個人的理由でなかなか更新の時間的余裕がありません。時間を上手く有効活用出来ていない現状に己の未熟さを感じます。時間というのは自分で作り出すものと言います。忙しさにかまけて時間が無いのは自分の責任です。言い訳はしたくないものですが、忙しくて時間がなかったりしますと、何かのせいにしがちです。
皆様いかがお過ごしでしょうか。さて本日のお題は映画です。世間一般の話題に上った時期からは相当ずれておりますが、元々ずれた人間ですのでご容赦下さい。今日はマッカーシーの赤狩りと戦った、エド・マロー、シー・イット・ナウの制作者達、マスコミ対国家権力の静かな戦いを実話に基づいて描いた、グッドナイト&グットラックについて、今更ながらちょっと書こうと思っております。
グッドナイト&グッドラック 通常版/ジョージ・クルーニー

¥3,121
Amazon.co.jp
非常に我々日本人には耳の痛い話でした。マスコミの最近の腐れ具合、テレビの堕落、マローが物語中に指摘している通りの最悪の状態に陥っている我が国のジャーナリズム。テレビも娯楽や一般大衆に媚びて、人々の気持ちのよいものしか流さず、広告費確保の為、啓蒙活動を怠るのであれば、テレビはただの箱でしかない、マローはそのような事を言います。まさにそのまんま我が国のメディアを指しての言葉のような痛々しさと情けなさを感じました。
また馬鹿な政治家の強硬姿勢に簡単に回れ右してしまう国民性、それに媚びる腐れマスコミ、責任を持って報道に携わっている姿勢のかけらも見られない現状、一方的なバイアスのかかった報道に簡単に乗せられる一般市民、つくづく厄介ですが、どうやら我が国の現状は最悪の状態のようです。
おそらくアメリカはブッシュ政権の中東政策に対するバックフラッシュとしてこういった映画が出て来ているのだろうと思うのですが、我が国のあの頃は良かった的なくだらない映画ではなく、自由と民主主義とは何だろう?簡単に手放してはいけないぞ、というヘリテージが、きちんとあらゆる所に残っている。憲法の理念を忘れるな、そういえる所に羨ましさを感じます。中東政策を見て、アメリカは恐ろしい国だななどと思ったりしますが、こういう映画が出てきて、それが話題になり、オスカー候補にまでなってしまう所を見ると、我が国より遥かに成熟した、リテラシーのある市民社会が分厚く存在して、必ずバランス感覚が機能する。そこが我が国とは違うなと感じてしまう所です。
どうやら我が国の報道というのは、まったく公平中立の意味をはき違えているようです。立ち位置もなるべく責任を取らずにすむポジションを確保し、必ずエクスキューズを残した状態で、上っ面だけを報道しています。マスコミの方々も生活があり、それを守らなければならないという事を考慮に入れたとしても、いくら何でも酷すぎると感じます。一般人と比べれば、多くの収入を得る事が出来て、様々な特権の上に胡座をかいているのですから、何の為の報道なのか考えて貰いたいものですが、自浄作用にはもはや何の期待も持てないのが現状です。
冒頭、赤狩りと戦った主人公達と紹介しましたし、自分も一般的認識ではそうだと思っていました。しかし彼が戦ったのは何を守る為だったのか、それを理解する事がおそらく民主主義や自由という事を理解する事になるのだろうと思います。彼らは何を守りたかったのか。彼らは何の為に戦ったのか。
この国ではリベラルと言うと左翼になってしまいますが、本来リベラルというポジションは弱者救済の為に活動するわけではありません。結果的に弱者救済に繋がる事もあるでしょうが、一定のルールにしたがっているのであれば、個人の自由を尊重するという事や、もちろん完全な公平さなど存在する事は難しいとは思いますが、出来うるかぎり機会やジャッジの公平さを主張する事だと思います。結果平等を叫ぶ事でもなければ、弱者救済を叫ぶ事でもなく、まして悪者を叩く事でもありません。例え悪者に99%見えたとしても、明確にルール違反が見られなければ、相手の自由を尊重する。どんなに気にいらない相手であっても、ムカつく思想や信条であっても、どんなに影で悪い事をやっていそうだと見えたとしても、相手の自由を尊重し、ジャッジはルール、即ち法律に任せる。そういう立ち位置がリベラルの本来あるべき姿なのだろうと思います。もちろんパブリック・フィギュア、公人や、みなし公人に関しては必ずしもそのかぎりではありませんが。
人間はそんなに万能ではありませんし、判断力も間違う事だらけです。すぐに不安になったり、恐れを感じたり、弱い愚かな生き物です。ある種の浅ましさや、卑しさを誰でも多少は持っているものだと思います。もちろん人格者だなと感じる人も存在しますが、そういう人というのは自分の愚かさを知っているものです。謙虚さでもあるのでしょうが、内面の愚かさを知っていなければ、それを克服する事などで来ません。賢人はその事がわかっているから賢いのです。そういう間違いだらけで、愚か者で、卑しく、そして浅ましい、我々人間が、他人をジャッジするなどおこがましいという事を知る、ジャッジするのはあくまでもルールという事を守る、それがリベラルのあるべき姿であり、自由や民主主義というものが正常に機能している状態なのではないかと思います。ジャーナリズムというのは本来そういうものを守る為に存在するものであるはず、少なくとも自由と民主主義を謳うのであれば。
国家権力というのはホッブスではありませんが、リヴァイアサンのような恐ろしい怪物にいつでも変容する可能性があります。その気になれば何でも出来ますし、平気でルールを破って来ます。そもそもルールが不都合であればどのようにも変更される可能性があるからです。普通人のお金を騙しとれば、それは犯罪となり、有罪になったり、最悪刑務所にぶち込まれる事になります。ある企業が他人のお金を毎月一定の額ずつ預かって、ある一定の利子を支払うなり、ある年月経てばこれこれのお金が帰って来ますと契約したにもかかわらず、その契約を破ったりすれば、契約不履行として訴えられ、そういういい加減な経営をしている企業や金融機関は罰せられたり、いずれ株価に反映されたりして、買収されるなり、最悪つぶれる場合だってあります。しかし国家というのはそういう約束を平気の平左で破ってきて、しかも誰も責任を取りません。税率が変わったり、年金の支払いが減ってしまっても、詐欺にもなりませんし、契約不履行にもなりません。ルールを変更出来るからです。やっている事は泥棒の類いとまったく変わりませんが、それを個人がやれば刑務所にぶち込まれ、国家がやればルールの変更で済まされてしまう。この程度の事は些細な話ですが、国家権力の力というものは非常に強力です。だからこそ憲法によって国家を縛り、無体な行動をさせないようにする。ジャーナリズムというのは本来そういう事を監視する立場であるべきはずです。
マッカーシーと戦ったマロー達は、共産主義を擁護したのではありません。共産主義を非難している人々を責めたわけでもありません。共産主義というのは確かに問題のある思想かもしれない、しかし嫌うのも好むのも、ルールに従っているのであれば尊重するべきであり、そのルールを逸脱して公平さが損なわれてはいないか、と世に問うたのです。適正手続きに基づいたルールが執行されているのか、疑わしきは罰せずが守られているか、そういう事を勇敢に主張したのです。少なくともこの物語の眼目はそこの所なのだろうと思います。
我が国では、刑事裁判というのが何をジャッジする場なのかまったく理解していない人々やメディアに溢れています。最近その事を主題においたと思われる映画が公開されたりしていますが、もう少しその辺がきちんと機能してもらいたいものだと常々思っていましたので、そういった啓蒙活動は重要です。刑事裁判というのは被告を裁く場ではありません。検察側の主張を裁く場です。被告が本当にやったかどうかは実はどうでもいい事であり、検察の取り調べなどが、デュープロセスに基づいて行われているかどうかを厳格にジャッジし、その上で証拠や言い分をジャッジする場です。検察の言い分が100%通れば被告は求刑通りになり、それを判断するのが裁判官というわけです。その過程でちょっとでも適正手続きが正しく機能していなければ無罪となります。どんなに心証が真っ黒であったとしてもです。ほんのちょっとでも適正手続きが守られていなければ無罪になるのに、有罪率99%とはどう考えても不自然です。であるにもかかわらず、この国のメディアは検察側の言い分を垂れ流し、推定無罪などまったく存在していません。確かに心情的に被告が非道な振る舞いをしているのであれば、腹も立つでしょうし許せないと思うのも当然でしょう。しかしそれを判断するのはメディアの仕事ではありません。ルールが決める事です。この国のメディアはエド・マローではなく、マッカーシー側に立つ輩ばかりです。
また弱者救済を過剰に煽る報道も問題です。問題は弱者かどうかではなく、ルールを逸脱した行為が行われたか否か、公平さが損なわれていないかどうか、自由が損なわれていないかどうか、そこに存在するはずです。弱者性を過剰に煽って、人々の感情に情緒的に訴えるのは、これもある意味マッカーシーと同じです。
この国のメインにのぼってくるジャーナリズムを見ていると、残念ながらエド・マローごっこ、ジャーナリズムごっこばかりに見えます。肝心の所では国家にゴマをすり、表層的などうでもいい上っ面ばかりの公平中立しか殆ど見当たりません。公平中立どころか、自分達に都合のいい報道を無責任に垂れ流しています。テレビに出ているからといって、聖人君子である必要はありません。視聴率欲しさにインセンティブが働き、時に間違う事も仕方ないでしょう。多くは望みませんが、最低限そういう浅ましさを認め、上っ面の正義感ぶった偽善者面で、人々の感情を情緒的に煽るのは止めてもらいたいものです。それは非常に危険な事であり、マッカーシーの赤狩りと紙一重です。
自由と民主主義というのは一度手に入れたらずっと存在するものではありません。日々その事を自覚し切磋琢磨しなければ、どんどん我々の手から遠くへ去っていってしまいます。この国では無軌道な物理的自由ばかりをもてはやし勘違いしている方々が沢山存在し、結果的に何も自由ではない状態に陥って右往左往しています。自由である事は責任が伴い、時に苦しいものだったりもするものです。
シー・イット・ナウの公平な立ち位置というのは、実は他のメディアとの差別化をはかり、視聴率を獲得する為のインセンティブによって生まれたとも言われています。本当の所は自分にはわかりかねますが、営利活動のインセンティブの果てが自分達の既得権を維持する為の捏造だったりしない為には、参入障壁を低くして、競争の原理を取り入れ活性化をはかる、少なくともそうなれば、もっと良き方向へインセンティブが働くのではないかと思ったりもします。
赤狩りは実際もっと恐ろしかったと聞きますが、あの短時間でそれを表現しきるのは難しかろうと感じました。自分は映画の長さ的にはあのくらいが丁度いいと感じます。
まったく話は変わりますが、それにしても当時の人々のタバコの吸いっぷりは凄まじかったんだなとやたら気になりました。特にタバコふかしながらテレビに出るなんて古い映像などで知ってはいましたが、今では考えられません。今のテレビでは許されないのかもしれませんが、我々はテレビに出る方に必要以上に厳格さを求めすぎているのかもしれませんね。外見ばかりに気を取られて、大切な中身が置き去りになっているような気がします。自分もかつてはタバコを吸っていましたので、吸う気持ちも、吸わない気持ちもわかります。実はタバコが健康を害しているという因果関係はあくまでも仮説でしかありません。捏造のようなものとは若干違いますが、我々が知っていると思っている常識も、実はある前提に基づいたものでしかないのです。反対意見は一切認めない空気というのは恐ろしいものに繋がる危険があります。そういうリテラシーを我々が持つ事も重要だと感じます。
それではグッドナイト&グッドラック。
皆様いかがお過ごしでしょうか。さて本日のお題は映画です。世間一般の話題に上った時期からは相当ずれておりますが、元々ずれた人間ですのでご容赦下さい。今日はマッカーシーの赤狩りと戦った、エド・マロー、シー・イット・ナウの制作者達、マスコミ対国家権力の静かな戦いを実話に基づいて描いた、グッドナイト&グットラックについて、今更ながらちょっと書こうと思っております。
グッドナイト&グッドラック 通常版/ジョージ・クルーニー

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非常に我々日本人には耳の痛い話でした。マスコミの最近の腐れ具合、テレビの堕落、マローが物語中に指摘している通りの最悪の状態に陥っている我が国のジャーナリズム。テレビも娯楽や一般大衆に媚びて、人々の気持ちのよいものしか流さず、広告費確保の為、啓蒙活動を怠るのであれば、テレビはただの箱でしかない、マローはそのような事を言います。まさにそのまんま我が国のメディアを指しての言葉のような痛々しさと情けなさを感じました。
また馬鹿な政治家の強硬姿勢に簡単に回れ右してしまう国民性、それに媚びる腐れマスコミ、責任を持って報道に携わっている姿勢のかけらも見られない現状、一方的なバイアスのかかった報道に簡単に乗せられる一般市民、つくづく厄介ですが、どうやら我が国の現状は最悪の状態のようです。
おそらくアメリカはブッシュ政権の中東政策に対するバックフラッシュとしてこういった映画が出て来ているのだろうと思うのですが、我が国のあの頃は良かった的なくだらない映画ではなく、自由と民主主義とは何だろう?簡単に手放してはいけないぞ、というヘリテージが、きちんとあらゆる所に残っている。憲法の理念を忘れるな、そういえる所に羨ましさを感じます。中東政策を見て、アメリカは恐ろしい国だななどと思ったりしますが、こういう映画が出てきて、それが話題になり、オスカー候補にまでなってしまう所を見ると、我が国より遥かに成熟した、リテラシーのある市民社会が分厚く存在して、必ずバランス感覚が機能する。そこが我が国とは違うなと感じてしまう所です。
どうやら我が国の報道というのは、まったく公平中立の意味をはき違えているようです。立ち位置もなるべく責任を取らずにすむポジションを確保し、必ずエクスキューズを残した状態で、上っ面だけを報道しています。マスコミの方々も生活があり、それを守らなければならないという事を考慮に入れたとしても、いくら何でも酷すぎると感じます。一般人と比べれば、多くの収入を得る事が出来て、様々な特権の上に胡座をかいているのですから、何の為の報道なのか考えて貰いたいものですが、自浄作用にはもはや何の期待も持てないのが現状です。
冒頭、赤狩りと戦った主人公達と紹介しましたし、自分も一般的認識ではそうだと思っていました。しかし彼が戦ったのは何を守る為だったのか、それを理解する事がおそらく民主主義や自由という事を理解する事になるのだろうと思います。彼らは何を守りたかったのか。彼らは何の為に戦ったのか。
この国ではリベラルと言うと左翼になってしまいますが、本来リベラルというポジションは弱者救済の為に活動するわけではありません。結果的に弱者救済に繋がる事もあるでしょうが、一定のルールにしたがっているのであれば、個人の自由を尊重するという事や、もちろん完全な公平さなど存在する事は難しいとは思いますが、出来うるかぎり機会やジャッジの公平さを主張する事だと思います。結果平等を叫ぶ事でもなければ、弱者救済を叫ぶ事でもなく、まして悪者を叩く事でもありません。例え悪者に99%見えたとしても、明確にルール違反が見られなければ、相手の自由を尊重する。どんなに気にいらない相手であっても、ムカつく思想や信条であっても、どんなに影で悪い事をやっていそうだと見えたとしても、相手の自由を尊重し、ジャッジはルール、即ち法律に任せる。そういう立ち位置がリベラルの本来あるべき姿なのだろうと思います。もちろんパブリック・フィギュア、公人や、みなし公人に関しては必ずしもそのかぎりではありませんが。
人間はそんなに万能ではありませんし、判断力も間違う事だらけです。すぐに不安になったり、恐れを感じたり、弱い愚かな生き物です。ある種の浅ましさや、卑しさを誰でも多少は持っているものだと思います。もちろん人格者だなと感じる人も存在しますが、そういう人というのは自分の愚かさを知っているものです。謙虚さでもあるのでしょうが、内面の愚かさを知っていなければ、それを克服する事などで来ません。賢人はその事がわかっているから賢いのです。そういう間違いだらけで、愚か者で、卑しく、そして浅ましい、我々人間が、他人をジャッジするなどおこがましいという事を知る、ジャッジするのはあくまでもルールという事を守る、それがリベラルのあるべき姿であり、自由や民主主義というものが正常に機能している状態なのではないかと思います。ジャーナリズムというのは本来そういうものを守る為に存在するものであるはず、少なくとも自由と民主主義を謳うのであれば。
国家権力というのはホッブスではありませんが、リヴァイアサンのような恐ろしい怪物にいつでも変容する可能性があります。その気になれば何でも出来ますし、平気でルールを破って来ます。そもそもルールが不都合であればどのようにも変更される可能性があるからです。普通人のお金を騙しとれば、それは犯罪となり、有罪になったり、最悪刑務所にぶち込まれる事になります。ある企業が他人のお金を毎月一定の額ずつ預かって、ある一定の利子を支払うなり、ある年月経てばこれこれのお金が帰って来ますと契約したにもかかわらず、その契約を破ったりすれば、契約不履行として訴えられ、そういういい加減な経営をしている企業や金融機関は罰せられたり、いずれ株価に反映されたりして、買収されるなり、最悪つぶれる場合だってあります。しかし国家というのはそういう約束を平気の平左で破ってきて、しかも誰も責任を取りません。税率が変わったり、年金の支払いが減ってしまっても、詐欺にもなりませんし、契約不履行にもなりません。ルールを変更出来るからです。やっている事は泥棒の類いとまったく変わりませんが、それを個人がやれば刑務所にぶち込まれ、国家がやればルールの変更で済まされてしまう。この程度の事は些細な話ですが、国家権力の力というものは非常に強力です。だからこそ憲法によって国家を縛り、無体な行動をさせないようにする。ジャーナリズムというのは本来そういう事を監視する立場であるべきはずです。
マッカーシーと戦ったマロー達は、共産主義を擁護したのではありません。共産主義を非難している人々を責めたわけでもありません。共産主義というのは確かに問題のある思想かもしれない、しかし嫌うのも好むのも、ルールに従っているのであれば尊重するべきであり、そのルールを逸脱して公平さが損なわれてはいないか、と世に問うたのです。適正手続きに基づいたルールが執行されているのか、疑わしきは罰せずが守られているか、そういう事を勇敢に主張したのです。少なくともこの物語の眼目はそこの所なのだろうと思います。
我が国では、刑事裁判というのが何をジャッジする場なのかまったく理解していない人々やメディアに溢れています。最近その事を主題においたと思われる映画が公開されたりしていますが、もう少しその辺がきちんと機能してもらいたいものだと常々思っていましたので、そういった啓蒙活動は重要です。刑事裁判というのは被告を裁く場ではありません。検察側の主張を裁く場です。被告が本当にやったかどうかは実はどうでもいい事であり、検察の取り調べなどが、デュープロセスに基づいて行われているかどうかを厳格にジャッジし、その上で証拠や言い分をジャッジする場です。検察の言い分が100%通れば被告は求刑通りになり、それを判断するのが裁判官というわけです。その過程でちょっとでも適正手続きが正しく機能していなければ無罪となります。どんなに心証が真っ黒であったとしてもです。ほんのちょっとでも適正手続きが守られていなければ無罪になるのに、有罪率99%とはどう考えても不自然です。であるにもかかわらず、この国のメディアは検察側の言い分を垂れ流し、推定無罪などまったく存在していません。確かに心情的に被告が非道な振る舞いをしているのであれば、腹も立つでしょうし許せないと思うのも当然でしょう。しかしそれを判断するのはメディアの仕事ではありません。ルールが決める事です。この国のメディアはエド・マローではなく、マッカーシー側に立つ輩ばかりです。
また弱者救済を過剰に煽る報道も問題です。問題は弱者かどうかではなく、ルールを逸脱した行為が行われたか否か、公平さが損なわれていないかどうか、自由が損なわれていないかどうか、そこに存在するはずです。弱者性を過剰に煽って、人々の感情に情緒的に訴えるのは、これもある意味マッカーシーと同じです。
この国のメインにのぼってくるジャーナリズムを見ていると、残念ながらエド・マローごっこ、ジャーナリズムごっこばかりに見えます。肝心の所では国家にゴマをすり、表層的などうでもいい上っ面ばかりの公平中立しか殆ど見当たりません。公平中立どころか、自分達に都合のいい報道を無責任に垂れ流しています。テレビに出ているからといって、聖人君子である必要はありません。視聴率欲しさにインセンティブが働き、時に間違う事も仕方ないでしょう。多くは望みませんが、最低限そういう浅ましさを認め、上っ面の正義感ぶった偽善者面で、人々の感情を情緒的に煽るのは止めてもらいたいものです。それは非常に危険な事であり、マッカーシーの赤狩りと紙一重です。
自由と民主主義というのは一度手に入れたらずっと存在するものではありません。日々その事を自覚し切磋琢磨しなければ、どんどん我々の手から遠くへ去っていってしまいます。この国では無軌道な物理的自由ばかりをもてはやし勘違いしている方々が沢山存在し、結果的に何も自由ではない状態に陥って右往左往しています。自由である事は責任が伴い、時に苦しいものだったりもするものです。
シー・イット・ナウの公平な立ち位置というのは、実は他のメディアとの差別化をはかり、視聴率を獲得する為のインセンティブによって生まれたとも言われています。本当の所は自分にはわかりかねますが、営利活動のインセンティブの果てが自分達の既得権を維持する為の捏造だったりしない為には、参入障壁を低くして、競争の原理を取り入れ活性化をはかる、少なくともそうなれば、もっと良き方向へインセンティブが働くのではないかと思ったりもします。
赤狩りは実際もっと恐ろしかったと聞きますが、あの短時間でそれを表現しきるのは難しかろうと感じました。自分は映画の長さ的にはあのくらいが丁度いいと感じます。
まったく話は変わりますが、それにしても当時の人々のタバコの吸いっぷりは凄まじかったんだなとやたら気になりました。特にタバコふかしながらテレビに出るなんて古い映像などで知ってはいましたが、今では考えられません。今のテレビでは許されないのかもしれませんが、我々はテレビに出る方に必要以上に厳格さを求めすぎているのかもしれませんね。外見ばかりに気を取られて、大切な中身が置き去りになっているような気がします。自分もかつてはタバコを吸っていましたので、吸う気持ちも、吸わない気持ちもわかります。実はタバコが健康を害しているという因果関係はあくまでも仮説でしかありません。捏造のようなものとは若干違いますが、我々が知っていると思っている常識も、実はある前提に基づいたものでしかないのです。反対意見は一切認めない空気というのは恐ろしいものに繋がる危険があります。そういうリテラシーを我々が持つ事も重要だと感じます。
それではグッドナイト&グッドラック。