物騒な事件が続きましたね、メディアは水をえた魚のようにいきいきと報道しています。なんか嬉しくてしょうがないのではないか、と思ってしまうようないきいきぶりです。見ている人間の恐怖と不安を煽り、明日は我が身だという事を思わせたいのか、こういう凶悪な事件は、難しい知識も必要ありませんし、誰が見ても悪者がハッキリわかりますので容赦なく叩けて、多いに恐怖を煽って大騒ぎ出来るので簡単に報道しやすいのかもしれません。
長崎の市長の一件は大変痛ましい事件でしたが、その後の選挙戦のお涙頂戴報道は絶望的なものを感じました。悲劇だという事は事実ですし、本当の原因はわかりませんが、殺された事は何があったとしても悲惨な話です。しかし、実際に政治を運営出来るのかという話になれば、可愛そうかどうかは全く関係がなく、全く別の話のはずです。それにその事件に絡ませて、核兵器廃絶的な問題を必要以上に報道する姿勢も、俗情に媚びたくだらない報道という他ありません。全く別の話なのではないでしょうか。
立て籠り事件もありましたが、日本の警察が優秀だと言われている原因は、日本人がおとなしい事が一番の要素だという事がよく分かる事件でした。やはり決定を下すという事は責任が伴います。責任を取りたくないものどもが、グズグズと決定を遅らせる、この国の悪しき縮図を見たような気がしてしまいました。
昔から責任の概念のない我が国、そういった概念を獲得し、まともに国の舵取りをしていくには後どれくらいの年月が必要なのでしょうか。それとも永久にこの国の統治機関にはそういった概念は芽生える要素すら無いのでしょうか。やはり決定的な悲劇の共有が無ければ生まれない概念なのでしょうか。社会人でそこそこ責任のある立場に立てば責任など当たり前の概念だと思うのですが。統治機関に責任の概念が無いのですから、国家権力に属する組織や、国民に無責任な人間が増えるのは、ある種の必然かもしれません。
アメリカでの銃撃事件があった事もあり、こういった凶悪な事件が連発すると、必ず昔はこんな事無かった、最近はおかしい的な事を不用意に発言して、国民の恐怖と不安をブーストさせる報道が目立ちますが、本当にそうか、と思ってしまいます。人々の不安や恐怖心を吸い上げ、敵を設定し、国民のスッキリ感を晴らしてくれるように見える政治家が、そういったものを担保してくれるかのように振る舞うのは、ポピュリズム政治の基本戦略です。必要以上に恐怖心や不安を煽るのは止めて、冷静に報道してもらいたいもんだと思ってしまいます。まあ現状のバカメディアには無理なのかもしれませんが。国民がスッキリ感を求めて吹き上がり、そこに迎合してそれを利用する手法は非常に危険な民主政治にとって末期症状です。嫌な流れに辟易してしまいます。昔はこんな事は無かったというのは嘘です。凶悪な事件は別にいつの時代でもあります。最近赤ちゃんポストなんてものが騒がれて、親の無責任さを嘆く言説も飛び交っていますが、これも嘘です。そんな事は昔からありますし、日本は元々古くからわりかし無責任な親はたくさんいました。血縁主義をあまり重視しない民族的なベースのせいもありますが、そんなに伝統的な話でなくとも、例えば先日人に、村上龍さんのコインロッカーベイビーズ、という名作を貸したのですが、赤ん坊をコインロッカーに捨ててしまうという事が一時期社会問題として大きく騒がれました。それに比べれば赤ちゃんポストに捨てる方が全然マシです。
コインロッカー・ベイビーズ (上)/村上 龍

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昔はこんな事は無かった、という事を嘆く古い人間はいつの時代にもいます。自分もよく最近の邦画の劣化、邦楽の実りの無さを書いたりしていますが、昔だってクソ映画や、クソ音楽は沢山ありました。ただクソ映画の多い割には、邦画の活況が持てはやされていますので、それにはやはり危機を感じますが、あの頃こんなじゃ無かった的な物言いの殆どは嘘です。正確にはその人はそう感じるという、ある人の主観、ある年代の価値観でしかありません。相対的にいまの社会の方が裕福で便利になっている事は事実ですし、死ぬ危険が減っている事は間違いありません。にもかかわらず不用意に不安や恐怖心を、俗情に媚びて垂れ流すバカメディアの報道は、納豆の捏造と全く同じレベルのものでしかないと思います。
アメリカの銃撃事件では銃社会について、まああれこれ話が飛び交っていますが、何でアメリカが銃社会なのかという根幹の問題は、あまり取り上げられているようには見えません。善いか悪いかは別にして、何でアメリカ人は銃社会から脱却出来ないのか、その事をきちんと報道してもらいたいもんだと思いますが、まあ無理なのかもしれませんね。
全米ライフル協会の陰謀説、マイケル・ムーア的な物言いも多いと思いますが、その選択をなぜアメリカ人は手放さないのか、それはアメリカの憲法意思に基づく、アメリカの解釈する民主主義の根幹的な部分でもあります。我が国の武士が刀を自ら捨てたように、それが大多数のコンセンサスとならなければ、いくら不安や恐怖や理不尽を煽っても、銃を手放す社会は絶対に訪れません。逆に不安はより武装化して自分の身は自分で守れという社会になっていくだけです。まあよその国の事ですから日和見的報道でただ単に国民の不安や恐怖心を煽り、視聴率を獲得したいだけなのかもしれませんが。
あの犯罪を犯した在米韓国人の犯行声明みたいなものも散々取り上げているものを多く目にしました。なんか社会的な問題が絡んでいるとか、根底に差別の問題があるとか、銃社会が問題なんだとか、何か切羽詰まった事情があったとか、防止出来たのではないかとか、在米韓国人やアジア人の差別に繋がるのではないかとか、まあいろいろ嬉しそうに報道していますが、あの犯行声明のようなものを聞けば、ただ単にあの容疑者自身に問題があっただけだと言う事が簡単にわかりそうなもんです。あの容疑者は自分の決定を人のせいにしています。不満や怒りがあったからって、人を殺しても何も解決出来ませんし、そんなに苦しいのなら自殺すればいい話です。それをあれだけ道連れにして、尚かつアメリカ社会や人のせいにしている物言いは、単なる甘ったれの戯言にしか聞こえません。犯人がただ単に悪いのであって、社会問題や人種差別、銃社会の問題を大騒ぎするという事は、犯人の所行に加担する事になります。いろいろな問題は確かにあるのかもしれないし、是正するべき問題なのかもしれませんが、この一件はあの犯人の幼稚な思考が引き起こした事であり、どんなにあの容疑者が悲惨な目にあっていたとしたって、それは人をあれだけ殺し、自殺の道連れにする理由にはなりません。それをあの犯行声明のようなものにメッセージ性を深読みし、あれこれ右往左往するのは、被害者やその家族に対しても、冒涜している振る舞いのように見えます。あんな幼稚なバカの凶悪な犯罪によって、一種のメッセージにもなるという社会の動きは、更なる連鎖反応を招く事にもなりかねません。いろいろ不満はあるかもしれないが、どんな理由があるにせよ人を殺す事は許されない事で、そこに込められたメッセージなど、社会的には何の意味も無いという姿勢が重要だと思います。社会問題や銃社会の問題は切り離して考えるべきです。人殺しのメッセージをある種認めるという事は危険な振る舞いだと思います。この事が引き金になり、いままでよりもっとアジア人に対する、韓国人に対する差別が酷くなるのなら、それはそうなってから議論するべき事であり、まだ何も起こっていない段階で、あれこれ差別を論点にこの事件を論じるのは適切ではないと思います。銃社会だって問題かもしれませんが、アメリカ人の多くは銃を持っていても、人を殺さず生きている人が大多数のはずです。あの犯人と繋げて考えるのは不適切だと思います。悪いのは銃社会でも差別でも、社会問題でもなく、アメリカがイラクで無辜の民を大量に殺しているからでもなく、あの容疑者の人格的な問題が、あの犯罪を引き起こした。どんな理由があっても、それは人殺しの言い訳にはならないという事をちゃんと伝えないと、どうしても伝えたいメッセージや不満があるが、それがどうやっても伝わらない、そうか、人を殺せば脚光を浴びて、メッセージが伝えられるかもしれない、という勘違いバカの連鎖を招く事になりかねません。あの韓国人がどんな理不尽を抱えていたとしたって、戦場にいたわけでもないですし、アメリカの空爆によって家族や仲間が殺されたわけでもないでしょう。アメリカの国内で、それなりに反映を享受し、生活していたわけでしょうから。まあそういう連鎖が起こった方が、メディア的にはおいしいのかもしれませんが、これだけ多くの犠牲者が出ているわけですから、常識的な報道をしてもらいたいもんだと毎度の事ながら思ってしまいました。