何ともディープなテーマですね。なぜ人を殺してはいけないのか、非常に深い、そして明確な答えがない、どんな言葉で表しても御為ごかしに聞こえてしまう厄介な問題です。哲学的な深い所から、身近な例えば子供達に教育するレベルまで、様々なレベルで語られるこの問題、今日はちょっと考えてみようかと思います。
我々が人を殺してはいけないというとき、物理的に直接手を下す事と、間接的に痛めつけて、自殺も含めた死に追い込む方法と、二通りあろうかと思います。しかし罪になるのは多くの場合、前者の方法が問題になり、後者の場合は倫理的に問題はありますが、実際に罰せられたりはしない事が多々あります。
実際に直接手を下す方法でも、例えば罪もない無辜の民を、己の私利私欲の為に殺める場合と、やり返す応報として行う場合とがあります。前者は理由がなんであれ許される可能性は低く、それ相応の罰を受ける事になります。後者の場合はどうでしょう。これも自分の大切な何かを侵害されたと言っても様々なレベルがあります。身内を殺されたとか、大切な何かを奪われたとか、悪口を言われたとか、様々な理由があるかと思いますが、やられた分が重いほど情状酌量の余地はあるかもしれませんが罰を受ける事はほぼ等しく真逃れる事は出来ないでしょう。
この場合、国家がその肩代わりをします。やられた分をやり返すという、被害者のスッキリ感を多少でも満足させる為の応報的な要素と、同じような罪を犯す輩がある一定以上増えない予防的観点からも、見せしめ的要素が含まれます。法を執行すると言うと聞こえはいいのですが、個人が行えば犯罪、国家が代理で行えば法の執行という事になります。もちろん死刑にまでなる事は稀ですが。
そして人を殺めるケースとして忘れてはいけないのが、戦争という事になるかと思います。これは応報的な要素、領土を拡張して自国の発展を目指す要素、大量破壊兵器を持っているはずだと言う予防的な要素、様々にありますが、応報や発展の場合、当事国のこちら側と向こう側では、視座がまったく逆になりますので、何が真実がというよりも何を真実とした方が都合がいいかによって変わります。当事国以外の視座というのもありますが、当事国ほどは切実ではありませんので、どちらを真実とした方が自国に都合がいいかによって視座が変わります。ほぼ勝利をおさめた側の真実が歴史を作っていきますので、戦勝国は正義の戦い、敗戦国は戦争犯罪になってしまったりします。
まったくパラダイムが変わるような、統治機関が変更されたり、敗戦国がリベンジを果たしたりしますと歴史の真実も変わったりしますが、それが無い場合は敗戦国は戦勝国にある程度従わざるを得ない場合が多いと思います。
戦争というのは基本的に兵士同士の戦いという事になっていますが、一般市民が巻き込まれる事も多々あり、戦勝国側が好き放題する傾向も歴史的には多々ありますし、兵器が近代化を果たした現在、一般市民を巻き込まずに行う戦争など単なるきれい事に過ぎません。勝った方は咎められる事はありませんが、負けた方は責任を追及されてしまいます。
アメリカの中東政策などは、表向きには予防的な要素によって引き起こされた紛争ですが、これは確証がない状態で行うと、取り返しのつかない人命を失う事になりますので本来あってはならない事です。犯罪を犯しそうだからその前に罰を下すなど、例えどんな理由があったとしても許されるべき事ではないと思いますが、世の中きれい事では回っていませんので、強国の都合のいいように真実は作り変えられてしまいます。我が国のように強国の言う通りにしか振る舞えない状態は、大変不本意ですが、国民にも国家にも諦めムードが漂っています。実際にそれ以外の選択肢もありませんし、それを作ろうと言う意思も政府にはありそうも無いのが現状です。そもそもアメリカが中東に突っ込んだ理由としては、主にエネルギー問題、すなわち石油利権と、中東における拠点の確保、これらが真の目的だと考えるのが今の所のコンセンサスかと思いますので、自国の発展系の戦争という側面が裏に隠れています。
他国や他民族を殺す事は、戦争という大義名分によって正当化されます。したがって人を殺してはいけないと言う理由も、時と場合、立ち位置によって様々に変わるというのが、この世の現実です。
我々が人を殺してはいけないと考える理由は裏を返すと、仲間以外は殺してもいい(罰してもいい)理由という事になります。普遍的な殺人の禁止であれば、戦争も応報的な法の執行も許されないとなってしまいます。自分や仲間の権益を守る為には、殺す権利をある特殊な状況であれば認めるというのが、我々の住むこの世界です。
同種が殺しあう動物というのは実はある特殊な条件が無ければ少ない存在だと思われます。普通同種の動物というのは例え争っても命までは奪い合ったりしません。同種で殺しあう動物の特徴の一つとして、天敵が少ない事が原因の一つとしてあります。こういった動物はよく病気になったりもします。人間もそうですね。ちなみに病気にも様々あり、肉体的なものではなく、精神や神経的なものは、生きるか死ぬかの局面の極限状態にある場合、なっている暇はありませんのでなりにくいと言います。平和で裕福であるからこそ顕在化する病気もあります。これはひょっとすると争いの無い状態は個体調節が出来ない事に対する、生物学的なバランス作用として生まれるのではないかと思ったりしてしまいます。
天敵がいる動物というのは弱い血は残りません。強いものしか生き残れないので、同種で殺しあう必要はありませんが、天敵がいない動物というのは、子供の数が少なかったり、成長するのに時間がかかったりしますし、天敵がいない分、弱い血も生き残ってしまいます。そうしますと、その弱い遺伝子が子供を産み、全体的に強い遺伝子が相殺されてしまったり、弱い個体の頭数が多くなってしまいます。天敵がいないと言っても、自然界の生存競争は過酷です。弱い個体が増えるという事は、強い遺伝子が受け継がれる可能性が低くなり、生存競争に勝ち残っていけません。そういった事を避ける為にある種の動物は、個体調節として同種で殺しあったりします。チンパンジーやゴリラなどはその典型でしょう。チンパンジーは他の個体を殺して食べてしまったりします。貴重なタンパク源になるという事もあるのかもしれません。ゴリラなどは雄一頭につき雌数頭と子供達で群れを形成しますが、このボスとなる雄は他の雄との戦いが待っています。負けてしまえば殺されて、群れのボスは新しい雄に変わります。前の雄との間に出来た子供達を殺し尽くし、自分の子供達を殺されてしまった雌達はそれを見て発情し、新しい雄と交尾し新しい子供を産みます。これも強い個体が残っていく為の習性なのかもしれません。
自分の力で生きられない弱い個体というのは、自然界ではあっという間に死んでしまいます。未熟児が生き延びる事が出来るのは、人間と動物園の動物だけです。猫ですら自分の足で授乳出来ない子供は殺して食べてしまうと言います。我々が普段感じるヒューマニズム的な可愛そうとか、哀れだとか、そういう事とはまったく別の自然法則によって、動物というのは生きています。人間は別だと錯覚したり、違うと思いたい気持ちはありますが、人間の歴史から戦いが無くならなかったり、殺しあう習性が無くならないのは、実は人間といえどもこういった法則に支配されているからかもしれません。
人間というのはもう一つ決定的な要素として道具を使います。直接自分の歯で噛み殺すとか、手を使って殺す事しか手段が無いとすれば、まともな人間なら兎狩りだって、娯楽になりそうも無いと思います。自分は仕事上、生きた魚を生きたままさばいたりしてましたが、なれないうちは結構生々しいものです。特に大きな魚は。さばくのは気にならなくなりましたが、その光景を知っているとあまり食べる気にはなりません。
話を戻しますと、武器を使う事によって殺す対象や獲物から、距離をおく事が出来ます。人間の持つ独特の殺人性は、自然の武器を持たない基本的におとなしい雑食性の本性から発現したと言われています。それゆえ多くの食肉獣が持つ、同種内における殺傷力の濫用を防止する安全機構のが欠落していると言われています。
人間は元々狩猟を行っていました。人間は非力ですから、狩猟には武器が必要となり、武器の使用は二足歩行を促しました。四つ足では武器の使用はスムーズにいきません。二足歩行は武器や幼児、食料の運搬を可能にし、扶養者である雄、養育者である雌、そして他の動物とは比べ物にならないほど緩やかに成長し、無力である子供、この三者で構成される基本的な社会単位家族を生み出します。より高度な狩猟能力の獲得は、より効果的な武器(道具)、技術、連携のための社会性を発展させ、その事が更なる知恵を発展させ、大きな脳の獲得に繋がり、生物学的にも社会的にも依存性の高い幼児を生み出す連鎖反応を招きました。エデンの園で禁断の実を口にし、楽園を追われる事になる我々人類は、実際の所ジャングルでの生存競争に勝ち残れず、木の実を食べ損ねた人類が荒野に追い出され、その非力であるがゆえに道具を使い、知恵を獲得したわけです。
おそらく家族を最小単位として、社会性というものが発展して部族社会になり、村落共同体になり、国家に発展していったという事でしょう。その際、やられたらやり返す、これがまず人を殺してはいけない理由の濫觴になったのだと思います。狩猟社会というのは、今でもそういう民族はいますが、基本的に弱者は生き残れません。ある程度の年齢に達した雄は、狩猟という戦いを強いられ、弱ければ食えないわけですから、雌も弱い雄と家族になったのでは食っていけません。一夫多妻性というのは強い雄に従ったほうが生活に困らないという事が根底にあると思われます。強い雄も自分の血を分けた共同体の構成員を増やす事が出来ます。子供の発達速度が遅いため、複数の雌に生ませる事がそれを補います。
生きるか死ぬかの局面になれば当然争う事もあったでしょうから、やられたらやり返さないと何もかも奪われてしまいます。自分や家族の生存のためやられたらやり返すぞという意思と力が必要だったのではないでしょうか。現在の国際社会のルールは一見あるようですが、基本的にはやられたらやり返す意思と力の無い国は他国にやられ放題になってしまいます。このルールが実際にこの世界の根底にあるルールです。建前で法のようなものがありますが、実際はそういうせめぎ合いの中で我々は生きているのです。非武装中立などと言う寝言で世の中は渡っていけないのが現実というわけです。この国が戦後繁栄したのは平和憲法があったからではありません。国というのは経済と軍事の両翼が無ければ発展出来ないのです。この国が片翼だけで飛べたのは、アメリカという強大な力の傘の下にいたからに他なりません。
このやられたらやり返すというルールは最初は自分、それから家族、部族、村落、国、と段々守るべき範囲が広がっていきます。家族が集団で暮らすようになりますと、その中で連携を行い、協力し、お互いを守りあうわけです。その際非力な弱者の雄は、他の雄にとってメリットが無いでしょうから、当然その単位の中に組み込まれる為には、ある程度役に立つ事が条件となります。その集団を束ねる長が最初のルールのようなものを決めたのでしょう。仲間以外は殺しても構わないルール、やられたらやり返す、仲間内では殺しあわない、こういった事を基本として様々なルールが発展していったものと思われます。部族の長は最初はその部族内での強者がその地位についたのでしょうから、その言う事に従わないとその集団にいられません。その集団にいる事が生存の為に必要ならばそのルールを守る事がその場にいる必須条件になります。強者である長は、自分の地位を奪われない為に、集団を構成する人々はそれぞれの便益の為に、ルールを守る事になっていったのだと思います。
しかし狩猟社会というのは、保存が利きませんし、波が激しい、獲れる時はいいがそれが無いと厳しい。人は知恵を獲得する事によって未来を予想する能力が生まれます。これが不安や希望という感覚を生み出すベースとなります。つまり今日は食べれたけれど明日は大丈夫か?その次は?その遥か先は?その不安を担保する為に人は農耕社会を生み出します。その事によって、今までより食料の確保が安定し、弱者でも生きて行ける環境になります。武力でなく労働力であるならある程度弱者でも役に立つからです。しかし弱者が増えるに従って、集団への依存はより強固になり、より様々なルールが生み出され、長はより強大な富を手にし、強い集団同士がお互いの利権確保の為せめぎあう事に発展していくわけです。
そしてより労働力で得た生活の糧を保存していく為に、物々交換から貨幣制度のようなものが生まれる事になります。その事がより複雑な制度を生み出し、更なる社会的な慣習やルールを生み出していきます。弱者が増えた状態になりますと、やられたらやり返してもいいと言ったって、出来ないから弱者なわけです。それに日常生活をつつがなく送る為に、罰を直接、当人が与えていたのでは、社会は上手く機能しません。そこで統治機関がその肩代わりをするようになります。このような背景で殺してはいけないと我々が思っているルールというのが整備されていき現在に至るわけです。殺してもいけないルールというのは、ようは仲間以外(ルールを破ってくる輩も含めて)は殺しても構わないルールというわけです。
国のルールに従うという事は、国の構成員である事を認めてもらう為に必要です。それが例え仲間以外でも殺すなかれと言うならば、それを守る事が国の構成員である為に必要ですし、いがみ合っている他国と争い、その国を攻めろと言われれば、それに従うのも構成員である為に必要です。その集団に所属しないという事は、その集団のルールが適用されませんから何をされても文句は言えないとなってしまいます。
国の言う事にはいちいち従いたくないけれど、生存の権利は認めてもらいたい、多くの人はおそらくこう考えているのだと思います。国の言う事は聞きたくないから、何が起こっても自分の身は自分で何とかする、という強い意志を持った人は少ないと思います。少なくともこの国にいるという事は、通貨を利用したり、道路を利用したりするわけですから、そういうものも一切利用せず生きて行くというのは困難でしょう。国家というのが行う事は必ずしも正しい事ばかりではありませんから、時に理不尽な振る舞いも見られますし、力は強大です。それに立ち向かう為には個人の力ではどうにもなりません。それを担保する為に、近代民主主義の思想、抵抗権としての革命権というものが考えられたのだろうと思います。憲法で国を縛り、無体な要求はさせない、暴走させないよう、考えられた制度です。我が国がそれが機能しているかどうかはわきにおきますが。
国家という集団で生きて行く為には最低限ははたさなければならない義務というのがあります。この国で様々な便益を得たいと思えばある程度義務を果たさないと権利も限定されてしまいます。最低限、人は殺さないそれが義務の一つなのではないかと思います。そういう人が周りにいたら、いつ殺されるかわからないのですから厄介です。我々には選挙権というものもあり、まがりなりにも我が国は民主国家なのですから、最低限義務は果たし、きちんとガバナンスやリテラシーを持つ事が必要だと思います。
しかし殺すなかれというルールを子供などに教育する時、一般的にはヒューマニズムや情緒的な物言いで、命の大切さを教えようとしたりします。それでは多くの矛盾はどうなるのと子供は考えてしまいます。戦争はあるし、そもそも生きているという事は他の生き物を殺して食べているし、貧しい国の人達は苦しんでいるし、ルールを守れと言われても、好きでこの国に生まれたわけじゃないし、と。
我々はこういった事を伝える時に矛盾を無視したきれい事を吐くのを止める事が、少なくとも伝える為に必要だと感じます。仲間というのは敵がいないと認識出来ません。全員仲間だ、人類みな友達と教えてどうなっているかと言えば、益々仲間意識は薄れ、個人の価値観に引きこもってしまっているのが現代の我が国です。我が国が乱れている一つの理由として戦いが無いという事もあるでしょう。平和というのは混乱状態が無ければ認識出来ません。平和が当たり前ではその価値をいくら老人が訴えても、ありがたみもわからなくなってしまうのは仕方が無いですし、乱れてくるのは当然というわけです。何も争いを起こして混乱状態にしろと言いたいわけではありません。この世界には至る所に混乱や不条理に溢れています。まず我々自身がそういったものに向き合い、きれい事を吐かずに現実を認識しなければ、子供になんて伝わるわけありません。
国家間の外交もそうです。普通、話し合いと武力がセットになって交渉のベースにあります。しかしこの国では武力はアメリカ頼みで、話し合いしか選択肢がありません。軍事という選択肢が存在して、初めて話し合いも機能します。平和平和とお題目を唱えても、平和が維持出来るわけではありません。それは軍事力を持ち戦争しろと言っているわけではありません。軍事も一つの選択肢だという現実に我々が向き合わなければ、この国の外交は益々機能しません。政治家ももはや俗情に媚びるくだらない連中しかいないのが現実です。
殺してはいけないルールというのも、なぜ殺しあうのかという事に向き合わなければ見えて来ません。ただきれい事で、命は大切だと教えても何の役にも立たないと思います。命の価値は平等だというのはまやかしです。動物の命だって、ペットと家畜では違いますし、人の命だって国によって立場や財産によって違います。それが不愉快であっても、理想的ではないにしても、それがこの世の現実です。そんな理想的な世の中は有史以来一度もありませんし、未来永劫訪れる可能性はありえないと知るべきです。我々の世界はそのような理不尽に満ち溢れ厄介であるという事に向き合わなければ、少しでもマシな社会など訪れるわけもありません。どんなにマシな世の中になったとしても、そういった理想論は実現不可能で、必ず格差や不平等は存在するでしょう。
人の命だってただ生まれただけでは価値なんてありません。いかに生きるかによって相対的に変化するものですし、絶対的な物差しなどありませんので見る人によって様々です。もし人の命に生まれた瞬間から価値があるのなら、絶望的な貧困によって生まれた瞬間に死んでいく国々の子供達はどうなのでしょうか。そういう夢も希望も無い子供達と、繁栄を謳歌している国々の子供の価値が平等だなど戯言です。我が国のような国に生まれた子供に価値があり、貧しい国の子供は価値が無いのでしょうか。命などただ生まれただけでは価値なんてそもそもありません。違いがあるとすれば運が良いか悪いかの差です。運良く生まれた命の価値を磨いていくのは、いかに生きるかにかかって来ます。我々はそういった事に真剣に向き合う必要があるのだろうと考えます。
なかなかディープなネタでしたが、人を殺してはいけない理由とそれにまつわるあれこれについてつらつらと書いてみました。