教育基本法の改正など、教育改革を旗印の一つに掲げる安倍政権、安倍さん自体が本当はどのようにお考えになってらっしゃるのか、本人か、本人と直接話をして、本音で語り合える間柄でないかぎりわかりませんし、彼のオフィシャルな発言の内容を聞いても実際の所はどうなのかはわかりませんが、教育再生会議や中教審の答申などを見ると、首相に仮に本気で教育改革、即ち子供達の為、未来に対する投資として、正しいと信じて(実際にそれが正しいかどうかは別の話です)行っているとしても、実際起こっている事は、子供の為とか、未来への先行投資とかそういう事とはまったく関係ない、権益の争奪戦、地方分権化の流れを食い止めて、利権を残したいと考える浅ましい連中が暗躍しているようです。
単位未履修問題やいじめ問題を逆手に取って、中央の権限が弱いからこれに対処出来ないなどと大臣が言い出す。タイミング的にあやしいとは思いましたが、結局やっぱりこういう事かという感じです。愛国心問題ばかりメディアでは取り上げ、その囮にまんまと引っかかり感情的に吹き上げる連中、単なる世論の目くらましとしてのエサに引っかかって、目をそらしている隙に、権益争奪戦が繰り広げられている様はもはや絶望的なものを感じます。こんな連中に自浄作用など永久に働くわけがありません。
そもそも単位未履修など、どこの学校でも多かれ少なかれある事で、みんな本当はわかっている話のはずが、急にルールを盾に取って、けしからんという世論を惹起する事によって、中央の権限を強化し、役人の天下り先や利権を残そうと企む浅ましい連中の巻いたエサに、まんまと引っかかる方々が沢山いる状況にがっかりでした。一般人ならまだしも、メディアなどに出てくる人達まで、本気で言っているのかネタで言っているのか、しかめっ面してポピュリズム的な報道を情緒的に流す、本当にいい加減にしてもらいたいもんです。なるべくそういうくだらない報道は目にしないようにしてはいても完全にシャットアウトするには、テレビを処分し、ラジオを処分し、新聞を取らず、インターネットも見ない、しかし知りたい情報もあるわけで、そういう非現実的な対処法は難しくなってしまいます。
単位未履修とまではいかなくても、三学期の授業の最後の頃はちょっとはしょったりして、何とか教科書全部を学習し終わった事にするなどは、学校に行った事のある人間なら、小学校であっても普通にある事のはずです。小学校もいった事が無いという人もあんまりいないでしょうから、単位未履修があったって別にいいだろ、進学校はそうじゃなくたって勉強大変なんだし、という当たり前の前提が、もはや日本人の間ではなくなってしまっているのか、メディアのキャンペーンに簡単に引っかかる人間が多いのか、定かではありませんが、浅ましい連中の利権確保があらゆる所で実際に起こっているとはいえ、何の為の教育なのかと具合が悪くなって来そうです。
いじめの問題もそうです。死んじゃった子供達はそりゃうかばれませんし、可愛そうです。いじめの問題は真剣に対処する必要があり、現に苦しんでいる子供達には一刻も早く救いの手を差し伸べる必要があります。しかしそういった問題に断固対処するには、国の権限を強化するべきだなどと、己の利権の為にほざく連中は許せません。そのあまりの酷さに、子供達に一刻も早く愛国心教育して、公僕でありながら国民を騙し、私腹を貪るような君側の奸は伐てと教育してもらいたいもんだと思ってしまいそうです。
背景の一つとして、ゆとり教育による教育の荒廃があり、それによって子供達が得体の知れない恐ろしい状態になってしまう、という恐怖心がフックになっていると思います。実際教育現場では酷い状況になっていて、もはや教師個人の力量ではいかんともしがたい状況だとか何とか。そういう不安がおそらく背景の一つとしてあるでしょう。学力の平均水準が下がり、実際に子供達の理科離れがあるので、技術大国である我が国の将来の経済活動に影響が出るとかそういう物言いもあったりします。
しかしゆとり教育というものを導入しようと決めた時、すでにアメリカやイギリスはオルタナティブ教育理論、即ち我が国でいう所のゆとり教育ですが、すでに失敗だったとなり、ただ子供の教育だけを新しくしても、社会のシステムや人々のマインドはそう簡単に変わらないので、旧来の方法の方が危険が無いという事になっていたはずです。それでもこの国は導入に踏み切り、単なる受験勝者を作る事ではなく、人間的な幅を持つ本当の意味での優秀な人間を作る事を目的として、有効なはずだという目論みのもと(少なくても建前では)、国民だって詰め込み教育はいかんというコンセンサスだったはずです。それをちょっと子供が馬鹿になっているからといっておたおたするのは情けなすぎます。子供が馬鹿なのは、我々大人が馬鹿だから子供がそうなっているだけです。社会というのは大人が作るものなんですから。子供の平均学力の低下だって想定されていたはずです。
ゆとり教育というのは早い話が規制緩和みたいなもんです。バカになるのも利口になるのも自由ですって。そういう政策を打っておきながら平等を担保するのはそもそも論で言っても不可能です。自分はゆとり教育にはギリギリかすりませんでしたが、くだらない平等の精神は当時より酷くなっているように見えます。規制緩和に踏み切りながら、人々のマインドを変えるような啓蒙は全然メディアなどにも上がって来ません。格差問題などで馬鹿みたいに叫んでいる連中が相変わらず俗情に媚びて、人々の情緒を煽り、動員を得ようとしたりしています。メディアなどもそれをブーストさせ人々を不安に陥れるような報道の方が視聴率が取れるのかもしれませんが、マッチポンプ的に煽っています。一部の人間の権益争奪戦もその裏に隠れています。
子供に対する教育としての指導も何かっつうと体罰だの子供の人権だのと騒いで、確かに問題のある指導や体罰もあるでしょうが、それらを一括りで指導する立場の人間から奪っておきながら、ちゃんと指導しろと言っても、実際指導する為のリソースが無けりゃ、やれっつったって論理的に考えても出来るわけありません。結局指導の仕方にあまり厳格さを求めすぎると、線引きが難しく、子供のいじめもそうですが、例えばサッカーをしていて、強いパスが来る、それだけで虐められていると感じる子供もいます。単なる思い過ごしであるかもしれないし、自分が嫌われているからかもしれない。そういう事と一緒で、同じように指導していてもある子供は先生がいじめたと思うかもしれませんし、他とまったく同じように扱っていたとしてもどう感じるかは子供次第です。もちろんそういった事に気付いてあげる事は教師として必要な要素だとは思いますが、気付くくらいなら初めから言わないでしょうし、指導する以上、まったく子供にとって無害な指導では効果は薄くなって当然で、子供の振る舞いを正そうと思えばある程度厳しく言うのは当たり前です。良薬口ににがしではありませんが、優しく言って何でも理解できる素直な子供もいるでしょうが、そうでない子供も当たり前ですがいるのは当然です。
例えばテレビなどにでてくる教師をたまに目にすると酷いのもいるもんだなと感じる事もあります。実際に教師の仕事を自分で選んでおきながらグズグズ文句を言って、まったく自分に責任はないと思っている人が出て来たりします。しかし当然でしょうがそうでない人もいるはずで、一部の馬鹿教師のせいで全体が同じように見られてしまっている状態は確かにあるでしょう。それによく反日教育をする教師の事をけしからんという物言いもあります。自分もその中に嘘やインチキが混ざっているのはよくないと思いますし、確かに不愉快です。公務員なんだからさ、嘘は止めてくれよ、そういう風に思います。左翼的なアジェンダを教条的に信じているのは、へたげな新興宗教より厄介だとも思います。しかしそういう教師に教育を受けたからそく反日的な子供になってしまい、大人になってもそれが抜けないなら、どっち道そういう人は何か依存的に盲信する危険を持っている事になります。新興宗教に入って変な壺を買うより、右的な言論を断固決然と信じ込み吹き上げるより、自分達は悪い事をしたんだから何より平和が一番だと考えていた方が危険がないとも言えますし、そういう事を自分で学んだり、自分の頭で考えられる人間なら、どんな左巻きの教師に教育を受けたって関係ありません。事実は事実、嘘は嘘とやがて学習し気付くはずです。
自分も過去を思い出すと酷い人がいました。それに教科書も酷かった記憶があります。例えば当時はソ連が健在だったので、地理だと思いますが、コルホーズとかソフホーズなんて習いました。アメリカ式の大規模農業経営は大雑把で品質も悪いし効率も悪い、しかしソ連の農業方式は国がきちんと管理しているから効率的で素晴らしいと教科書にも書いてありましたし、教師も鼻息を荒くして、共産主義の理想の素晴らしさを教えてくれました。しかしソ連が崩壊するとそれは真っ赤な嘘で、アメリカ式の農業経営の方が全然マシだった事がわかるわけですが、そういう教育を受けたからって自分はその事を知っても、別に騙されていた大人は嘘つきだとグレたりはしませんでしたし、左翼的な言説を信じてもいません。むしろネタとして昔こんな事勉強させられなかった?という同年代の人との会話のネタになります。
自分も子供の頃は、相当直接的暴力によって、指導というより教師のスッキリ感を満足させる為なのではないかと感じてしまう体罰を、年がら年中受けました。年がら年中ですから、もちろん自分が生意気だったという事は間違いありませんし、親だって別に自分を擁護したりは絶対にしませんでした。何度も学校に親を呼び出されたりしましたが、ひたすらぺこぺこ誤っていた事が記憶に残っています。それどころか家に帰ったら、より追い打ちをかけられるように殴られたりもしました。その教師達の事は今でも懐かしいとか思ったりはしませんし、まあ本当にその教師が自分の為を思って暴力を行使していたかどうかは本人じゃないですからわかりようもないのでどうでもいいのですが、大勢教師がいればそりゃ酷い人や、こんなのでよく教師になれたなと思う人もいるのは事実でしょう。しかし我々一般人だって一定数非人道的な人間や、モラルの無い人間というのが必ず存在します。一定数危険な奴がいるから全員法律でがんじがらめにしてしまったのでは、不自由極まりなくなってしまいます。また法律に触れなくてもコモンセンスのかけらもないような人もたくさんいます。そういう己に甘い一般の我々が、教師に対して厳格さを求めるほど立派に生きているかと言えば、人のことをとやかく言う前に自分のやる事やれよという人もいっぱいいるように感じます。またそういう人に限って、やたら偉そうにしている側面もあると感じます。もちろん教師の給与は税金ですのである程度ものを言う権利がある事は事実ですし。教師もクライアントがあって初めて収入を得ているという自覚は必要です。民間の企業であれば、お客様は神様であり、アマチュア・スポーツとは違い結果がすべてなのですから。しかしものには程度ってものがあります。ある程度、教師による指導の幅に対して寛容さを持つ事が重要なんじゃないかと、そういった事を制度化する事も必要なのではないかと思うわけであります。それを認めた上で、教師の不適格を問題にするべきだと思います。我々がそうであるように、教師だって初めから優秀な人ばかりじゃないでしょうし、学習しながら成長していくはずで、不自由な状態でがんじがらめに縛っておいて、不適格の烙印を一方的に押したのではフェアじゃありません。
自分も小学校の段階で今考えると相当ケチョンケチョンにぶっ飛ばされましたが(就職してからも親方によく武力行使を受けました。そっちの方が遥かに恐ろしく、遥かに理不尽でした。)、そう簡単に人間死んだりしないので大丈夫です。もちろん過剰な暴力による制裁をちらつかせて指導するなど無いほうがいいとは思いますが、何もかも駄目では難しいのではないかと感じます。
理科離れという事が騒がれますが、いい加減、加工貿易によってこの国の経済を回していくには、中国やインドのように人件費の安い国と張り合うのには無理があります。イノベイティブな発想がなければこの国の将来は立ち行かないのではないか、そういう子供を育てる為には詰め込み教育では駄目だと言って、ゆとり教育をはじめたはずです。それをまた戻せば同じ事の繰り返しです。想像力などなくても、上からの指令を何の疑問も持たずに、ひたすらこなす人材が育てばそれでいい、という発想は余計状況を悪化させるだけなのではないかと感じます。ゆとり教育を導入はしたものの悪しき平等主義は一層強まっていますし、何かっつうとおたおたする輩が増え、結局理念は導入したものの、様々なレベルでパラダイムシフトが全然進んでいません。問題はそこにあるはずで、そういう問題がある以上、詰め込み教育に戻そうが、ゆとり教育のままであろうが結局大差ないのではないかと感じます。結局権益争奪戦の鍔迫り合いの構図の中に様々なフックをつかって動員されているのだという自覚も必要だと思います。肝心なのは子供が実際にどうなるかと言う一点なはずです。
自分は以前、学校もろくすっぽ続かないような、あんちゃん、お嬢ちゃん、若い子達を、仕事上使っていた経験があります。ですから実際に教育が行き届いていない子供達に接して来た感覚ですが、子供がアホになっているのは確かだと思います。というより、頭のいい子や、スポーツにしてもレベルの高い人間はむしろ増えたような気がします。そのかわりアホがやたら増えた、格差が広がったって言い方が正しいのかもしれないと思います。平均レベルが下がり、アホが増えてそのアホさ加減も信じられないぐらいひどいのが増えただから、頭のいい子はこれじゃいかんつって努力してレベルの高い子も増えたのかもしれません。自分はいろんな子を見てきましたが、若い子のアホぶりは想像を絶します。それで仕事ができる子はまだいいのですが、だいたい救いようのないアホはほぼ間違いなく仕事もできません。そのアホさと言ったら、かけ算九九ができないとか、一都六県が言えないとか、書けないじゃないですよ。本当に底辺の人間の学力水準は、凄まじいものでした。そういう子が、意外といっぱいいて、その事にたいして危機感を感じていません。合コンの事で頭がいっぱいだったり、女の子は、それが売りだぐらいに思っています。ひどいのになると手首切って死ぬ事ばかり考えていたり、悩んで、占いにいったり、病気になったりしてるから、どうしたのかと思って相談に乗ると、だれかれに、仕事ができなくてバカにされているって悩んでいたりします。仕事のできないバカのくせに、バカを直す努力は何もしないで、うじうじその事を悩んでいます。結構そういう子が多かったです。まあ、そういうアホは大人でも年配でも結構いましたけれど、割合として若い子のアホぶりは本当に絶望的だと思いました。そこまでバカなんだからとっとと就職して社会に揉まれればいいのに、フリーターだったり、専門学校や大学にいってたり、そんな小学校の勉強もできない子が、親のスネをかじって遊んでいたりもします。親もアホの親なだけに、やっぱりアホらしく年間何百万って学費をを子供の為にドブに捨てています。また若い奴だけじゃなくそう言うアホは、権利ばっかり主張します。金貰ってるくせに、ちょっとつらいと、すぐやめる事ばかり考えて、とっととやめてくれりゃいいのですが、やたら周りを巻き込んで、アホが伝染する、ちょっと高いレベルを要求しようものならすぐに、もう限界です、私なりにがんばってます、って始まっちゃいます。だから一生懸命やってんのかなと思うと、見てないと思って手を抜いていたりする、こういう連中は本当にどうしようもありません。
いい年をした大人にはもはや何を言っても無駄ですが、若い子達はまだ修正するチャンスがあると思いましたので、自分は一時期そこに向き合っていました。しかしなかなか言葉というのは伝わりません。人は後悔する前にはなかなか気が付かないものです。それが気付く人は後悔なんてしません。それでも出来る事は、必死でわかりやすく無知である事の不利益、手遅れになってからではどうにもならない社会のシステム、君達の年齢ならまだ修正が可能だという事を伝えるしか手段はありません。自分は優しく手ほどきをしていたわけではありませんし、仕事ですので時には厳しい事もいいましたが、なかなか厄介な仕事でした。
しかしこういった子供達が本当にただ以前のような詰め込み教育に戻すだけで本当に救えるのでしょうか。自分にはもっとこの国の様々なレベルに蔓延る甘えや依存体質、無責任、様々な思想、そしてアーキテクチャーが複雑に絡み合い、どれも個々は最適化をはかろうとしているにもかかわらず、それらをアグリゲートするとこういう状態に陥ってしまっているのではないかと感じるわけです。仮に我が国がゆとり教育に踏み切らなかったとしても、多少程度の差はあるかもしれませんが結局同じような状態になっているのではないかと感じます。荒廃しているのは教育現場だけではありません。ありとあらゆる所に腐敗がフラクタルに広がっています。むしろそういうこの国のあらゆる所で顕在化している腐敗が、教育にも広がっているだけなのではないでしょうか。ゆとり教育を受け成長した人々も沢山増えたかもしれませんが、自分と同年代より上は基本的には詰め込み教育によって成長した世代ですし、実際に仕事でも、政治でも、教育界でも、上でふんぞり返ってアーキテクチャーを好き勝手にいじくっているのは、ゆとり教育世代ではありません。早い話が小泉改革の時に抵抗勢力を設定する事によって、多くの国民を動員したように、教育の腐敗のせいであたかも世の中真っ暗闇になっているかのような物言いで、敵を設定する事によって国民の動員をはかるのが目的なのではないかと感じるわけです。
子供がアホになっているように感じると書きましたが、もちろん環境がどんどん変化し、ガキと言えば外で遊ぶ位しかやる事がなかった昔と比べるのもちょっと無理があります。今の子供は携帯を駆使し、パソコンや、ハイスペックな家庭ゲーム機、ポータブルゲーム、どんどん遊びのリソースが増え、やる事が沢山あります。小学生の子供を持つ主婦の方も何人か使っていた経験がありますが、ちょっと天気が悪いと子供の送り迎えがまるで親の絶対的義務であるかのように思っている人がいました。その人達が言うには、子供の送り迎えなど今は当たり前だと言います。自分の子供の頃は雨だろうが、雪だろうが、台風であろうが、親に送り迎えをしてもらう事など、よっぽどの事がないかぎりありませんでした。まるで外には危険な何をするかわからない犯罪予備軍がうろうろしていて、ちょっとでも目を離すと子供が悲惨な目にあうと恐怖心を煽られ、子供に携帯などを買い与え、結果的にもっと危険と隣り合わせの状況になってしまっている。登下校だって送り迎え付きなら子供の時間は別のとこに向かいます。人の一日の時間は基本的には同じですから、登下校などの時間が送り迎えなどによって短縮されても、やる事が増えてしまっているので相殺されます。学習という部分の平均値をとれば、バカになっているかもしれませんが、その能力が携帯やパソコンを駆使する能力を身につける時間に回っていると思えば、そっちを見れば今の子の方が当たり前ですが遥かに優秀です。
使っていた子の中に、暴走族やっているあんちゃんがいました。高校は中退していますが、行っていれば二年生の年齢です。自分が採用した時は片親ですが母親と暮らしてました。それから一年も立たないうちに、別れて暮らしていた父親が死に、数ヶ月後に母親も病気で死んでしまいました。朝、休みの電話があり、バカタレふざけるなと自分が怒鳴った所、すみません、母ちゃん死んじゃいました、と言われました。復帰後、優しい言葉やいたわりなどはまったくかける事なく、以前と変わらぬように自分は接しましたが、彼にとってここが正念場だと感じました。親族は、彼の両親の保険金をめぐって争っており、彼の居場所はありません。優しい言葉をかけても彼には何もプラスはありませんし、自分が出来る事は彼が一人前に仕事に取り組む事が出来る大人になれるように教育する事だけだと感じましたので、仕事のいろはを叩き込みました。彼をひとかどの大人に育てるには荒療治が必要だと自分は感じましたし、生活していく為には収入が無ければ食っていけません。カタギとして生きて行くのであれば、甘い事は言っていられない状況でした。
さてそんな彼をいかにいっぱしの大人に鍛えるか悩ましい所でしたし、彼がどこまで自分でやる気を出しているのかも未知数でした。高校ももちろん中退しちゃっていますし、世間一般的な基準で言えば、バカだし、アホです。しかしそんな彼にも才能がありました。彼は仕事場の前を単車が通る音だけで、車種がわかってしまう能力を持っていました。それどころかどんな改造をほどこしているか検討つくって言います。自分はこいつは凄いと思い聞いてみました。お前は音だけでなんでわかるんだって、そしたら音でだいたいの構造がわかるし、それに好きだから族車使用の単車の音は暗記しているって言います。これだけの記憶力があれば、勉強の仕方さえちゃんと教えてもらえれば、彼は優秀と呼ばれる奴になれたのではないかと自分は思いました。つまりバカっぽく見えても自分の好きな事や興味のある事には、人は恐ろしい記憶力や適応力を発揮します。勉強なんてほとんどが暗記して記憶しておけば、だいたい片付く事です。だから一般的にバカって言われている子でも、やり方さえしっかり教えれば、ほとんどが勉強なんて出来るようになると思います。学校で教わる学問なんて考える必要なんてほとんどありません。暗記して記憶すれば、何の問題も無く、考える必要がある連中って言うのは、もっと例えば学者とか、政治家とか、そういう連中が必要とするだけです。それだって暗記でほとんど何とかなるでしょう。頭良さそうに見えるのは実は暗記した引き出しがいっぱいあるからそう見えるだけだと思います。音だけで単車の種類がわかってしまうような能力はただの暗記力より凄い能力です。どのような改造がほどこされているか、記憶しているものを組み合わせてわかってしまう、調律師が持っている絶対音感に似た才能だとまで言うとちょっと褒めすぎかもしれませんが、素晴らしい才能だと思いました。
それに比べて体力というのは生まれついて絶対に超えられない差があります。身長、体重、性別、勉強はやり方さえわかればある程度どうにかなりますが、体力は越えられない壁があります。人それぞれ得意分野があるという事です。スポーツや格闘技を鍛錬する事と、勉強を鍛錬する事は、基本的にはそんなに違いはないはずです。反復練習をするわけだから、体を使うか、頭を使うかの差だと思います。技術を身につけるという意味においては同じ事なのではないでしょうか。日常生活にあまり役に立たないという事も対して変わらないように見えます。だけど両者の間には決定的な差があります。体を使って身を立てるより、頭を使って身を立てる方が、喰っていける確率が高いという事です。収入も、社会的地位も、大きく差が開きます。それぞれ得意な分野があり、才能も様々で、何が得意で不得意だからと言う理由で人の優位は決まるものでもありませんし、価値が変わるわけではありません。しかしこの日本という国で収入に直結するという一点で考えたとき、確かに勉強が得意な方がそうでない人より優位であるという事は事実でしょうし、収入は少ないより多い方が、不幸を回避出来る可能性が高い事も事実です。おそらく本当の問題点はここにあるはずです。
子供達はやがて社会に出る事になります、遅かれ早かれ就職する事になるでしょう、頭の悪い連中がやれる仕事なんて、現実的な事を言えばたかが知れています。そういう子達が急に心を入れ替えて猛勉強して、弁護士や医者にでもなるのなら話は別ですが、仮に社会的に認められる仕事につけたとしても、そこにゆとりなんかありません。金銭的に恵まれる可能性はもちろんありますが、それは結果に対する報酬です。がんばれば努力すれば報われる社会なんて、有史以来、人間の歴史のなかでそんな時代は一度もありません。結果だけが人を前に進ませて来た事も事実です。頭が悪く、努力して技術なりなんなりを取得する結果を得る事が出来なければ、やれる仕事は収入もやりがいもない下らない仕事が大部分を占めるというのも、残念ながら現実を直視すると一つの事実だと思います。その仕事にしたって、常に結果を求められます。努力をすれば収入を確保出来るわけではありません。少子高齢化で借金まみれで、世界中から無視されているこの国で、どうやって夢と希望を持てって言うのでしょうか。就職するにしたって、技術も知恵もない子達は、それらを持っている連中に高い確率でこき使われる運命にあります。そういう事をどうやって子供に伝えればいいのか?どうインセンティブを持てと教えるのか?趣味で人間は喰っていけません。それを仕事に昇華出来た人間だけが、それを得られます。仕事と収入は不可分だし、生活と収入も不可分です。仕事をして収入を得るからこそ生活も、趣味とやらにも、消費出来ます。
学校の勉強というのはもちろん論理的に物事を思考する為の一種の訓練と言う部分もありますが、多くは受験競争に勝ち残り、事務能力を磨き、ホワイトカラーになる為の訓練の場である事は、詰め込み教育であった昔も、建前では人間的な幅を持たせる為に導入したゆとり教育であってもたいして変わってない事が現状としてあると思います。しかし当然そういう仕事に向かない人間もいるわけで、そういった子供達が学校の勉強ではなく、適正をいかして学習したり訓練したりするチャンスが極端に少ない事が問題なのであり、そういうものに挑戦する機会を設ける為にゆとり教育だってあるはずです。しかしハッキリ言ってそれを学校の教師だけに押し付けるのには相当無理があります。学校の教師だって結局受験競争を戦ってなるものだからです。その分野では教えられる事もあるでしょうが、所詮、殆ど教師としてしか経験がないはずで、それ以外の多様性を教えるには無理があります。我々の社会がそれを今後も学校ばかりに一方的に押し付け、多様性を養う社会環境を考えず、用意もできないのだとしたら、この問題は永久に解決出来ないのではないかと思います。子供を教育する場は学校だけではなく、社会全体で教育するものだという事を真剣に考える必要があるのではないでしょうか。それは親がしっかりしろという事を言いたいわけではありません。もちろんそれも重要ですが、重要なキーワードは我々大人の他人との信頼関係にあると思います。子供が大人社会と繋がる事が出来るのは、親か教師しかない状態が殆どだというのが問題なのではないかと思います。いろいろな大人と触れ合えば、子供は色んな事を学びます。中にはろくでもない大人もいますから、酷いおっさんだなと思ったりする事もあるでしょう。しかしそれも経験です。そういうノイジーなものをどんどん排除した結果、我々大人も、そして大人に教育を受ける子供も、どんどん脆弱になっています。我々大人がちょっとくらいの事でおたおたしていては、子供も同じようにしか育ちません。不安や恐ればかりを考えて生きて行くのではなく、少しくらいの事では動じず、他人を信頼し、例えそれで不利益があっても、他人の抜け駆け感があっても、おたおたせずにやりたい事をやるのではなくやるべき事をやる。それは鈍感になれというのではありません。敏感に察知する事は大切ですがそれによって右往左往するのはバカげています。右往左往して答えが出るならそれは学びのチャンスになりますが、答えもでない事をグズグズ迷い、不安や恐れにびくびくしながら生きるのではなく、理不尽や不合理はこの世の至る所に存在するし、自分もいつそういう目にあうかわからないが、それが生きるという事なのだという覚悟が大切なのではないかと思います。まあ偉そうなことを言ってますが自分もそんなに出来た人間ではありませんし、まだまだ修行中ですが、目指すべき方向性はそういう事が大切なのではないかと感じるわけであります。
そしてこの国の経済のシステムも変えていく必要があると思います。多様性のある子供が育ったって、結局収入に直結する生き方というのは、受験競争に勝ち残る事しかない状況では、教育のシステムをいくらいじくっても意味がありません。人口はこれからどんどん減っていく時代です。いつまでも加工貿易に頼った産業基盤では見通しは暗いものしかありません。一部のグローバル企業は外国人労働者などを使えば、一握りのエリートは問題ないでしょう。しかしそうでない人々は単純労働ではやがて今の賃金水準では厳しい状態になっていきます。ホワイトカラー労働者になり、いい会社に就職する事が成功の道である現状が、大都市に人口が集中する現在の弊害を招いています。しかしこれだって先行きはあまり明るくないでしょう。益々優勝劣敗の環境になっていくと思いますので、生き残れない企業は淘汰されていくのではないでしょうか。
何でも安価なものへと消費が流れている現状も、結局めぐりめぐって自分達の首を絞めています。この国は自立すると言うと軍事の事ばかりを考えがちですが、自立する為にはエネルギー問題や食料自給率の問題も考える必要があります。どっち道、人口減は避けられそうもありませんので、現状のシステムでは回らなくなり、大量消費生活を見直さなければ立ち行かなくなる可能性があります。浅ましい連中の権益確保の為の方便に乗せられる事なく、どういう社会が理想なのか、極論すれば、不自由極まりない法律に縛られ、他人の事は全然信用出来ないが、安心は担保されている社会と、ある程度自由があるが、一定数不遜な輩は出てくる、理不尽な事も稀に起こるかもしれない、しかし他人を信頼しおたおたせずに生きて行く社会と、どういう社会が目指すべき社会なのか、子供にとってどういう社会が望ましいのか、考える必要もあるのではないでしょうか。教育改革と叫ばれているものが本当に子供達の為になるのか、我々は見ていく必要があると思います。