少年法改正案をまたしても強引に衆議院を通した安倍政権、事の善し悪しは人それぞれ思う所あると思いますが、最近の自民党の強硬路線が参院選に吉と出るか凶と出るか、少年法改正についてはとりあえずわきにおいても、強引な手法はちょっとやり過ぎなのではないかと感じます。
とりあえず今日は少年法の改正を強行的に通した事云々についてどうこう言うつもりはありませんが、賛成している側も、反対している側も、今イチ意味が理解出来ない所があります。
昨日の夜、たまたま爆笑問題の片割れが総理とか言ってやっているアホくさい番組をたまたま見ていましたが、子供の体罰是か非かという論点をしょうもない意見ばかりでああだこうだ言い合っていました。丁度少年法の改正と重なる部分もあるので、ちょっと疑問点を書いてみたいと思います。
子供であっても重罰化しろという流れが一方にあり、子供の人権や自由を尊重しろという流れが一方にある、体罰もおそらくそういった論点の一つだと思うのですが、基本的に重罰化してもおそらく悲惨な犯罪は減らないと思います。これはただ単に被害者家族の感情の手当的側面が大きいのではないでしょうか。実際重罰化しても軽犯罪や性犯罪は統計的に減るとわかっていますが、重犯罪は殆ど効果ありません。掴まると思っていればそもそも犯罪など犯しませんし、自分は大丈夫だと思うからやるのであって、重い罰をちらつかせてもあまり効果はありません。激情に駆られておかす犯罪であれば、刑の重さなどは全く関係ありません。大人ですらそうなのですから、何もわからないガキンチョじゃあんまり意味ないと思います。ですので犯罪を減らす為であるならたいして役に立たないと思います。
それをとりあえずわきにおいても重罰化しろという人の意見も、反対する意見も、どっちも理解しがたい意見になっているように感じます。子供の人権や自由を尊重しなければいかん、体罰などもってのほかだという人達は、おおむね重罰化に反対しているようですが、自由を認めるという事は責任がセットにならなければ意味がありません。責任の無い自由は、自由とは呼べない代物です。パターナリズム的に親なり教師が導いて、責任を取らせない状態というのは自由とは呼べないのではないでしょうか。もちろん子供ですので自由や権利を認めると言っても大人と同じ扱いが出来ないというのはわかりますが、自由と権利を与えながら責任を全く免除するというのはハッキリ言って語義矛盾です。自由と権利を認めるのであれば重罰化やむなしというのが、筋の通ったまともな考え方だと思います。子供の人権を認め体罰など絶対に駄目だとするなら、例えばアメリカのように学校に警察力を介入させてキッチリ子供であっても、ある程度責任を取らせるというのが、善いか悪いかは別にして、論理的整合性もあるのではないかと思います。しかし子供の人権や自由を主張する人達は、子供の重罰化には反対だったりします。全く理解出来ない考え方だと思ってしまいます。
それに対して、子供を重罰化しろ、多少の体罰やむなしと考える方々というのは、子供をキッチリ管理したがっています。ゆとり教育は止めるべきだ、子供が馬鹿になっていると言った感じで、子供の自由や権利を制限する方向で思考しながら、責任は重罰化して取らせるというのにもちょっと無理があります。自由や権利が無ければ責任だって限定されたものであるはずです。にもかかわらず重罰化しろというのはこれまた語義矛盾だと感じてしまいます。
少年法改正を賛成している方々も反対している方々も、ハッキリ言ってどちらも戯言にしか聞こえません。自由と権利を認めるのであれば責任をちゃんと取らせるべきであり、自由と権利を制限するのであれば、責任はそれに見合ったものに軽減するべきです。体罰は躾ですから、人それぞれ思う所あるでしょう。実際の現場の教師が子供に対して適切な躾としての体罰を行えるコンピタンスがあるかと言えば、確かに無理な人もいるのは事実だと思います。制度は優秀な人を基準には作れませんから、これは最低限守って貰わなければ困るという基準になってしまいます。したがって一律に体罰禁止となるのは仕方が無い部分もあるとは思います。個人的には教師になるような人なのだから、それくらいの能力は身につけてなってほしいとは思いますし、基本的に体罰は別にあっても構わないと思ってますが、禁止とする理由もわからなくもありません。
体罰も駄目、自由と権利を認めるべきというのであれば、警察力もしくは厳罰処分、重罰化をセットにして、自由と権利の責任を取らせるべきであり、厳しく管理するのであれば責任も限定されたものにするべきである、というのが普通に考えれば当たり前だと思うのですが、今の賛成反対の論点を聞くと、意味がわかって言っているのか、それとも単なるアホなのか、賛成側も反対側もいい加減にしてくれと思ってしまいます。
自由や権利を認めながら体罰も駄目、重罰化も駄目では、間違った無責任な自由と権利になってしまいます。まあ大人でも義務も果たさずに権利ばかり主張している輩はたくさんいますので、今のこの国の甘えと依存が蔓延っている民度では仕方が無いのかもしれませんが、そういう矛盾に全く気付いてもいないのが厄介です。
自分はガキが悪い事したら、大人がそれを正すべきだと思います。警察力や重罰化には反対です。ある程度、不自由を与えないと、自由になるありがたみや責任の意味を学ぶ事も出来ません。相手は子供なんだから、大人がしっかりしろよ、と思います。したがって躾という意味においてはある程度体罰も必要だと思います。教師もその能力の無い人間はやらない方がいいと思いますが、ある程度なれた方が、暴力ではなく、躾という意味での体罰を適切に執行する。それでいいのではないでしょうか。自由や権利を認めて、子供であってもキッチリ責任を取らせる社会というのには、この国はなじめそうも無いと思います。ですから大人がしっかり子供を躾ける、それでいいのではないでしょうか。子供を躾ける事が出来ない親の子供はどうするんだという風になりそうですが、だからこそ学校の教師にバカ親からサルベージ出来る権限を与えるべきだと思うのです。学校の教師もがんじがらめで、子供をまともに叱る権利も限定されたままで、親もアホで、責任の伴わない自由と権利ばかり与えていたのでは、ゆとり教育だろうが、それを改正しようが、意味無いと思います。これでは学校にだっていい人材は集まるわけありません。そんな不毛な仕事誰だってやりたいなんて思えないでしょう。学校の教師の質を上げる為にも、教師の権限を幅広く持たせてあげる、もちろん行き過ぎた暴力的な体罰で生徒をけがさせた場合は、ちゃんと責任も取らせる。これも権利を与えれば当然セットになって責任もついて回るという事です。
重罰化を主張するなら自由と権利を与え、体罰を認めないのであれば警察力を導入する。重罰化反対なら、大人がちゃんと子供を責任もって管理して躾ける、教師の権限も認め体罰もある程度容認する。容認する以上、大人達はしっかり責任を持つ、この二つしか筋の通った論点は本来有り得ないように思うのですが、この国は政治家も国民も責任と言う概念がよくわかっていないのかもしれません。少年法改正での騒ぎにちょっと気になる事を書いてみました。
とりあえず今日は少年法の改正を強行的に通した事云々についてどうこう言うつもりはありませんが、賛成している側も、反対している側も、今イチ意味が理解出来ない所があります。
昨日の夜、たまたま爆笑問題の片割れが総理とか言ってやっているアホくさい番組をたまたま見ていましたが、子供の体罰是か非かという論点をしょうもない意見ばかりでああだこうだ言い合っていました。丁度少年法の改正と重なる部分もあるので、ちょっと疑問点を書いてみたいと思います。
子供であっても重罰化しろという流れが一方にあり、子供の人権や自由を尊重しろという流れが一方にある、体罰もおそらくそういった論点の一つだと思うのですが、基本的に重罰化してもおそらく悲惨な犯罪は減らないと思います。これはただ単に被害者家族の感情の手当的側面が大きいのではないでしょうか。実際重罰化しても軽犯罪や性犯罪は統計的に減るとわかっていますが、重犯罪は殆ど効果ありません。掴まると思っていればそもそも犯罪など犯しませんし、自分は大丈夫だと思うからやるのであって、重い罰をちらつかせてもあまり効果はありません。激情に駆られておかす犯罪であれば、刑の重さなどは全く関係ありません。大人ですらそうなのですから、何もわからないガキンチョじゃあんまり意味ないと思います。ですので犯罪を減らす為であるならたいして役に立たないと思います。
それをとりあえずわきにおいても重罰化しろという人の意見も、反対する意見も、どっちも理解しがたい意見になっているように感じます。子供の人権や自由を尊重しなければいかん、体罰などもってのほかだという人達は、おおむね重罰化に反対しているようですが、自由を認めるという事は責任がセットにならなければ意味がありません。責任の無い自由は、自由とは呼べない代物です。パターナリズム的に親なり教師が導いて、責任を取らせない状態というのは自由とは呼べないのではないでしょうか。もちろん子供ですので自由や権利を認めると言っても大人と同じ扱いが出来ないというのはわかりますが、自由と権利を与えながら責任を全く免除するというのはハッキリ言って語義矛盾です。自由と権利を認めるのであれば重罰化やむなしというのが、筋の通ったまともな考え方だと思います。子供の人権を認め体罰など絶対に駄目だとするなら、例えばアメリカのように学校に警察力を介入させてキッチリ子供であっても、ある程度責任を取らせるというのが、善いか悪いかは別にして、論理的整合性もあるのではないかと思います。しかし子供の人権や自由を主張する人達は、子供の重罰化には反対だったりします。全く理解出来ない考え方だと思ってしまいます。
それに対して、子供を重罰化しろ、多少の体罰やむなしと考える方々というのは、子供をキッチリ管理したがっています。ゆとり教育は止めるべきだ、子供が馬鹿になっていると言った感じで、子供の自由や権利を制限する方向で思考しながら、責任は重罰化して取らせるというのにもちょっと無理があります。自由や権利が無ければ責任だって限定されたものであるはずです。にもかかわらず重罰化しろというのはこれまた語義矛盾だと感じてしまいます。
少年法改正を賛成している方々も反対している方々も、ハッキリ言ってどちらも戯言にしか聞こえません。自由と権利を認めるのであれば責任をちゃんと取らせるべきであり、自由と権利を制限するのであれば、責任はそれに見合ったものに軽減するべきです。体罰は躾ですから、人それぞれ思う所あるでしょう。実際の現場の教師が子供に対して適切な躾としての体罰を行えるコンピタンスがあるかと言えば、確かに無理な人もいるのは事実だと思います。制度は優秀な人を基準には作れませんから、これは最低限守って貰わなければ困るという基準になってしまいます。したがって一律に体罰禁止となるのは仕方が無い部分もあるとは思います。個人的には教師になるような人なのだから、それくらいの能力は身につけてなってほしいとは思いますし、基本的に体罰は別にあっても構わないと思ってますが、禁止とする理由もわからなくもありません。
体罰も駄目、自由と権利を認めるべきというのであれば、警察力もしくは厳罰処分、重罰化をセットにして、自由と権利の責任を取らせるべきであり、厳しく管理するのであれば責任も限定されたものにするべきである、というのが普通に考えれば当たり前だと思うのですが、今の賛成反対の論点を聞くと、意味がわかって言っているのか、それとも単なるアホなのか、賛成側も反対側もいい加減にしてくれと思ってしまいます。
自由や権利を認めながら体罰も駄目、重罰化も駄目では、間違った無責任な自由と権利になってしまいます。まあ大人でも義務も果たさずに権利ばかり主張している輩はたくさんいますので、今のこの国の甘えと依存が蔓延っている民度では仕方が無いのかもしれませんが、そういう矛盾に全く気付いてもいないのが厄介です。
自分はガキが悪い事したら、大人がそれを正すべきだと思います。警察力や重罰化には反対です。ある程度、不自由を与えないと、自由になるありがたみや責任の意味を学ぶ事も出来ません。相手は子供なんだから、大人がしっかりしろよ、と思います。したがって躾という意味においてはある程度体罰も必要だと思います。教師もその能力の無い人間はやらない方がいいと思いますが、ある程度なれた方が、暴力ではなく、躾という意味での体罰を適切に執行する。それでいいのではないでしょうか。自由や権利を認めて、子供であってもキッチリ責任を取らせる社会というのには、この国はなじめそうも無いと思います。ですから大人がしっかり子供を躾ける、それでいいのではないでしょうか。子供を躾ける事が出来ない親の子供はどうするんだという風になりそうですが、だからこそ学校の教師にバカ親からサルベージ出来る権限を与えるべきだと思うのです。学校の教師もがんじがらめで、子供をまともに叱る権利も限定されたままで、親もアホで、責任の伴わない自由と権利ばかり与えていたのでは、ゆとり教育だろうが、それを改正しようが、意味無いと思います。これでは学校にだっていい人材は集まるわけありません。そんな不毛な仕事誰だってやりたいなんて思えないでしょう。学校の教師の質を上げる為にも、教師の権限を幅広く持たせてあげる、もちろん行き過ぎた暴力的な体罰で生徒をけがさせた場合は、ちゃんと責任も取らせる。これも権利を与えれば当然セットになって責任もついて回るという事です。
重罰化を主張するなら自由と権利を与え、体罰を認めないのであれば警察力を導入する。重罰化反対なら、大人がちゃんと子供を責任もって管理して躾ける、教師の権限も認め体罰もある程度容認する。容認する以上、大人達はしっかり責任を持つ、この二つしか筋の通った論点は本来有り得ないように思うのですが、この国は政治家も国民も責任と言う概念がよくわかっていないのかもしれません。少年法改正での騒ぎにちょっと気になる事を書いてみました。