれています。やんごとなきお方とのお見合いの話もしっかりのっています。三島が憂いていた状況にこの国が陥ってしまい、三島に対する申し訳なさやうしろめたさも読み取れ、その意思をちゃんと後世に伝えなければという部分は非常に感銘を受け面白かったです。また左翼的な闘争をしていた方々が根底に持っていた意思もちゃんと汲み取ろうとしている姿勢には敬服します。なぜ行動を起こしたのか。確かに犯罪として切って捨ててしまうような先頃のアメリカの銃乱射事件の犯人のような幼稚な発想ではなく、国を憂いて起こす行動は、バカげた行動かもしれないが、思想としては分からない話ではない、本気で国を愛するがゆえに行動を起こさずにはいられない、それも愛国心、憂国の一つの形であり、愛国心を養えと国家が命令している現在、その事を我々は肝に命じなければならない事なのかもしれないと思いました。国を愛するとは、どういう事なのか。
三島が天皇陛下の人間宣言について怨み節を書いた事に対して、著者の目線での解釈が書かれています。その部分はあえて深く突っ込まなかったのだとは思いますが、自分も非常に気になる部分でもあります。なぜ天皇陛下が高貴な存在として残っていてほしいと三島は考えたのか。
この国は天皇を中心として、玉として常に歴史が動き、悪く言えば利用して、古い権力が新しいものに生まれ変わる状況を、歴史上何度も繰り返して来ました。戦後GHQによってこの国の体制は変えられますが、その時でさえ天皇は象徴として残し、天皇を中心として国が変わりました。天皇陛下万歳は明治の元勲達が、薩摩や会津の愛郷心をモデルにして形作ったものでしかありませんが、天皇陛下がいたおかげで、スターリンやヒトラー、ムッソリーニのような独裁者が生まれる土壌はありませんでしたし、軍国主義と言っても議会はあったわけです。民主主義や資本主義を導入する為には、欧米のような予定説の神が必要であり、この国はそれがありませんでしたから、その柱として利用した部分もあったと思います。
しかし天皇陛下は人間宣言してしまった。民主主義に無くてはならない柱が無くなってしまい、アメリカ的な宗教的良心も元々無いし、ヨーロッパのような階級社会もない。中国のように歴史に対する信仰も無いし、イスラム圏のように神もいない。原理原則が無くなってしまった。
民主主義として、当然あるべき抵抗権としての革命権はこの国にも民主主義である以上、一応存在している事にはなっているのでしょうが、それを支えるものも何も無いし、アメリカのような武装権も無い。日本が古来から新しく生まれ変わる時に中心となっていた玉としての天皇は人間宣言してしまった。という事は、どんなにいい加減な統治権力であったとしても未来永劫変革する為に必要なリソースは何も無く、また原理原則もすべて捨て去ってしまった。そういう状況を三島は憂いていたのではないかと感じます。だから政治にも全く緊張感が無くなってしまっている。議会制民主主義というのは、本当に政治のわかる優秀な人々が国民の代表になる事によって、ポピュリズム的に舵取りを間違える可能性を回避する為には非常に優れた政治制度であるはずです。しかし現状では完璧なポピュリズム政治に陥っている。
革命なんて物騒な話を例にとるのは大袈裟かもしれませんが、愛国心を煽るという事は、政治家にとってもフリーハンドを失いかねない非常に難しい問題です。そこまで考えてこの国の政治家達が言っているようには、残念ながら見えません。安倍さんがお手本にしている、中曽根元総理だって愛国心を憲法に入れるべきだとか言っていますが、そもそもあの人、アメリカからの圧力に屈し内需拡大をやって、バブルを起こした張本人です。そんな輩が愛国心などと言っているのはネタで受けをねらって言っているのなら笑って済ます事も出来ますが、そういう風には聞こえません。
著者が言うように、愛国心は心の中で持っていればいいもので、口に出せば嘘になってしまう儚いものでしかないのかもしれません。大きな声で威張り散らす為、己を大きく見せる為に叫ぶのではなく、どうしても口に出さねばならぬときは小声でそっと言うべきものなのかもしれません。
鈴木邦男さんの、愛国者は信用できるか、を読みあれこれと書いてみました。鈴木さん的に言えば、ブログで匿名で文章を書いている事こそ卑怯な振る舞いなのかもしれません。ごめんなさい。
●サミュエル・ジョンソン、「愛国心はならず者の最後の避難場所である」
●田中卓、「皇族の御意志というなら、第一に天皇陛下の御叡慮こそ」
●三島由紀夫、「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限る事は無い」
「愛国心は嫌いだ」
前回がアニメ版、時をかける少女、少し前に、プラダを着た悪魔、そして今日が、新右翼、民族派、一水会元代表の鈴木邦男さん著、愛国者は信用できるか。
段々方向性が意味不明になりつつあるような気がしますが、今日はそれについて書こうと思います。
愛国者は信用できるか/鈴木 邦男

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最近右傾化だとか、愛国心とか、一時期よりは熱も冷めたと思いますが、安倍総理の事を右とか、保守とか、勘違いしている人も多く、この本はそういったインチキ右翼やインチキ愛国心ではなく、本来あるべき右翼的な思想とは何か、愛国心や愛国者というのはどう振る舞うべきあり、どういう人を指すのか、わかりやすく書かれています。
自称日本一の愛国者、世界一の愛国者と自負する著者が、本当の愛国心を教えてやるという感じで始まるのですが、御自分の愛国心もいい加減だったという反省にもなっている。愛国運動をずっと続けて来た人間でさえ、愛国心を正しく持ち、本当の愛国者として振る舞い続けるのは簡単な事ではないという事をよく分からせてくれます。
いろいろと恐ろしいイメージや武勇伝を聞く、鈴木邦男さんですが、テレビなどに出て来たりすると、本当に同一人物なのかというほど、ニコニコ人の良さそうな笑顔で物腰も柔らかく、逆にビックリしてしまった記憶があります。この本に書かれてある事などを読むと、メディアなどが大騒ぎした右傾化や、政治家などがほざいている愛国心などは、本来の右的な思想からすれば相当ずれてしまっていて、鈴木さん的な物言いはそういう今的な右傾化や愛国心からすれば、よっぽど常識的で中道的で、普通の当たり前を言っています。
愛国心という言葉の元に、鍔迫り合いをして、愛国心の量を競ったり、他人の愛国心の足りなさを断罪したり、左的な思想を反日的だという理由で不寛容になったり、北東アジアの奴らが気に食わないから、強気の姿勢で威張り散らし、謙虚な心を忘れてしまっている。右だろうが左だろうが、日本人が本来持っていた道徳的な善さを忘れて、愛国者もクソも無いだろうと。
愛国という下駄を履き、周りに居丈高になるのは、愛国心があればはたして許される事なのか?自分と違う意見や、違う思想だからと言って、よく意見も聞かず頭ごなしに否定するのではなく、多種多様な意見があるのは当たり前で、他者の意見を聞き、よりよき国にしていく事こそ愛国であり、国民にとって良い国にする事こそ、本来の右的な発想なのではないか。そういう意味では方法論こそ違え、左的な思想だって、国民がより良く暮らす為の方法論であるはず。国家権力が利用する愛国は胡散臭くなりがちだから、注意が必要なのではないか。右も左も、国家権力側の人間が人々を動員する為のツールとして悪用している事こそ問題なのではないか。そういう当たり前ですが、右翼思想というより、日本人として、筋の通った常識的なバランスの取れた心構えが書かれています。
右翼の重鎮がこんな事を書かなければならない、この国の病んだ現状は厄介極まりないと思いますが、かつて三島由紀夫が左翼学生達と議論し、天皇と一言言ってくれたら共闘出来る、と言ったように、現状のインチキ愛国心や、にわか右翼に、右翼の大物が、優しく諭しているような、そんな文章でした。右翼としてというよりまともな大人とはどういう事か、という感じで。
そう考えるとこんな事をこの人が言わなければならない状況は、三島が左翼学生を諭していた時代より、著しく劣化しているのかもしれません。それは当時学生運動に奔走していながら、その事を若気の至りだと達観し、様々なアーキテクチャーを設計する側に回っている、この国の舵取りをされている方々の責任でもあると思います。バブルと言う幻想によって、この国の反映を食い潰し、本来守らなければならないはずのヘリテージを、右も左も若い世代に語り継いでいません。完全なアプレゲールと化している。かつての学生運動だって、アプレゲール的であった事は事実かもしれませんが、守るべきものがなんなのか、そういう核になる部分はきちんと残っていたはず。それが今では完全に、表層的なお花畑的、お涙頂戴的反戦平和や、下駄を履き、柱にすがる愛国心しか残っておらず、何の為の闘争のリソースだったのかという事が、我が国の最も悪しき弊害である忘却癖によって、遥か彼方に忘れ去られてしまっています。そういう事へのおとしまえを著者はつけようと、責任を取ろうと、ヘリテージを伝えようとしているように読めます。また著者が全力でぶつかるべく左翼が完全に死んでしまっている。もはや著者が本気になってカウンターパートを努めるべき相手が存在していない寂しさも、読んでいて感じました。愛国というより、憂国の思いを持つ人々が、右にも左にも殆どいなくなってしまった。そういう歯痒さもあるのではないかと感じました。
TVタックル的な番組で、表層的な左右の対立を流す。国民も多くが勘違いしてしまっている部分もあると思います。左的な言説は完全に死に絶え、もはや残っているのは空疎な反戦平和を叫べば平和になると勘違いしている幼児並みの平和主義しかありません。それを面白おかしく叩く事によってスッキリ感を得る。またそういった平和主義者が少なからず再生産され、非武装中立反戦平和を騒ぎ立てる事によって、北東アジアの方々のみならず、アメリカにとってのリソースにもなってしまっている。自立する為の武装という選択肢に反対する連中がいる以上、アメリカ依存からは脱却出来ない。かつての左翼も確かに空疎な反戦平和を叫んでいたとは言えますが、アメリカが無体な要求を突き付ける事に対して、革命を起こし自立するぞというアメリカとの交渉のリソースとなったのに比べれば、自立する気もないし、革命なんて起こす気もない、戦後的な繁栄の上で大量消費社会を満喫しながら、ただ平和と叫べば平和になると勘違いしている。そういう連中が自立する為に必要な事をちゃんと社会にプレゼンテーションできず、甘えた現状のままで理想を思えば理想が叶う、夢を叫べばそれが実現されるという、自分の足で立つ事を何一つ戦略的に考える事も出来ず、幼稚でバカげた発想から目覚める事が出来なければ、益々アメリカや諸外国にとって都合のいい、依存的な自分の頭では何も考えられず、自分の事は何一つ出来ない国からは成長は出来ません。かつて国家権力のインチキや横暴に対抗する為に、リソースとして使っていた捏造やインチキは、左翼側の方ばかりが残り、国民にバレ、国家権力の嘘や捏造の方が本当は遥かに問題であるはずにも関わらず、身近なスッキリ感が簡単に得られるからなのか、左翼的な嘘捏造には国民も、反日的だ、と厳しい。拠り所になっていたソ連が崩壊し、北朝鮮の実態がバレ、中国が資本主義路線に舵を切ってしまった事により梯子をはずされてしまったというのもあるのだろうが、目的を遂げる為の、方法論が全くない、平和になる為にどうすればいいのかという発想は空疎なものしか残っていない。
それに対して、本来の右翼や保守という発想からすれば全くかけ離れた、今的な右と呼ばれる発想は、そんな叩くほどの価値も無い、幼稚な発想に対して威張り散らし、北東アジアには強気の姿勢を示せても、アメリカ依存のベースからどうすれば自立出来るかという発想は、丸っきり出てこない、アメリカに強気の発言をしても、これも戦後的な繁栄に乗っかった上でただの空論に過ぎず、親のスネをかじっている状態で、親に歯向かっている状態と何ら変わりなく、どうすれば戦略的に自立出来るのかという発想は感じられない。北東アジアやアメリカに威張ってスッキリするのが目的ならば、死ぬまでやっていればいいが、自立する為には駆け引きが重要であり、その為に必要なのは戦略的な思考であるはず。戦略的に諸外国と仲良くしようとしているのかとおもえば、ただ単に依存しているだけだったり。つくる会的、保守の中での、反米、親米での、内ゲバ的状況に陥って鍔迫り合いをして、他者の発言に不寛容であったり。
憲法論議も全く同じで、護憲派は我々が暴走しても、九条が自動的にリミッターとなり戦争を回避してくれるはずだと言う、ありがたく神棚に平和憲法を祭り上げていれば、馬鹿な国民や政治家が何を意思しようとも、平和維持装置として縛ってくれると言う、戦争は一国で出来るものではなく、またこれだけ憲法を好き勝手いい加減にしか考えていない国で、絶対的な装置として機能するはずだなど戯言に過ぎません。結局人が何を意思するのかによって、最終的には決まる事であり、憲法で縛ろうがなんだろうが、この国の民度では無意味。また、憲法が何とかしてくれるはずだという、憲法依存は自立から益々遠ざかるだけであり、何を意思しそれをどう憲法に書きとめ、それを民主国家としていかに守っていくかという民度が育たなければ、永久に自立は不可能でしかない。
対する改正派と言えば、この国が自立する為には憲法を改正し、国際貢献が出来なければ一人前になれないなどという戯言を言っている。アメリカからの自立無くして、一人前の国だなどと思ってくれる国など世界中どこにもあるわけが無い。ようはアメリカさんの都合のいい国になる為に言っているようにしか聞こえず、憲法を改正すれば、自動的に自立した国になるなど、全く同じ意味で護憲派の戯言と変わらない。憲法を改正し一人前の国として認めてもらう為には、アメリカから自立する事はもちろんだが、自立し武装するとなれば、北東アジアの国々を説得しなければならず、もちろんアメリカもそれを簡単に許すはずも無く、その為には戦略的な思考が不可欠であり、それを成す為に憲法改正と言っているようには全く聞こえない、アメリカからの依存状態を脱却せずに、自立もクソも無い。何を意思し、それをどう憲法に書きとめ、守っていくという国民的な合意が無ければ、憲法なんて変えようが護持しようが何も変わらない。
国民投票法案とは、単なる手続き法で、本来もっと早い時期につくっておくべきものであり、あるべき状態が当たり前だなどとほざく、自民系のバカ議員がよく言いますが、改正する為に変えているのは、小学生にだって分かりそうな話であり、それを単なる手続き法だなどと逃げるのは、バカも休み休み言えと言いたくなるほどの詭弁にしか聞こえない。
そんな論点で鍔迫り合いをしている現状の左右対立。勝手に死ぬまでやってろと、無視するには人口が多すぎて、ヘタするとそういった論点のいずれかが社会的なコンセンサスになってしまう可能性もあり、これまた厄介。そういった幼児並みの民度である我が国の現状に対して、この本は、スッキリしたいのはわからないでも無いけれど、少し大人になりなさいよ、そんな感じで言っているように感じました。
もちろん右翼的な本来の思想や歴史も一般人にもわかりやすく書かれています。入門的でもありますが、今の右的と言われる思想が、本来の愛国と言う意味からは相当かけ離れてしまっている事が非常に理路整然とわかるのではないでしょうか。国を好き勝手にいい加減に舵取りしている連中がのさばっていれば、それに対して声を上げる事が愛国心であり、愛国とは本来民衆の側にあるべきもので、国家権力が動員の為に使うものを簡単に信用するのは危険だと。ましてそれを制度化するなど、言語道断なのではないかと。
また天皇論も独特の目線で書かれています。とは言ってもそれほど突っ込んだ話ではありませんが、突っ込んだ話をする前の心構えみたいな事が主に書かれています。非常にバランスの取れた常識的な目線であり、それを踏まえて大いに議論すればよしという感じで、結論は簡単に出る事ではないが、まずそういった議論をする時に表層的な違いで鍔迫り合いをして揉めるのではなく、じっくり議論する事が大切だと。
天皇制というのは、事実かどうかはわきにおきますが、神話の時代から続いている日本独自の制度です。ホメロスのトロイア戦争に出てくるアガメムノンの数代前がゼウスという事になるのだと思いますが、その子孫が今も生きているようなものです。旧約聖書に出てくる、アブラハム、イザアクの子孫が今も生きているような話です。それが事実かどうかそんな野暮な事を言っちゃ身も蓋もありません。そんな事よりそういう神話の時代から続いているとずっと語り継がれて来た血統が連綿と続き、今も存在している。まずその奇跡的な状況を大切にする事は非常に重要なのではないかと思います。もちろんそういう事が納得いかない人もいるのでしょうが、少なくとも、そういう方々が滅ばずに残っているこの国の太古からの知恵、寛容さは守るべきヘリテージなのではないかと思います。
三島由紀夫その人について、著者の目を通して興味深く書かれています。やんごとなきお方とのお見合いの話もしっかりのっています。三島が憂いていた状況にこの国が陥ってしまい、三島に対する申し訳なさやうしろめたさも読み取れ、その意思をちゃんと後世に伝えなければという部分は非常に感銘を受け面白かったです。また左翼的な闘争をしていた方々が根底に持っていた意思もちゃんと汲み取ろうとしている姿勢には敬服します。なぜ行動を起こしたのか。確かに犯罪として切って捨ててしまうような先頃のアメリカの銃乱射事件の犯人のような幼稚な発想ではなく、国を憂いて起こす行動は、バカげた行動かもしれないが、思想としては分からない話ではない、本気で国を愛するがゆえに行動を起こさずにはいられない、それも愛国心、憂国の一つの形であり、愛国心を養えと国家が命令している現在、その事を我々は肝に命じなければならない事なのかもしれないと思いました。国を愛するとは、どういう事なのか。
三島が天皇陛下の人間宣言について怨み節を書いた事に対して、著者の目線での解釈が書かれています。その部分はあえて深く突っ込まなかったのだとは思いますが、自分も非常に気になる部分でもあります。なぜ天皇陛下が高貴な存在として残っていてほしいと三島は考えたのか。
この国は天皇を中心として、玉として常に歴史が動き、悪く言えば利用して、古い権力が新しいものに生まれ変わる状況を、歴史上何度も繰り返して来ました。戦後GHQによってこの国の体制は変えられますが、その時でさえ天皇は象徴として残し、天皇を中心として国が変わりました。天皇陛下万歳は明治の元勲達が、薩摩や会津の愛郷心をモデルにして形作ったものでしかありませんが、天皇陛下がいたおかげで、スターリンやヒトラー、ムッソリーニのような独裁者が生まれる土壌はありませんでしたし、軍国主義と言っても議会はあったわけです。民主主義や資本主義を導入する為には、欧米のような予定説の神が必要であり、この国はそれがありませんでしたから、その柱として利用した部分もあったと思います。
しかし天皇陛下は人間宣言してしまった。民主主義に無くてはならない柱が無くなってしまい、アメリカ的な宗教的良心も元々無いし、ヨーロッパのような階級社会もない。中国のように歴史に対する信仰も無いし、イスラム圏のように神もいない。原理原則が無くなってしまった。
民主主義として、当然あるべき抵抗権としての革命権はこの国にも民主主義である以上、一応存在している事にはなっているのでしょうが、それを支えるものも何も無いし、アメリカのような武装権も無い。日本が古来から新しく生まれ変わる時に中心となっていた玉としての天皇は人間宣言してしまった。という事は、どんなにいい加減な統治権力であったとしても未来永劫変革する為に必要なリソースは何も無く、また原理原則もすべて捨て去ってしまった。そういう状況を三島は憂いていたのではないかと感じます。だから政治にも全く緊張感が無くなってしまっている。議会制民主主義というのは、本当に政治のわかる優秀な人々が国民の代表になる事によって、ポピュリズム的に舵取りを間違える可能性を回避する為には非常に優れた政治制度であるはずです。しかし現状では完璧なポピュリズム政治に陥っている。
革命なんて物騒な話を例にとるのは大袈裟かもしれませんが、愛国心を煽るという事は、政治家にとってもフリーハンドを失いかねない非常に難しい問題です。そこまで考えてこの国の政治家達が言っているようには、残念ながら見えません。安倍さんがお手本にしている、中曽根元総理だって愛国心を憲法に入れるべきだとか言っていますが、そもそもあの人、アメリカからの圧力に屈し内需拡大をやって、バブルを起こした張本人です。そんな輩が愛国心などと言っているのはネタで受けをねらって言っているのなら笑って済ます事も出来ますが、そういう風には聞こえません。
著者が言うように、愛国心は心の中で持っていればいいもので、口に出せば嘘になってしまう儚いものでしかないのかもしれません。大きな声で威張り散らす為、己を大きく見せる為に叫ぶのではなく、どうしても口に出さねばならぬときは小声でそっと言うべきものなのかもしれません。
鈴木邦男さんの、愛国者は信用できるか、を読みあれこれと書いてみました。鈴木さん的に言えば、ブログで匿名で文章を書いている事こそ卑怯な振る舞いなのかもしれません。ごめんなさい。